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祖先の肖像4・・・木曽御料林事件の背景

木曽福島町史 第2巻 現代編Ⅰ 昭和57年 木曽福島町役場発行に、「島崎広助」、と小生の高祖父・・・小説での名前「河合定義」が訴えを起こした「事件」の背景となる記述を発見したので、参考としてあげておくことにする。
簡潔にまとまっており、分かりやすい。

太閤検地から江戸時代尾張藩の管轄になっても、木曾谷の農民は、他の農民よりも年貢の負担が軽かったという事実が、ある研究者の手で明らかにされている。
それは恐らく建築などのインフラのおおもとの木材供給を引き受け、山を林を守る民の位置づけを、「お上」が暗に認めていたからであろう。
その上・・・森林管理の代償として、年貢(米)の納付高の軽減と、入会地とされる山林へは自由に立ち入って、生活の必需品を収穫することが許されていたようである。
ところがそのような生活が、明治政府の様々な命令によって、不可能にならざるを得なくなった村民は、新しい世の中への期待が完全に裏切られたとして、江戸時代への回帰を夢に見つつ明治政府に対しての反発・不満を持つにいたったのだろう。「夜明け前」で語られるものは、このような意識の流れがいつも底辺にあるように思われる。

高祖父は、訴えを起こす前に、明治政府の「地租改正」による税負担が重くなることを察し、このままでは村民の暮らしがままならぬことを悟ってか、今まであまり重要視されてこなかった「農業」を見直し、発展させるべく、農地の開墾作業に取り掛かっていたということだと思っている。

以下引用
尾張藩の林政と木曽美林

〔果たして圧政だったのか〕

木曽国有林といえば「ヒノキの美林」として余りにも有名です。その美林成立を物語る時、必ずといってよいほど話題になるのが「木一本首ひとつ」のたとえ話です。
この言葉は江戸時代、木曽を領有していた尾張藩の山林保護政策がいかに厳しいものであったかを示すたとえとして、これもまた有名すぎるほど有名です。

四国の香川県一県の面積に相当するといわれる木曽谷は、その95%が山林で、尾張藩はこの広大な山林を全部藩有林とし、住民の私有は許されていませんでした。
尾張藩では山林の保護制度として、巣山(すやま)・留山(とめやま)と呼ぶ禁伐林を設けて住民の立ち入りを厳禁し、また停止木(ちょうじぼく)と称して、ヒノキ・サワラ・ネズコ・アスヒ・コウヤマキ・ケヤキの六木を禁止する制度をとり、禁伐林の木を盗む者を「盗伐り」(ぬすみぎり)、停止木を伐る者を「背伐り」(そむぎり)として厳罰主義をもって住民に臨んでいました。ヒノキ一本を盗んだだけでも首が飛ぶといった厳罰をおそれたのが、「木一本首ひとつ」の言葉の由来だと伝えられてきたものです。

尾張藩の圧政に苦しめられた木曽谷の住民。こんなイメージをもたれる人もさぞ多いことでしょう。
しかし、江戸時代初期における1~2例を除き、盗背伐者が極刑に処せられたという事例は、記録にはほとんどでてきません。
また、住民の立ち入りを絶対禁止したといわれる巣山・留山(木曽全郡で59箇所)の面積は、木曽全林からみたらわずかにその7%に過ぎず、これ以外の山林は明山(あきやま)といわれる開放林でした。

〔繁栄する木曽谷の経済〕

住民は明山へ自由に立ち入ることを許され、日常生活に必要な家作木(かさくぼく)[建築用材]や薪炭材・柴草・干草、食糧の補いにするクリ・トチ・ナラの実(ドングリ)などを採取することを公認され、停止木である六木以外の木材なら、誰でも自由に利用することができました。

