このごろ都で流行るもの

このごろ都に流行るもの・・・・・
牛に鳥に和洋菓子。
名だたる老舗にファストフード。
ついでに横浜名物も。
偽装偽装の加工術。
勿論騙すは、悪いのだが、
騙されるにも理由(わけ)がある。
神経麻痺のブランド志向
感性退化の稀の果て。
ネームヴァリューやマスコミや
あらゆる感覚商売の
手練手管に騙される
そんな日本人に誰がした。

食品偽装はよくないことであることは自明だ。
しかしその事件の多くは、それを享受する側・・・すなわち消費者側から、これはおかしいなどという感覚や、実態被害から出てないことに目を向けることは必要だろう。
内部告発によるものが殆どということは、消費者はそれが無ければ、相変わらず・・例えば老舗の高級惣菜を、ありがたく美味しいとして食していたことだろう。

食品偽装にもいろいろあって、たとえばJAS法で決められたという食品を構成する素材順位では、分量の多い順に表記を義務付けられているというが、消費者はそれらの事実を知らないばかりか、殆どの人が気にしない。(と思う)

割と重要なのは、消費あるいは賞味期限というもので、小生などもたまに食品を買いに行くと、牛乳などは昔は展示の奥のほうから取り出していたし、最近は製造ネンガッピを見てから購入する。

このあたりは殆どの消費者が同じようなことをしているのではないだろうか。

しかしどうだろうか
小生の知り合いにこのような人が居た。
冷蔵庫で飲み残した牛乳があったので、製造年月日を見ると、賞味期限どころか消費期限をとっくに・・・1ヶ月以上過ぎていた。
普通なら廃棄するのだが、この男その牛乳を一口試飲し、腐敗してないことを確認すると、残りを全て飲んでしまったという。

この男ほどひどくは無いが、これに近いことは家庭内で行われていないとは限らない・・・いや多分賞味期限が過ぎても、消費期限が多少過ぎていても、味を見て変わってないと判断したら一気に使ってしまうのではないだろうか。

腐敗が無く、身体に影響が無ければ「もったいない」から使ってしまうのであり、これは極普通の考え方であろう。

ファストフードの大手が最近サラダの製造日時を改ざんしたとするニュースが流れ、品質管理に厳しいとされるこの手の業界では珍しい悪行のように騒がれた。

小生はその行為を肯定するわけでは、決して無いのだが、消費者が全く気がつかないような・・・この場合サラダに使う野菜は中央からパッケージで運送され、ダンボールパッケージには製造出荷の日付が記入されているらしいが、店舗ではそれを出してプラスティックの容器に詰め替え、有る一定の社内ルールの管理の下に販売されていたのを、売れ行きが悪く余ったから、通常なら廃棄処分する期日を過ぎても、「もったいない、まだ十分使用可能」と判断し、販売日の日付シールを貼りなおして販売したというものだ。

果たしてこれは本当に社会悪なのであろうか?

この行為はこの会社の社内規定違反であるから、よくないことであるが、消費者側から見た場合はどうであろうか。
食品構成順位表と同様、あまり気にしない・・というか気がつきさえしないのが正直なところ・・・ということはこのことは村内に騒ぐほど問題があることではないのではないかと思うところがある。

誤解の無いことを祈りつつ言うと、このようなことは消費者の味覚や資格から判断できることではなく、恐らく消費者は、昨日のものか今日のものか全く分から無いはずであろう。

特に野菜は何時収穫されたものかという表示などは無いものが殆どだから、もともと安心材料は無いのである。
時間とともに鮮度は確かに落ちるが、それが目に見えて(見た目・味などで)素人目に判別できるには相当な時間を要するはずだ。

要するに見た目でも、味わっても殆ど変わらない暫定期間というものがあるということだ。

真の問題は、そこ=味が落ちる、新鮮でない、腐敗などの心配にあるのでが無く、小生はこう思っている。

それは、供給者側が、(それが正しいか正しくないか、適正かそうでないかはともかく)安全・安心、新鮮→美味しいという宣伝材料として、自ら賞味期限や消費期限を設定し、消費者に購買意欲を駆り立てさえておいて、一方で消費者をバカにする・・どうせもともと分かりはしないのだからなどと嘯いて、「感性」をおもちゃにするような商売をたくらんだことなのだ。

つまり消費者の「感性の退化」を最初から分かった上での行為・・・いわば確信犯であるということなのだ。
言い直せば、日本人の組織が日本人そのものをバカにするという、近代国家があるまじき振る舞いをその美名の陰に隠れて堂々とやっているということなのである。


他人の感性をオモチャにする商売・・・このような仕掛けに乗ってしまう人間、特に急激に見える日本人の増殖には目を覆いたくなるほどである。(小生もその一人なのだが)

TVで納豆が体に良い、バナナもそうだというと、スーパーからその日はそれらが売り切れとなったり、大して上手くも無いラーメン屋の情報が、さも美味しげに流れると行列が出来たり、ギネスブックに星がつくと、急に客であふれ予約が取れなくなったりする。

こんな感覚の落ち主が多いから、小学生が一流料亭で作った吸い物を手放しで喜んでしまったりする。

このあたりのことは「食」の世界にとどまらず「絵画」や「音楽」を始とする「感性」を媒介とする世界でもいえる。

昔のことだが、小生の義父は京都で禅画を教えていたことがあり、毎年市の美術館で
発表会を開催するのだったが、あるとき小生の息子が5歳のとき、紙と筆を持たせて自由に何かを書かせた。

