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昔のロス伯爵家の人々の行進曲 「Marche des anciens comtes de Ross 」

最前のエントリー「スコットランドとフィンランドの」邂逅にての、ドビュッシーの「民謡によるスコットランド行進曲」引用のスコティッシュ・トラディショナルとは・・という疑問が消えなかったので、今をときめく超大手コミュサイトに、質問をしてみた。「ドビュッシー」を愛好する諸氏が5000人以上集っている凄いものなので、どなたかが回答をくれると、期待して、3日が立つが、いまだ何の音沙汰も無い。
昔の「猫」のほうがましなのかと、改めて「猫」の偉大さを思い知ったしだいであった。

小生なりに調べた結果、わかったことがあるので、忘れないうちに整理して書いておくことにする。

≪ロザンタールの肖像≫今回はカラーで、
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・スコットランド風行進曲は、ドビュッシーの受けた最初の委嘱作品で、若き日の20代最後の1891年に作られたもの。

・ブリテン島のメルディス・リート将軍の依頼によって作曲、当時のドビュッシーの環境は、パリのロンドン街で、ピアノとベッドだけの貧しい屋根裏部屋に住んでいた。

・1891年のある日、一人の英国人がドビュッシーを訪れ、このイギリス人がリート将軍であった。

・将軍は無名の作曲家に、自分の家系を記念する曲を依頼し、 1891年、ドビュッシーは4手のためのピアノ音楽として、《いにしえのロス家の人々の行進曲」を作曲。

・「スコットランド貴族、ロス家の子孫、メルディス・リート将軍に献呈」添え書きがつけられていた。

・また「4手のためのピアノ曲」のスコアには、以下の長い文がエピグラフとして書きこまれていた。・・・・〈スコットランドのロッシャー地方のロス氏族の長、ロス伯爵家のロス氏の出自は、大昔の時代に遡り、この長はバグパイプを鳴らす戦闘集団のなかにあった。彼らはこの行進曲を、戦さの時、勝利の祝宴の時や結婚式などに、王の面前で演奏した。そして、この行進曲は、実際の行進の合唱隊によっても歌われたもの。

・「4手のためのピアノ曲」は、1891年にエピグラフをつけてシュダン社から出版、1903年フロモン社から再出版する時に「民謡を主題としたスコットランド風行進曲」に改題された。

・さらに1908年頃、ピアノ曲からオーケストラ曲への編曲をドビュッシー自らおこない、オーケストラ版は、ドビュッシーの晩年、1913年4月19日、シャンゼリゼ劇場の「ヌーボー・コンセール」で「D.E.アンゲルブレシュト」によって初演された。

・この初演に同席したドビュッシーは、「アンゲルブレシュト」の演奏と自身の管弦楽編曲に大変納得したといわれる。

大まかに以上の事柄が判明したので、さらに「民謡」のルーツを探ろうと、試みてみたが、今のところ該当音源の発見には至らない。

「ロス伯爵」については、少ないながら以下の記述を発見。

『1487年に、キャサリンは、スコットランド王ジェイムズ三世の次男ジェイムズ・ステュアート(ロス伯、後にロス公)と婚約した。ヘンリー七世即位の2年後のことだ。
このときキャサリン8歳、ロス伯ジェイムズ11歳。
この婚約は、キャサリンの義兄ヘンリー七世とジェイムズ三世との協定によるもので、同時に、ジェイムズ三世の長男ジェイムズ(後のジェイムズ四世)と、キャサリンの姉妹の一人を結婚させるという約束もなされた。』

・・・つまりスコットランド王族のジェイムス3世の次男が「ロス伯爵」・・・ロス家の発祥で、「キャサリン」と結婚した人物であるが、スコットランドおよび、イングランドの歴史上の人物には、同じ名前がたくさん登場するから、頭が混乱してよくわからない。

ただいえるのは、ドビュッシーに作曲を依頼したイギリス人、「スコットランド貴族でロス家の子孫、メルディス・リート将軍」の先祖は15世紀のスコットランドの貴族であるという事実であった。

しかし依然として、ドビュッシーが引用したスコットランド民謡のオリジナルが判明しない。
引用メロディは、かなり小生の耳に馴染んだものなので、そのうちひょんなところで発見できるかもしれないので、それまで楽しみにしておくことにした。


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by noanoa1970 | 2007-04-30 19:15 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(3)

春真っ最中

岐阜県最南部、三重県と愛知県堺にある「木曽三川公園」に出向いた。
目的は「チューリップ」。
長島温泉のある「なばなの里」 チューリップ祭りも有名だが、 「木曽三川公園」 のチューリップ祭りは入場料が要らない。何しろ国立の公園だからである。
揖斐・長良・木曽の3つの大河が集る河口から、すぐ上流部にあるこの公園は、
手入れの行き届いた大花壇があって、 3,800平方メートル 65品種約27万球のチューリップが植わっている。
大きな駐車場も完備され、施設も整っているにもかかわらず、ウイークデイの人の足はまばら。穴場の一つといってよいだろう。

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by noanoa1970 | 2007-04-29 09:49 | 季節の栞 | Comments(0)

先祖の地の桜は・・・・

先祖の墓参りに行ってきた。
今年も老桜が花を付けてくれた。
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ここ木曽駒高原では今桜が満開。
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桜の種類はわからないが、「ソメイヨシノ」ではない。しだれ系統の山桜だろう。長い年月極寒の環境にあって、花に色は薄く、花は小さい。
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高祖父の記念碑と老桜
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駒ケ岳を望む。
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記念碑の印刻文字は、風雨にさらされて、かなり彫りが浅くなってきている。
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駒ケ岳の反対方向には木曽御岳を望むことが出来る。
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by noanoa1970 | 2007-04-28 15:26 | 季節の栞 | Comments(0)

