<   2007年 09月 ( 28 )   > この月の画像一覧

古民家の照明、ステンドグラス

長浜には古民家が多く、商店街には今も「町家」が数多く存在する。
昨今ではこの「町家」を改造してお店にするところが増えているが、それも悪いことではない。

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高い天井と太い梁と柱が持つ異空間は、特別な郷愁を誘うものだ。

滋賀県には和菓子の老舗が多く、近江八幡の「たねや」、そして大津の「叶匠寿庵」は、お茶をやる人は勿論お菓子好きな人にも多く知られるところ。

このような和菓子の老舗が、最近では古い民家を改造した店舗を開くことが多く、
近江八幡の日牟禮八幡宮境内にある「たねや日牟禮庵」も好きな店だ。

面白いのはこれらの老舗は、和菓子だけではなく、洋菓子、スィーツ、レストラン展開まで始め、その商売のパイを拡大し、広く市民に活用してもらう戦略をとっていることと、「自然との共生」というコンセプトを強く打ち出していること、そして古きよき伝統と、現代をマッチングさせようと努力していることである。

「茶道」という日本の伝統に立脚した老舗だけあって、いずれもが社員教育を徹底していて、接客が申し分ないことは、昨今外国資本のファストフード店が蔓延する中、見習うべきものがある。

長浜には、カフェ叶匠寿庵 長浜黒壁店 という店があり、これは3年ほど前に商店街の町家を改造して作られたものだが、とても落ち着きのある店に仕上がっていて、小生の好みの店となった。

一階はカフェ、中2階にはギャラリーと、和食レストランを併設し、しつらえは西洋アンティークを配した和洋折衷である。

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テーブルや椅子は英国アンティークで、余り重厚ではないタイプのものを用いているので、重苦しくは感じない。
まして空間が広いから、圧倒されることは無く、落ち着いていられるのが良い。

小生のお気に入りは「照明」で、アールデコ風のものが天井から吊り下げられ、それが妙に古い日本の民家・・・「町家」に良く似合っているから不思議である。

以前から小生は「大正浪漫」に象徴されるような、和室と西洋の工芸のミスマッチの美しさに強い憧れを持っていが、そうしたことの反映が小生の美意識を刺激するのだろう。
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普通なら不釣合いな「ステンドグラス」も、見事にはまっていて、自然にその場所にある・・・強く自分を出してないことが余計に感性を刺激する。
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同じ商店街の越前蕎麦屋「そば八」のランプも、店の中から見える離れ(実はトイレ)も、良い雰囲気である。
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残念なのは、「アンティークギャラリー倫敦」。
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以前はお酒を売るお店で、2階には古いステンドグラスが窓にはまっていたのだが、西洋アンティーク専門店になって、そのステンドグラスを生かせない改装にしてしまったこと。

「紺屋の白袴」とは、まさにこのことだと残念に思う。
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叶匠壽庵
長浜市元浜町13-21
0749-65-0177 

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by noanoa1970 | 2007-09-30 10:03 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

もう少しで・・・・

長浜の商店街に数年前にできたイギリスアンティークショップ。
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店頭に面白いものが置かれてあった。
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テッキリアンティークだとばかり思っていたが、良く良く見るとなんと何と!台座に「LITTLE JAMMER PRO. - tuned by KENWOOD」と表記されているではないか。
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気になってネット検索したら、なんと「バンダイ」の大人のホビーだった。
オーディオメーカーの「ケンウッド」と共同開発したらしい。


いかにもアンティーク調ではあったが、しかし何故アンティークショップの店頭に、最新の大人のホビーがおいてあったかは不明のままだ。
この店は新しいものは置いてないのが気に入っていたのに・・・・
小生はその姿形色彩デザインから、イギリスのアンティークであるものとスッカリ信じ込んでしまった。

どうりで写真を撮る許可をアッサリくれたのにはそのような理由があったったのだろうかと思える節がある。

店の主人がJAZZ好きで、人通りの多いときには音楽を鳴らしていたのかもしれないが、ただ飾ってあっただけだから、もう少しで騙されっぱなしでいることろであった。
危ない危ない!(骨董は怖い)