何を思ったかその作品?を表装し、展覧会に出品するといって美術館で一番目立ちやすいところにかけた。
なにを書いたかサッパリ分からない・・・・抽象画風にも見える5歳の幼児の書きなぐりが、展示されることになったのである。

多くの作品は風景や静物、人物など具体的なものを、墨の濃淡を上手く生かし書いた作品だが、5歳の幼児の作品だけが、わけの分からない抽象画風に見えたのか、展覧会に来た人は殆どその絵の前に立ち止まってしげしげと眺め、一体この絵を描いたのはどなたですか、物凄く新鮮でいいですね・・・などと言う人が多数いたという。

義父はまじめに応答しないで、「どうです、いいでしょう」などと笑って相槌を打っていたという。

その絵は今も我が家にあるが、面白いのだけれど、良く見るとかなり圧力をかけて書いたので擦れて中央部分の紙が少し破れているのだ。

冷静に見れば・・・書き手は紙が破れるような書き方は絶対しないのであるはずが、先入観であろうか、まさか5歳の幼児が禅が奈土書くはずが無いと思い込んでおり、きちんと表装し展覧会に出品などするはずが無いから、きっと誰か名の有る新禅が野書き手の作品だと思い込んでのことなどだろプと、後の懇親会で大笑いとなったことがあった。

東京に転勤した最初の夏にミルクを飲まなくなった幼児。
体調が悪いのかと思ったが、病院にいってもそれらしき原因は無い。
アレコレミルクのメーカーを変えても同じ状態だった。
不思議に思ったが夏が過ぎ秋になるとまたミルクを活発に飲みだした。
原因は何かというと、それはミルクを造る「水」にあった。

確かに今から30年前の東京の夏の水は、それまで住んでいた地方の水と比べるとカルキくさいと思ったが、われわれはすぐに、それになれてしまった。
しかし幼児の舌にその水の味は、きっと耐えられないものだったのだろう。

秋が来て消毒の成分を落とした季節になると何とかミルクを飲むことが出来たのだった。

そこで水道水を浄化する機械を購入して東京の美味しくない水の対処をした記憶が有る。

われわれ大人がいまや、その乳児と同じ純で無垢な感性を持つことは並大抵では出来ないことであろう。



名だたる有名な演奏家が一堂に会して録音したベートーヴェンのトリプルコンチェルトや、それぞれの分野で超一流の達人達が会したピアノトリオの録音の中に、どうしようもないぐらい方向性がバラバラで、音楽性が欠如しているとさえ思えるようなものがある一方で、殆ど知られないマイナーな演奏家達の録音にハットするような、優れものがあることを経験することがある。

音楽雑誌やレコード会社の宣伝文句に踊らされて購入し、ガッカリしたことを経験することは多い。

「感性」「感覚」は、時には鋭いが殆どは眠っていることが多く、だからだんだん退化するのだろう。

であるなら、「論理と感性」をいつも対等な位置において対峙しながら切磋琢磨していくしか残されていないのかもしれない。

そこのあなた!
感性を磨いておかないと、すぐに騙されますよ。
[PR]

by noanoa1970 | 2007-11-29 11:21 | トピックス | Comments(2)

スピーカー配置換え

d0063263_13594571.jpg

愛用のスピーカーQUAD-ESL-63の調子がおかしい。
恐らくはこの夏エアコンが壊れたまま、放置しておいたことが原因のようだ。
湿気の性でパネルがリークし、パツパチポツンポツンと音を立てるようになってしまった。

片方だけだが、修理には多くの時間と多くの費用を費やさねばならない。
30年間近く使用してきたが、リークによる故障は初めてだ。

そこでQUADを部屋の隅に追いやって、横置きにして併用して、主にJAZZを聞いていたYAMAHAのNS-1000を、正規の位置に戻すことにした。

あわてたので左右が逆になったが、重たくて入れ替える気になれないので、そのまま使ってみることにして一応セッティングした。

その昔は、何とか一人で抱えることが出来たのがもう無理とわかり、年を感じてしまった。
息子が帰ってきたら左右逆にセッティングしなおそう。

ベートーヴェンの「トリプルコンチェルト」を最初に聞くと、意外といい音で鳴っているので驚きと新鮮さを味わうことが出来た。

QUADのような奥行き間を保ちつつも、クッキリとした造影があり、楽器の帝位も優れている。
クラシック音楽の再現性が、このような形で味わえるとは思っても見なかったので、少し興奮した。

次にアートブレイキーの「モーニン」に変えるが、こちらもなかなかいい。
大型装置を売り物にするそこいらのJAZZ喫茶よりいい音がしている。

気を良くしてNGDBの「永遠の絆Ⅱ」を聞くと、最初のジョニーキャッシュの声がビンビンと響き、歪むような音になってしまった。
ジョン・デンバーはまだましだったが、ロイエイカフも、大好きなポウレットカールソンも、レボンヘルムも、ブルースホーンズビーも、比較的再生しやすいリッキースキャッグスでさえ・・・特に男性ヴォーカルの再現性がよくない。

かなりヴォリュームを上げて聴いた性ではあったが、これはヒドクガッカリした。
以前の配置のほうが、ヴォーカルには数段良かったのだった。

まだ部屋に御馴染んでないのと、左右逆向き名こと細かい調整が終わってないのであるが、少々不安な気がしてきた。

面白半分にQUAD-ESL-63につないでいたバナナプラグつきのスピーカーケーブルを、YAMAHAのNS-1000の上に置いた同じYAMAHAのNS-1000MM・・・(これは大ヒットスピーカーの1000Mをそのまま小型にした、ソックリさんだ)に接続して聞いて見ると、思いのほか良質な音がするではないか。
d0063263_1402745.jpg

