いつもの温泉の帰りに見つけた

小生がよく行く温泉は岐阜県南濃町・・・水晶がとれるという山の、秋には名月の絶好の鑑賞地でもある「月見のもり」の一角にある「水晶の湯」。
温泉は、細い林道を登ったところに在るので、温泉には一般車は入ることが出来ない。
麓の駐車場に車を置いて、温泉専用のマイクロバスに乗って、急な坂道を登りきったところに在る。海抜0mのこの付近からおよそ300mほど登ると、濃尾平野を見下ろすことが出来る絶景の露天風呂が待っている。

いつもなら往復バスに乗ってしまうのだが、余りにも天気が良かったので、帰り道は林道を歩いて下ることにした。
登りはチョットした登山並みに急勾配であるから、温泉につかると心臓が破裂する恐れがあるため、下りのみである。

歩いていくと、いつものバスから眺める景色とはまた違った、すばらしい景色にめぐり合えた。

山の中腹にある古そうな「見張り塔」。昔は河川の見張りに使われたのだろうか。
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少し下って見張り塔を見上げる。「月見のもり」と植木の文字が見える。
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下界を眺める。揖斐川の遠く向こうに北アルプスも見える。
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温泉を目指し登ってくるバスに出会う。12分間隔で運行されるバスは日祝は満員になる。
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あたり一面甘い香りがするので、付近を見渡すと、「みかんの花」が真盛りだった。
白い小さな花はとてもかわいらしい。みかんの花を見るのは小学生のとき以来だ。
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道の両脇にはいろいろな植物が手入れを施されて花をつけている。これは「しらん」。
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途中で思わぬものを発見。「雪ノ下」の群生。これは天麩羅にすると、とてもおいしい。しかし今日は存在を確認するだけで、採取はしてこなかった。それにしてもこの群生の量は凄い!思わずうれしくなった。
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すぐそばにはなんと・・・幻の・・・といわれるモミジガサ(別名:シドケ)の群生も発見。少し時期が遅く生育しすぎていたので、来年の楽しみにとっておくことにした。
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by noanoa1970 | 2007-05-31 14:43 | 田舎で遊ぶ | Comments(4)

ランタン夜話・・・クラインガルデン-2

何とか農園およびガーデンとしての体裁が出来、1年目の苗付け、種まきも終わり、
「金来日帰」の日々が続くことになる。主たる生活地域からは、車で約3時間半ほどかかるが、キャンプの手間を思えばなんと言うことも無い。

ちょうど金沢単身赴任で使用した冷蔵庫も、洗濯機も、電子レンジも、炊飯器も・・・寝具はシュラフで十分だから、食料と着替えだけを持っていけば、時間の許す限り、そこで過すことが可能だ。

ベランダからは乗鞍岳に連なる山並みが見え、林道を少し行くといつも通ったキャンプ場。そこには昔からの知り合いのキャンプ場の管理人、そして手伝いのおばさん、夏になると常連のバイトで来る信州大学生など、顔見知りばかりだから、気軽である。

キャンプ場の池では岩魚が釣れ、山を降りた「奈川」にも魚影が濃い。
5月には山菜の宝庫、タラはそこらじゅうにあるし、コシアブラも、ウルイも、今まで食べたことが無かった山菜類にあふれるし、秋はきのこの宝庫「マツタケ」も出るらしいのだが、さすがにこれだけはほかに流通するようで、口に入ることは無かったが、序もとのきのこ名人が選定したものは安心してん食べることが出来た。
天然のなめこやシメジといったら、この上ないおいしさであった。

大量のわさびの葉、根曲竹など、取れる季節には、必ず分けてもらっていたが、中でも「エゴマ」という・・・胡麻風味の小さな黒い粒上の実は初めて知ることになるのだが、きわめて利用価値が高いものであった。すり鉢で摩ってから砂糖、塩、醤油で味を調え、「蕎麦がき」「五平餅」のタレとして使うと物凄く美味い。