そうと分かっていたら音を確認すればよかった、次回音を出してもらおう(まだ置いてあったら)

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by noanoa1970 | 2007-09-29 10:39 | 骨董で遊ぶ | Comments(2)

white&red of Autumn

昨日久しぶりに滋賀県長浜まで。
途中伊吹山の麓の伊吹町が、米原市に編入されているのを発見し、また古い名称が消えていくのを実感した。

初秋の伊吹山
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道路の脇には彼岸花が一斉に咲いていて、お彼岸であることを改めて思わせてくれる。
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しばらく長浜方面に農道を進むと、突然前方右の畑で真っ白なものが見えた。
いままで何回もこの季節に同じところを通って長浜に向かうのだが、初めて見た光景だ。近寄ってみると、思いがけないことに「蕎麦の花」が満開である。
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この伊吹山麓は地元の話では、蕎麦発祥の地というが、今まで蕎麦の栽培を見たことが無かったので、ここで地の蕎麦を食べさせてくれるといいねと、良く言っていたものだった。

米原市に合併したから何かが変わったのだろうか、多分今年から休耕地あるいは例年麦を作っていたと思しき畑にはどこもかしこも蕎麦が植えられていて、いずれも満開の白い花を付けている。
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小生は長野県の奈川村という山村で自ら蕎麦を栽培し、収穫した経験があるが、このような広大な蕎麦畑を見たことは無かったので、物凄い感動を覚えてしまった。

11月になれば収穫でき、そうすればこの地が「蕎麦発祥の地」であるということを分らしめる、地の玄蕎麦を使った挽きたて茹でたての蕎麦を味わえるかもしれないと思うと、晩秋が来るのがとても楽しみになってきた。

地産地消という言葉があるが、是非地元で消費することを願うものである。

初秋に見つけた白と赤の見事な共演だった。

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by noanoa1970 | 2007-09-29 10:28 | 季節の栞 | Comments(0)

これが同じ種類とは・・・

遊歩道で見つけた花。
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一つは昔ながらの「ムクゲ」。
「道のべの むくげは馬に 食はれけり」と芭蕉の俳句に有るのは、この花のことであろう。

2mほどの潅木で、その昔は道路の脇によく植えてあって、夏になると花を咲かせるが、その色調からなのか形状からなのか、仏教的なものを感じることが子供ながらにあった。

先日来、同じ歩道で見慣れないがとても美しい花が沢山咲いているのを発見。
バラのように見えるが、「ムクゲ」とほぼ同じような潅木に沢山の花を付けている。
いままでこのような花は見たことが無かったので、写真を撮って置いた。
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写真のように薄いピンクの花で、「ムクゲ」と同じ形状の潅木に咲いている。
しかし花の色形は全く異なるので別の花ではないかと思い、念のために葉の形状も撮影して、家内に見せると、両方とも「ムクゲ」だという。

バラの花のように見えるものは、八重の「ムクゲ」で、先にあげたものは伝統的な普通の「ムクゲ」だそうだ。

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葉の形状も、木立の様子もほぼ同じに見えるから、矢張り両方とも「ムクゲ」なのだろうが、そして一重と八重という違いは有るにしろ、見た目が違いすぎである。
小生には、この2つが同じ種類の花であるとはとても思えない。

一つは、おばあさんの原宿「巣鴨」の歩道に似合い
もう一つは青山か六本木の歩道に似合う。

この変貌の仕方は、自然界だからできた「革命的」でさえある驚きものだ。
(人工的な所産なのかもしれないが・・・・折角だから、それは信じないようにしておこう)


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by noanoa1970 | 2007-09-28 09:27 | 季節の栞 | Comments(0)

秋:旬の食材

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昨日いただいた大量の「いちじく」
完熟のものは、そのまま冷やして、少し固めのものはコンポートにしてみることにした。