音量を絞って聞く音楽にはもってこいだということを発見し、オモチャのようなスピーカーだが、キチンと設計されているYAMAHAの心意気を感じることとなった。
BGM的に鳴らすにはうってつけで、PCのDSPの両脇において鳴らしてみるのにもよさそうだが、そうなると少々もったいないような気もしてくるので、当面は静かな音楽を小音量で鳴らすのに使うことにした。

人間の耳は不思議なもので、装置を入れ替えた瞬間はその違いの大きさに驚くが、それになれるとそれで満足するように出来ているのだろうか。

いや、その装置の音を発揮するようなソースを無意識に選んで聞いているのか・・そのあたりが良く分からないが、どのようなソースでも不満ない音にするためには、時間という薬が必要なのだろう。

アナログの再現はかなり難問だから、こちらはもっともっと時間をかけて調整しなくてはならないだろう。

床や壁に馴染む時間、位置決めをするために調整する時間・・・それらがあいまっていい音を出してくれることは経験済みだ。

その昔だったら、装置そのものだけに目が行ってあれやこれやと機器類を入れ替えたり、枝葉末節的な(オーディオファンからは怒られるかもしれないが)、コード類を変えたり、電源を一定に保つ装置を加えたり・・・あらゆることをした時代もあったが、音は変化するのはわかるが、今思えば「いい音」になったかどうかはいずれも疑問が残るものだった。

自分にとって「いい音」とは何かということさえ分からずに、オーディオ機器に振り回された時代があった。

「部屋」というオーディオ機器がシッカリしていれば、後は使いこなし方で「自分にとっていい音」は決まってくる。

耳の鍛錬も、装置のセッティングも、いずれもユッタリした時間が必要なのだろう。
これで向こう半年は楽しめそうだ。

「部屋」という音響装置を忘れない上での話であるが。・・・

[PR]

by noanoa1970 | 2007-11-26 14:16 | 音響装置 | Comments(2)

クラシック音楽の中の「伝説」

ブルターニュの伝説に「イス」という町の話が有る。
フランスの首都「パリ」の名はこのイス=ISから取られたものとして知られることになる。(しかしこれも一説にしか過ぎないが)

すなわちPARーIS・・・PARIS=パリ・・・美しかったといわれる「イスのような」町になるようにとの願いからであろう。

しかしこの伝説都市「イス」は海の底に沈んでしまったといわれるのである。

その話の大筋は
ブルターニュの古名アルモリカのグランドロン王が、海好きの娘ダユーのために、海よりも低い場所に、堤防で囲った町を作らせた、教会や城が建設された美しい町だったそうです。

しかし娘ダユーは、王でさえ改宗したキリスト教に改宗するのを拒み続けました。

拒み続けた娘の前に、あるとき悪魔(キリスト教から見ると悪魔だが、素性はキリスト教徒の王子か)が王女ダユーの前に美しい青年の姿をして現れ、ダユーが青年に夢中になると、彼は愛の証として町の城壁の水門の鍵を要求した。

ダユーは水門の鍵を持ち出し、悪魔に渡した瞬間、悪魔が水門の鍵をあけると、海水がが町全体にに押し寄せてきて、町は大洪水になりやがて沈んでしまったのでした。

グランドロン王はダユーを馬の後ろに乗せて全速力で逃げ出しますが、海に飲み込まれそうになったとき、天から「お前の後ろにいる娘を突き落とせ」という声がする。
そこで王は神の声らしきものに従うと、海がダユーを飲み込んで引いてゆき、王は脱出することが出来た。

ダユーはその後「セイレン」:(ライン川伝説にもある)となって美しい声で航海人を魅了い、海底に引きずり込む魔女となったと伝えられる。

伝説の元になったのは、五世紀頃ブルターニュ最端部を襲った津波からで、この辺りの海底には古い港の遺構がいくつも沈んでいるという。

海の下で教会の鐘が鳴っているのを聞いた漁師がいるとか、澄んだ海の底に、城塔が立ち並ぶ大きな町が見えたとか、イスで使われた調度品が網で引き上げられた等、イスに関する様々な言い伝えが残っています。

またその近辺の女性が、塩を作るため海水を汲みに行ったところ突然目の前に海中から町が出現し、様々な物品を売る商店が並んでおり、呼び止められて何か買うように言われたが、お金を持ってないから買うことが出来ないと断ると、その商店主は、何か買ってくれたら私たちの町の人は全員救われたのに・・・といいそのとたん町は再び舞い中に没していったという話もあるらしい。

まるで「千と千尋の神隠し」のあの豊富な食べ物であふれた商店のような光景である。

地震による大きな津波の話を、神の怒りの象徴とし、キリスト教に改宗しない天罰のように脚色されたものだということは読み解くことが出来るが、娘を犠牲にした王の罪はどうなるのだろうかと、いささか突っ込みたくもなる。

そのような題材を音楽にした「イスの王様」。
「スペイン交響曲」という名のバイオリン協奏曲で有名な「ラロ」の作品である。
またドビュッシーは「沈める寺」で同じ題材を元に作曲している。

