「ほっ」と。キャンペーン

チカはアイヌ語(恐らく)で小魚

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写真を見て、すぐにこの魚の名前を「ワカサギ」と分かった方。
相当魚がお好きな方とお見受けします。

しかし残念ながらこの魚、有名な「ワカサギ」ではなく、実は「チカ」という同属同類の魚なのである。

飲み屋で人気の、「シシャモ」も、近年の不漁で、値段が高騰していて、一般人の市場には出回らなくなってきたらしく、殆ど口にすることが出来ない魚となってきた昨今、「シシャモ」と表示されていても、90&以上は外来種の似た様な魚らしい。

「ワカサギ」も同様の傾向があって、ソックリさんを「ワカサギ」と称して販売しているようであるのだが、「ワカサギ」ソックリさんの「チカ」は、国産北国地方のとても美味しい魚である。

体調は大きいものは、20センチほどのもあるが、15センチほどまでのものは、「ワカサギ」と全く同じ調理法が適用でき、から揚げ、フライが適していて、頭から骨まで全部食べることが出来る。

定期市に出る魚屋に並べてあったので、早速入手。
20尾以上あって350円という安さだ。

一番大きな17・8センチのものを、天麩羅にして食べてみたが、ほんの少し鰓部分の小骨が気になったものの、小さな「ワカサギ」の頼りない触感に比べて、十分な食べ応え感があり、小生は「チカ」のほうが気に入っている。

天つゆ何ぞという野暮な食べ方はよして、ここは塩とレモンで、頭から尾まで全部の滋味を味わうのが良い。

20cm以上有る大きなものは、塩焼きにするのもいいだろう。

これから春先にかけてがシーズンだから、魚屋で見つけたら(余り見かけることはナイト思われるが)入手することをお勧めする。

概観は「ワカサギ」と瓜二つだから、くれぐれもワカサギ価格で購入しないよう注意が必要。

スーパーマーケットでは、恐らく手に入らないから、信頼できる魚専門店を見つけておく必要があるかもしれない。

「チカ」という名前を覚えておいて、魚屋に聞いてみるといいだろう。

余り知られていないようだが、実に美味しい魚である。

by noanoa1970 | 2008-02-29 14:36 | 「食」についてのエッセイ | Comments(0)

1980年代読耽った古代史本

鹿島昇、佐治芳彦、吾郷清彦といえば、所謂古代史トンデモ本の部類に入れる人もいるようだが、小生は彼らの執筆になる古代史異説の数々を読んで、今までの日本古代史歴史観を新たにした。

サンカや倭人についての知識は、これらの書籍で身についたし、それまで得た歴史の概念を大いに覆すことに、当初あった抵抗も、読み進むうちにどうやら、大学の先生などの、権威有る研究者のそれより、彼らの諸説のほうが説得力があるような気がして、次から次えと読み漁ったものだった。

書棚に有ったものを写真に収めたのだが、中身の詳細については、かなり忘れていることが多いだろうから、この機会に読み直しすることに決めた。

新國民出版社という出版社、小生宛に書籍案内と小論文が掲載された、小冊子を送ってくるようになってから、すでに20年以上たつ。

鹿島昇の孝明天皇暗殺事件と、明治天皇すり替え事件についての著述「裏切られた三人の天皇」そして倭人・東夷・契丹の研究「符都誌要義」を発注したことがきっかけであった。

これらを含め、八切止夫の著述などを入れると、ザット100冊ほどになるから、これで当分楽しめるはず。

面白い視点を発見したら、またそれについての記事をUPしようと思う。

先ずは、下写真の21冊から・・・

倭人とユダヤ民族、ユダヤ王朝と日本の関係などは、特に面白そうだ。

謎の人物ニギハヤヒについても新たな発見が出来るかもしれない。

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by noanoa1970 | 2008-02-28 13:40 | 歴史 | Comments(10)

お気に入りの骨董

直径10cm高さ5cmほどの平たい壷型の古伊万里風の器。
用途は分からない。
水差しあるいは油入れ、あるいは化粧水入れだろうか。
京都の義父は、水墨画の墨を摩るのに、この器に水を入れ硯に注いでいたようだ。
朱の発色もなかなか渋く、シンメトリーに松竹梅が書かれているように見えるが、かなりデフォルメされているので、ハッキリは分からない。
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by noanoa1970 | 2008-02-28 12:29 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