以前は白ワインと一緒に、「生ハム」を添えて食べたが、これも大変美味。


あの有名な「生ハムメロン」を遥かに凌ぐもの。

生ハムといえば、小生はその昔、長野県南安曇郡奈川村という山村で、生ハムを作ったことが有る。

写真はテントの中で吊るし風乾中の生ハム
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昨今ではなぜか若い女性にも人気があるという「生ハム」だが、輸入品も含め市販のものでは決して味わうことができない、「本物」を味わうことができた。

素材は、懇意にしている肉屋に特注したので、その新鮮さが燻製に非常に良い効果を及ぼした。

出来立て新鮮な生ハムを、マンゴーと一緒にシャブリとあわせたが、これがまた絶妙。
大好評だったことが懐かしく思い出される。

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今回は「自家製生ハムといちじく」はあきらめて、コンポートにした。
赤ワインとレモン、そしてグローブを香辛料に使って短時間で仕上げたもの。
冷やしたものを、ガラスの器に持って食べることにした。

うん・・・・これはいける!

本当に美味いものは「自作」に限る。

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by noanoa1970 | 2007-09-27 12:24 | 「食」についてのエッセイ | Comments(1)

秋の風物詩

中秋の名月に一つ足りない三役だが・・・
大事なお役目の「お団子」は、昨夜のうちに食べてしまいました。

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追伸:このままではまずいので、残っている団子を集めて載せてみることにしました。
10個近く有ったのに、もう3個しか残ってませんでした。
この地方ではこのように、ティアードロップ型のものが主流のようです。
好みのまん丸の白い団子・・・これを積み上げる光景を見たいものですが、なかなか見つかりません。


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by noanoa1970 | 2007-09-26 10:36 | 季節の栞 | Comments(2)

政界のParsifal

昨今の政界の状況を見ていて、思わずワーグナーの「パルジファル」を想起した。
配役を考えれると、さしずめ以下のようなものとなろう。
「パルジファル」はどれもが役不足ではあるが、あの男なら「パルジファル」の持つ一面性を持っているようだから、あえて彼の名前を挙げて置いた。

しかし本当の「パルジファル」の登場以外に、あの政党を救うすべは無かろう。
たとえ「パルジファル」が運良く登場したとしても、
「救済者に救済を!」と最後に叫ぶ国民の声は、結局届かないのだろう。

パルジファルに関しては、はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)を参照されたし。

≪配役≫
●グルネマンツ=お城の重鎮:森喜朗

●アンフォルタス=心身を病む国王、傷つき絶えず血を流す:安倍晋三

●クンドリ=悪の国王クリングゾルの手に落ちた魔女(実は大昔の国王の娘):田中真紀子

●クリングゾル=宿敵悪の国の王:小沢一郎

●ティトゥレル=前国王で現国王アンフォルタスの父:安倍晋太郎

●聖杯守護の騎士2人=国の宝を守護する戦士だが崩壊の危機に瀕する:中川昭一、中川秀直

●小姓4人=国王の取り巻き:塩崎恭久、下村博文、世耕弘成、菅 義偉

●花の乙女たち6人=クリングゾルが仕掛けた幻影の国で、パルジファルを手練手管で誘惑する乙女:小池百合子、高市早苗、佐藤ゆかり 、中山恭子、山谷えり子、猪口邦子

●パルジファル=無知で汚れなき愚者:杉村 太蔵


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by noanoa1970 | 2007-09-26 08:58 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

お気に入りの照明

北大路魯山人の作品に鉄製の行灯がある。
「月と兎」「月とススキ」などの絵柄が鉄の素材によって組み立てられた行灯で、とても風流で小生の好きな作品である。

10年ほど前、近江の長浜の商店街にある金物店の店頭に、同じような雰囲気の行灯の灯りが灯っているのを発見した。

しばし感激しながら中に入って、素性を尋ねると、魯山人オリジナルではなく、北陸高岡の鋳物屋の作品で、売り物であるという。

高岡は昔から銅器や鋳物の盛んな町で、最近はこのような趣味嗜好の強いものを手がけるようになってきたとのこと。

長浜は北陸と京都を結ぶ重要な位置を占めていることからも、最近の町興しで方々から観光客が来ることもあって仕入れたのだが、思うようには売れないとも言う。

値段を聞くと、観光客が立ち寄っただけで、おいそれと購入できるような価格でもないから、(といっても大して高額ではないのだが)、観光客ではなく、・・・美術、陶芸工芸の趣味人が必要とするものなのであろう。

