<   2007年 08月 ( 37 )   > この月の画像一覧

ビギンは舞踊音楽だ

先のブログに、「黄昏のビギン」を、我がオールディーズの一つとしてエントリーし、「ちあきなおみ」のyoutube動画をリンクしておいた。

この「ビギン」とは、ダンスをやっている方、JAZZ・・・特にボーカルが好きな方なら「BEGIN」ではなく、コールポーターの「BEGIN THE BEGUIN」の「BEGUIN」であることをご存知だろう。
すなわち
「始まり」という意味の「ビギン」=「BEGIN」でなく、ダンスのリズムの「ビギン」=「BEGUIN」であることを。

「ズチャーチャズチャズチャ」というリズムパターンの4拍子で、シンコペが特徴のスローなダンスミュージックである。(ちあきなおみの動画を参照されたし)

youtubeには「夏川リミ」という沖縄の歌い手の同じ曲があるが、こちらは「ビギン」のリズムを大幅に変えた編曲となっていて、シンコペも1あるいは2拍目が常道であるのに、3拍目にアクセントを置くから、原曲の「ビギン」のよさを無視した曲となっていて、「ズーチャチャズーチャチャ」というまるで「ルンバ」のようになってしまっている。おまけに最悪なことは、中間部の大切な「ブルーノート」を全音階的に歌ってしまっている。

歌は上手いのだが、このように編曲されると折角のオリジナルの「ビギン」が台無しである。

その点、「ちあきなおみ」の歌は「ビギン」のオリジナリティを忠実に守って、しかもシットリと見事に歌っているから賞賛に値する。重要だ(と、小生が思っている)「ブルーノート」の表現も見事だ。

近年ではこのように形式と内容が全く乖離したような編曲や作曲が多い。
ちなみに、小生の嫌いな歌い手「Gひろみ」が歌った「お嫁サンバ」は、決してサンバなどではない。

もともとビギン「beguine」は、カリブ海にあるマルチニーク島やセントルシア島で、伝統的に踊られる速い2拍子のダンス音楽を指していたが、其れが欧米に入って「社交ダンス」化されたときに、スローな4拍子の音楽に変身したらしい。

JAZZでもクラシック音楽でも、その曲のルーツの重要な要素の一つが、古い伝統的な民族の踊りのパターンであることは、とても意味があり重要なことなのだと思う。

例えば、ジッターバグ=jitter bugという音楽は、虫がバタバタあがいている音であると同時に、プログラムミスやノイズをあらわすコンピューター用語の一つにもなっているが、同時に民族舞踊がそのルーツだし、クラシックの「ジーグ」あるいは「ジグ」も、そのルーツはアイルランドの民族舞踊である。

以下のような記述がある。
jitter bug:元々は、奴隷が足に鎖を付けたまま熱い鉄板の上で踊った踊りと言われています。
1920年代、ジャズが大衆化された中、女性を左右に振る「リンディホップ」というステップが流行り、段々と複雑化され、「ジッターバグ(南京虫)」という名前で踊られていた。この「ジッターバグ」が日本では「ジルバ」、イギリスでは「ジャイブ」と呼ばれたそうです。

大バッハの管弦楽組曲に代表される
クーラント
ガヴォット
フォルラーヌ
メヌエット
ブーレ
パスピエ
ポロネーズ
エール

これらは、非クラシック分野で使用されることが多い、(ボレロ)、タンゴ、マンボ、ボサノバ、サンバ、チャチャ、ワルツなどと同様、全て民族の舞踊のリズムパターンを取り入れて発展してきたもの。
クラシック音楽の中には、じっさいには踊ることのない・・・演奏会用に作曲されたものも多い。

JAZZ、そしてクラシック音楽における伝統的民族舞踊のしめる割合はかなり多く、民謡とともに小生の音楽的重点課題の一つで、この先が楽しみである。

コールポーターの「BEGIN THE BEGUIN」の歌詞は
When they begin the beguine
It brings back the sound of music so tender,
It brings back a night of tropical splendor,
It brings back a memory ever green.
I'm with you once more under the stars,
And down by the shore an orchestra's playing
And even the palms seem to be swaying
When they begin the beguine.
To live it again is past all endeavor,
Except when that tune clutches my heart,
And there we are, swearing to love forever,
And promising never, never to part.
What moments divine, what rapture serene,
Till clouds came along to disperse the joys we had tasted,
And now when I hear people curse the chance that was wasted,
I know but too well what they mean;
So don't let them begin the beguine
Let the love that was once a fire remain an ember;
Let it sleep like the dead desire I only remember
When they begin the beguine.
Oh yes, let them begin the beguine, make them play
Till the stars that were there before return above you,
Till you whisper to me once more,
Darling, I love you!
And we suddenly know What heaven we're in,
When they begin the beguine

以上の内容から、別れた人ともう一度、縁りを戻してやり直そう・・・などと読むことができ、「BEGIN THE BEGIN」・・・最初から始めよう、すなわち「もう一度やり直そう」・・・昔一緒に踊った「BEGUIN」を、ここでもう一度一緒に踊って。」
「 BEGIN」と「BEGUIN」の音の響も・・・内容もそして形式も見事にあわせた巧みの技の詩と音楽である。