「春の息吹」を求めたが・・・

小生の住まいする三重県桑名市から、滋賀県長浜市へのルートは、R421で三重県北勢町から藤原町(現在合併し、北勢町となった)を経て、岐阜県上石津町に入り、10年ほど前に出来た上石津トンネルを抜けて関が原に出、R1号を横切って伊吹山を見ながら広域農道を進む。

広域農道は国道を凌駕するような立派な農道で、伊吹山麓を縫うようにして作られていて、今の季節休日は伊吹山スキー場の客でにぎわうが、それrでも渋滞はない。

ウイークデイにすれ違うのは、工事の大型トラックと地元の軽トラ、たまにR365本道をそれ、長浜、木之本、福井方面に向かう観光客と思しき乗用車だけで、物凄く快適な道路だ。

途中にいつも立ち寄る地場産の野菜などを販売する、道の駅風な建物があって、季節ごとに、いろいろなものを取り揃えておいている。

春から秋にかけては、伊吹山麓で取れる「冥加」、冬の今の季節は「クレソン」、そして一番目当ての「フキノトウ」が並ぶ。

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しかし折角立ち寄ってみたが、今日は休みで、店の前には大きな「雪だるま」が店に来た客に、ごめん!と言うように立っているだけだった。

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駐車場から望む伊吹は絶景で、「春の息吹」は望めなかったが、変わりに「冬の伊吹」を堪能できた。

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立春を過ぎたとはいえ、さすがに雪の名所、関が原から湖北にかけての町々や、勿論山々は、まだまだ冬真っ最中だ

by noanoa1970 | 2008-02-23 09:00 | 季節の栞 | Comments(3)

長浜・鳥喜多のカツドン

盆梅展の会場慶雲館に行く前に昼食をと思い、いつも行く商店街の中の蕎麦屋にいくも、あいにく定休日だった。

この蕎麦屋は、そばつゆを関東関西の2通り用意していて、好みのそばつゆで蕎麦を出すところで、今まで越前の玄蕎麦を使っていたのだが、ここのところ地元伊吹山のふもとで栽培したそば粉を使うというので楽しみにしていた。

去年伊吹山麓で始めてみた広大な蕎麦畑に感動し、ここで取れた蕎麦はどこに行ってしまうのだろうと、気になっていたが、彦根の大きな蕎麦屋に殆ど引き取られていると聞き、比米に行かなくては食べられないのかと、少々残念に思っていたが、すぐ地元の長浜で食べられるのであれば、かなり期待が出来そうだ。

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残念だがあきらめ、いまや親子丼の有名店となった感の有る「鳥喜多」に向かったのが午後1時20分ごろ、ウイークデイなのとオフいるを過ぎていたので、余り待つことは無いと考えてのことだったが、行ってみると予想ははずれ、店の前にはザット10人ほどが行列を作っている。

並ぶのが嫌な性格なので、いつもなら辞めるのだが、すでに蕎麦屋に振られた後だから、仕方なく待つこと15分。

回転が速いのは、とてもよいことと思いながら、18席しかない店の二人用の小さなテーブルに落ち着く。

観光客、出張族風サラリーマンが殆ど100%、古ぼけた民家のようなところで、老年の親父と息子二人でやっていたのは、20年以上前のこと。

10年ほど前に店を改装して数年後、親父がなくなってから、いい年になった息子が、がんばっている店だ。

TVでこの店を取り上げ、親父がインタビューを受けていた映像が流されたときに、すでに親父は無くなっていたという悲しい思い出がある。

来客の恐らく、100%に近い人が「親子丼」を注文するが、小生は親子丼と、その昔地元の高校生から聞いた、隠れ名物「カツドン」を来るたびに交代で注文するようになった。

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それで今回は「カツドン」である。

肉は薄く、トンカツを食べているという感触はないものの、高級店で出すカツドンとは違った・・・・そう・なんとも懐かしい味がするカツドンなのだ。

カツはどんな場合でも揚げ置きすることなく、注文を聞いて方揚げてくれるから、カリットした感触が味わえるし、親子丼の出しの利いたタレと卵の調理技術が加わるから、えもいわれぬ「庶民グルメ」が堪能できる。

おまけに、余り胃に負担がかからないから、中高年に向いている。

by noanoa1970 | 2008-02-22 12:21 | 「食」についてのエッセイ | Comments(2)