魯山人を髣髴させるこの行灯をいたく気に入ってしまい、すぐに持って帰ることにした。

魯山人写しというか魯山人好みというのか、「武蔵野」という名前が付けられている。
オリジナルを見たことがあるが、比較すれば、それはどうしても線の力強さ、繊細さなどで当然オリジナルに軍配が上がるが、オリジナルを入手することは到底望むべくもないことである。

部屋の明かりを消して、この行灯の灯を灯すと(といっても中に電球が入っている)まだまだ残暑厳しい夜が、なぜか急に秋めいてきて、外で鳴く虫の声も一層よく響くように思えてくるから不思議である。

小生オリジナル作品の、銀行や学校に有ったような昭和初期の天井つり照明の傘と、明治時代のすばらしいデザインの植木鉢で作った照明d0063263_14423180.jpg
とあわせてお気に入りである。





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by noanoa1970 | 2007-09-22 14:43 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

DRAC興亡史・・・1967~72その28「最終章」


≪前口上≫

時系列が入れ替わったりして、かなり読みづらいところがあるのを承知で、40年以上のことを思い出しながら、やっとここまで書いてきた。
願わくばDRACの諸氏による補足や異なる観点からの記述を待ちたいところである。
現在飲み会やOB会が開催されてはいるが、だれもこの時代のことに触れようとはしてこなく、ある種タブーのような感じもあった。

しかし、この激動の60年代後半から70年代初めのことは、その時代のOB諸氏の残照として、消そうにも消し去れないことである。

40年以上前のことを蒸し返すのはよくないという意見も有るとは思うが、やはり一度整理しておかねばならないと常に思っていたことだから、思いつくままに書き連ねたが、ところどころで記憶が途切れることもあり、まとまりのつかない物となってしまったバカリでなく、およそ「DRAC興亡史」というタイトルに相応しくないような、いわば自伝的なものになってしまったことは意に反することである。
しかし今思えば、たぶんこのような書き方しか不可能であったように思っている。


71年を持って小生のDRACの記憶は途切れはするが、72,73,74年卒業のOB諸氏の記述が望まれるところである。

幸いブログを通じてめぐり合うことができた75年入学のHN:drac-ob氏によって、75年以降を引き継いでいただけるというから、80年代までのDRACの状況はいずれ明らかになるはずである。

氏の記述を待ちたいところであるから、よろしくお願いいたします。


≪コーダ≫

70年の夏まで小生は同志社学生新聞局で新聞局復活を手伝い、復刻第一版の発行を終えたことから、その後はもっぱら銀閣寺畔にある橋本関雪の屋敷、白沙村荘「お菜ところ」でのバイト、そして後に立ち上げることになる「NOANOA」での日々を過すことになる。

70年後半70年安保も通過し、大学紛争も一次終焉を迎えたが、執行部役員連中は、すでにDRACに寄り付かなくなっていて、彼らの動向はサッパリ不明となっていたが、その頃岩倉で同じアパート下宿にいたK田、F原と小生の元に、後に幹事長をやることになるA田、そしてS井達が入れ替わりやってきては、不思議な集団を形成していた。

71年にはN谷という男が幹事長をやっているという話を聞いたが、彼らの代は殆ど付き合いが無い状態であったし、何かやっているらしいというDRACの現状が伝わるだけであったある日、バイト先にやってきたのが2回生になったばかりのF田だった。