アイスクリーム

少し気温が高くなってきたこのごろ、アイスクリームを食べたくなることがある。
小生があの冷たい、美味しい食べ物を知ったのは、50年以上前のまだ小学校低学年の頃。
夏休みのことだったと覚えているのだが、小学校の校庭で、映画上映会があって、夕方になると、連れ立って学校まで映画を見に行った。

太くて長い竹の竿を立て、そこに銀幕を張った場外スクリーンがあり、まだ映画の上演時間が来る前、太陽が沈んでない時から校庭に集った。
この催しは町内の娯楽をもかねていたと見え、近所の人々も大勢集った。

その中にあって繁盛していたのは、独特の匂いを放つアセチレンガスのカーバイトランプの光を伴った「アイスキャンデイ屋」だった。
人口甘味料で甘みをつけ、ピンク、黄色、オレンジ、白色の氷菓子が平たい木で出来た棒の先についているもので、これという特徴は無いが、少しある甘みと冷たさで、そして他には何も入っていないせいか、カチカチに凍っていたから、かなり長時間楽しめることから、子供には人気が有った。

「アイスキャンデイ屋」の箱にはもう一種類入っていて、それを「ドリアン」といった。この「ドリアン」は今思えばその名前の由来であるかのように、ほんのりと異国の果物のような香りがするのと、今のアイスクリームに近い感触があって、溶ける速さはアイスキャンデイと比べると、倍ほどの速度で持ちが悪かったが、それでも小生はその食感がたまらなく好きで、もっぱらこの「ドリアン」という氷菓子を食べたものだった。

それから数年、「アイスキャンデイ屋」はどこかに姿を消し、代わりに近所の八百屋に冷凍ケースが登場し、中には「アイスモナカ」というものが入っていて、夏のお八つの定番は「スイカ」か「アイスモナカ」になった。
牛乳など(多分脱脂粉乳を使ったのだろう)、まして生クリームなど全く材料としない、これも噛むとガシガシのものだが、外の最中の皮と一緒に、前歯でこじ開けるようにして噛むと、少しシャリシャリ感があって、かなりの時間冷たさが味わえた。

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それからまた数年たち、乳製品や菓子のメーカーがこぞってアイスクリームという名前で商品を売り出し、そのときよく食べたのが、名糖の「ホームランアイスクリームバー」。
3cm四方、長さ10cmの立方体のものに木製の棒をつけ、丁寧にロゴマーク入りの銀紙で覆われたもので、棒に「ホームラン」と刻印されたものに当たると、もう1本おまけがもらえるというもので、これは味も良かった。バニラ味が発売されたすぐ後でイチゴ味が発売となり、小生はイチゴミルクのようなそれが好きだった。

d0063263_14532120.jpgそんな中、小生が本格的な「アイスクリーム」に出会ったのは、デパートの食堂でも、不二家レストランでもなく、なんとそれは国鉄の車内だった。
年に2回ほど、学校が休みのときに小生は母親の実家のある京都に行くことがあり、「比叡」という準急列車に乗ることが多かった。
「SL」であるのは勿論だ。

車体にうす青い色の帯が入った2等以上の列車には乗せてもらえず、いつも3等車両の垂直の木星の背もたれと、青く塗られた余りすわり心地の良くないシートに2時間半座って、京都に行くのだが、そのとき車内販売として売りに来たのが「アイスクリーム」と「冷凍みかん」。
「アイスクリーム」はカップに入っていて、木製の匙が紙の袋に入っている。
カップは少し浅めに作ってあり、全体が薄いグリーン色をしていた。
小生は、この国鉄で車内販売されていた、カップアイスクリームの味を今でも忘れないほど、強烈に覚えているのだ。

バニラの香り、クリーミーな滑らかさ、人工でない甘味、そして少し黄色味がかった色合い。そのどれもが特別ですばらしいもののように思えた。
カップの蓋までをも舐め、もう何も残ってないカップを、木の匙で何度も救い愛しんだ。

最近では限りないほど多くのメーカーや、プロショップなどがこだわりの「アイスクリーム」を、材料を惜しげもなく使用して作っているが、あの国鉄の車内販売のシスクリームに勝るものにはお目にかかれない。

もし今食べることになったら、「何だこんなものを美味しいと思っていたのか・・・」なんていうことになる恐れはあるが、「復活、国鉄車内販売のアイスクリーム」として再び世に出していただきたいものである。

そんなことを思っていたら、「アイスクリーム」という有名な歌があることに気がついた。有名といっても、その筋の尾愛好家の間だけなのだが、1996年小生はこの歌を金沢で実際に聞くことが出来た。
それは「高田渡」が・・・余り体調が芳しくないときの今日も句稼ぎ・・・といっては失礼に当たるだろうが、「こいのぼり」の替え歌同様に、高田がよくやる手口の曲。
30秒あれば歌い終わるもので、曲名はずばり「アイスクリーム」である。

曲は短くて、あっという間に終わるので、聞き過ごすとないを言いたいのか全くわからないことが予想されるのだが、この曲をよく聞いてみるとその歌詞の内容には、長大な「ドラマ」というか「格言」というか「男と女の様」というか、そんなものが見えてくる。

詩の作者は、「衣巻省三」という人。
小生はこの人の名前をはじめて知った。よほどの人で無い限りほとんど知る人はいないであろうこの人物は
明治33(1900)年兵庫県生まれの詩人・小説家。都会的心情を描いた。主な作品に、『けしかけられた男(』第一回芥川賞候補)、『黄昏学校』などがある。
昭和53(1978)年、78歳で死去。

「馬込文人」の中の一人で、「稲垣足穂」の友人であり、足穂が貧困にあえいだ時期には「衣巻」の住居に転がり込んで、長く居候したといわれる。
文壇の中では珍しく裕福な家の出身といわれるようだが、彼については作品もプロフィールもほとんど、目に見える形で残されていないから、古書においてはとんでもない値段がついているほどである。
そんな衣巻が作ったのが「アイスクリーム」