[PR]

by noanoa1970 | 2007-08-31 09:01 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

我がオールディーズ

先の日曜日、木曽からの帰り道に、FMで「和幸」が出演し、彼らの最新アルバムを聞コメントとともに、全曲聞かせる番組をやっていた。
「和幸」とは、フォーク・クルセダーズやサディスティック・ミカバンドの加藤和彦の「和」とフォークの若年寄、あるいは「アルフィー」のリードギターとボーカルをやっていたひょうきんものの、坂崎幸之助の「幸」をあわせた・・・・即興バンドで、アルバムは往年のミュジシャンたちのパロディでできている面白くそして音楽性あるアルバムだで、リリース前のお披露目だという。アルバムタイトルを「ゴールデン・ヒッツ」という。

d0063263_1459261.jpgS&G、バカラック、マージービートのピーターとゴードン、ビートルズ、、高田渡、ビージーズなどかってのゴールデン?ヒットや、彼らのリスペクトする音楽家の曲を、冗談を交えながらオリジナル曲と彼らのパロディ両方を聞かせるというとても面白い企画だった。

アルバム解説を引用すると、以下のような特徴があって、本人達も番組で言っていたが、録音は全てアナログ382トラだったと記憶するが、テープレコーダーを使ってやったというこだわりを見せる。
曲目は50年代から70年代のアルバムタイトルにも有るような「ゴールデン・ヒッツ」といっても、かなり渋い選曲のものばかりであった)

↓以下引用
≪「KAZUKOH」はJohn Kazukoh とPaul Kazukohとでなるデュオであり、全ての楽器を自分たちでこなすが、スタジオでのミュージシャンとのセッションを好んだ。‘60年代当時の音響環境は必ずしも良いものではなかったが、革新的な音作りを目指していた彼らは、色々なことを試みたようだ。したがって、彼らの音楽性は掴みにくく、多岐に富んでいるため、評価が分かれるところである≫

中で小生が取り分けて耳に止めたのが
50年代に、「黒い花びら」で大ヒットを飛ばし、小生は歌詞もメロディも、いまだに良く覚えている水原弘という歌手が歌い、これも小生が名曲だと思っている「黄昏のビギン」という歌であった。

90年代に「ちあきなおみ」がリメークしたものをCMで使っていて、懐かしいと思ったことが幾度もあった。

永六輔作詞、中村八大作曲・・・名コンビによる、これは名曲といっていいだろう。

雨に濡れてた 黄昏の街
あなたと会った 初めての夜
二人の肩に 銀色の雨
あなたの唇 濡れていたっけ
傘もささずに ぼくたちは
歩き続けた 雨の中
あのネオンがぼやけてた
雨が止んでた 黄昏の街
あなたの瞳に 写る星影
夕暮れ晴れた 黄昏の街
あなたの瞳 夜にうるんで
濡れたブラウス 胸元に
雨のしずくか ネックレス
小刻みにふるえてた
二人だけの 黄昏の街
並木の陰の 初めてのキッス
初めてのキッス

「ちあきなおみ」の歌がyoutubeに有ったのでリンクしておく。是非聞いていただきたい。

中間部で転調したときの「ブルーノート」の使い方が秀逸だ。
この歌での「ちあきなおみ」はとても味があって、しかも上手だ。彼女の歌唱力は見直されるべきなのかもしれない。決して「いつものように幕が開き・・・」だけの「ちあきなおみ」では無いと確信した。

昭和33年すなわち1958年に作られたこの曲は、それから10年後1968年あのGSの歌としてパクられてしまったように思っているのは小生だけだろうか。
「スワンの涙」:H本淳作詞、T美京平作曲が其れである。
ご存知の諸氏は聞き比べてみて欲しい。

君のすてきな(シャラララ) ブラックコート(シャラララ)ふたりで歩く(シャラララ) 坂道に(シャラララ)と、「オックス」が歌ってヒットした歌であるが、「黄昏のビギン」とメロディもリズムも、転調もほとんど同じである。
当時は問題にはならなかったが、これは指摘しておかねばならないだろう。

しかし「黄昏のビギン」これは実に名曲だ。

次回は「ビギン」について少々。

[PR]

by noanoa1970 | 2007-08-30 15:25 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

DRAC興亡史・・・1967~71その9「暗躍」

≪DRACの理念と旧執行部の暗躍≫

この頃文連では趣味のサークルからの脱皮が叫ばれ、平行して「文化創造」の実施という理念が幅を利かせるようになり、新3回生のKM田氏は2回生時代から、DRACとしては珍しく、そして初の文連の委員長の任にあった。

彼は幹事長T海林氏と親しかったから、そしてDRACのサークル活動事態にはかかわれない立場でもあったから、文蓮委員長の目で見た同期の諸氏の扶外なさに、閉口しているところがあったようである。