話を聞くとF田は、どうもバイト先を探しているらしいので、NOANOAに引き入れるようになって、ようやくDRACの現状がハッキリと伝わるようになって来たのだった。

71年の春にはすでにDRACのクラシックグループは、有名無実となっていて、N谷も幹事長とは名ばかりの、いわばノーカン状態であること。
JAZZグループが、細々とグループ活動を続けていること。
リーダーが、女性でH田であるということ。
新入生の女性のサークル員が数名入部したということ。
JAZZグループはやってはいるが、「ウエザーリポート」はJAZZか?などというくだらない議論をしていて、およそ研究とは呼べないことなどが断片的に伝えられるのだった。

このままではクラシック音楽研究会としてのDRACが滅亡し、変わりにタイトウしつつあるロックの連中にサークルが乗っ取られそうであるという危機感から、先のブログでの「BOXの扉に模造紙で書いた檄文」となるのである。
71年、われわれの世代は殆どが卒業し、京都を去っていったが、小生とK田は京都にまだ居た。
小生とK田が相談して行ったことであった。

しかし、それもむなしくF田はDRACを去り、小生とDRACの接点は、ここに終焉を遂げることになった。


71年、小生は下宿を岩倉から松ヶ崎の安アパートに移し、NOANOAをやりながら、F田や他のバイトの連中、そして白沙村荘の庭園の関係に従事する女学生達と交流を続けていた。

この頃庭園でバイトをしていた女子大生の友人が今の家内である。
また白沙村荘で事務員として働いていて、小生とは姉と弟のような関係で交流のあった女性が後にK田の奥さんとなる。

それまでの場所「お菜ところ」は、総ヒノキ作りで関雪の日本画のギャラリーとし建てられたものを、お晩材と酒を提供するシャレた店に改造したもの。
関雪の息子節哉のお嫁さん「田鶴子」さんがやることになったのを手伝っていた。

田鶴子さんは鹿児島県知事の娘という、由緒正しい人であったが、非常に気さくで仕事が終わると大抵一緒に近所の見せに飲みに行っていた。
樺山 愛輔の次女白洲、正子とは顔見知りの中であった。

お菜ところは、昼は観光客が多かったが、夜になると白沙村荘縁故の人たちが集う、ある種文化芸術のサロン的雰囲気が漂うような装いを呈した。

小生の文化芸術に対する興味がより深まったのは、この白沙村荘における日々によって培われたところが大きい。

陶芸家、詩人、作家、脚本家、画家、蔵元、有名な漬物屋、有名な寺の館主、美術館、博物館の館長、大学教授、劇団俳優などなど、あらゆる文化芸術関連の顔がいつも見える毎日で、時には話しに引きずり込まれたり、お酒の相手をしたことも数え切れない。

白洲正子さんと会ったのも、小山富士夫さん、女優のI・Nと知り合いになれたのもこの白沙村荘時代であった。

関雪のコレクションギャラリーとして作られた洋館を改造し、NOANOAをやったのは71年春のこと、京都で最初の「ピザとスパゲッティ」・・・イタリアンレストランとして好評であった。

もともと料理は好きで、中学生時代から大抵のものは自分で作っていたが、店で料理を提供するとなると話は全く違ってくる。
しかし自分の思うとおり店を任せてくれたから、張り合いが出て積極的に勉強した結果、本科的トマトソースと、ブイトーニそして完全手作りのピザ生地と、オランダ産ゴーダチーズのピザは、今でもその味を凌駕するものにはお目にかかれないほど美味しかった。

イタリアには行った事も無かったが、後にアルバイトに来ていた浄土寺の老舗のケーキ屋の息子O前が、新婚旅行でイタリアに行き、ナポリとローマでピザを食べたところ、NOANOAのピザの味にソックリだったのに驚いたという話をしたことがあるから、まんざらでもなかったのだろう。

利益製を気にせずに、ただ美味しいものを提供するという、殆ど素人同然のやり方であったから、今のピザのように、バリエーションはあっても、中身のウスッペラなものとは違い、満足度は高かったと自負しているが、利益は薄かったことだろう。
それでもそこが白沙村荘らしいところで、白沙村荘の庭園や美術品を鑑賞に来たお客に食事を提供するという、コンセプトがあったから、そのようなことが可能であった。