冬・・・長浜

この季節長浜に行くと、(20数年通っていても、やはり観光客として見られるのだろう)行く先ごとに、「盆梅展」を観に着たのか、あるいは馬酔木展を観に来たのかと聞かれることが多い。

しかし小生、いまだかってこの「花の展覧会」を一度足りと観たことがなかった。

いつも骨董屋や商店街を散策しながら、何か面白そうなものを見つけるのを、この上ない慶びとしてきたのだった。

先日「加川良」ライブが長浜の曳山博物館内の小さな会場で行われることを知り、電話で予約したチケットを取りがてら、長浜に向かった。

この季節は、去年見ることが出来た長浜の旧家安藤家に有る、魯山人が逗留し、自ら設計して造ったという「小蘭亭」が開放される時期だが、今年は2008年2月8日~2008年2月17日とわずかな期間で、すでに終わっている。

そこで今年は「盆梅展」なるものを観ることにして、チケットを受け取った後、商店街を抜けたJR長浜駅の南にある「慶雲館」に向かった。
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HPによると、慶雲館は、以下のような建物。

『本館は、明治20年2月21日明治天皇昭憲皇太后御同列で行幸になった由緒を有し「慶雲館」は伊藤博文公の命名になっている。
本館は寄棟造瓦葺二階建書院風の建築で園内には附属茶室を有している。
南庭の様式は池泉回遊式で築山を架している。
石組は豪華でその技術もまたすぐれた優秀な庭園であり明治45年京都の名匠植治、小川治兵衛氏の作庭になっている。
北庭は平庭になり特に巨石を配し、園内に松樹多く景観は豊かである。
館は南西方が湖に面し、東方は伊吹七尾の諸山に対し眺矚広闊勝状絶佳の景地である。』

京都の「白沙村荘」に良く似た池泉回遊式の大きな庭園があり、庭園には石の建造物が配される。

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盆梅展会場は、白沙村荘の大画室、存古楼にも似た雰囲気を持つ廊下を挟み、庭園が見渡せる見通しの良いガラス窓を使った大きな空間の部屋だ。

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庭を借景にして遠く伊吹山が見通せる絶好の贅沢な地にあるから、明治天皇行幸の宿泊場所となったこともうなずける。

小生が頭に絵描いていた盆梅展のイメージと、実際はかなり異なっていて、というのは、盆梅というからせいぜい1メートルぐらいの盆栽の梅が並べてあると思い込んでいたが、(勿論そのくらいのものもあるにはあるが)予想していたものより、はるかに大きな、幹を見ると到底息をしているとは思えない、枯れてしまったような古木に、赤、白、ピンクの、ストレートなそして柳のようにしだれた梅の花が沢山咲き誇っていて、部屋は梅の香りで充満していて、鶯の気分のようになってしまった。
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平日だが、盆梅展専用バスで観光客がとても多く、この時期の長浜はやはり盆梅展目当ての人で賑っていることを実感させられた。

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小生は正直なところ、盆梅展よりは建物と庭に興味があったが、あいにく雪が積もっていて庭に出ることがかなわなかったので、盆梅展終了の季節になったら、今一度訪れてみたいと思いながら後にした。

by noanoa1970 | 2008-02-22 11:42 | 季節の栞 | Comments(0)

52年前はじめて食べた・・・・

おととい電話で予約した「加川良」ライブのチケットを取りに、長浜まで向かうことにした。

商店街のパン屋によると、運良くそこには懐かしのコッペパンが残っていたので、入手してきた。
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「コッペパン」という名前さえ知らないまま、昭和30年ごろ、小生が小学校に入学した頃の学校給食では、アルミの皿に乗せられて、大きな(当時はそう思っていた)防水型をしたパンが、毎日のように出された。

脱脂粉乳のミルクとこのパンの取り合わせは、昭和30年代の当時の小学生には、ものめずらしく、おかずの「ひじきの煮つけ」や「筑前煮」は幼いながらに違和感はあったものの、「竹輪の磯辺揚げ」や後の「コロッケ」、「タラのスティック」、「ミルクやトマト味のシチュー」、「鯨の竜田揚げ」の時にはとてもよくマッチしたのを思い出す。