超マニアック派と、趣味の楽しい音楽鑑賞サークル派、そして2人の活動家という玉石混合世代にサークル運営を任せなければならない危機感は、新4回生の旧執行部諸氏に多分あったことだろう。

実は彼らの中でも過去に、執行部体制の争いがあったようで、文化創造、研究活動などを影で否定する立場の人、そしてあくまでも研究サークルとしてDRACを位置づけ、今で言うところの情報発信を積極的にやっていこうとするもの。

大きく分けるとこの2つが有ったが、このような内部矛盾や意見の違いを残したまま、執行部体制は変わっていったが、そのような理念の下での適任者だけでは賄えない・・・・「音楽史的に配列されたグループ」(これこそが諸悪の根源であったと思うのだが、当時は誰もそれに気がつかなかった)
のリーダーは、考え方がバラバラなまま入り乱れていて、その結局グループ活動は、リーダー個人の技量=音楽をよく聞いていてよく知っていること・・・メジャメントはレコード所有数的なところが合った事は事実であろう。

このような体制で進んだ活動だったが、案の定途中で息切れを起こし、細かく分かれていたグループ体制を、新しい理念の元での活動に賛同する仲間達で実施すべく、楽しい音楽鑑賞派のエキスパート達を書いた後のグループ再編成の結果、バロック、古典、ロマン、「日本音楽」として絞ることにしたのだと思われる。

[PR]

by noanoa1970 | 2007-08-30 09:22 | DRAC | Comments(0)

DRAC興亡史・・・1967~71その8「研究か鑑賞か」

≪新旧世代の見えざる確執と執行部体制≫

しかし2年以上の先輩となると話は別で、2回生の一部とは同格であるという変な意識があったが、3回生以上の先輩には従順であった。
また2回生の大半が現役入学で、浪人した2回生は「S水」という、同じ苗字のマニアックな2人の先輩を除けば、多くはなかった。
この2人の「S水」は、今で言う「オタク」の元祖で、一人は「モーツァルト」フリークで音盤収集もDRACでは恐らく1番で、三条河原町のレコード屋「十字屋」でバイトもしていた。
同じ頃、後に関西の音楽評論家「デーヤン」というニックネームで人気の出た「出谷啓」氏も同様十字屋の店員であった。

もう一人のS水は、オールラウンダーで、それぞれの分野で一過言を持ち、時期幹事長と目された人物。大阪の自宅に遊びに行ったことがあるが、オーディオ装置もコレクションも、物凄いものがあり、多くの音楽関係の書物も読んでいるようで、この2人の2回生は、2回生の中で少ない先輩として尊敬に値する人だった。

後の2回生徒は、なぜか事なかれ主義者が多く、文連の委員長になったKM田とT橋を除けば、後は美人の2人のお嬢さんが人目を引くだけであった。

このことが原因かどうかはいずれ聞かなくてはならないが、翌年われわれが2回生になるというとき・・・今までの執行部位は4回生となって後輩に任を譲るのだが、そこである事件が起こった。

新4回生で、旧執行部の幹部達は、なぜか1年後輩に執行部を任せるのを嫌った気配があって、時期幹事長他、新執行部の選定に当たって、密室会議をやったらしいのである。

現役と浪人の確執の見えないパワーが働いたことはあったようだが、そんな理由だけではないようで、普通であれば、新3回生が新執行部となるのは当然なのを、どうもまとまりがなく、一部の超マニアックな・・・今で言う「オタク」はいても、後のメンバーに「研究活動」を展開していくパワーがないことに気づいたからなのだろうか、あるいはこのまますんなりと新3回生に執行部を譲るよりは、DRAC活性化のために対立軸を立てて、結果選ばれたる者が執行部を握る体制を作りたかったのか、あるいは先の関係性において1年下が執行部では自分達の思い(研究、文化創造)が達成できないと思ったからなのか。

まるで今の政治政党の古参のご意見番のように動いて、われわれを焚き付けるのだった。

[PR]

by noanoa1970 | 2007-08-29 15:17 | DRAC | Comments(0)

DRAC興亡史・・・1967~71その7「DRACの人間模様」

≪2回生追放事件の序奏:現役か浪人か≫

話を1967年に戻そう。

入部したのはいいが、至急どこのグループに所属するかを決めなければならない。

新人は約30名ほど、あるいはもっと多かったかもしれないが、面白いのは新人でも一浪のものと現役で割りとハッキリ区別がついたことである。
学生服を着ているものはほとんど現役入学、ブレザーや私服のものは、ほとんどが浪人で、顔つきもなぜか少しひねている。

小生は浪人をして入学して、その頃ブレザーなるものを着ていたし、自分ではそうは思わないが顔も多分ひねていたのだろう。

会合で、小生の斜め前に座ったある男・・・その男もブレザーを着ていてひねた顔つきをしているので、小生はテッキリ1年先輩だとばかり思っていたのだが、後で聞くとその男も小生を1年先輩だと思っていたというから笑ってしまった。
その男がM畑だった。