後に「タヌキ」を食べることになる話も有るが、それはまた次の機会に詳しく語ることにして、今回は
農園開演から2年目の農園の様子と、秋の収穫の一部を紹介しておこう。

ジャガイモの芽が出てどうにか育ってきたところ。
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ハーブ類は環境適応能力が高く、すばらしい生育ぶり。ミント類は特に成長が激しくすぐにはびこるくらい。セージ、オレガノ、ローズマリー、フェンネル、バジルなど料理に使えるものは何でもそろう。
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ハーブスペースのしたには、葉物を植えた。ルッコラの生育は良かったが、他の野菜は虫食いがひどく食べることが出来なかった。
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センターの円形スペースには、御嶽山の麓の開田高原でブルーベリーを栽培している農家で頼み込んで分けてもらったものを植えた。風土に合ったものでないと、おいしい実をつけないそうだ。奈川と開田は標高が同じ、自然環境がよく似ている。
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1年目の秋遅くに収穫したジャガイモ、トウモロコシそして「とうがん」によく似た「夕顔」、「キューリ」は頂き物。「キューリ」に翼似た形をしているが本当は「かぼちゃ」の仲間、イタリア料理にいまや欠かせない「ズッキーニ」もこの地ではよく育つそうだ。南米からやってきた女性からタネをもらって知り合いの叔父さんが撒いて、見事なものが収穫できたそうだ。写真には無いがそれをもらい受けて、ピザ゙やスパゲティを作った。
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by noanoa1970 | 2007-05-30 09:21 | 田舎で遊ぶ | Comments(0)

ランタン夜話・・・クラインガルデン

1990年代の後半、小生は長年のキャンプ生活から足を洗って、同じ土地にて新しく設けられる「奈川楽農クラブ」という「クラインガルデン」=(宿泊可能で、簡易生活が出来る小さなハウスを伴った農園)を借りることにした。
100坪ほどの土地にコテージのような宿泊ハウスと60坪ほどの農園がある。

農業を通じての、立て前は農村と都会の交流であったが、キャンプの準備、設営、撤収などもろもろが、だんだん億劫になってきたため、半分以上はキャンプの代用との隠れた考えからであった。
しかし農園には何か農作物を栽培しなければならないので、農業など今まで経験したことは無かったが、村の知り合いの手助けがあって、何とか1年目にはおいしい農作物が収穫できた。

村でキャンプの時から懇意にしていたおじさんと、おばさんが、親切に面倒を見てくれて、葉物は余り良くないから「ジャガイモ」、「ネギ」、「トウモロコシ」が良いという。
植え付けの方法や黒いビニールシート=マルチで地面を覆う方法など、手に取るように教えてくれた。

畑の面積が大きすぎたので、畑を通路で十字に区切り、真ん中を円形に仕切り、そこには「ベリー」・・・ブルーベリーと、rズベリーを植えることにし、残りのそれぞれのスペースを「ハーブ」「ワイルドフラワー」「トウモロコシ」「ジャガイモ」そして少しだけ葉もの植えたが、農薬類を余り使用しなかったので、葉ものは虫に食われてしまった。そこで次の年は、見ても食べても美しくておいしい「花豆」を作ることにした。

初期の農園。農地面積が多いので減らすためと、農園の中を自由に歩けるようにするために通路を作ったところ。イングリッシュガーデンを真似てみた。
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じゃがいもを植えるための工夫。黒いビニールシート=マルチで地面を覆い、そこに穴を開けてタネイモを植える。標高1000mの極寒地区ではマルチは必需品だ。
トウモロコシもほぼ同じ方法で種を植える。
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by noanoa1970 | 2007-05-29 18:19 | 田舎で遊ぶ | Comments(0)

ランタン夜話・・・テントの変遷

1980年代より通い続けた長野県南安曇郡奈川村にある「奈川高原キャンプ場」
いつもの場所テントサイトNo3から、岩魚の池を挟んで天文台のある山を眺める。
釣りと天文台で隠れた人気が有り、リピーターのキャンパーが多い。この写真ではあいにく見えないが、写真の左奥に乗鞍岳を望むことが出来る絶好の位置にあるキャンプ場だ。
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初期のキャンプは、簡易テントから始まることになったが、このようなタイプのテントでは、標高1000mの高原では季節によってはかなりしんどい。
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簡易型テント内部にはこのときすでに、赤と緑のランタンが吊るされているから、1983年か4年のキャンプのことだ。
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やがてテントを風雪雨に強いノースフェースのドームタイプに変更し、コテージタイプを追加して2組で使い、ユーティリティを高めた。
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コテージタイプは取り回しが大変なのに気づき、やがてスクリーンテントを入手、虻の多い奈川キャンプ場では重宝し、かなり豪華にそして優雅な食卓となすことが出来た。
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室内は、ごらんのようにかなり広い。
就寝直前の写真だったろうか、外部に吊るしたランタンを引っ込めて、テント内部に全てのコールマンのガソリンランタン200A型を吊るしてある。
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by noanoa1970 | 2007-05-29 07:34 | 田舎で遊ぶ | Comments(0)