エドゥアール・ブローの台本によるオペラ「イスの王様」は、種族間の争いが底辺にあるが、恐らくは宗教戦争ではないかと思われるところを匂わせるものだ。

改宗を迫られた王とそれを良しとしない娘との反抗の話が、ここでは国王を裏切った王女の話に変えられており、守護神サン・コランタンの立場もキリスト教から見て都合よく変えられてしまっているのは残念だが、音楽的にはなかなか聞かせどころが多い。

ピエールデルヴォーの色鮮やかな演奏で
d0063263_14222585.jpg

Le Roi D'ys: Dervaux / Radio-lyrique.o & Cho, Guiot, J.rhodes, Vanzo, Massard
Rozenn - Andréa Guiot
Margared - Jane Rhodes
Mylio - Alain Vanzo
Karnac - Robert Massard
Le Roi - Jules Bastin
Saint-Corentin - Pierre Thau
Jahel - Michel Llado

Orchestre et Chœurs Radio-Lyrique
Pierre Dervaux
Paris, September 10, 1973

[PR]

by noanoa1970 | 2007-11-25 13:51 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

クラシック音楽の中の「妖精」

ロマン派音楽には「妖精」、「魔王」、「精霊」などを題材としたものが多く存在する。

先に書いたデンマークの作曲家「ニルスゲーゼ」の「妖精の王の娘」もその一つである。

北方ゲルマン神話の「エルフ」の娘と、結婚を控えた若者の話は、ヘルダーの手で脚色され、レーヴェによって「オルフ殿」となり、ゲーテによって脚色されたものは、シューベルトによって「魔王」となった。

緑の森に住む悪魔とされる妖精たちと人間の出会い、恋愛の話である。

同じような題材はハイネによって・・・恐らくはドイツ周辺の国々の古くからの民話を取材して作られたと思われる「流刑の神々,精霊物語」ドイツ古譚に収められている「ヴィリ」となって脚色される。

ヴィクトル・ユゴー (Victor Hugo)は「東方詩集」の「幽霊」という作品に同じ題材で詩を作っている。

その内容とは、不幸にも死んでしまった、結婚を前にした若い乙女たちが 、幽霊、死霊、精霊、妖精となって夜な夜な現れ、一晩中輪になって踊り続ける。

その場面を見た旅人達をその輪の中に引きずり込んで踊り続け、ついにはその旅人達をしに至らしめる・・・そんな恐ろしく悲しい物語である。

余り知られていないが、プッチーニは、「レ・ヴィッリLe villi:妖精ヴィッリ」として同じ題材のオペラを作っている。

ヴィッリあるいはウイリー、ジゼルは、ロマン派の芸術家の間では、かなり知られた・・・有名な話であったのかもしれない。

アダン・・・この人もバレー音楽「ジゼル」以外では殆ど知られないフランスの音楽家。

小生も60年代のカラヤンVPOの演奏で聞いていただけだった。
音楽的にはフランスのウエーバーといった感じの音楽だった記憶が今でも強い。
昨日naxosで数十年ぶりに、全曲を聴いてみた。

途中で飽きるかと思って望んだのだが、そんな推測は良い方向ではずれ、CD2枚にも渡曲を一気に聴いてしまった。
d0063263_11581281.gif

スロヴァキア放送ブラティスラヴァ交響楽団 - Slovak Radio Symphony Orchestra
アンドリュー・モグレリア - Andrew Mogrelia (指揮)
録音:5-14 April 1994. Concert Hall of Slovak Radio, Bratislava

アダンには他にも、やはりバレー音楽で Filleule des Fees :「妖精の名づけた子」あるいはJolie Fille de Gand :「ゲントの美しき娘」、「海賊」という曲がありどれもが耳に馴染む心地よい曲に仕上がっているから、音楽だけを聴いていても十分聞き応えがある。

しかし、これを死に装束を身にまとったバレリーナが踊るのを一緒に見たとしたら、どんなに・・・身震いするほど・・・ではないだろうかと想像すると、コンサートが無いかと探す自分がそこにあった。

パリ音楽院で教鞭を振るっていたというだけに、なかなかの曲を作っているのだが、残された局数は余り多くなく、殆どがバレー音楽、それに少しの声楽曲に限られるのは、彼の音楽家としての才能や評価を、その音楽の実態ほど評価されないことにつながったのであろう。

深い森の中で、輪になって踊っている女性たちを見たら、その場からすぐに逃げなさい!

そのような言い伝えがあるのに、「オルフ」はその言い伝えを守らなかった。

北欧神話と同じ題材は、ケルト神話にもスラブ神話にもあるというから、この話のルーツを探っていくと、古代の人々国々の交流関係や、キリスト教によって追いやられた古代の国の神々の正体が見えてくるのかもしれない。
[PR]

by noanoa1970 | 2007-11-24 12:06 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ブラザー軒

その昔のブログに菅原克己「ブラザー軒」と氷水の器

高田渡の一周忌・・菅原克己『ブラザー軒』

2つの「高田渡」の記事をUPした。

youtubeにはこの名曲「ブラザー軒」が無かったのでUPしてみた。
削除される可能性があるが、やはりこの曲は、広く皆さんに聞いていただきたい。


小生の過去のブログとともに、見聞きしていただければ幸いである。

[PR]

by noanoa1970 | 2007-11-22 12:07 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

マキとマキ

小生の学生時代の後輩drac-ob氏がカルメンマキのライブへ行った事をブログに書いていた。

その中で、カルメンマキの演目で「アフリカの月」を演ったとあったので、いささか驚くとともに、ほぼ同時代を過ごし、どこかで音楽的にもつながっていたであろう、今は亡きKUROチャンとその夫である西岡恭藏の歌がジャンルなどを超えて歌い継がれることに感動したのであった。