これはもう空でも覚えているから書き出しておく。
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『アイスクリームアイスクリーム
アイスクリーム私の恋人よ
あんまり長くほうっておくと
お行儀が悪くなる』
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このマイナーといっても間違いではない詩人のマイナーな詩を、どのようにして高田が見つけ、どのような動機で歌にしたかは、定かではないが、この詩から読めるものとして特筆すべきことは、

アイスクリームを擬人化した手法に、明治生まれの詩人とは思えない、モダニズムがあり、シュールな感覚があること。
「行儀が悪くなる」のは誰なのか・・・・男と女が対等に扱われているように思えること、今で言う「不倫」めいたものの発生原因の大きな一つを、すでにこの時代に述べている・・・男と女の愛情の不条理さを言い表すようで、面白く、現在でも十分通じるところがあるばかりか、ある種男と女の間の普遍の心理を表現しているとも折れるから、いつでも「新しい」

高田が目をつけたのも、詩の短さとともに、簡潔に男と女の愛情の綾を表現していて、時代を感じさせない「新しさ」があるのを発見したからなのだろうか。

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by noanoa1970 | 2007-04-28 14:50 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

フィンランドとスコットランドの邂逅

中学生~高校生時代・・1960年代の半ばに、「フォークダンス」というものが流行ったことがあった。
体育祭などのイベントの終了時などに、全校生徒が運動場に繰り出して、輪になって踊るアレである。

「藁の中の七面鳥」という音楽がよく流れていて、男子学生は少し恥ずかしがりながら、それでも女の子の手を取り、輪になって踊りながら、順番に相手を変えていく。
普段は女の子なんかに目もくれないような、所謂「硬派」の男子学生でさえもが一緒になって踊るさまは、ほほえましいものだった。

1967年というと、小生が大学に入学した年なので、それが行われたという実感は無いのだが、坂本九が歌ってヒットさせた歌に「ジェンカ」という曲があった。
「Let's Kiss 頬寄せて Let's Kiss 目を閉じて
 Let's Kiss 小鳥のように 唇重ねよう・・・・」

踊りながらキスまでしてしまおうという、なんとも凄い内容の歌で、この歌で実際にフォークダンスを踊った経験が無いが、TVでは「ザヒットパレード」などで、よくこの歌が流れたのを覚えている。

「ジェンカ」を踊る・・・坂本九出演のTV番組で、出演者がみんなで踊るのを、お目にかかったことがあるから、小生はまったく経験は無いが、恐らく中学や高校でも取り入れられたことと思う。

今になって、「ジェンカ」という言葉が気になって調べると、思いもよらぬ事実が判明した。

「ジェンカ」とは、フィン語で 「Letka Jenka」 もしくは「 Letkiss 」で「列になって踊ろう」という意味であり、永六輔が作詞し、1966年9月に坂本九が、「レット・キス」の題名でカバーしたといわれる。

なるほど、「 Letkiss 」だから「Let's Kiss」・・・さすが永六輔、なかなかやるものだと、感心することし切り。

さて、この曲は「フィンランド民謡」であると、記述されているが、小生の耳にはどうもブリテン諸島の古謡のように聞こえるところがあるので、さらに調べてみると、面白いことがわかった。

『作曲者は、ラウノ・レティネン(Rauno Väinämö Lehtinen 1932年4月7日 - 2006年5月1日)で、フィンランドの作曲家であり、指揮者でもあった人。
フォークダンスに基づいた曲「Letkis」は1960年代に大ヒット。92以上の国で記録された。日本では坂本九が「ジェンカ」としてカバーし大ヒットした。』

・・・・「民謡」ではなく、近代の音楽家による作品であったということと、「民謡」という表現は「ジェンカ」・・・「フォークダンスに基づいた曲」というようなあいまいな表現・・・「フォークダンス」とは民衆の踊りであるから、そこから「民謡」という言葉が独り歩きした。

「ジェンカ=フィン語では Letka Jenka 」という民謡形式に、「ラウノ・レティネン」が新しく曲をつけた「Letkis」が世界中で流行し、それを永六輔が作詞、坂本九が歌って、日本でヒット、その後「ジェンカ」というフォークダンスとして、従来の「藁の中の七面鳥」同様に踊り告がれることになった。
・・・これが恐らく真相であろう。

「民謡」というのは「Letka Jenka」のことであり、「Letkis」とも言われるようであるがこのネーミングは、作曲者がつけたものであったのだ。
「古賀正男」のオリジナル曲を、「〇〇演歌」というようなことなのであろう。

前置きがだいぶ長くなったが、「ラウノ・レティネン」が作った(1963年というから新しい)「ジェンカ≒Letkis≒Letka Jenka」は、小生の耳には限りなく「ブリテン諸島」の民謡風に聞こえるのである。

そこで参考として引き合いに出すのは
ドビュッシーが1891年に作った「民謡の主題によるスコットランド行進曲」Marche ecossaise sur un theme populaireのテーマに至極類似していることに気がついたからである。

この曲は、ドビュッシー初の委託作品、依頼主は「リート将軍」という人物で,スコットランドの伯爵家の血を引く人物とされる。
「牧神」の3年前に作曲されたこの曲は、「牧神の午後への前奏曲」の「前奏曲」的音楽語法が垣間見れるような曲調があり、重要な位置づけ作品とする人もいるらしい。

曲調のコメントは苦手だが、思いつくものを上げてみる。

3部形式風のところは「牧神」を想起するが、主題が変化しながら繰り返されるのが循環形式風でもある。
なんといってもこの曲の主たるところは、スコットランドの古謡をモチーフにし、スコットランドスケールのトリルで始まる民謡主題が、リズムや和声により表情を変えて行くところ。

中間部ではシンコペーションの巧みなこと、テンポを非常にゆるく取るため、別の主題のように感じるが、よく聞くと同一主題の巧みな変身であることがわかる。

そして力強く活気あふれるような主題にまた戻り、最初のスコットランドの古謡のテーマが、途中3拍子と変わりながら、終曲へと向かう。

こうなると気になるのが、ドビュッシーが引用したスコットランドの古謡。
手持ちのものなどを当たっては見たが、今のところ該当するものが発見できないでいる。
ただ、このメロディー、かなり耳に馴染んだものだったので、思いを巡らしていた時に出てきたのが「ジェンカ」であったというわけなのであった。