ランタン夜話・・・序章

いつの間にか部屋の片隅に追いやってしまった道具を、久しぶりに取り出してきた。
キャンパーにはおなじみの、コールマン社製造のガソリンランタンだ。
ゴルフ道具を会社の後輩に売り飛ばし、速さとラグジャリーさを追求していた普通自動車から四論駆動車にかえて、休日には必ずキャンプ三昧の日々を送っていた時期は、今から25年以上前のこと。

その頃コールマンのガソリンランタンといえば、同じコールマンのツーバーナーとともに、キャンプ道具の定番であった。
最初に入手したのが1983年製造の200A型で、グリーンの塗装のもの。
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そのうちに赤いランタンがどうしても欲しくなり、次に入手したのが1974製造の
200A型で、これは東北地方のある電気屋に長く眠っていたものを、知り合いのアウトドアショップの人が買い付けてきたものを譲ってもらった。
「火屋」の周りには特注で作成したような破損防止の金属の網が付けられているのが特徴で、灯をともすと、網目が反射して不思議な光に変身する。
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3つ目は、赤いコールマン200A型の復刻版コールマンクラシックランタン」として1990年の半ばに発売されたもの。
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それ以前も以後もコールマンはガソリンランタンをいくつかの種類出していて、明るいツーマントルの製品も有るにはあるが、小生にとっては、なんといってもこのスタイルとその機能・・・すなわち機能美あふれる200A型が最高のランタンである。
ガソリンタンク部分のカーブとランプシェード内の直線の織り成すフォルムまるでアール・デコの芸術品のように美しい。
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キャンプや釣りに行かなくなって早5年以上たつのだが、ここで一度手入れをしておこうと思ったのは、先日の地震があったから、なおさら緊急時のキャンプ道具のありがたさを身にしみて感じることが出来たからである。

ランプやバーナーは今ではガスのものも多くあるが、冬季の気温が低いときには外部ではほとんど役に立たないし、風にも非常に弱いから、せっかくのものも使えるときを選んでしまうことになりやすいが、ガソリンのものは大抵の自然環境化においてその力を発揮してくれる。
燃料も長持ちするし、万が一燃料が切れても車のガソリンを使えば、急場はしのげる。
ポンピングやマントルの取替えなど少し手間がかかるが、ガスボンベ式のものと二系統用意しておけば安心である。

そんなことを思いながら、今は余り使うことが無くなった・・・・テント、タープ、などとともに点検しておきいつでも使える用意をしておくことにした。
いずれも一式を、車の中においておけば安全カツ安心である。

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by noanoa1970 | 2007-05-28 14:06 | 季節の栞 | Comments(0)

酒飲みの美学

我が家の日本酒用の酒器。新旧取り混ぜ適当に出してみた。
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小津映画には、数々の美学が登場する。
映画「麦秋」ではこのようなシーンが・・・・
結婚を控えている20代後半になった女性紀子と、紀子が秘書を務める会社の上司が、紀子の友人の家の料亭の一室で顔を合わすときのシーン。

紀子の上司の席に、紀子が顔を出す。

上司は飲みかけの杯をグイッとあおって、その杯を紀子に渡し私酒を注ぐ。
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紀子はその杯を飲み干し、見えないように、口が付けられた部分を拭き返杯する。
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上司への返杯時のシーン。
上司は杯に酒がいっぱいに注がれようという瞬間、杯を持つ手を少し高く持ち上げる。
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小生は若い時分この「所作」がどういう意味を持つのかわからなかった。
そして、注がれる酒がいっぱいになるので「もう結構」ということなのだろうと解釈もした。
この所作を始めて見たのは、親戚の会合の席で、叔父が目上の親戚から酒を継がれていたときに、叔父がした動作である。
その動作がかなり大げさで、酒を注がれるのを拒否するかのようだったから、なんと失礼なことをやるのだろう・・・と、少しいぶかしげに思ったものだった。

我が家にやってきて、小生の父親と酒を酌み交わすときにも同じ所作を繰り返す。
小生の父親がそのような大げさな「所作」をするところを、今まで一度も見たことが無かったから、「この男、ひょっとして性格が無礼なのか」と随分思っていた。