そのブログの中に「カモメ」そして「にぎわい」という曲をも演ったとあったので、小生はあの淺川マキの同曲を想起し、「マキがマキを歌う?」とコメントしたのだった。

それからというもの、浅川マキとカルメンマキ・・・「マキ」つながりではあるが、一体どこで接点があったのだろうと気になっていたのであった。

もし二人を結びつけるものがあったとすれば、恐らく1960年から70年代の初めの「アンダーグラウンド」時代、カルメンマキが浅川のレコードやライブをその時代に聞いたのではないかとも推理していた。

小生には彼女達二人ともに共通するイメージは「黒っぽい」「社会から少しはみ出た」「時代の波にあわせない」・・・所謂われらが団塊世代のあだ花の全共闘運動にも通じるようなラディカルで、非商業主義的志向のシンボル的存在としてのそれであった。

あの時代の学園祭には彼女達は良く登場していた記憶があり、小生も学生会館で浅川マキを初めて聞いた。

浅川マキ「かもめ」1970

カルメン・マキ 『 時には母のない子のように 』 1969年

「マキがマキを歌う」・・・アルバムタイトルにもなりかねない、そんなシャレた・・・というよりどこかで共通した価値観なり、レスペクトなりを感じさせるような選曲に、西岡恭藏の「アフリカの月」同様、とにかく気になって仕方がなかったのである。

「アフリカの月」は、海で片足をなくした老いぼれが安酒に酔って酒場で船乗りの若者に昔の思い出を語る・・・そんな歌で、7つの海を航海してきたが、黒い大陸=アフリカで見た月が一番印象的だった・・・若者よ良く聞け、船乗りになったら陸で死ぬことは出来ない・・・などと歌う。

「カモメ」は海の近くに住む、やはり若い船乗りが、港町のあばずれ女に恋をする悲しい結末の歌。

「にぎわい」は、「かまやつひろし」の曲に浅川自身がが詩を付けた曲。
今はもう寂れてしまった港町を再び訪れた男が、かって栄えた港町の風景や昔愛した女を思い出して、しみじみと歌う歌である。

カルメンマキは、「港」「波止場」「海」「船乗り」の、昔の心象的風景の歌を取り上げたのだ。

このことにも、何か彼女の心の中を探ろうという欲求を駆り立てるものがあるのだが、それは実際に聞いてからの言及としたい。

昨日カルメンマキ自身のブログにこんなことが書かれていたので、紹介しておく。
浅川マキとの邂逅について少し触れられている。

7/31(火)
新澤健一郎君のリーダーバンド「Nervio」を初めて聴いた。
今回はレギュラーメンバーのヤヒロトモヒロさんの代わりに仙波清彦さんがパーカッションだった。そのせいかCDとは大分違った印象。まるでおもちゃ箱をひっくり返したようなサウンドで大いに楽しませてもらった!

3曲目の演奏途中、後ろからポンと肩をたたかれたので振り向くと、なんと浅川マキ姉さんだった。隣接するリハーサルスタジオに居るというので休憩時間に行って話をした。
大マキさんのお宅にお邪魔して、随分長いこといろいろお話ししたのは何年前だったかしら?・・・本当に久ぶりの再会だ。

私が初めて「浅川マキ」を観たのは、私が「時には母のない子のように」で歌手デビューする直前の1969年の冬、今は失きあの伝説の「新宿アートシアターギルド(ATG)」の地下「蠍座」だった。あの時の衝撃を私は多分一生忘れないだろう。その少し前に出会った天井桟敷の芝居「青髭」や、その少し後に聴いたジァニスの「チープ・スリル」、ジミ・ヘンドリックスの「Are You Experience?」と同様に、それはその後の私の人生を変えるきっかけとなるものだったと言ってもいい。
だから怖れ多くも「かもめ」を歌うことには当然、随分と勇気が要った。浅川マキファンに申し訳ない、比べられるのではないか、などと悩み、自信もなかった。けれど、そんな私を後押ししてくれたのは意外にもマキさん本人だった。「あの歌を歌えるのはマキしかいないでしょ」大マキ姉さんにそう言われて、私は安堵したと同時に、ただ好きで歌いたかっただけのあの歌が私にとって、もっと大きな意味をもつようになった。
他人の歌を歌う場合、比べられてもしょうがない、下手でもいい、それよりもその歌を大切に育て自分のものとして消化していくこと、そして良い歌を歌い継いで行くこと、残して行くことこそが大事なのだと。

ライブ終了後、帰り際に挨拶をしに又スタジオに寄った。
11月の新宿PIT INN、ドラムのセシル・モンローとのDUO公演の、出来上がったばかりのチラシをいただいた。
7月には向井滋春さんとのDUOがあった。とても元気で積極的に活動していることを知って嬉しくなった。
大マキ姉さんとは喋り出すと話が尽きなくなる。1度、電話で話しながらワインを1本空けた事もある!!!
今日も久ぶりに会って、時間が許せばもっとお話したかったのだけれど・・・。
今度はいつ会えることやら・・・又どこかで元気な大マキ姉さんに再会したい。