このため、江戸時代における木曽谷住民の生活水準は、他の藩の農民と比べ高くとも、決して低いものではありませんでした。当時の木曽谷は中山道の要衝に位置し、木曽十一宿があり、その交通所得も宿場町の発達につながっていったのです。
桧物細工(ひものざいく)[木地・漆器など]、木櫛・桧笠・下駄などの木材加工業による収入が大きく、当時としては驚異的な数字である1万5千人の人口を擁して繁栄していたのです。
そして、この消費都市である宿場町を控えた周辺の農村の約2万人の人たちも、藩行(はんこう)伐木に従事する杣(そま)・日雇(ひよう)などの林業労働による収入、木曽馬の名によって知られた畜産、宿場町への家作木や薪炭材の供給などによる収入が少なくなく、郊外農村的要素をもって、貨幣経済が流入し、比較的経済基盤が安定していました。宿場町の奈良井・平沢・八沢(福島)では、住民の生活資材として毎年尾張藩から無償で給付される「御免白木」(ごめんしらき)と呼ぶヒノキの割材を使って、木曽谷特産の市漆器を生産していましたが、こういったヒノキの特別利用のほか、開放林である明山から伐り出した雑木を利用した木材加工業も発達していました。
歩く商品として経済性の高かった木曽馬の生産も、明山に含まれる草刈場からの飼料としての干草が確保できたことのよって可能になり、莫大な量に上りました。
また、不安定な食糧事情にあった木曽谷では、クリ・トチ・ナラの実・ササの実(野麦)や、わらび粉・くず粉・かたくり粉にいたるまで、みな重要な食糧になっていましたが、これもみな広大な明山から自由に採取していたものであり、馬の飼料として笹の葉も毎年、相当奥地まで入り込んで採集していました。


〔木曽美林を生み出した尾張藩の山林保護〕

このように見てくると、尾張藩が明山のヒノキをはじめとする停止木を厳重に保護しながらも、いわゆる停止木以外の立木の伐採を許可し、これを利用させるといった、木曽山林の約93%に及ぶ明山を住民に開放していた林業政策が、木曽谷住民生活安定に大きく結びついていたことによるものだとうかがいしることができます。
明山から雑木類がおびただしく伐り出されたということは、停止木であるヒノキをはじめとするいわゆる木曽五木の生育のための障害木が徐伐あるいは間伐されることになり、「五木を残し、雑木を伐れ」と住民に山林利用の活路を明山に求めさせた藩の施策は、労せずして自然のうちに一種の整理伐作業を推進させ、結果的には今日みられる木曽美林を生み出すひとつの要因となっているものとみることができます。
こうした観点から木曽国有林の成立を見るならば、「木一本首ひとつ」の恐怖林政によって成立したとする木曽山に対する歴史観は見直さなければならないことになります。

〔明治時代の林政と御料林事件〕

しかしながら、尾張藩が木曽山林のすべてを藩有とし、明山の入会権は認めていたものの、私有は一切許さなかったその政策は、明治維新後の官民有林区分に当たって、木曽谷住民に大きな不利を与えることになります。尾張藩有の木曽山林のほとんどが官林に移行されたからです。明山まで官林に指定されれば、住民の立ち入りは禁止され、生活の糧を失うことになります。

この官民有林区分に対して、反対のノロシを上げたのが、明治の文豪島崎藤村の兄、島崎広助です。彼は妻籠宿本陣の当主。御料林事件と呼ばれた事件解決に向け、木曽谷住民の先頭にたって奔走しました。
しかしこの時期、官林が天皇所有の御料林に指定されたことから、運動は困難な局面を迎えます。明治時代の天皇は現人神。反対を唱えることは、天に弓引くことだったからです。しかし広助はあきらめることなく粘り強い交渉を続け、結局御料林の決定は覆すことが出来ませんでしたが、御下賜金という形で解決をみることができました。

高祖父の名前が登場しない不満はあるが、その名前は「農地開墾の士」として、他の資料ににて記されている。また高祖父の本願地は「日義村」で、「福島町」とは行政が別であったことにも起因するのであろう。
(現在は長野県木曽郡木曽町としてどちらも併合されたから、ゆくゆくは統合され町史に記載されることであろう)
    
昭和57年木曽福島町史 第2巻 現代編Ⅰより参考  

by noanoa1970 | 2007-02-28 16:15 | 家族の肖像 | Comments(0)

祖先の肖像・・・3

少し長くなるが、「夜明け前」下巻から問題の箇所を抜書きすることにする。
「夜明け前」の主な登場人物は、平田派の国学思想に基づく「王政復古」思想を強く持った庄屋・本陣の職である「青山半蔵」。
「宗太」は 「半蔵」の長男、18代目島崎家を継ぐ島崎秀雄であり、「正巳」が下に引用した文章にある・・・半蔵の次男で、3才の時妻篭の本陣「青山寿平治」へ養 子に出 て、妻篭島崎家を継いだ人である。「島崎広助」である。
藤村は「夜明け前」で、実際の「島崎家」をほぼ忠実に書いたとされている。
下記引用箇所は、「藤村」の次兄「正巳」=「島崎広助」について語った箇所で、父「半蔵」、兄「宗太」との性格、心情、思想の違いを強く出しているところでもある。
そして、彼については「木曽御用林事件」の顛末に触れることにより描かれる。