時がたって、大学のコンパで先輩と酒を飲む中、叔父ほどはひどくないが、同じような「所作」をする先輩がいるのに気づき、『酒を注がれたときの礼儀」と解釈して、また時が過ぎた。

それからまた時が流れ・・・・小津映画の中で、この「所作」に出くわし改めてこの「所作」の意味を考えてみた。
映画「麦秋」では、返杯で部下の秘書から注がれた杯を、クイッと持ち上げるから、「有難う」の意味なのだろうか。
いいやまてよ、それだけではなさそうだ。

この料亭でのシーンでは紀子とその上司の位置は、テーブルの短手方向と長手方向だ。
これはそんなには多くないセッティングで、大抵はテーブルをはさんで、お互いが向き合うことが多かろう。(少し距離があるのが酒宴の席だ)

そんなセッティング位置で酒を注がれた場合、・・・この場合の酒は日本酒、徳利と猪口を使う前提なのだが・・・

杯を持った相手に徳利から酒を告いだ場合、座姿勢でしかも相手は、杯を時分の胸の前辺りに持つ。酒を注ぐほうは、腕を伸ばして徳利の縁を相手の杯につけて酒を注ぐのだから、大抵この状態では杯に注がれる酒の量が、注ぐ側からはわからない。
下手をすれば、満杯となって杯から酒をこぼしてしまい、せっかくの酒宴も興ざめとなる。

昔の人は、このことを恐れてこの「所作」を編み出し、しかも「有難う」という意味もそこに込めた。
恐らくこれがこの「所作」の背景にある。
この「所作」だけが一位歩きすると、叔父のように大げさに・・・酒を注がれたときにはこうするものだと、昔から決まっている、かのような振る舞いとなる。

小津映画のそのシーンは、ごくごく自然に流れるが、きちんとその「所作」を忘れないでいる。
小津が酒好きだったこと、単なる酒飲みではなく、「酒飲みの美学」を、向かいからの「所作」の意味を知っていたことを感じさせる場面である。

昨夜東京に住む息子が、関西方面に出張で、その帰りに帰ってきたので、ビールを飲みながらこの話をしてみた。
ビールの時は?と聞くので、ビールは注がれた量がわかるから必要ないし、ワインも注ぎ合う酒ではないから、あのような「所作」の習慣は無いと・・・小生。

これは日本人独特の「所作文化」・・・「本来は合理的なことで、理由があってすることであるが、それをそうでないような形にして振舞う」のではないか・・・などと講釈してしまった。息子も付き合いで酒を酌み交わすことも多くなるだろうから、話をしてみたのだが、わかってもらえただろうか。

ビールといえば、小生は注がれるときは絶対にグラスを傾けないことにしている。
まして継ぎ足されるのを嫌うのであるが、余り拒否しても、ザがしらけるので、我慢する時が多いが、グラスを傾けることはしない。

現役時代に会社がよく利用していたスナックバーのコンパニオンが、「ビールを注ぐときにはグラスを傾けてよ!」などというので、ママを呼んで「ビールの注ぎ方の教育ぐらい、しておけよ」といったことがあったが、そのママ・・・傾けると何故いけないのか、恐らくわからないだろうと思い、他所ではこのことには触れないことにした。

本当においしいビールを味わったことが無い人には、このことは到底わからないからである。ためしに注がれたビールをすぐに飲まないで、・・・30秒ほど置いて、細かい泡の間から、大きな泡が立ち穴が開いた状態になってきたときを見計らって飲んで見られたし。
これだけで、そうしなかったときのビールの味が、格段においしいものに変身するから

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by noanoa1970 | 2007-05-26 18:59 | 骨董で遊ぶ | Comments(2)

水のある風景

長浜の商店街を流れる水路。

ここから見る風景は異国情緒タップリ。

川面に映る古めかしい建物、そして梅花藻がノスタルジーを沸き立たせてくれる。

いつもこの橋の上でしばらく川面を眺めることにしている。

「水の反映」ドビュッシーを聞くことにした。

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by noanoa1970 | 2007-05-24 09:14 | 季節の栞 | Comments(0)

麦秋

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少し郊外に出ると、いままで青かった田畑がスッカリ黄金色に色づいていた。
小麦の収穫の時期だ。
「麦秋」は、1951年・・・昭和26年の小津安二郎の映画作品のタイトルであるが、「麦秋」という言葉の意味を取り違えていた時期があった。