現役と浪人出の入学・・・同じ学年でも何か微妙な空気が流れていて、其れは先輩達2回生、3回生の間でも流れていたのではないかと思っている。

当時執行部は全員が3回生によって組織されていた。
また小生たちの学年で浪人したものは、2回生の現役入学の先輩を多少なめてかかることがあったような気がしているが、これは同時代意識の微妙な反映であったのかもしれない。

だれかれとなく現役?浪人?という問いかけが、陰日なたに存在していたようで、このようなことは体育会や文化サークルでもプレイヤーの・・・演劇とか交響楽団とか軽音楽とかグリーとかでは恐らく決してなかったことだと思うのだが、自らプレイをしない文化活動集団のいやらしさなのか、プレイヤー集団のような徒弟制度の、あるいは先輩後輩という確固とした階層意識は、個人の技量あるいは常識の範囲であるにはあったが、組織における先輩後輩という1年違いの関係性においては、なし崩し状態でもあった。

[PR]

by noanoa1970 | 2007-08-29 09:57 | DRAC | Comments(0)

DRAC興亡史・・・1967~71 「インテルメッツォ3」

その話に移る前に当時の3回生を思い出せる限り書いておくことにする。
執行部三役にはかなり触れてきたので、まだ登場してない方を少々。

OK田は、大山崎というところに住む会社社長の息子で、仲間からは「OKぼん」と呼ばれていた。所有の音盤も、オーディオ装置もかなり凄いものがあったらしいが、小生とは余り個人的な付き合いのなかった人だった。
とても気がいい人間で、確か庶務の役員をやっていたように記憶する。

S田は、ダンディ男の典型で、かなり気取っていたように目に映った。ロマン派のピアノ音楽に精通していて、シューマンの「蝶々」を好んでいたと記憶する。OK田もS田もどちらかといえば、楽しい鑑賞サークル派だったから途中からBOXに余り寄り付かなくなった。

S下という人は理論派でT海林幹事長と気が有っていたらしい。楽しい音楽鑑賞派ではないものの、執行部の恣意的なようにみえる「研究サークル」理論に苦言を呈していて、小生が一目置く存在であった。後に自分で書いたものを出版して、70年代の半ばにBOXにやってきて、小冊子をおいていったと聞く。

Y田Sは、小生と同期で同じグループのK田が強く憧れを抱いたフランス音楽のエキスパートで、その頃はすでにDRACを辞めていた、3回生の知的美人で活発な女性M木をF田と奪い合って、結局Y田が勝利をおさめたという噂が立った人物。
自らピアノを弾き、他のサークルメンバーを小バカにしたようなところがあった。いつも不真面目なところを自分で演出していたから、小生は余り好きではなかったが、時々ハットするようなことを言うことがあった。
K田とキャンバスを歩いていると、Y田に出会ったことがある。
するとY田は「お前らまだあんなショウもないDRACにおるんか、早く辞めたほうがいい」と嘯くのだった。

M木にもキャンバスで行き会った事があって、K田がよせばいいのに、「DRACってどのように見えますか?」などと質問すると、M木ははっきりとした口調で「なんや、マスターベーションをしてるみたい」と言い放ったことがある。
小生とK田は美形の女性がそのような単語を堂々と使ったのにビックリ仰天、そういわれてしばらく開いた口が塞がらなかったことがあった。

IN上はとてもオペラが好きな人で、モーツァルトは勿論、フンバーディングなども当時から聞いていて相当知っていたが、何しろ「楽しい鑑賞派」の典型だった。
それでも結構BOXに来ていて、われわれとよく話す機会があった人だった。

O田は当時文連の常任委員を後輩KM田に譲ったが、DRACでの活動よりも他での自己アイデンティティを見出していた人で、寮に住んでいたからか活動家達との面識があり、セクトには加わらなかったが、後にDRACから出た活動家のMが捕まったときに、救対活動に加わったり、同志社新聞局がつぶれた後、小生と一緒になって新聞局を再建した男である。
総会のときに「緊急動議」と叫んで執行部に前年度のレヴューを催促したこともあった。
哲学専攻で7年間在籍したが、現在音信不通となっている。
なかなか味のある男であった。文筆活動を盛んにやっていて「やはり」を「矢張り」といつも書くことが特長だった。(小生は、彼の引越しの手伝いで、トラックを借りて運転手をしたことがあって、よくお邪魔をしたことがある。奥さんが美人だった。)

K嶋は妙心寺の裏手に住む京都が実家の商学部の男、執行部三役は全員商学部だったことや、実家の裏の別棟に一人で住んでいたから、マージャンをやるのに都合が良かったらしく、そこでの集まりが多かったから、小生との接点も多かった。
彼は音楽サークルとしてDRACを捉えているのではなく、違う何かがあるような感じが常にしたが、いまだに其れが何であったか分からない。面倒見もよく気がつく人でもあり人気が有った。
後に佐賀出身で、ダダイズムを標榜し、それに影響を受けた諸氏も多かったS井を入部させたのも、K嶋の手配だった。低迷のDRACに新風を吹き込ませるのが目的だったとはK嶋の後日淡である。