文中黄色文字で示したところが、小生の4代前の高祖父のことである。勿論姓名は変えての登場であるが、ある研究者によれば、・・小説では24歳と設定されているが、実際は20歳の若き「島崎広助」を補佐する立場で、あるいは木曾谷の村々の代表として、陳情書に「広助」と連名で署名し、提出したという事実が残されているというから、間違いない。
このとき高祖父・・・小説での名前「河合定義」は54歳であった。
小説では「広助」が自由党びいき・・・すなわち時の政界に関心があったことを思わせる記述がある。

文中、戸長≒村長の立場には無いものが、村々の「総代」として立ったことに対する半蔵の懸念が語られ、「若気の至り」風に語るが、実際はそうでなく、木曾谷の村民上げての依頼であったとする、文中「河合定義」(かわいさだよし)の研究があり、豊富な資料を基にした、彼の詳細なプロフィールを語っている。彼はそのときすでに50台の半ばであり、庄屋職を辞し、女房子供と離縁してまで、(尾張徳川の指令による、公武合体の情報収集活動の蜜命を帯びたのか、江戸の推進派の公家のもとに赴き、時を経て木曽に戻るとその経緯を語る)・・・・つまり、かなり危険な立場の仕事をしたとされる。
木曽に戻ってから「木曽御用林事件」に関与するのは、太閤検地から徳川まで連綿として続いてきた木曽林の入会地入植権利が、新政府の「地租改正」により、没収され「官林」となったのを期に、それまでは米、野菜などの主要農作物に乏しい荒地を、全財産を投じて、開拓する最中のことであった。

上の写真は、その功をたたえ記念してその地の住民によって立てられた石碑である。
開拓地は、木曽駒ケ岳山麓からの冷水で、米作は失敗の連続、肥料に乏しく開拓は途中で行き詰ったが、後年化学肥料や溜池設備によって水温が上昇し、土壌が豊かになった時代になって、彼の開拓した土地は、木曾谷でも有数の稲作地となった。彼が中心となって開拓した土地は、借金と地租改正によりそのほとんどを手放さざるを得なく、代々続いた庄屋の地位も、維新と借金で土地建物を全て手放すこととなった。

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現在残されているのは、高祖父が開拓した土地に「皆可亭」と名付け、開拓の傍ら花鳥風月月に親しんだと身ゆる、付近に残されたわずか100坪足らずの小さな土地、そこには彼が植えたのであろうか、枝垂れ山桜の老木が1本長い風雪にも負けないで、今も4月の末から5月初めには、薄墨色の小さな花を見せてくれる。
周囲の自然は変わったが、しかしまだところどころに、高祖父が実験的に植えた「アスパラガス」「ホップ」「ハッカ」「クワ」を見ることが出来る。

小生も小生の父親も直系の長男・・・いわば跡継ぎの立場であるのだが、一度も本籍地である木曽で住まいしたことが無いのに、小生の祖父の妹と娘=小生の父親の従兄弟は、一生涯木曽に住んでおり、冠婚葬祭や墓のお守りなどを積極的にやってくれた人であり、曽祖父、高祖父の話を伝え聞く人であったが、その人たちもすでに亡くなってしまった。

しかし小生の手元には、小生が直系ということもあって、10年ほど前に木曽に行った時に預けられた高祖父の和歌・・・・紙にも事欠いたのか、薄い和紙の両面にかなり多くの和歌が達筆でしたためられたものと、漆塗りの小さな「膳」・・・聞く所では、娘の結婚に際して、何も持たせるものが無かったのか、高祖父自ら作成した物だという。親戚の家に保管されていたものを探して収集したものだそうだ。

先祖の遺産は、わずかな土地と桜の古木、そして和歌と手作りの「膳」にしか過ぎないが、木曾谷に何らかのメリットを創造した人物であったことは確かである。小生はこの話を残しておく義務があるyのではないかと、最近強く思うようになってきている。
もう少し整理して、ブログに残しておきたいと思っているのである。