トマトケチャップと炒めた麺の「ナポリタン」が殆どの時代に、イタリアントマトを使用した本格的トマトソースとブイトーニの茹で上げスパゲティが不味いわけは無く、誰もが感激して食して行った。

小生が洋館の改装デザインを手がけ、初代チーフとして開発したNOANOAの料理が、時代とともにモディファイされたとはいえ、40年以上たった今も、京都銀閣寺畔の白沙村荘の中で、立派にその伝統の味を保ちつつあることはうれしいことである。

白沙村荘でのいろいろな体験のことは、一部先のブログに記載したが、いずれ改めて詳しく書いて置くことにしたい。
ここでの体験は、小生にとっては随一の大きな人生経験であり、文化芸術の中にドップリと漬かった日々であったから、今までの人生の中に占めるその影響は計り知れないものであった。

1972年の春、小生は京都から名古屋に帰って、お城の見えるホテルNCで働くことになる。

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by noanoa1970 | 2007-09-22 10:03 | DRAC | Comments(2)

DRAC興亡史・・・1967~71その27「1969夏から1970」

≪1969夏以降≫

合宿終了後、小生は実家には数日しか戻らなく、すぐに京都に帰った。
BOXは当然誰もいなくて、文連がロックアウトを手伝った至誠館に入ると、そこにはM、S村、そして先輩のO田がいるではないか。

小生は彼らから、「情勢」を聞き、一方合宿での話をした。
彼らはロックアウトを監視しつつ、至誠館に寝泊りしており、大学側から水道やガスを止められていて、トイレの悪臭がどこからか匂ってくる中にいて、O田はなぜか至誠館の全てのマスターキーを持っていて、教授連中の使っている個室の研究室のドアが、全てそれによって開くことを見せてくれた。

小生は名前を良く知る経済学部の教授の部屋に入ったことがあるが、分厚い百科事典のような背表紙のマルクスの「資本論」がすべて揃っていたことを覚えている。

そのような状況下、BOXの鍵をもらいに受け付けのいつものおじさんのところに行き、鍵をもらおうとすると、鍵はもう渡してあるという。
しかし先ほどBOXに行っても、BOXは鍵がかかったまま誰もいなかったから、誰かがBOXの鍵を持ったまま外出しているのだろうと思っていたのだが、何時までたっても鍵は戻らなかった。

BOXのある別館と呼ばれた建物の管理は、以前からかなり杜撰で、大学から拠出されるサークル運用資金の中から管理費を出して、人を雇っていたのだと思われるが、鍵を渡すのにサークル証、学生証などは有名無実となっていて、小生などは顔パスで鍵を受け取ったことが何回もあったから、押して知るべしであった。

新学期が始まったとはいえ、相変わらずロックアウト状態は続き、キャンバスもガランとしている状態は変わらなかったし、DRACのメンバーも、日本音楽Gの5人ほどが顔を出したに過ぎなかった。

夏休みの間にBOXの鍵が誰かに持っていかれたままになったことと、殆ど誰も来なくなったBOXにあるオーディオ機材をそのまま置いておくことのリスクを考えて、、すぐに持っていけそうな金目の「アンプ」を一次預かることにし、その代わりにBOXではなく少なからずDRACのサークルメンバー達がいる至誠館に、自分のオーディオ装置を下宿から運び、そこで研究会を実施することに決めた。

その一室は、DRAC所属のメンバーが、立てこもって常駐する場所でもあったから、BOXよりは逆に何かと安全だし、彼らとも話ができるから、日本音楽グループの研究活動はロックアウト下にあっても続ける・・・というコンセプトで再開したのだった。

そのような小生の勝手な思いだったにもかかわらず、昔のメンバーに新規メンバーが数人加わってグループ活動は続いていった。

小生自身も、あるときはグループリーダー、あるときはデモをし、あるときは学生運動活動家達と話す機会を得るために、至誠館に泊まっていくこともあり、晩秋までそのような毎日が続いていった。