>浅川を「大マキ姉さん」と呼び慕うカルメンマキの姿がここにあった。
「かもめ」は曲想からして、浅川にもカルメンにも良く似合っていると小生は強く思う。

「にぎわい」そして「アフリカの月」はどのようにアレンジされているのだろうかと、気になり始めているこのごろである。

板橋文夫と太田恵資をバックにライブツアーをやっているカルメンマキ。
近いうちに聞かねばなるまい。

「山羊にひかれて」「時には母のない子のように」のカルメンマキとそれから約40年を隔てたカルメンマキ両方の音楽を、ぜひとも見てみたいものだ。

多分ロックもJAZZもフォークもそのほかの・・・「まことにつまらないジャンル」などを超越したところの「歌」そのものが聞けるに違いない。
これからは「リトルマキ」あるいは「KOMAKI」とでも、カルメンマキを呼ぶことにするか。
[PR]

by noanoa1970 | 2007-11-21 11:39 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

紙芝居by岩井宏

紙芝居屋の親父は、もう居ない・・・

1960代の中期、岩井宏は、京都北山の「ホンキートンク」というウエスタン風のライブハウスで、よくバンジョーを弾いていました。
当時ではバンジョー奏者は珍しかったのですが、彼はその中でも腕前は凄く確かでした。

後に加川良が「下宿屋」で、山科に住んでいた高田渡の下宿屋に行った時に、岩井宏と会ったようなことを歌っています。

d0063263_16225789.jpg

[PR]

by noanoa1970 | 2007-11-18 09:40 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

林亭の「ダイナ」=「だんな」

youtubeに動画を・・というより、音楽をUPしてみた。
先の記事にUPしたディック・ミネのヒット曲「ダイナ」を、エノケンが「ダンナ」というパロディにして歌ったものを、1974年、高田渡がバックバンドとしてよく使った佐久間順平の「林亭」が演奏したもの。

ブルーグラス風にアレンジしてある面白い曲だ。

MIXIのお仲間の諸氏は、JAZZピアノの山本剛の歌で聞いているらしいが、恐らくこちらのほうが先輩であろう。

林亭の「ダイナ」

少々硬い音になったが辛抱して欲しい。

[PR]

by noanoa1970 | 2007-11-17 14:32 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

旦那・・・ホホイのホイッともう一杯

クラッカーという食べ物が前田製菓から登場した。
袋の中にはコンソメの粉末が入っていて、それと一緒に食べろというようなことが書いてあったが、コンソメの粉末の量は余りにも少なくて、いつもクラッカーだけが残って、そのままでは喉がパサついて困った覚えがある。

TVでは、小さな白木みのる、藤田まこと達が、長くて地面につくような刀を差した財津一郎と一緒に出ていた「てなもんや参度傘」のスポンサーだった。

子供とばかり思っていた「白木みのる」が、実は立派な大人であるということを知ったときのインパクトは相当大きかった。

「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」と、藤田まことが大見得を切るCMも懐かしい。
我が家に初めてTVがやってきた頃のこと・・・1960年代初頭の頃のことだ。

同じ頃・・・その当時はまだまだ電気冷蔵庫などは高級品で、我が家には氷冷蔵庫も無かった。

父の実家に行くとアイスジャーというものがあって、中に氷塊があり、それで冷たいカルピスを作ってもらったり、ハブ茶という苦い薬のようなお茶を飲ませられた。

氷は貴重品だったようで、なかなか氷だけでは食べさせてはくれなかったが、その冷たいお茶や、特別に作ってくれたアイスカルピスの味は、この上ない雲上の味がしたものだった。

祖父が畑で作ったイチジクや葡萄が冷やしてあるときには、この世のものとは思えないその美味しさに仰天した。

父の実家から家に帰ると、冷たい味はもうそこには無く、その頃発売された「渡辺のジュースのもと」をヌルイ水に溶かして飲むのだが、あの冷たいカルピスと比べるとどうしようもないくらいにまずかった。

1袋づつ分封されている粉をコップにあけて、水を注ぎでかき雑ぜるのだが、どんなにかき混ぜても、白いプツプツした物質がコップに残り、それがイヤだったが、バヤリースオレンジは高価で、またプラッシーといって多分武田製薬から出ていて、なぜか米屋でしか販売してない、天然果汁のジュースは、バヤリースより高価で、当時は最も美味しかったが、ほんのたまにしか飲むことが出来なかった。

やがてコカコーラの販売員が来て、60円と6本入りのパックを引きき換えて渡して、後に販売店に瓶を返却すると1本につき10円戻るから、などといって方々を回っていたが、氷も冷蔵庫も無かった我が家では、生ぬるいコカコーラはとてもまずくて、瓶に入った風邪薬の味がして飲むのをやめた覚えがある。

しかしそれから3年もたつと、コカコーラは手放さない飲み物の一つとなるから、世の中は不思議だ。冷蔵庫の普及がコカコーラの販売促進につながったことは明らかだろう。

渡辺のジュースのもとは、オレンジ、パイン、グレープと3種類のパックが1袋5円という値段だったから、母親は良くこのジュースのもとを買ってきた。
この中ではまだグレープがましで、オレンジは最後まで残っていた記憶がある。

しばらくして3種類混合のパッケージから、それぞれが単独で発売されたようで、我が家では葡萄色のパッケージを殆ど見ることになった。

5円のジュースのもとで作る「偽のジュース」・・(ただし当時ジュースというものはこのことだと思い込んでいた)は美味しくは無かったが、同時期に出たメロンソーダ(春日井製菓だったか)のもとよりはましであったから、仕方なく飲んでいたが、それはTVコマーシャルのせいでもあったように思う。