フィンランドとスコットランドの民謡は、本来であれば結びつくはずは無いのだが、「ジェンカ」は、民謡ではなく、1963年フィンランドの作曲家「ラウノ・レティネン」が作った「Letkis」が「民謡」という意味であったのを、フィンランド民謡として間違えて認知したため、この作品がフィンランドの「古謡」であるがごとく扱われてしまったことによる誤解であること。

恐らく作曲者の「ラウノ・レティネン」は、作品のモチーフをブリテン諸島の民謡に求めた、その結果、ドビュッシーが「行進曲」に引用した「スコットランド民謡」と、フィンランドの・・・フォークダンスの曲として有名になった「ジェンカ」の類似性を見ることになったのだ、という結論を得ることとなった。

しかしながら、いまだにこの2つの曲のテーマのオリジナルと推測されるスコットランドの古謡を発見するに至っていないから、今日も引き続きそれを探す旅が続くのである。(このような作業は、小生にとってはとても面白いことである)

「ディミトリーティオムキン」が作り、「マーティ・ロビンズ」が歌った映画「アラモ」の主題曲「アラモの歌」にも類似を見ることが出来るから、元歌の発見は近いかもしれない。

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小生が聞くドビュッシーの「スコットランド行進曲」の音盤はただ一種しかないが、この録音、同時に収録されたものを聞くにおよび、その演奏の秀逸なことは、認めないわけにはいかない。

とりわけ、オケの色彩感の表出はこの指揮者の得意とするところで、ドビュッシー、ラヴェル、そして忘れてはいけないのが、名手「グリュミオー」と競演の「ラロ」の「スペイン交響曲」。

オーケストラから「色」が見える演奏として、小生が気に入っているもの。
「牧神」も「海」も「夜想曲」も「やあ春」も全てが二重丸。

◎マニュエル・ロザンタールの肖像
マニュエル・ロザンタール/パリ国立オペラ座管弦楽団
<収録曲>
ドビュッシー:春の挨拶、アンヴォカシオン
舞曲(スティリー風タランテラ/ラヴェル編曲)、スコットランド風行進曲
牧神の午後への前奏曲、夜想曲、交響詩「海」、サラバンド(ラヴェル編曲)、管弦楽のための映像

ラヴェル:道化師の朝の歌、スペイン狂詩曲、バレエ音楽「マ・メール・ロワ」、ラ・ヴァルスボレロ、バレエ音楽「ダフニスとクロエ」、高雅にして感傷的なワルツ、古風なメヌエット、亡き王女のためのパヴァーヌ、クープランの墓

ムソルグスキー(リムスキー=コルサコフ編曲):はげ山の一夜
ボロディン:中央アジアの高原にて、リムスキー=コルサコフ:熊蜂の飛行
序曲「ロシアの復活祭」作品36、チャイコフスキー:イタリア奇想曲作品45
ファリャ:バレエ音楽「三角帽子」より3つの舞曲、バレエ音楽「恋は魔術師」
アルベニス(アルボス編曲):イベリアより5曲、デュカス:魔法使いの弟子
ACCORD 476 107-6

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by noanoa1970 | 2007-04-27 10:18 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

たんぽぽ繋がりで、・・・

昨日作った「タンポポの酒」、少し足りなかった「ホワイトリカー」を継ぎ足して仕込み終了。
1970年代の半ば、小生はそれまでのホテル修行をやめて、OA機器の製造販売会社に転職した。
息子が生まれて半年の地に、およそ6ヶ月の研修をし、赤坂にある本社勤めが決定する地お富に、東京都保谷市に住まいを移すことになった。
西部池袋線で池袋まで行き、地下鉄丸の内線に乗り換えて、赤坂見附まで、およそ80分の通勤時間は、それまで過した地域では体験できない通勤地獄で、なれない間は会社につくとヘトヘトに疲れる毎日だった。

それでも会社の仲間のうちでは、通勤時間80分は、まだましな部類で、90分以上かけて通う連中がざらであったのには、「これが聞きしに及ぶ東京の通勤事情か」と、改めて認識を新たにした。
フレクスタイム制度が出来たのは、90年代のことであった。

大手写真フィルム会社と、米国に総元締めがあり、イギリスの企業と合併した「複写機」で有名な会社の合弁会社・・・外資が入っている会社であったが、経営はかなり日本的で、中途採用の人材を多く採用した時期だったから、「日興証券」、「高千穂バロース」、「オリベッティ」、等一流企業からの転職者や、地方の「郵便局」で配達をしていたもの、街頭で大声を張り上げる修行でひところ話題となった「ルーちゃん餃子」にいたもの、車のディラーにいたもの、そして小生のようにホテルにいたものなど、全色のジャンルを問わない採用姿勢が、置く戦力を期待していること、中途採用者に6ヶ月もの研修期間を設ける、社員研修教育の熱心なこと、すなわち人材を重視する企業姿勢はかなりうかがえる会社であった。

複写機がメイン商品であったその時代に、小生が同期2里とともに、配属になったのは「ビジネスシステム営業部」という直轄部隊。
通常なら全国の営業所に配属となり、会社相手に主力商品の「複写機」を販売する担当となるのだが、出来が悪かったのか、社内でもマイナーな存在の営業部門に配属となった。
おかげで赤坂の本社勤務となり、東京の中枢の地域で仕事をすることが出来たのだが、その話はまたいずれ・・・・