以下「夜明け前」より引用    
『次男正己は妻籠の養家先から訪(たず)ねて来て、木曾谷山林事件の大長咄(おおながばなし)を半蔵のもとに置いて行ったことがある。正己の政治熱はお粂の夫(おっと)弓夫とおッつ、かッつで、弓夫が改進党びいきならこれは自由党びいきであり、二十四歳の身空(みそら)で正己が日義村(ひよしむら)の河合定義(かわいさだよし)と語らい合わせ山林事件なぞを買って出たのも、その志士もどきの熱情にもとづく。もとよりこの事件は半蔵が生涯の中のある一時期を画したほどであるから、その素志を継続してくれる子があるなら、彼とても心からよろこばないはずはなかった。ただ正己らが地方人民を代表する戸長の位置にあるでもないのに、木曾谷十六か村(旧三十三か村)の総代として起(た)ったことには、まずすくなからぬ懸念(けねん)を誘われた。 長男の宗太も次男の正己も共に若い男ざかりで、気を負うところは似ていた、公共の事業に尽力しようとするところも似ていた。宗太の方は、もしその性格の弱さを除いたら、すなわち温和勤勉であるが、それに比べると正己は何事にも手強く手強くと出る方で、争い戦う心にみち、てきぱきしたことをよろこび、長兄のやり方なぞはとかく手ぬるいとした。この正己が山林事件に関係し始めたのは、第二回目の人民の請願も「書面の趣、聞き届けがたく候事」として、山林局木曾出張所から却下されたと聞いた明治十四年七月のころからである。そこで正己は日義村の河合定義と共に、当時の農商務卿西郷従道(さいごうつぐみち)あてに今一度この事件を提出することを思い立ち「木曾谷山地官民有区別の儀につき嘆願書」なるものを懐(ふところ)にして、最初に上京したのは明治十五年の九月であった。
 正己らが用意して行ったその第三回目の嘆願書も、趣意は以前と大同小異で、要するに木曾谷山地の大部分を官有地と改められては人民の生活も立ち行きかねるから従来明山(あきやま)の分は人民に下げ渡されたいとの意味にほかならない。もっとも第二回目に十六か村の戸長らが連署してこの事件を持ち出した時は、あだかも全国に沸騰する自由民権の議論の最高潮に達したころであるから、したがって木曾谷人民の総代らも「民有の権」ということを強調したものであったが、今度はそれを言い立てずに、わざわざ「権利のいかんにかかわらず」と書き添えた言葉も目立った。なお、いったん官有地として処分済みの山林も古来の証跡に鑑(かんが)み、人民の声にもきいて、さらに民有地に引き直された場合は他地方にも聞き及ぶ旨(むね)を申し立て、その例として飛騨国、大野、吉城(よしき)、益田(ましだ)の三郡共有地、および美濃国は恵那(えな)郡、付知(つけち)、川上、加子母(かしも)の三か村が山地の方のことをも引き合いに出したものであった。農商務省まで持ち出して見た今度の嘆願も、結局は聞き届けられなかった。正己らは当局者の説諭を受けてむなしく引き下がって来た。その理由とするところは、以前の筑摩(ちくま)県時代に権中属(ごんちゅうぞく)としての本山盛徳が行なった失政は政府当局者もそれを認めないではないが、なにぶんにも旧尾州領時代からの長い紛争の続いた木曾山であり、全山三十八万町歩にもわたる名高い大森林地帯をいかに処分すべきかについては、実は政府においてもその方針を定めかねているところであるという。
 正己は言葉を改めて心機の一転を半蔵の前に語り出したのもその時であった。彼はこれまで人民が執り来たった請願の方法のむだであることを知って来たという。木曾山林支局を主管する官吏は衷心においてはあの本山盛徳が定めたような山林規則の過酷なのを知り、人民の盗伐にも苦しみ、前途百年の計を立てたいと欲しているが、ただ自分らを一平民に過ぎないとし、不平の徒として軽んじているのである。これは不信にもとづくことであろうから、よろしく適当な縁故を求めて彼らと友誼(ゆうぎ)を結び、それと親通するのが第一である。彼はそう考えて来たが、当時朝鮮方面に大いに風雲の動きつつあることを聞いて、有志のものと共にかの地に渡ることを約束し、遠からず郷里を辞するはずであるという。この朝鮮行きには彼はどれほどの年月を費やすとも言いがたいが、いずれ帰国の上はまた山林事件を取りあげて、新規な方針で素志を貫きたいとの願いであるとか。
 半蔵には正己の言うことが一層気にかかって来た。
「まあ、こういう事はとかく横道へそれたがりがちだ。これから先、どういう方針になって行こうと、山林事件の出発を忘れないようにしてくれ。おれがお前に言って置くことは、ただそれだけだ。」
 それぎり半蔵は山林事件について口をつぐんでしまった。彼が王滝の戸長遠山五平らと共に出発した最初の単純な心から言えば、水と魚との深い関係にある木曾谷の山林と住民の生活は決して引き放しては考えられないものであった。郡県政治の始まった際に、新しい木曾谷の統治者として来た本山盛徳は深くこの山地に注目することもなく、地方発達のあとを尋ねることもなく、容易に一本の筆先で数百年にもわたる慣習を破り去り、ただただ旧尾州領の山地を官有にする功名の一方にのみ心を向けて、山林と住民の生活とを切り離してしまった。まことの林政と申すものは、この二つを結びつけて行くところにあろうとの半蔵の意見からも、よりよい世の中を約束する明治維新の改革の趣意が徹底したものとは言いがたく、谷の前途はまだまだ暗かった。』