その頃小生は中村雄二郎の「現代情念論」という本を読み、非常にに感銘を受け、同時に当時文連の諸氏の間で流行っていた、橋川文三の「日本浪漫派批判序説」、磯田光一の「比較転向論序説」、桶谷秀明の「土着と情況、そしてルカーチ、ゼーガース、ブロッホの「表現主義論争」から得るところが多く、特に中村雄二郎の「情念」そして「美と政治との間に」という著述は、吉本隆明以上に影響を与えてくれ、それらから日本の国際主義とナショナリズムと文学、芸術のかかわりと、日本人が持っているであろう「日本的なるもの」と非日本的なもの、それらが示す音楽上の諸相について興味があったので、それを研究会の主眼においていた。

それ以外では、北壮夫の欝時のエッセイや小説と、福永武彦の小説はすべて読んだ。
そして、これらのことが、研究会を進めていく原動力となっていたのは、ほぼ間違いないことであった。

「日本的なる物をめぐって」という大きな課題は、橋川の「日本浪漫派批判序説」から保田與重郎へと、小生を向かわせ「日本の橋」「現代奇人伝」をも読むようになり、日本の伝統への回帰・・ナショナリズムについて考えるようにもなっていた。

ナショナリズムを批判する側の根底に、ナショナリズムがあるのではないかというようなことに、朧気ながら気づいたのも、その頃であった。

(今思うに、当時の学生の中には、反右翼、反権力的なものと同時平行して、反日本共産党があり、それが反民主青年同盟→非日本共産党系のセクト、あるいは全共闘活動に参加し活動したもののパワーのひとつの要因であったと思われる向きもあるようだ。
日本人と共産主義思想は、理屈では理解を示せても、感性や日本人が根本的に持つ情念的意味では、決して相容れない異質の考え方なのだろうという気がしている。)


しかしそんな中、学園闘争は徐々に激化し、同時に同志社では主流のセクト、「ブント」の党派内抗争が勃発していった。

Mから機動隊が導入される可能性があるから、ここでの研究会はやめたほうがいいという助言があったこともあり、さらに始めは7人ほどいたバリケード内の研究会も、だんだん減っていき、4人を数えるほどとなっていたので、ここは潮時と思い研究会を一時中断することにした。
学友会執行部を実質握っていた赤ヘルの社学同:「ブント」の内紛騒動が活発となり、学友会執行部と全学闘執行部はその影響を多分に受けたのではないかと思われる。

学内派閥抗争を危惧した学校側が、今まで聖域とされてきた同志社大学のキャンパスに、機動隊を導入して、バリケード封鎖を解くという行為に出るという話であった。

至誠館には此春寮の活動家や2部の活動家もいて緊張した空気が流れ始めていた。

ここにおいてDRACの研究活動は、すべてが休止状態に陥り、至誠館から退去してしばらくして70年安保闘争の敗北が決定的となり、セクトの親玉と大学側の「ボス交」・・所謂談合が行われ、(噂では、学友会を独占していたあるセクトに、大学側から金がかなり動き、結果ロックアウト解除となったようで、それらのことに対して、今まで真摯に活動をしてきた活動家達がつき上げ、セクトの分裂に発展し社学同は関西派などに四分五烈していき、「赤軍派」へと発展した。

そしてMは「初期赤軍」のメンバーとなった。

Mは、同志社の初期赤軍派にその身をおいた一人であった。
Mと小生はそれでも日常の行き来は頻繁に有って、三里塚へ行くための交通費支援をしようと思い、そのときBOXから小生が安全のために勝手に預かっていた山水のアンプを質屋に持って行き、7000円の質札に換えた。

Mは、そんなことはする必要ないというのだったが、小生はその頃バイトをしていたから、すぐに返す当てがあったので「心配せずに使ってくれ」と、少し格好をつけて渡した。

それからしばらくしたある日、突然小生の下宿にM畑と、A馬がやってきて、「アンプを持って行ったそうだが、どこにある」というのだった。

「しまった、質屋から早く出しておくべきだった」と悔やんだが、その時はまだ質屋に入ったままだったから素直に「今質屋に入っているが、もうすぐ出そうと思っていたところだ」というと、泥棒を見るような目つきをして、小生をなじるのであった。