しかしこのパン:コッペパンは、小学校高学年になると、いつの間にか四角い「食パン」2枚に取って代わってしまうことになった。

京都時代に、小生は銀閣寺の馬場町に有る「大前開泉堂」という後輩の家のケーキ屋をクリスマスの期間手伝ったことが有った。

そのとき考案して名前を付けたのが「ストロベリークッペ」という菓子で、女性好みのシュー生地に生クリームをつめ、そこにイチゴを挟むという、今ではどこでもありそうなケーキだったが、ネーミングを任された小生、そのケーキのスタイルから思いついたのが当時流行していた車のデザインの「クーペ」、しかし「クーペ」そのものをつかうのでは、いかにもと思ったので一ひねりして・・・クーペからコッペパンのコッペを連想し、あわせ技でクッペとした。

このケーキ、今でもあるのかは知らないが、30年ほど前このときの話が出て、「評判がいい」「よく売れている」ということを聞いたので、してやったりと思ったことがあったのを良く覚えている。

コッペがクーペから来た言葉であるかは分からないが、お互いの形状からはそのように思えるところは十分にある。

戦後のアメリカの日本占領政策は、それは物凄く未来を見越したものと推測され、それは戦後われわれのような団塊の世代が象徴するように、人口増加時代の日本をアメリカナイズするためには、国語、歴史、そして食を考えればよく、特に目を付けたのが幼児からの食育。

幼い時からパン食に馴染ませれば、米→小麦への食への変換は、難しいことではなく、いったんその食生活に慣れさせれば、その人間が家族を持つ頃には、その家庭は主食文化の価値変換がスムーズに行われ、アメリカの輸出政策に貢献する。

GHQの頭の良い幹部は、10年以上先のことを見据えたオペレーションを下に違いないと、小生は思っている。

これに比べて、今そこにある危機すらも回避できない、わが国の国政のトップ連中のプアーな思考では、近い将来を見据えた「食」の大きな課題さえ見えていないようだ。

コッペパンを入手した長浜のパン屋でも、小麦原料のパンから米粉原料のパンを作り始めたようで、今後は米が見直されるようだが、減反政策を急に調整しても、水田はそんなに早く回復はしないだろうから、すばやい対応が求められるのであろう。

小麦どころか、米までが不足しては日本人の生き死にに影響する時代がすぐに来てしまうように思う。


コッペパンの味の思いでは、ほんのりわずかに甘い記憶であったが、昔食べたパン生地の、少し硬くてパサついた感触こそ違うものの、遠い記憶が甦って来るもものであった。

by noanoa1970 | 2008-02-22 10:36 | 「食」についてのエッセイ | Comments(0)

ライブコンサート情報

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3月22日(土)17:00
「加川良」のライブコンサートが下記のように開催されます。
会場のある滋賀県長浜は、秀吉の居城でもあり、黒壁スクエアを中心とする商店街は、人気と活気があるところです。

長浜祭りで使われる大きな山車が収納されている曳山博物館ないの小さなホールで開催される極少数の・・・100人足らずの観客数のライブになるようです。

小生は本日チケット手配しましたが、担当者の話では、出足があまりよくないらしくまだチケットがあまっている様子でした。

名神高速道路で米原ICで北陸道に入り、長浜で降り10分で到着しますから、近県の方は是非参加されるといいと思います。

長浜めぐりを兼ねて遊びにこられても、満足されること、請け合いだと思います。

また、チケットは郵送していただけるとのことですから、電話で問い合わせください。


『まちなかコンサート加川良ライブ』 ~長浜にて~


滋賀県出身のフォークシンガー加川良のコンサートが行われます。
主催
(財)長浜文化スポーツ振興事業団

日時
2008年3月22日(土)17:00~

場所
曳山博物館伝承スタジオ地図

入場料金
前売り2,500円 当日2,800円(全席自由席)

チケット発売場所
長浜文化芸術会館、長浜市民会館、浅井文化ホール、リュートプラザ、曳山博物館

お問合せ先
長浜文化芸術会館 長浜市大島町37 TEL0749-63-7400

by noanoa1970 | 2008-02-20 10:04 | トピックス | Comments(3)

海幸彦山幸彦神話から見えるもの

小学生のときに聞かされた、海幸山幸の話は、兄と弟それぞれが得意とする、漁業と狩猟の職業を交換しようとしたが失敗し、釣り針をなくした弟を責める兄に、いろいろな援助を受けながら、ついには兄を服従させるという話で、正直な弟の勝利・・・・瘤取り爺さん、花咲か爺さんのような正直者礼賛だと思っていた。