「ホホイのホイッともう一杯、渡辺のジュースのもとですもう一杯。
憎いくらいに美味いんだ、不思議なくらいに安いんだ。
へへん、渡辺のジュースのもとですよ・・・

このアニメCMで歌うのが、エノケンであることは母親が指摘した。

「エノケン」は、榎本健一という喜劇役者で、JAZZスタンダードナンバーを日本語の歌詞に直した曲を良く歌っていた男で、サルにソックリな顔をして当時は時々ブラウン管の前に現れたのだった。

「エノケン」は小生がまだ小学校に通う前から、ラジオで盛んに放送されていたし、映画の看板にもなっていたし、その本名は知らなくても「エノケン」の名前は自然と耳に入っていたのだった。

多分「萩元欣一」は「榎本健一」をもじって付けた芸名であろうと、強く推測可能だ。

エノケンが残した数々の作品には「エノケンの・・・」とタイトルされたものが多い。
小生はまだまだエノケンの作品を多くは見てはいないので、これからがとても楽しみなことである。

バスター・キートン、ハロルド・ロイドやチャップリンと比べてみるのも、面白いかもしれない。

そんなエノケンが歌ったJAZZの曲に「エノケンのダイナ」というものがある。
小生は、この「原曲?」を当時聞いたことがあるのだが、「ダンディ男「ディック・ミネ」が歌ってヒットしたこの「ダイナ」は昭和初期の頃だったが、戦後の復興期にその歌がリバイバルされて良くラジオから流れていたのを聞いていからである。
日本語と英語が混ざった彼独特のこぶしの利いたスウィングJAZZであった。

動画のバック「クラリネット」は若き日の藤家虹二 ではないだろうか?

d0063263_19134083.gif
時は流れそれから数十年、あるとき日本のフォークと称されるジャンルのライブ音源を収録したHOBO’Sコンサート1974年に「林亭」(大江田信と佐久間順平)バンドの「だんな」という曲が収録されているのを聞くこととなった。

「だんな」は「ダイナ」のメロディを日本語の面白い歌詞を付けて歌った曲で、
作曲がハリー・アクスト、作詞はサトウハチローだ。

「ダンナー のませてちょうダイナー おごってちょうダイナー たんとはのまない ね いいでせう    ダンナー 盃ちょうダイナー コップなら尚結構 こいつはいける 酒はうまい うまい 少し酔った、酔ったらさー来い、・・・・・・」

「ダンナーなぐってちょうだいな ぶんなぐってちょうだいなー・・・・」

林亭はバンジョー、フィドル、マンドリンなど、ブルーフラスの楽器で調子よく歌う。

そう、これは明らかにディック・ミネのパロディで、元歌が「エノケン」であることを知ることとなった。

米国ハリー・アクスト→ディック・ミネ→エノケン→林亭と歌い継がれてきたのだ。
そして最近のことMIXIのマイミクの方からJAZZピアニストの山本剛がこの林亭の歌ったサトウハチローの歌詞の・・・エノケンの「ダイナ」を得意としていて、ライブでも歌うと聴いて驚いたことがあった。
早速その模様を動画で送っていただいたが、スローナンバーに編曲してあり、それはそれで・・・林亭のブルーグラスアレンジとは対極的なトーンであった。

小生が山本剛を知ったのは、1973年、彼がTBMからレコードデビューするのが、林亭の出演したHOBO'Sコンサートの開かれた1974年と同じ年なのは何かの因縁があるのだろのだろうか。

また山本が「だんな」を何時からレパートリーに取り入れたのかは知る由も無いが、昨今では、浅草オペラの二村定一が昭和初期に歌った「アラビヤの唄」をレパートリーに加えているというから、彼も幼い自分から、ラジオから流れてくるこの曲を聴いて育ってきたと想像するものである。

ちなみに山本と小生は、生まれた年月が同じで、彼よりちょうど10日だけ小生が先輩に当たる。

まさか渡辺のジュースのもとは、ライブで歌うことは無いだろうが、古い日本の・・・今や忘れかけられている昭和の歌を復活させてくれることを願うばかりである。

JAZZが入ってきた当時の日本の風景とともに、日本の近代化の姿がそこに見え隠れするようである。 

[PR]

by noanoa1970 | 2007-11-16 09:15 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

面影橋から

d0063263_1040157.jpg
d0063263_10505766.jpg

ベルウッドレーベルの懐かしい「日本のフォーク」オムニバスを取り出した。
TVで最近、「はっぴいえんど」の「かぜをあつめて」が流れていたので、懐かしくなってジックリ聞いてみようと思ったのがきっかけだった。

CD2枚に収められた当時の日本のフォークを中心にレコードを作製していたベルウッドは、キングの傘下のレーベルで、多くのミュジシャンたちを世に送り出したことは評価に値する。

高田渡、はちみつぱい、南正人、六文銭、西岡恭藏、ディランⅡ、山平和彦、あがた森魚、友部正人、シバ、いとうたかお、武蔵野たんぽぽ団、ごまのはえ、岩井宏、及川恒平、大瀧詠一、小室等の曲が収録されている。

岩井宏の「紙芝居」は、いまや幻の音源となっているし、「ごまのはえ」などというマニアックなグループも登場するから、オムニバスといってバカには出来ない。

小室の「雨が空から降れば」は、小生の好きな一つであるが、ここにもう一つ思い出深い曲があることを再発見した。

それが及川恒平の「面影橋から」である。

さらに及川恒平のソロで「面影橋から」

1972年・・・その頃人生に息詰まりを感じはじめていた京都のアパートで、深夜のラジオから流れてきたこの歌を聞いたとき、その前に作られた「出発の歌」の頃とは随分違う自分をそこに見出したようで、やるせなさを感じていた頃のことだった。