「漢字」の「秋」にだまされて、てっきり背景は「秋」であると思っていたのである。
しかし映画の中で「こいのぼり」が映されること、中央線で機関車に乗って通よった
駅から、高等学校までの途中の、金色の麦畑の風景が、麦の穂を揺らす春のそよ風とダブって思い出されるので、あるとき「麦秋」を調べると、「秋」ではなく、「遅めの春」・・・英語では[eary summer]・・早い夏といわれることがわかり、映画のタイトルとその背景の季節と、高校通学時の麦畑の思い出が、初めて一致することとなった。
麦が黄金色に色づいていたのは晩春あるいは早夏のことだったのである。

「麦の秋」とは、すなわち麦が黄金色になって収穫を迎えるとき・・・「収穫のとき」を表現する言葉なのだということがわかり、だから「めでたい」「ウキウキする」「お祭り気分」などの感性が裏にあるらしきことも推測できた。

なるほど「小津」の「麦秋」は、世間では今期を逃しそうな年齢・・・28才の女性が結婚相手にいろいろ迷った末に最後には、身近なところにに位置する近所の30代後半か40歳近い子持ちの男性・・(実は戦争に行ったまままだ帰らない、紀子のすぐ上の兄の同僚で、長兄の仕事の後輩でもあるのだが)と結婚するという話だ。

28歳の年齢、今ならその年になっても結婚しない女性は大勢いるが、当時は「女性は25歳までには結婚しなければならない」という社会通念のようなものが有ったのか、小津はこの物語の最初で、原節子演じる紀子の年齢を・・・大和(奈良をこのように表現するのもこの時代の特徴なのか)から鎌倉に出てきた、年で耳が不自由な紀子の父の兄に「紀子さん、あんたいくつになりなさった」と異なる場面で二度も尋かせていて、強調させている。

「28」という女性の年齢が、この物語で、本人よりもその家族や周辺に気を揉ませる「近親女性の結婚」への考え方の総体なのであろう。

「結婚できないのじゃなく、結婚しない、その気になればいつだっていける」。
「医者とだけは結婚しない」といいながら医者と結婚。

同窓生との会合で、結婚組みと独身組みが分かれて、言い争うが始めは独身組みの盟主足らんとしていた紀子も、だんだん結婚願望が強くなり、独身組の「アヤ」に相槌を打つだけとなっていく様子は紀子の変化が見えるようで面白い演出。

「40まで独りでいる人間は信用できない・・・子供の1人でもいる方が信用できる」といい、子持ちの男と結婚するのは、やはり「感性」が「合理化」されたのだと小生は見る。

会社の上司・・専務からの紹介のほうが金持ちで、ハンサムだし、仕事は出来るし、出自はいいし、全てがいい条件、家族もこぞって賛成(母親は余り乗り気ではない様子を見せるが・・・)するのだが、ストーリー展開では、紀子が特別の感情を抱いていなかったと思わせる子持ちの男を選択し、しかも家族から遠く離れるところ・・・秋田に転勤することになる。


物語で唯一、男との交流らしきものを思わせるのは、通勤駅北鎌倉での会話、挨拶の後男が「チボー家の人々面白いですね、4巻と半分読みました」というところ。
ロジェ・マルタン・デュ・ガールの長編小説「チノー家の人々」は白水社では全5巻の出版だからそれで行くと、ほぼ全てを読みつつあるといえるが、他社では全11巻であるから、もしそれだと半分読んだところということになる。(通勤電車の中で読んでいたとすれば、11巻のものであろう)


「チボー家の人々」、小生は読んだことは無いが、二十世紀初頭の家庭、カトリック教徒のチボー家と、プロテスタントのド=フォンタナン家の生活の物語。プロテスタントとカトリックという宗教的違いを背景にした物語で、独裁的、封建的な規律を子供達に押し付けるチボー家の父親の長男は医者になり、次男は革命家になっていく・・・戦争傘下の宗教的違いのある家庭の若者とその生き様を描いた小説と見ることが出来る。

小津がこの会話で「チボー家の人々」を持ってきた理由は、この映画が戦後6年・・まだ戦争の痕跡がリアルに残っている時代であったこと、そして医者となるチボー家の長男の存在があったからではなかろうか。

紀子はそのような小説を読む40男と、小説の中の若者に思いをダブらせ、どことと無く心惹かれるものを感じていたのだろうか。それとも映画を見る観客に「チボー家の人々」で、それとなく気づかせる伏線を張ったのだろうか。