「お前達役員会をスッポカし、DRACを辞めたような人間に、そんなことを言われる筋合いは無い」、「役員会も、合宿もボイコットしておいて、ほとぼりが冷めたら、何食わぬ顔をしてまたDRACに戻るつもりなのか」と、突っぱねようと思ったが、その理由が何であれ、サークルの財産を勝手に質に入れ、しかもその理由は伏せておかねばならないからここは素直に謝り、すぐに質屋に行ってアンプを出して彼らに渡すことにした。

役員としての責任を取らない彼らが、そして長い間BOXにも寄り付かないで居た彼らが、何故今頃になって、アンプを取り戻しに来たのか・・・よくわからないが、学園紛争も落ち着きを見せ始めた頃、再びBOXに来てアンプが無いことに気が付き、その頃まで周辺に居た連中に聞いて回って、小生にめぼしを付けたのだろう。
確かにS村には盗難の危険があるからアンプを預かっていることを話しておいた覚えがある。

質屋に入れたのはまずかったが、そのアンプもその後何時しかなくなってしまったらしいから、M畑、A馬がその後どのように管理したのかは不明のままである。
正義感からなのか、グループ活動再開という目的があってのことなのか、小生が個人的に流用するとでも思ったのだろうか。

その後彼らがグループ活動を再開したという話は聞いたことが無いから、単にサークル所有のものを個人で預かる状態に置いておくことはいけないことである・・・というような一般常識のなせる業だったのであろう。(アンプを預かった理由を話す気にもなれなかったので、誤解されたままになっていることだろう。バリケードの中の研究会など、彼らには想像もつかないことだから。)

とにかく、質に入れたことで、「盗難の危険性のリスクヘッジ」という小生のロジックは、見事に崩れたのであった。

その後、もうすぐ年度変わりという3回生後半のときのDRACは、2回生(次期3回生の)A田が半年余りの短期の幹事長となり、3回生になるとやがて2回生にその座を譲るという状態で、ほとんど執行部体制も無いような形式的なサークル組織であった。

小生はA田が幹事長になった1970年4月頃にDRACから離れ、バイトに精を出しながら、つぶれてしまった同志社学生新聞局を復活すべく、その方面で力を発揮しようとしていた。

これは先輩のO田の強力何誘いがあったのと、何らかを表現することに飢えていたことも合って、別館2階にあった「新聞局」のBOXに足を運ぶ毎日が続いた。

新聞局がつぶれたのは恐らく、学友会の主流であったブントの内部抗争が影響したものと思われ、
荒れた新聞局BOXには旧新聞局のメンバーは、誰一人として残ってはいなかった。

小生は、新聞発行などは、大昔の学級新聞をやったのみの素人だったから、京大の新聞部OBから手ほどきを受けながら、記事集めに奔走し、紙面の構成を考えた。
O田が「コラム」をすべて任せるというので、「ダス・ボルト」=「言葉」という名前にし、第1回のコラムを、新聞局宛に来た試写会のチケットを手にして観た、アントニオーニの難解な映画「砂丘」“Zabriskie Point”について書くことにした。

しかし難解すぎてよくわからなかったので、劇伴音楽として流れるサウンドに時々「ピンク・フロイド」と表記されるのを見て、イギリスのプログレの元祖ということを知り、その音楽について重点的にコメントすることにした。

しかしO田には「ピンク・フロイド」は理解されず、かなり文句を言われたが、小生はそのまま第一回のコラム「ダス・ボルト」として掲載した。

このとき復活新聞局発刊第1号のトップは、学友会の委員長だった「矢谷暢一郎」が、此春寮のある人間に託していった、68年から69年にわたる学友会活動総括の長い文章であった。

70年春、彼はすでに大学から姿をくらましていて、行く先不明の状態であったようだが、闘争の一時終焉における彼自身の総括は、掲載すべきであるという判断から第一面に持ってきたのであった。

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by noanoa1970 | 2007-09-21 09:02 | DRAC | Comments(0)