「面影橋」から「天満橋」・・・
大淀とは淀川であろうし、天満橋は大阪の天満であろうことは容易に推測できたが、面影橋とは・・・

何しろ当時の小生は、この曲の背景の地を、勝手に「大阪」だと決めて聞いていたのであった。

大阪に行けば何かがあるかもしれない・・・などと思うことも確かにあった。


季節外れの赤とんぼ・・・「流して上げよか」大淀に・・というフレーズが
「切って捨てよか」大淀に・・・と、変化する表現の心象には、どのような心境の変化があったのだろうかと、感性を大いに刺激されたものだった。

いや、恐らくそこに小生と作者の同体験の存在を想像し見出していたのだろう。

面影橋から(昭和46年)
田中信彦・及川恒平 作詞    及川恒平 作曲   及川恒平 唄

面影橋から 天満橋  
天満橋から 日影橋
季節はずれの 風にのり
季節はずれの 赤とんぼ
流してあげよか 大淀に
切って捨てよか 大淀に

いにしえ坂から わらべ坂
わらべ坂から 五番坂
春はどこから 来るかしら
風に吹かれて 来るかしら
めぐりめぐる 思い出に
歌を忘れた 影法師


あれから35年、及川自身が述懐したエピソード記事を見つけたので、「面影橋の秘密」と言うことにしてして、コピーしておくことにした。

天満橋は大阪。
面影橋の所在地は知らなかった。
でも曲は書ける。
 
ところで日影橋は劇作家の頭の中だ。
後日ありもしない「全国の日影橋を探そう」というキャンペーンをはったのは、
某ベルウッド・レコードです。

当時ぼくは大学の演劇部に籍があり、先輩の新劇団には座付き作曲者として加わっていた。
後に小室等と出会うことになるほかの劇団では、劇中で歌ってもいた。
最初『面影橋から』は、大塩平八郎の乱を題材の芝居で役者が歌った。
夢と現実の狭間を表現したもので、
実際の場所など知らなくてもなんの不都合もなかったというのが作曲家らしい言い分だ。

か、どうか。
六文銭で『面影橋から』を歌った訳は、きっとほかに曲がなかったとかそんなところだ。

思い出してもしかたがない。
おまけに最初はワンコーラスしかなく1分強で終った。           
ところがそのありあわせの1分強が、どうも同世代の聴衆の心をくすぐったらしい。
ウケルためになんか歌っていないはずのぼくらもそれには敏感だった。
正直モノだ。

あわてて2番の歌詞を書くことにしたのは言うまでもない。
日本文学科の学生というそれだけの理由で作詞者はぼくであった。
彫刻科や化学科のほうがもしかしたらという発展的な思考には
ついにいたらなかった。

2番の歌詞はとりあえずの語呂あわせだから、実は録音によりしっかり違っている。
おまけにタイトルも『思影橋から』だったりもするし、『から』がなかったりもする。
誰のせいかは微妙なところ。
その場かぎりを歌うこと以外に、記録としてとどめる発想などのなかった頃には、よくある話だ。

と、思う。

だから六文銭のレパートリーは、なんとかの歌とかアタマの歌詞そのままとか、
そりゃそうだけどのパターンがじつに多い。
聴かれて苦しまぎれに団長の小室等がそう答えるのだから、
ぼくら団員がそうするのは無理はない。

と、思う。
 
さて『面影橋から』はレコードとしてどれぐらい売れたのかぼくは知らない。
つまり知らされるようなシロモノではなかったのだ。
ところが不思議なことにこの歌は売れなかった歌としては、意外なほど知られている。
だからぼくもこれを書いている。
 

それにしても悔やまれるのは、"全国の日影橋さがし"キャンペーンだ。
あったからといってどうなるのだ。
もしどこか片田舎にやっと見つけたとして、その橋のたもとで歌ったからといってどうなるのだ。
きっちり思いつきだけ。戦略ミス以外のなんなのだ。
すっきりした。
 
しかし、このてのカナシイ歌は、フォークというジャンルには結構あるような気がする。
ここにきて楽団『六文銭』の演奏がおもしろい。
この歌を歌う機会もふえるだろう。      
 
『面影橋から』現象は、
マスメディアが掴まえきれなかった流行がはばをきかしていた時代の、おとぎばなしだ。


少々自虐的な述懐だが、面影橋は大塩平八郎云々とあるから、神田川にかかっている橋のまま絵であるということは知っていたのだろう、しかし場所は知らないし、そんなことはどうでもも良いことだともいっている。

橋の探索事件をベルウッドが仕掛けた事実を小生は知らないが、これだけ「橋」の名前が出てくると、小生などは「日本の橋」・・日本浪漫派の重鎮、「保田与重郎」の著作を連想してしまうところがある。

作者が、どこにあるかさえ知らない「面影橋」、そしてそれ以外の「橋」は、作者の観念の産物であった。

しかしこの歌で重要なのは「橋」という建設物ではなく、人生の川を渡るための手段であろう。
いくつもの「橋」を超えてもなお、春は遠い。

人生の春は、いくつもの「川」を越えると来るというが、いくら橋を渡ってもちっとも手元にはこない・・・

70年代初頭・・・(重くは無いが)人生の挫折から、なかなか抜け出すことが出来なかった時代の一こまを象徴するような歌の一つであった。

[PR]

by noanoa1970 | 2007-11-15 12:08 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)