さて小生が東京に赴任して住んだ地が「保谷」。
この「保谷」というところは、関東ローム層の上にある武蔵野台地の土地で、駅前の道を挟んですぐが「練馬区」だった。
一度家に電話をしようと、道を渡ったところの公衆電話から電話をかけるが一向に通じない。
後にわかったことなのだが、練馬区の公衆電話から電話していたため、市外番号を回す必要のあることにまったく気づかなかったのだった。
大きくない道路の向かいが東京都練馬で、こちら側が保谷市であることをやがて知ることになるのである。

保谷と吉祥寺はそんなに遠くは無く、バスに乗れば30分ほどで、あの「吉祥寺」にいけることもわかり、その頃はまだ昔の面影を残している吉祥寺の商店街をよく散策したものだ。

風の強い日には、洗濯物がローム土埃で、真っ黒になることを除けば、保谷は静かな田舎、住居はまるで畑の中にあるかのようであった。
春には花々が咲き乱れ、野には「たんぽぽが咽ぶ」・・・ディランⅡの歌のような風景がそこにあった。
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「武蔵野たんぽぽ団」は、吉祥寺を根城としたが、保谷のほうがより似合いそうな雰囲気があった。
メンバーの「シバ」が、(我が家の愛犬柴犬の名前は、芝居犬・・・1歳まで楽屋で飼われていたことから、と柴犬、そして武蔵野たんぽぽ団のシバから取ったもの)
貧乏生活を送っていたときに、公園に生えていた「たんぽぽ」を食べて空腹を満たしたという伝説からのネーミングとされるが、1970年代半ばなら、武蔵野台地には、まだたくさんのタンポポを見ることが出来たことだろう。

「たんぽぽ」からの繋がりで、今日は「武蔵野たんぽぽ団」の「武蔵野たんぽぽ団の伝説」を聞いてみた。
「高田渡」、「若林純夫」、「いとうたかお」、「シバ」、「友部正人」、「なぎら健壱」、「佐藤GWAN博」、「林ヒロシ」、「林亭」(佐久間順平・大江田信)、「山本コータロー」、「中川イサト」等が入れ替わり自由参加。
中津川フォークジャンボリーで、「ジャグ・バンド」武蔵野たんぽぽ団を編成「吉祥寺フォーク」の第一人者的存在になったバンドで、彼ら自身の録音は、2つしかのこされていない。
しかし高田渡のバック演奏としても活躍した。

高田さん若林さんはすでにお亡くなりになってしまった。
英語の歌詞を日本語に訳したものを歌うのには非凡さが見える。

「若林」の「サンフランシスコベイブルース」「いとうたかお」の「明日はきっと」再び「若林」の「その朝」=「永遠の絆」は加川良の邦訳を歌ったもので、見事な歌いっぷりが光る。
「長屋の路地」は「木山 捷平」の詩に高田渡が米国の民謡をつけたもの。
「シバ」の「もしも」の、幻滅するこの世界に対する空想物語も、時代を反映するとともに、共感を得るところ多し。

途中、高田やメンバーが「岬めぐり」の「ソルティシュガー」を解散した山本コータローを、イジルのが面白い。
高田は、「あんなもの要らない」・・・と、よく公衆の面前で、山本コータローのことを言っていたが、本気か冗談かは、いまだにわからない。

つまりは、「ジャムセッション風」の、このアルバムの全てが「下手であるが素晴らしく良い」という結論になるのであった。

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by noanoa1970 | 2007-04-25 16:05 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

タンポポの酒を作る

「ブラッドベリ」の小説そして「佐藤(GWAN)博」の歌に触発され、「タンポポの酒」を作ってみようと思った。
朝夕の散歩道や近くの里山で、今タンポポが咲き誇りだしている。
「ディランⅡ」も「ガムをかんで」の中で「タンポポ咽ぶ春の野原・・・・」と歌っている。

犬と家内を連れて、以前から目をつけていた、たんぽぽ畑のような場所に行って、タンポポの花を摘んでいると、どこかの小母さんが「タンポポ積んで何にされるんですか・・・」と、声をかけてきた。
「タンポポのお酒をつくるんです」と答えると、怪訝そうな顔をしていた。

まさか「ブラッドベリ」や「佐藤」を持ち出すわけには行かないから、それっきり黙って、ひたすらタンポポの花を摘んだ。
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「ブラッドベリ」に登場する「タンポポ酒」は、タンポポを煮出してエキスを抽出し、酵母と雑ぜて発酵させるという、本格的な作り方であるのだが、小生は「梅酒」のように作る方法を選択した。

素材は、ホワイトリカー、グラニュー藤(氷砂糖のほうが良いがたくさんあまっていたので、これを使用)、レモンピール、そしてつんできた・・・およそ300グラム以上はありそうな、タンポポの花を水洗いし、キッチンタオルで水分を飛ばしたものに合わせ、蓋つき広口瓶につめる。
作業はたったこれだけであるが、タンポポの花を摘むのには、相当の労力を必要とした。
長時間腰をかがめるのは大変にしんどい。
しかし、来年には「ブラッドベリ」疑似体験が出来る、その一心で思ったより随分とたくさんの花を摘むことが出来た。
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果たしてその味は・・・・
来年が楽しみである。

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by noanoa1970 | 2007-04-24 16:00 | 季節の栞 | Comments(2)

フックス、クレメンティ、サン=サーンス、ドビュッシーそしてクレーを結ぶもの。

これら音楽家の名前は、一見何のつながりもないように見えるが、コアなクラシックファン・・・中でも相当マニアックな諸氏で無い限り、ピンと来ることは無いであろう。
そういう小生は、けっしてマニアックなクラシックファンではないが、ひょんなことから彼らにつながる「キーワード」を発見することなり、面白そうなものが見えたので記述しておく。

その「キーワード」とは、音楽の技法の重要なものの一つ「対位法」である。

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その時丁度小生は、17~18世紀に活躍した「ヨハン・ヨーゼ・フフックス」という作曲家の、「皇帝のレクイエム」(「ゼレンカ」と同年代)という音盤を入手して聞き及んでおり、彼が「対位法」の研究者でもあり、「グラドゥス・アソ・パルナッスム」という対位法の理論書を、残していることを知るに及んだことに端を発する。