M村はグループも一緒だった女性の先輩で、何しろ怖かったのを覚えている。
女性というより、怖いお母さんという感じで、いい加減な言動をすると、こっぴどく怒られたものである。良妻賢母タイプの古い日本の女性像を絵に描いたような人で、編集の才能は類稀だった。

HI口はなぜか小生を当時から高く買ってくれていて、DRACの新入生の中でものが分かっているのはお前だけだ・・・なんてことを言ってくれるから、とてももうれしかった覚えがある。
彼はどうしてかは分からないが、ある日突然、左翼政党の青年組織で活動するようになっていて、文連の執行部役員からDRACはどうなってるんだと評判になって非常に困惑していると、DRAC出身の当時の文連委員長KM田がボヤいていたのを記憶している。

N道は小生と同じ日本音楽Gに所属して、渉外の役員でもあった。なんにでも気がつく非常に面倒見のいい人で、会合や合宿の手配、外部との接触交渉は、彼の手腕になるところが大きい。神戸出身で彼は現在もOB会の常連である。


当時4回生は余りBOXに来ることはなかったが、それでも現れたときには、3回生が先輩諸氏も緊張していたから、われわれは直立不動状態だった。

K寺さん、AK石さん、M谷さん、YS田さん、まぶしいぐらいの2人の大人の女性、NKさんとAS岡さんが時々顔を見せた。
彼らは雲上人であった。
NKさんは背が高くとても愛くるしい人で、笑うとできる靨が印象的な人だった。
SA岡さんは、小柄で少しはにかみやだが、いつもニコニコして可愛い女性であった。
NKさんとはネットで再会し、彼女自身のブログも紹介していただいて、今もやり取りをしているし、M村さんは小生のブログを見てコンタクトを取ってくれた。他にM田さん他3名の先輩女性がいたが名前を思い出せない。
おととしのOB会で、K寺さんとは40年ぶりで再開したのだが、当時と全く変わってなく、小生の名前をいまだに覚えていてくれたのには驚いてしまった。


かくして、われわれ新入生が2回生になろうとする春に、其れは起こった

≪新3回生追放事件の始まりである≫

[PR]

by noanoa1970 | 2007-08-29 08:59 | DRAC | Comments(0)

贅沢三昧

少し涼しい今日、一昨日木曽で頂いてきたトウモロコシを茹で、プチトマトでトマトソースを作って、好物のトマトだけのスパゲッティを作った。
「アイコ」という品種は、果肉がとてもシッカリしていて、イタリアントマトをそのまま小さくしたような形状とともに、食感がとても似ている。

普通のトマトも、中には美味しいものは有るにはあるが、市販のものはその味が大きくバラつくから、トマトソースを作るのに、香辛料などで味を調えないといけない場合が多いが、プチトマトなら甘いものが多く、何も加えないで美味しいトマトソースができるが、コストパフォーマンスが物凄く悪い。

大量の、しかも黄色の甘みが他のより数倍強い品種と、「アイコ」というトマトソースのためにあるような品種を沢山いただいたので、其れをふんだんに使ってトマトソースを作ってスパゲッティにした。

これは贅沢極まりない。トマトと塩コショウだけで、どこの高級イタリアンレストランでも味わえないような、美味しいスパゲッティができる。

麺は1970年のNOANOA時代から気に入っている「ブイトーニ」のロングパスタ1.5mm。これ以上太いものはトマトソースには向かない。
一般にアルデンテといわれるものよりも少し硬めに茹でる。
いつもなら、トマトのジュースで一杯になり、水っぽいから、かなり煮詰めて水分を飛ばすことになるのだが、ご覧のとおり、形も余り崩れないほどシッカリしてしかも濃厚だ。

今年は天候の加減でバジルの生育が悪くて、あいにくバジルがないままだが、それでも物凄く美味しい。

塩と胡椒とトマトだけのスパゲッティと
茹でたトウモロコシを一緒に本日のお昼ご飯とした。

贅沢三昧のお昼であった。満足!

d0063263_12564824.jpg
d0063263_12571657.jpg
d0063263_12573536.jpg

[PR]

by noanoa1970 | 2007-08-28 12:57 | 「食」についてのエッセイ | Comments(3)

木曽の夏の実り

今回の木曽行きは、お墓参りと、もう2つ目的があった。
その1つは先の木曽音楽祭だが、もう1つが桜の老木と記念碑のある、先祖の開拓地のある付近一帯を、「さきがけの里」と命名して、先祖の顕彰をし、足跡を後世に残すべく、この地をその象徴として管理運営したいという要望があって、その代表者と面談することであった。

昨年この木曽郡日義村は、付近の村と合併し木曽福島を筆頭にして、木曽町となった。
各集落ごとに、自治会組織ができ、先祖の地の付近は100件余りの住民による第9区世なった。