ところがこの神話、よく読むとなかなか面白いことが中に潜んでいることに気がつく。

少々大げさだが、日本人の発祥、天皇の系譜、日本列島における農耕以前の社会形成、そんなことが潜んでいるように思えてくるのは、以下の理由である。

記紀によると、この話は父を同じくする兄弟の争いで、山人を象徴する弟、山幸彦が、海人を象徴する兄、海幸彦を配下にする話。

すなわち
天孫(高千穂に天下りしたとされている)の子孫が,古くから土着していた海洋の民と交わって,混血していったことを暗に示していルことになる。

これが海幸彦山幸彦の物語の隠された本質で、日本書紀古事記の編纂者は,神武天皇につながる血の系譜に,山人の血と海人の血の交流があったことを書き記しているわけだ。

弟の山幸彦がついには兄の海幸彦を懐柔したことは、天皇の系譜のは,主に山人の血であることを表すものである。

兄の釣り針と弟の弓矢の交換は、山人=朝鮮半島経由の種族が、日本列島=この場合は、南九州に土着した海人・・・を武力で征服したということではなく、いわば懐柔して言った、緩やかな混血を意味し、その上で重要なものが弓矢に象徴される「鉄器」であったのだろう。

兄の海幸彦が使っていた釣り針は、恐らくは動物の骨を加工したものに過ぎなかったが、弟の山幸彦によって「なくされてしまった」=「骨から鉄製の針に代わって言った」様子を表す。

骨製の針をなくした弟、山幸彦が、自らの鉄製の剣を砕いて500そして1000本の鉄針を作り兄にお詫びしたと書かれていることは、「製鉄技術」と交換に(それだけでは足りないといったこともかかれて入るが主に)、海人からその土地の支配権を譲り受けたことを物語る。

神武東征はまず最初の地、九州南部の海人を懐柔した後に、つまりは海人の船の技術を利用して行われたものと推測可能だ。

神話ではこの海人を「隼人族」としているが、恐らくは「隼人」を筆頭に、様々な南アジアからの海洋民族が割拠していたから、かれらをもその支配下にすえたのであろう。

海幸彦は、他の海人種族が山人族との交わりを認めたのに対し、海人族の中でも山人族との交わりを割と最後まで抵抗をした種族の象徴であろう。
山幸彦は、海神の息女と婚姻(政略結婚)することにより、海人族の長を味方に付けたが、その中には海幸に象徴されるような融和反対派がいたのであろう。

神話では、兄弟とされるが、決して海幸山幸は兄弟ではなかったと推測される。

このように、子供の頃聞かされた神話を、今紐解くと、なかなか面白いものが見えてくるから、「神話」「伝説」といって決してバカに出来ないのである。

日本の歴史の真実が、そこに潜むこともあるようだ

by noanoa1970 | 2008-02-19 11:57 | 歴史 | Comments(2)

妄想古代史・・・八幡信仰の日本列島支配

大分県に金富(きんとみ)神社があり、八幡神、顕現の霊地
原始八幡信仰、創祈の遺跡とされる。
八幡信仰の八幡宮の総本社宇佐八幡の元宮として、知る人ぞ知る神社である。

祭伸は
品陀和気命・・・・応神天皇
足中比古命・・・・足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)=仲哀天皇
:神功皇后の夫で応神天皇の父とされる
息長帯比売命・・・神功皇后
木花咲耶比売命・・神阿多都比売(カムアタツヒメ)水の神

中野幡能著『八幡信仰史』によると、その由来は以下のとおりであるという。

『3世紀のころ、現福岡県(規矩、田川、京都、中津、築城)の5郡の地域に豊の国があった。京都郡にあった辛島族は、南部の山国族と接触し融合、共同の祭神として”ヤハタノ神”を創祈した
その地は、綾幡郷(椎田町)の中央にあり、ヤバトヨ、ヤバタ、ヤハタと呼ばれた
この社が、矢幡八幡宮であり、この金富八幡宮は、その古代宮址である』


3世紀といえば、いまだにその在り処が、九州か、近畿かでもめていて、解決しないあの「邪馬台国」が存在した時代である。

中野幡能の「原始八幡信仰」の元祖が上記のようであるとすると、そこから面白いものが見えてくる。

これは小生の「古代史妄想」であるのだが、八幡信仰は農耕神、海神、そして鍛治神の3つを柱にする信仰とされるが、このことはその発祥が、海人、農耕民族である東南アジア渡来人、そして金属精錬技術を持って朝鮮半島を経由して日本列島に渡ってきた北方系渡来人が、現福岡県の綾幡郷を中心に混血し合い、群落・・・国を形成し、やがて九州南部の部族を統合して行った様子が伺える。