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そして、「グラドゥス・アソ・パルナッスム」といえば、すぐに思い浮かぶのが、「ドビュッシー」の「子供の領分」第一曲「グラドゥス・アソ・パルナッスム博士」である。
そしてこの曲は「ドビュッシー」が、いやいやながらする、子供のピアノの練習風景・・・そしてその練習曲の作者が「クレメンティ」であることから、「クレメンティ」が・・「フックス」の対位法研究をピアノ教則本にした同名の「グラドゥス・アソ・パルナッスム」の「つまらなさ」をパロディったとされる。

小生もこの「クレメンティ」の教則本には思い出があって、小学生のときに妹が「バイエル」から「ブルグミューラー」、そして「チェルニー」・「クレメンティ」に進み、毎日のように聞かせれてきたから、「耳蛸」状態の時期が有ったのだった。
しかし「ハノン」に比べると、「クレメンティ」は、そこに音楽なるものを見出せたことも事実であった。
「クレメンティ」に比べると、「ハノン」は本当につまらない。

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後に、「ニッティグリッティ ダート バンド」の代表アルバム「アンクルチャーリーと愛犬テディ」のなかで、名手「ジム・イボットソン」がバンジョーで36番を見事に弾き切ったのには驚いたものだった。

しかるに「グラドゥス・アソ・パルナッスム」は、「フックスの対位法の教書」の名前で、そのルーツは、ギリシャの「パルナッソス」・・・都市デルポイのあるところの、「芸術の山」と称されるところからのもの。
登山が険しく困難なことから、「芸術の森」の象徴とされ、その道に到達するのには音楽では、「対位法」を極めなければならない。
「フックス」が「対位法教書」を書き、後に「クレメンティ」が・・・恐らくはギリシャ神話、「フックス」両方に敬意を表しピアノ練習曲にした。

そして何故か、「ドビュッシー」はその「クレメンティ」を、「退屈なピアノ練習」の象徴に取り上げたのである。
しかし「ドビュッシー」の「グラドゥス・アソ・パルナッスム博士」を聞く限りにおいては、決して子供の退屈なピアノ練習の姿は見えない。
「ドビュッシー」は、「クレメンティ」を通して、「フックス」を見据えていて、「対位法」がけっして古い音楽語法ではなく、そこに存在する・・・後の「セリエ」などにも通じるような、古き手法の中の近代性、斬新性を鋭い目でに破っていたのではあるまいか。

「対位法の近代的応用パターン」、そしてやがて来る新時代・・20世紀以降の「対位法」の萌芽のようなものが見えるような気がする。

さて、「ドビュッシー」より少し年代はさかのぼるが、「サン=サーンス」には、子供のための音楽として有名な「動物の謝肉祭」という組曲がある。
小生は近年になってから、オリジナルの「室内楽」演奏版を入手して、聞いているのだが、管弦楽版とは違う面白さがあることを発見した。
さて彼は「人間」も「動物」であるといわんばかりに、多くの動物の中に「ピアニスト」という人種を忍ばせた。
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これも「ドビュッシー」が子供のピアノ練習に「クレメンティ」をパロディったとされるのと同様に、ピアノの稽古・・・ワザト間違えて弾くところを表現しているのが面白く、弾くのが子供なのか、素人の大人なのかは議論が分かれるところ。

しかし、この練習曲、実は「サン=サーンス」のオリジナルではなくて、「クレメンティ」がその作者であるということを知れば、ここでピアノを弾いているのは、「ドビュッシー」が「いやいやながら練習する子供」(小生は、その音楽から「対位法賛歌」であると考えるのだが)を表現するために、象徴的に用いた「クレメンティ」を使った先達ということになる。

サン=サーンス作品を、「下手なのに、本人はいたってまじめで、自らを上手だと確信している、バカな人間」それを皮肉ったとの解釈も成り立つが、いずれにしても「対位法」・・・・・・「フックス」、「クレメンティ」を見据えており、
その音楽から見るに、「サン=サーンス」が、「対位法」に対する、ある種の飽き飽き感を持つに至ったのだろうことは、想像しても良いが、ドビュッシーの音楽からは、そうとは思えない。
むしろ、「対位法」に新しい価値を、見出そうとしていたのではないか、という印象さえ受けるのである。

両者の「クレメンティ」のモディファイと、対位法の使い方からは、そんなものが見えてきそうだ。
しかしながら、「サン=サーンス」自身、「対位法」の大いなる使い手であったことも事実であろうから、本当のことはよくわからない。

ともあれ、「対位法」というキーワードで、ドイツ・オーストリアとフランスの、4人の音楽家達・・そしてカントリーロックバンド:「ニッティ グリッティ ダート バンド」にまでが繋がったという発見をすることができたのは、「フックス」の「レクイエム」のおかげであった。

それにしても「フックス」の「レクイエム」は、すばらしすぎる。
そしてモーツァルトが音型を拝借したことがあり、ベートーヴェンが一目置いたという「クレメンティ」子供のピアノ練習曲の作者としてだけの認知では、あんまりすぎるように思う。
ARTSから「ピエトロ・スパーダ」の演奏するクレメンティのピアノ曲全集が出ていたのを見かけたから、いずれ入手しようと決めている。

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上の写真は「パウル・クレー」の「パルナッソス山」
三角形は山、赤い円は太陽、下のアーチの形は神殿の門ということらしい。
チョット目には、よくわからないことであるが、「ポリフォニー」と「対位法」という音楽のアイディアを絵画的に表現しようと試みたといわれる。
「パウル・クレー」もまた、「フックス」、「クレメンティ」を意識していたのだろうか。絵画→音楽の印象的影響霊は多いとされるが、音楽→絵画は、余り無いようだから、とても珍しいことである。
「クレー」はかなりの音楽マニアであったのだろう。
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by noanoa1970 | 2007-04-23 09:30 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