区ごとに何か特徴を出そうというわけで、桜の老木と記念碑の土地をシンボルにし、付近を・・・恐らく先祖の開拓事業を反映したと思しき名前、開拓の「さきがけの里」と命名し、俗に言うところの「町興し」風なものを狙ったと思われる。

区長から土地の主権者である小生に、土地の運用の話があって、詳しい説明を聞きに参上したのだった。

この地は小生の名義になっているとはいえ、その昔はここにログハウスを建てたり、将来はここに移り住んで、ノンビリ生活したいなどと思うことはあったが、今ではそのことも、かなり遠ざかってしまい、桜の保護や草刈などの管理を地元の方にお願いしている状態である。

数年前のこと、地元老人会の皆さんから、この地に花壇を作りたいという申し出があり、お願いしたのだが、ご老人達も本当に年を取ってきて、継続が難しくなってきたことも有って、其れを含めた今回の区長の提案だった。

区の本年殿実施項目にすでにこのことは載せてあるというし、話を聞いてみたが、懸念されるものはなかったし、決して悪い話ではなく、先祖のことがこの地の若い人たちに語り継がれていくことはいい話であるから、運用をお願いして来た。

小生の住むところから、かの地までは片道4.5時間かかるから、そうやすやすとはいけないし、犬がいるので宿泊はキャンプ場のコテージなどに限定され、オールラウンド体制が取れない。
日帰りとなるが、これはかなりきつくなってきているから、渡りに船的にお願いしたというわけだ。

区長とは遠い親戚に当たるということも分かり、いつも世話になっている方に挨拶した帰りにお邪魔することにした。

うれしいお土産を沢山頂いた。
地の野菜が余りにもおいしそうなので、UPすることにした。
トウモロコシは今が旬。
プチトマトも、黄色のものは物凄く甘いし、イタリアントマトのような形のものは「アイコ」という品種で、これも形にたがわず美味しいトマトだ。

苦瓜も、シシトウも、茄子も、オクラもいただいてしまった。
いつもJAによって探す好物の冥加が、今回はなかったので時期が悪いのかと思っていたら、ようやく大きい者が収穫できるようになったと畑に案内され、家内が冥加を沢山つんだ。
これは大変ありがたく、冷たい素麺や冷麦をブッカケで食べるときの、重要な薬味として大変重宝する。
d0063263_8422282.jpg
d0063263_8431392.jpg
d0063263_8434748.jpg


大降りの・・・直径が50cmある鉢に盛ってみた。
デザインと鉢の形状が気に入って京都の骨董屋で入手したのだが、余りにも大きすぎてこれはもっぱら飾りとなってしまっている。

「露草」らしき絵付けと藍の色がマッチした家内お気に入りの一品である。
d0063263_8345198.jpg
d0063263_836474.jpg
d0063263_8364383.jpg
d0063263_837360.jpg
d0063263_8373897.jpg
d0063263_83811100.jpg
d0063263_8383330.jpg

[PR]

by noanoa1970 | 2007-08-28 08:38 | トピックス | Comments(0)

DRAC興亡史・・・1967~71 「インテルメッツォ2」

軽井沢から新潟の旅の夏は、アクシデントがあったとはいえ先輩達とともに過した貴重な経験の始まりとなり、毎日のように通った洋食屋「のらくろ」は遠くなるが、数ヶ月後に下鴨の下宿を引き払い、K出副幹事長のいる上賀茂の賄いつきの下宿にT海林幹事長とともに移り住んだことで、ますます結びつきが強くなっていった。

下鴨の下宿は大家さんもいい人だったが、一つだけ問題があった。
其れは大家さんの亭主が夜勤だったため、日中は音楽を鳴らせなかったこと。
何かと世話を焼いてもらったが、心を鬼にして下鴨糺の森の下宿を去ることにした。

上賀茂の下宿は半分アパートのような下宿で、8人ほどの住人がいたが、その内DRACのメンバーが3人もいたから、少し大きな顔ができ、音楽を鳴らすこともできた。
いつも大抵誰かが来て、酒を飲んだり、マージャンをしたり、音楽を聴きながらいろいろ談義をしていった。
グループリーダーのF田も、K嶋も、O田でさえこの下宿にやってきていた。

小生の同期の連中は、先輩がいるのでやはり来づらかったのか余りこなかったが、なぜか1年後輩の連中はそれでも、時々やってきていた。

そんなわけで、新入生の中でも取り分けて執行部の先輩たちと親しい関係にあったから、いろいろ教えてもらったり、情報を与えてもらったり、執行部の考え方をいち早く理解できる立場にあったから、コミュニケーションが希薄な新入生たちの、執行部に対する誤解・・・とりわけ幹事長に対する誤解、の解消に回ることもたびたび有った。

夏季合宿が終わり、晩秋となって同志社大学の文化祭EVEの企画の折には、副幹事長のK出さんが中心となって大々的なオーディオフェアを実施した。
この企画は事前にK出さんに、それとなく「やりましょう」といったところ、即座に賛同してくれて、執行部で音楽喫茶の開設とともに企画に載ることになったものである。