この映画でわからないことが一つあって、それは大和から(だろう)関東に出てきて、北鎌倉の家に住むことになった・・両親とその長男夫婦と息子二人、そして娘紀子という家族が、娘紀子の結婚を機に、今まで一緒に暮らした両親が大和に帰るという設定。

紀子の両親は、何故紀子が結婚して家を出た後、兄夫婦と子供と一緒に住まずに、大和に帰ってしまうのだろうか。(恐らくは、大和で一人で暮らす兄の心配をしてのことだと思われるが)紀子の結婚をそのきっかけのようにするのは不自然なこと。
どう考えても納得できるような理由が見つからない。

この映画で印象に残るのは、紀子の両親が、出兵したまままだ帰らない次男のことについて語るシーンである。
男親は、もうすでに諦めかけているのに対して、東山千栄子演ずる女親は、まだまだ希望を持っていて、毎日のようにNHKラジオで放送していた「尋ね人」を聞いているというシーン。(拉致された「めぐみさん」の両親も、比べることは不謹慎だが、母親のほうが、より気力と継続力、忍耐力があるように見受けられるのは小生だけか)

「尋ね人」の放送は、小生も覚えがあって、多分昭和30年代の中ごろまで放送したと思う。「紅孔雀、笛吹童子、おらぁ三太だ」「風雲黒潮丸」などの番組の前後に流されていて、シベリア抑留とか満州、ハルピン、コクリュウショウなどの言葉が頻繁に当時したという記憶がある。

興味深いのは、戦後まだ6年しかたってないこの時期の子供の言動。
おじいちゃん好きか、好きといったらもっと(お菓子を)やるぞといわれて、「うん好き、さらに・・・好きだといい・・それを繰り返して、お菓子をたくさんもらった後、離れ際に・・嫌いだよ!大嫌いだよ!と祖父に対して言うシーン。

そして耳の不自由な祖父の兄に対し、耳が遠いのをいいことに「バカ」「バカ」というシーン。

小生の体験から言えば、このシーンの祖父と孫の会話はどう見ても不自然。
この時代まだまだ父親や祖父・・・目上の男性の存在は家の中では強大で、祖父には決してあのような口は利けなかったものだ。

「戦後」強調なのか、戦後民主主義(学校)教育の弊害なのか、ワザト挿入した小津の根底にあったものは何であったのだろうか。後の作品1959年の「お早う」でなら納得するところはあるのだが・・・・

「不自然さを強調し自然に見せる」小津マジックがまた見えてしまう作品であった。

郊外の麦畑は今収穫の時期を迎える。
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by noanoa1970 | 2007-05-23 10:56 | 動画・ムーヴィー・映画 | Comments(0)

皐月の旬

長浜では、5月のこどもの日前後から、お店には「鯖焼き」が登場する。
昔から日本海で取れた鯖などの魚を「北国街道」にて、長浜を経由し、時には琵琶湖から船で大津に行き京都などの関西圏に運ばれた。
京都では5月・・・葵祭りのときには必ず「鯖寿司」が食卓に登場し、「鯖寿司」を得意とする鮨屋も数多い。

それに京都ではおいしい「お酢」の名店・・・「ちどり酢」もある。
両者があいまって日本海から運ばれる塩鯖を、おいしく食べるすべを、昔から知っていた。

関西の年に運搬される「塩鯖」は、長浜では「鯖焼き」として確立した。
竹の籤を頭から尾まで通し形が崩れないようにして長時間かけて焼き上げた「鯖焼き」は、ほんのりとした塩加減が程よく、適度にアブラが乗っていて、ぷりっとした身の食感がいいので、この時期には欠かせない。

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いつも注文する長浜商店街にある「しもむら鮮魚店」に電話をして頼んでおき、受け取りに長浜まで出かけた。
あらかじめ注文しておかないと、たっぷり2時間は待つことになるし、たまたま余分があったとしても、それは偶然で、しかもまだ焼き立てで相当熱い状態だから、受け取って持って帰る間に包装紙の中で蒸れてしまうから、冷めたもののほうが味が馴染んでおいしいのである。

夕食は長浜の帰りに立ち寄った、岐阜県上石津の産直出見つけた「そら豆」とともに食した。

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「そら豆」は普通は茹でて食べるのだが、鞘つきのまま焼いて食べることにした。
「つるり」と言う食感は少なくなるものの、甘みがまして「豆」の存在感が強く出る。
この方法もいいものである。