「パックの踊り」の大胆な仮説

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写真は「ジェリージェフウォーカー」

先のエントリーで、ドビュッシーの「ミンストレル」そのルーツとしての音楽的背景が「タップダンス」音楽、やボードビル音楽である、ということを書いてみた。
つまり、「アフリカ」、「イギリス」、「アイルランド」、そして「アメリカ」、そればかりか「イベリア半島」や「ブルターニュ」、「ギリシャ」とそして勿論母国「フランス」とドビュッシーの「音の探求」は続くこととなる。
しかもそれらが連関することは着目すべきことではなかろうか。
それについての考察はいずれとしたいので、11曲「パックの踊り」について触れることにしよう。

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写真はアイルランドの「リヴァーダンス」

「パック」とは、シェイクスピアの「真夏の夜の夢」に「オベロン」とともに登場する間抜けな妖怪であるという指摘は「てつわんこ」氏のエントリーでも明らかなようだ。
「コブリン」や「ロビン」との同一性を解く説もあるから、子供っぽくて、いたずら好きな妖怪であるともいえよう。

しかし「パックの踊り」の「踊り」という表題に、そしてその音楽に、小生はかなりの引っかかるものを感じるのだ。
もしも、「パックの愉快な悪戯」という表題であれば、手放しで納得するのだが・・・

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写真上向かって右、写真下真ん中が「PUCK]である

そして、これからが大胆な仮説になるのだが・・・・
前提として、11曲「パックの踊り」と12曲の「ミンストレル」を続けて聞いてみよう。
この音楽の共通点を探れば、それは「踊りのリズム」、しかもかなり「ずっこけたところ」、すなわちボードビルやおどけたタップダンスのように、聞こえないだろうか。
小生の仮説は
11曲と12曲は同じ土壌から生成された音楽では無かろうかということだ。

「パック」という言葉から、それは遠くギリシャ神話か、ケルト神話の、あるいはそれらの後の世代の叙述、シェイクスピアの「真夏の夜の夢」あるいは、キプリング「プークが丘の妖精パック」、ナルニア国のフォーンのタムナス・・・ヤギ人間であるとする「てつわんこ」氏の指摘も有る。

しかし言葉を返すようであるが、小生には「パックの踊り」の音楽的背景が「妖精たちの踊り」であるとは、到底思えないのである。
「パック・・・」ではJAZZやラグの音楽語法が見え隠れし、どのように聞いてもそこにはドビュッシーがある意味得意とした古代の神々や「妖精」を髣髴させるような音楽は鳴っていないと思うのである。

「ミンストレル」で見られる「ズンタ調」や「ブルーノート」「ダンスのリズム」
「スウイング」なども聞こえてくるのだが、デルボイや亜麻色で見せた「古代旋法」や「ケルトスケール」は、ここでは存在しない。

そのことは、小生に11曲と12曲が連なっていて、それも本来は「逆順に」なっていたのではないかということを大胆な仮説とさせる。

さて先回の「ミンストレル」を振り返ると、ショーの中で「ボージャングルス」に代表されるボードビリアンやダンサーが踊り歌いする中の「タップダンス」に、いくつかのステップの種類があり、それぞれ「ブラッシュ」「フラップ」「シャフル」「ボールチェンジ」「クランプロール」と呼ばれルものがありこれらはアメリカ南部の奴隷たちの間で親しまれているうちに次第に交じり合い、19世紀初めには「バック・アンド・ウイング」(buck-and-wing)「クロッギング」などといった、皮底の靴でおどるダンスが生まれたのである。

これらのタップダンス音楽の中には、バックミュージックの「ラグタイム」音楽として、WILLIAM H KRELL.(1873-1933) が1897年にNEW YORKの出版社S・BRAINARD'S SONS COにより出版し、KRELL'S ORCHESTRA が 初めてシカゴで演奏したといわれるものが有り、曲はCAKEWALK、PLANTATION SONG、TRIO、BUCK AND WING という4つの主題からなり、KRELLが ミシシッピー河領域を見学した際に発見した音楽のルーツを充分に反映させているという。

ラグタイムは黒人音楽、ヨーロッパ派クラシックに ジャズの要素が混じり有ったもの。
ユビー・ブレークは、「どんな曲でもシンコペーションを含む音楽は基本的に「ラグタイム」であるといっている。

ドビュッシーもそしてラヴェルもこの「ラグタイム」から、大いなる音楽的感化を受けたことと思われる。ひよっとそたら、ドビュッシーがWILLIAM H KRELLの楽譜を見ていた可能性も有ると推測可能なのは、WILLIAM H KRELLが「CAKEWALK」の楽譜を出版したという記述からである。

「パックの踊り」は「バックの踊り」で、バック=BUCK AND WING の「バック」
すなわち、ミンストレルショーでのボードビリアンもしくはダンサーによって歌い踊られた、「タップダンス」のステップの代表的なものの一つの
バック=BUCK AND WINGによる踊りではないか。
ドビュッシーは「バック=BUCKの踊り」とするところを、「パック=PUCKの踊り」としてしまった。
これをドビュッシーが入手した楽譜の表記ミスからなのか、プレリュード出版に当たっての出版社のミスなのか、ドビュッシーがワザトそのように記したのか( VOILESに定冠詞をワザトつけなかったドビュッシーであるから、そのくらいは平気でやれる男)

今までこのような「妄想的仮説」をだれも考えてはいないであろうから、「PUCK≠BUCK」 であるとは考えられないと、真っ向から反論を食いそうであるが、少なくとも、聞こえてくる音楽からは「PUCK」=妖精や半獣半人・・ヤギ人間、それを髣髴とさせるような「音型」は聞こえない。
それどころか、そこから聞こえるのは、移民たちによって米国で黒人音楽と結びつきを見た、JAZZの語法、タップダンス音楽・・・ラグタイム、時にブルーノートであることは、一体何を物語るのか、新たなる興味がわいてくるのである。