大阪のオーディオメーカーとのタイアップ企画で、宣伝したい自慢の機器を無償で借り受け、切り替えBOXを作成し、所々切り替えながら観客に音質の評価を聞くというもの。

これには名だたるオーディオメーカーが、こぞって参加してくれて、10組以上のスピーカー、アンプ、レコードプレイヤーが勢ぞろいし、東京晴海でやっていたオーディオフェアのミニ版の様相を呈することができ、学生の間で評判となった。
運搬中に落としてスピーカーの角を傷つけたらしく、メーカーに謝りに出向いたこともあった。

もう一つのイヴェントとして、学生会館ホールでのレコードコンサートがある。
これも「クラシック音楽普及」の一環としてまだうら若き頭で考え出したもので、ポピュラー音楽とクラシック音楽の・・・うまりポピュラー音楽になったクラシック音楽と、そのオリジナルを聞いてもらおうというもので、知恵を出し合ってベートーヴェンとザ・ピーナッツ、ポンキエルリとナンシーシナトラ、バッハ、モーツァルトとスイングルシンガーズなどなど、ポピュラー音楽になってヒットした、クラシックのオリジナル曲を集めたコンサートだった。

このようなクラシック音楽の普及などという大それた命題も、そしてその実施方法も、かなりこじ付けだったが、当時はそれでもかなりまじめに取り組んだものだった。

「文化創造」という大命題は、かなり重くのしかかったのである。

夏季合宿、そしてEVEを経験しその間に「水コン」、機関紙pocoapocoの発行に寄せる記事を書いたりしながら新入生達は、大きく2つのグループに分かれていくのであった。

2回生も新入生の片方も、「お楽しみ音楽鑑賞サークル」人間は、そのころにはすでにBOXに来なくなっており、当初女性を含め約30人以上いたDRAC新入生は、半数近くに減っていた。
そして新入生が2回生になろうとする春、其れは起こったのだった。


[PR]

by noanoa1970 | 2007-08-27 16:22 | DRAC | Comments(0)

DRAC興亡史・・・1967~71 「インテルメッツォ1」

こうして入部したDRACだが、どのグループに所属するか散々迷った挙句、
今年から創設されて、キャンバスで小生を勧誘したF田さんが、国民学派を廃止して立ち上げることとなった「日本音楽G」に入ることとした。
彼の強い勧めで入部したことだし、彼は小生のことを覚えてくれていたらしく、「俺のグループに来い。日本人が日本の音楽について何も知らないではいけない」などといって半ば強引にグループ入りを要請した。

彼は茨城県水戸の出身で、自らを水戸ッポといい・・・あの徳川御三家の1つで昔から尊王攘夷気風のある町で育ったから、水戸藩の藩校であった弘道館・・・現茨城中学校・茨城高等学校出身で、「日本」を常に意識した教育を受けてきたからのようだ。

他のグル-プが音楽史的な研究アプローチをせざるを得なかった頃、すでに日本人の西洋音楽需要の歴史と、明治以来戦後までの日本の作曲家たちの西洋音楽模倣から自己確立の動向、そして主な作曲家の音楽的特徴とその文化時代背景と作品についいて、市場に出ている数少ない音盤を入手しながら、研究対象とした。

その頃唯一世の中に出ていた「日本の西洋音楽」に関する文献も入手し、その中でも一番効果的だったのは、現在邦人作曲家が何を考えているのかを探るための邦人作曲家100人ほどに、アンケートを送り帰って来たものを集計し分析を実施したことである。

今ではNAXOSなどが積極的に、邦人の作品の録音に取り組んでいて、その気になれば誰でも邦人の作品を享受できるし、音友などの雑誌である程度のことは読み取れるが、1960年代ではそのような環境には到底なく、このアンケートは画期的なことだった。

いぶかしがって答えてくれなかった作曲家達もいたが、それでも今聞けばそうそうたる作曲家達が真摯にアンケートに答えてくれたことに驚いた。
その頃はまだ、大学のネームヴァリューは、世間でもそんなに価値観を失ってはいなかった。

日本音楽Gには小生を含め新人が4名入ることとなった。
I藤、KM谷、K田、である。そしてこの4名は後に全員が役員となる。
先輩はリーダーとして会計役員でもあるF田、そして渉外役員のN道、女性で編集役員のM村、技術役員のY内、いずれも3回生で構成され、2回生は誰もいなかった。

同期の新入生達は、お互いのグループのこと、いやそれ以上に諸先輩についてあれこれ情報交換をし合っているうちに、いよいよ夏が来た。

毎年実施するという夏季合宿の予定地は「小豆島」。
なんでもオーディオ装置一式を担いで島に渡り、公民館を借りて夕方レコードコンサートを開き、島の人にクラシック音楽を聞かせるという目的だ。

その頃の活動方針の一つに「クラシック音楽の普及」という、今では少しずれているような方針があった。
しかし当時の環境では学生や、まして田舎の地に住む小学生中学生が、クラシック音楽を聞く環境などは殆どなかったであろうから、学内の「水曜コンサート」の遠隔地版として、実施する意義はあると、当時の執行部が考えてのことであった。