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by noanoa1970 | 2007-05-22 09:34 | 「食」についてのエッセイ | Comments(2)

ルサンチマン

憲法改定の前段階として、「国民投票法案」が可決されたことは、遅きに失することであるが、重要な問題はその後のこと。
最近ではマスコミこぞって憲法改正論議番組をやり始めている。
いずれにしろわれわれ国民は・・・・どこかの議員や首長の選挙のように、投票率が50%をきるような、政治離れ状態ではいけないのであって、細かい議論も有ろうが自身でよく学んでおく必要が有る。
「日本国憲法」など読んだことも、義務教育で習ったことも無い国民が大勢存在することは、やはり問題であろうと思う。

こんなことを考えながら、すぐに思い浮かぶのがその昔・・・といっても1970年代初頭に、「加川良」という男が歌った「戦争をしましょう」。
同時期の、「高田渡」の「自衛隊に入ろう」が「勧誘の歌」と誤解され、自衛隊からオファーが来たなどという笑い話もあるが、「加川良」の「戦争をしましょう」もいろいろな誤解を生みそうなタイトルで、彼自身ライブでしか歌わなくて、その上90年代以降には「冗談やで・・・」「本気にしたらあかんで」といいながら、歌っているのを見かける。
どうやら、過去に何らかの失敗が有ったらしい。

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その詩の内容は以下のとおり
<戦争をしましょう>加川良作詞作曲
(*作曲は加川となっているが、明らかに「朝日の当たる家」の編曲だと思う。)

もう随分昔の話
大東亜戦争の頃
日本空襲花盛り
大日本帝国苦戦中
沈黙続けていた、一人の男
神国大和の国のため
もう我慢できぬと馬に乗り
全国各地をかけめぐる
空襲逃れたおもちゃ屋で
花火をたくさん買い集め
花火の火薬を抜き取って
大きな爆弾二個作る
大日本帝国救う道、もはやこれしかないんだと
大きな爆弾二個担ぎ、太平洋を泳ぎだした
アメリカよまだかまだかと
ふんどし一つに、刀を下げて
急がねば急がねば急がねばと、太平洋を泳いだのだ
思えば彼の目も足もも、仲の良かった友達も
アメリカB29の餌食となって死んだのだ
ナポレオンを思い出し不可能は無いとがんばった
歯を食いしばり泳いだのだ
その甲斐有ってアメリカへ、アメリカ上陸あいなった
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ところが月日は流れてた
日本敗戦アメリカ勝利
今じゃ仲良くやっているという
怒った彼は再び日本へ
国会議事堂前にして
ギョロ目出て来いと叫んだが
ところは交通地獄のど真ん中
車に当てられ死んだという
これは大日本帝国の勝利と正義ひたすら信じ
真実一路に歩み続けた
勇敢な男の物語
日本国民政府の皆様
貴方の夫や子供や親の死を
犬死にさせないためにも
今こそ立ち上がるときです
今すぐ戦争の用意をしましょう
今すぐアメリカを攻めましょう
戦闘開始しましょう
そしてそしてアメリカに勝ちましょう

*文中「ギョロ目」とは70年安保のときの「佐藤栄作」首相のこと

さて小生がこの歌を思い浮かべたのは、「国民投票法案」→「憲法改正」へと情勢が進むであろうという今日的状況だからであるが、もう一つ見落としてはならないのが・・
浜田幸一などの「戦中派」だけにとどまらず、戦後民主主義教育の只中に位置した「団塊の世代」の中にも、どうやら心の片隅の記憶として・・・敗戦ということは勿論、「原爆投下」という無差別テロに近いやり口としての終戦に、アメリカに対する「ルサンチマン」の根っこが存在しているのではないかということである。

「加川」の「戦争をしましょう」が、けっして戦争を煽る歌でないことは明白なはずであるが、「反戦」という言葉には「反米」が潜み、それは「戦後民主主義教育」の毒牙に染まった、われわれの世代の日本人が、連綿と持ち続ける「ルサンチマン」であるのかもしれない・・・と最近思うようになりつつある。

物質的、文化的アメリカ礼賛と国土防衛にたいする複雑な重いと、原爆投下に対するルサンチマンが同居しているという不思議が、われわれ「団塊の世代」的今日であるのかもしれない。

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by noanoa1970 | 2007-05-19 17:44 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)