メンデルスゾーンに「真夏の夜の夢」の音楽があり、その中の一こまから着想されたものかもしれないが、小生の勘では、どうも「シェークスピア」「メンデルスゾーン」とは、無縁のような気がしている。

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by noanoa1970 | 2007-04-21 16:30 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ドビュッシーのアメリカ

先日起きた地震で思わぬ拾い物をした。
半年以上行方不明となっていた「ジャン ピエール アルマンゴウ」が弾くプレルードの全集盤だ。「ARTS]レーベルの優秀盤で、「ギーゼキング」「サンソン・フランソワ」以上に、聞いていたもので、あきらめていたのだったが、棚の隅に追い込まれていたのだろう。
崩れ落ちた中にあったのを発見したのは喜ばしいことであった。
「NOVA友」ならぬ「猫友」の「てつわんこ」氏が、ちょうどプレリュード一集、12曲についてエントリーしていたこともあって、再発見した録音を改め、聴きなおしてみることにした。

「デルボイ・・・」および「亜麻色・・・」については、少しばかり角度の違う視点よりのエントリー先にしたが、11曲と12曲・・・最後の2曲について、書き置いてみたいと思う。

12曲、「ミンストレル」は、「てつわんこ」氏ご指摘の「ミンストレルショー」からの音楽的印象を表出したことは、ほぼ間違いの無いことであろう。
さてこの「ミンストレルショー」とは一体どのようなものだったのであろう。
「ボードビリアン」「タップダンス」「黒人の真似をした白人」「黒人そのもの」それらのキーワードで語られることが多いが、「タップダンス」のルーツは、アイルランド人の踊りで、それが移民とともに、アメリカに入って、当初は「木靴」で、音を立てながら踊る様は、今でもアイルランドの「リバーダンス」やブルーグラスで「ビルモンロー」がフィドルなどをバックに愉快に踊る様は映像で見ることが出来る。

このように、ミンストレルショーで見られる、タップの起源は、イギリスの伝統的なクロッグダンスとアイルランドのジグダンスが、移民とともにアメリカに渡り、黒人部族の音楽リズムが融合したものであるといえる。
1828年にはこれらのダンスを取り入れた最初のミンストレルショウ(白人が顔を黒く塗り黒人のまねたショウ)が行われたとの記述もある。

興味深い記述として
『1800年代の後半には黒人ダンサーもミンストレルショーに加わり、バラエティに富んだショウは、当時、アメリカの最もポピュラーなエンターテイメントであった。その大切なツールであるダンスシューズは、木靴を履いて踊る"buck-and-wing"とあまり音のならない革靴で踊る"soft-shoe"の2つに分かれていたが、その後、それらは徐々に融合し1920年代に革靴底のつま先と踵に金属製のチップを取り付けたタップシューズが誕生したと言われている。』
当初、白人による黒人差別的な雰囲気のあったミンストレルショーに、やがては黒人そのものが参入したということは注目である。
「ビル・ロビンソン」やタップの父と言われた「ジョン・バブルス」は黒人タップダンサーとして知られるところ。
「フレッド・アステア」、「ジーン・ケリー」など白人のハリウッドスターも跡に続くことになる。

小生が好きな「ジェリー・ジェフ・ウォーカー」というアウトロウの歌い手が作った「Mr. Bojangles」は、「NGDB」がカバーし「アンクル・チャーリーと愛犬テディ」というアルバムに収録し、 大ヒットしたことをご存知の方も多いと思う。

歌詞の中に、ボードビリアン、ミンストレルショー、タップダンスというキーワードが出てくるので、紹介しておく。

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参考までに、ジャケットの写真を添付した。ここでは「ジェリー」自身が黒人に扮しててミンストレルショーに出演する様子を写している。

「ミスター・ボージャングルス」
ボージャングルという男を知っていた
擦り切れた靴をはきダンスを踊ってくれる
白髪頭でくたびれたシャツにダボダボのパンツ
それにあの古ぼけたはき心地のよい靴で
彼は高く跳んだよ とても高くね
そうして軽やかに着地したもんだ

ミンストレル・ショーやフェアーで踊って
南部中を回ってきた
15年間 彼と彼の愛犬が
どんな旅をしてきたかを
涙ながらに話してくれた
その犬は年老いて死んでしまった 
そう、年老いて死んでしまった
20年も昔のことなのに
今もまだ悲しいんだそうだ

「いまも機会があれば 酒とチップを目当てに
安キャバレーで踊るんだ
」と彼は言う
「でも今は こんな田舎のムショ暮らしさ
ちっとばかし飲み過ぎるんでね」

タップダンスは、アフリカ=黒人の音楽リズムが、アイルランド伝統の木靴ダンスと、米国南部で結びつき、やがて靴底に、金属の「タップ」を貼り付け、あのタカタカという独特の音を踊りながら出す音楽である。

そして、タップダンスのダンスシューズは、木靴を履いて踊る"buck-and-wing"とあまり音のならない革靴で踊る"soft-shoe"の2つに分かれていたが、その後、それらは徐々に融合し1920年代に革靴底のつま先と踵に金属製のチップを取り付けたタップシューズが誕生したと言われている。
「ボージャングルス」は、恐らく"soft-shoe"のタップダンサーであったのだろう。

ミンストレルショーはタップダンサーやボードビリアンなどが寄せ合って成り立つ、見世物で当時の米国随一のエンタメであったというあったという事から、この旅芸人一派が海を越えてヨーロッパにもわたって活動したことは、大いに推測可能なこと。
フランスのカフェや酒場、あるいはイベントなどに出演していたのをドビュッシーは見たのだろうか。

「ミンストレル」のほかに、「ゴリウォークのケイクウォーク」「風変わりなラヴィーヌ将軍」も、ミンストレルショーのボードビリアン音楽からの発想かもしれない。

・・・・・・・11曲「パックの踊り」に続く

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by noanoa1970 | 2007-04-21 12:59 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)