新入生達は、全員で重いオーディオ装置を担いで、大阪南港からフェリーで小豆島に渡った。
公民館で装置の設営を終えると、各自がビラを配りに小豆島の公民館付近の家庭を訪問し、レコードコンサート来場を呼びかけた。

今なら誰も来ないことだが、当時はそれでも老若男女が30名ほど集ってくれ、コンサートは無事終了した。

新入生の中には、こんなことやりたくないというものや、普段の幹事長のやり方に不満を持つものもいて、次の夜、打ち上げをかねた余興の寸劇で、幹事長や執行部批判めいた芝居をしたことがあった。

文連の「文化創造」という大命題の元、サークル活動理念を再構築した当時の執行部は、それまでの「音楽鑑賞お楽しみサークル」からの急激な脱皮が必要とされたから、人身を入れ替えてでも新しいDRACに変貌を余儀なくされた。

T海林幹事長は、その中にあって自ら決断したようで、新入生達がBOXに集ってワイガヤをしながら、誰かがレコードを掛けていると、何も言わずにその音楽を止めてしまうのだった。

「乍に音楽を聞くのではない、DRACでは音楽は研究対象だ、楽しみたければどこか他所で、あるいは自宅で聞いたらよい」
それが幹事長の持論であった。

中には反発する新入生もいて、幹事長がBOXに来ない時間を見計らって音楽を鳴らす不届き者もいた。

そんなこんなで、夏休み直前のある日、水戸のF田先輩から話があって、その内容は、今度軽井沢でT海林、K出、河嶋達と集まるから、お前とK田は来るようにという内容だった。
執行部三役と、DRACで同期の商学部の気の合った連中が集まるというわけだ。

仙台、新潟、京都、そして小生の名古屋、K田は静岡で、そこから軽井沢は遠いのだが、そこは学生、時間はタップリあるし、鈍行を使えば旅費もそうはかからない。
何より憧れの涼しいハイソな「軽井沢」だから、先輩の誘いに乗って、軽井沢行きをに2つ返事で乗っかった。

F田は、水戸の目抜き通りの商店街で、大きな紳士服の店を構えている、お金持ちの家のボン(ボンといっても、かなりシッカリしたタイプであるが)
軽井沢の千ヶ滝というベストポジションに別荘を持っていて、その別荘に集るのだ。

初めての体験の軽井沢は、今のように人が溢れてなく、古い別荘地はとても静かだった。
アイススケートや温泉で楽しみ、夜はお決まりのBBQを庭でやって、2日がたって帰ろうとすると、新潟から車で来た副幹事長のK出さんが、一人で新潟に帰るのが寂しかったのか、もっと遊びたかったのか、「三国峠を越えたらもうすぐ新潟だ、ここからすぐだから俺の家に来いという」。

そこで幹事長のT海林、小生、K田の合計4人は、軽井沢から新潟を目指した。
初めての行き先で、しかも車だから延々走り続けた記憶ばかりが残っている。
当時K出さん以外に運転免許所有者はいなかったから、だいぶ苦労しただろう。

新潟の大きな屋敷に着き、名物の鯉料理をご馳走になったり、新鮮な枝豆を堪能しながら美味しいビールを飲んだりして次の夜は、マージャンの手ほどきを受けることとなった。
小生マージャンは今までやったことがなかったが、先輩は勿論現役入学のK田が少し知っていたのには驚いたが、好奇心旺盛なときだったから、半ちゃん2回ぐらいで、何とかついていくことができた。
初めて天ぱった高い手が二コ二コ、(チートイツ)だったので、待っていると、待ち牌が出たので喜んで上がると、手の中に同じ牌が4個あるというミスを犯していた。
二コづつ集めればよいと聞いていたので、同じ牌が4個あっても2個と2個に分けることができると思い込んだのだった。

そうこうするうちに外はだんだん雨脚が激しくなってきて、物凄い集中豪雨のようになってきたのが、雨戸を締めてマージャンを続行した。
そして次の朝、雨戸を開けると、そこに見えたものは・・・・
全員が仰天の光景を見ることになり、徹夜マージャンの眠気も疲れも、いっぺんに吹き飛んだのだった。

窓からの景色は、昨日までは少し低いところに川が流れていたのだが、今朝見ると川がない・・・其ればかりか周囲が全部、まるで大きな池か湖のようになっているではないか。
よく見ると、昨日見えていた川にかかっていた橋の上を、水がゴウゴウと流れている。

大水害が発生したのだ。
われわれはこんな大事の最中に徹夜マージャンをやっていたというわけだ。
TVラジオで情報を得ると、この地方はかなりの被害が出ていて、鉄道も不通になっているという。

それから2日たってようやく鉄道が回復して、幹事長は仙台に、小生たちは東海道線に乗り継いで、それぞれ実家に帰ることとなった。

[PR]

by noanoa1970 | 2007-08-27 16:20 | DRAC | Comments(2)