部族統合の錦の御旗とでも言うべき大義名分が、文字通り「旗」で、これが多くの部族を巻き込んだから「八」の「旗」つまり「八旗」→「八幡」に転化したのだろう。
祭り神を海神、農耕神、鍛治神としたことも、それまで支配的であった蛇信仰も、3つの神がいずれも「水神」に関係することで、合意を得たものと思われる。

小生はこれらのことから、大胆不敵にも、「邪馬台国」とは、八幡信仰部族の連合国家であるという妄想を抱いてしまう。

所謂「邪馬台国」は、「邪馬国」でも「邪馬国」でもなく、「八幡の1国」すなわち八幡信仰の部族の中の強大な国で、魏志倭人伝の作者が、ヒアリングした時に、YAW(H)ATAKOKU、あるいはYAW(H)ATAIKKOKU・・・八旗国、八幡国と発音したのを聞き間違え、漢字表記して「邪馬・・国」として書いたのであろう。

元宮の綾幡郷から発展し、宇佐に本拠を構えることになった八幡族たちは、北から南からの物資を運ぶ交易のため、海を渡り近畿地方までその勢力を強め、八幡信仰の宗教改革・・・キリスト教が非キリスト教種族を改宗して行った様に、やがて近畿地方にも八幡信仰を広め、それが「邪馬台国」→「八幡国」→「大和」へと変化しつながっていったのではないか。

当時の日本列島は、太古渡来人である縄文人と中古渡来人、そして新渡来人たちの混合種族が入り乱れる土地で、それらが混合離反を繰り返しながら、日本列島を東に進んでいった。

2から4世紀はこれらの過渡期で、朝鮮半島極南部と北九州を中心とした新渡来人系統の部族国家と、中南部九州地方の太古渡来人と、中古渡来人の混合部族国家、そしてそれら新渡来人と余りソリが会わなかった、太古渡来人たちが移動して行った中国地方の国家があり、やがて九州中部南部の八幡信仰の連合国家が、近畿地上に勢力を強め、土着の古代渡来人たちの部族を、懐柔しながら、時には戦いながらやがて大大和政権を作ることになった。

八幡信仰による日本列島支配の構造こそが、「大和国家」の根幹で、最後まで抵抗したのが、生粋の古代渡来人の部族・・・極南九州の隼人族、熊襲族、巨大な出雲と、信濃、そして北から渡来したアイヌ、蝦夷などのツングース民族部族国家であった。

八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるというとおり、日本全国いたるところにある八幡神社であるが、島根県、鳥取県には3社と2社、合計5社を数えるにとどまり、岡山で4社、長野県、滋賀でも3社を数えるにとどまる。
三重、佐賀、熊本、宮崎、鹿児島、沖縄では各1社しかなく、北陸の福井、石川、富山、新潟、では1社か2社どまりである。

しかし他の地方では、例外もあるが、北海道でさえ大小入れると、約50社あるし、新潟を除くと東北地方では数十社を数えるほど存在する。

勿論八幡神社といっても、直接宇佐八幡の系統だけではなく、例えば鎌倉の鶴が丘八幡系統のほかもあるから、断定は出来ないにしろ、どうやら、八幡信仰以前に強力な信仰があった土地には、八幡神社が少ないように思える。

極南九州、出雲、信濃、北陸は・・・そして奈良も含めこのあたりは古代渡来人の豪族達の部族が強力な土地であったと水されるし、逆に熊野の地和歌山に八幡神社が多いのは、九州の八幡信仰の八幡国が上陸拠点としたのが紀伊半島南部の熊野付近で、そこから近畿地方へと進出したことを思わせるようだ。

熊野に勢力を持った部族は、長脛彦に象徴されるように、激しく抵抗したのだろう。
懐柔策に失敗した八幡国は、彼らを殲滅し、彼らの信仰の跡地を八幡神社として新しい神を祭るとともに、古神の祟りを封じ込めた。

「邪馬台国」は「八幡国」のことだった
そんな妄想が大いに沸いてくるのであった。

by noanoa1970 | 2008-02-15 12:42 | 歴史 | Comments(0)