以上の藤村の小説や先祖の話などから読み取れることは・・・・・
・木曾谷の民衆や地方の大衆にとって、「維新」とは必ずしも手放しで歓迎されるような喜ばしいことではなかった。

・僻地や中山間の村の民衆のことなど、新政府は考えなかった。
明治維新とは権力、支配構造の変化に過ぎなく、大義名分を信じ、期待したものの多くを裏切ることとなった。

・政治家や官僚達は、現場を知らないまま、西洋の模倣を主に近代化、合理化を推し進めた結果、17・8世紀から改善されつつ続けられてきた、「運用の美学」ともいえる伝統的、慣習的手法が覆されることから起こった、生活圧迫。

・旧来の一揆とは違う形での「反乱」そして「樹木伐採」=「盗伐と世に言われる」(近年見直しがある)を引き起こすことになった。

・御用林とは名ばかりで、その実は木曽の森林の権利を国有化するための方便に過ぎず、林業を生業としてきた民の「職」と「収入」そして「生活」を奪うものとなったのである。

つまり一方的な農林政策を押し付けた結果、現地の民が犠牲になったということである。
以上のようなことが、断片的ではあるが、藤村の「夜明け前」殻読み取ることが出来る。

藤村は史実や地方資料を綿密に調査取材して、この小説を書いたことは明らかであるが、この小説を歴史的にも価値あるものとする一方、近年では小説としての脚色がかなり見られ、事実と異なる面も多いことが指摘されているらしい。

高祖父の取材にと、高祖父の娘の嫁ぎ先である奈良井の宿を藤村が訪問し逗留。
当主からアレコレ取材したときの写真が存在するという話を聞いたことがあるから、高祖父小説では「河合定義」の取材は、そのときに行われたものであろう。

by noanoa1970 | 2007-02-27 12:39 | 家族の肖像 | Comments(0)

祖先の肖像・・・2

「木曾路(きそじ)はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道(かいどう)はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠(じっきょくとうげ)まで、木曾十一宿(しゅく)はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷(けいこく)の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間(やまあい)に埋(うず)もれた。」


・・・・・に始まる、島崎藤村の大作「夜明け前」の「木曽」の風景は、長い年月を経てもその景色はあまり変わってないように思われる。
国道19号線が木曽川沿いに1本あるだけで、迂回路はほとんど無いに等しく、大雨が降れば通行止めになり、事故でもあればとたんに交通が麻痺してしまう。

小生も幾度か通行止めの経験があり、長いときには1時間近く足止めを食った経験がある。
それでも木曽に向かうには中央高速道ではあまりにも遠回りで、最近は伊那市~木曽郡日義村に通じる権兵衛峠が開通したが、それでも関西中京圏から木曽に向かうには中津川まで中央高速道で行き、それから19号線で向かうのが常道である。

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19号線からの風景は、高速道路から大きく外れたことが幸いして、小生の記憶のある40年前と、トラックの行き来は格段に激しくなったが、ほとんど変わることが無い。
相変わらずつつましく、自然があふれる木曽川沿いの谷筋である。

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「藤村」は木曽路の岐阜県に近い「馬籠宿」(現在は岐阜県に編入)に生まれた。
生家は代々、本陣や庄屋、問屋をつとめる地方名家で、父の正樹は17代当主で国学者だった。正樹は『夜明け前』の主人公青山半蔵のモデルで、藤村に与えた文学的影響は多大とされる。

「松岡正剛」によると、彼はこの小説を
『ひたすら木曽路の馬籠の周辺にひそむ人々の生きた場面だけを扱っているくせに、幕末維新の約30年の時代の流れとその問題点を、ほぼ全面的に、かつ細部にいたるまで執拗に扱った。』と述べている。

また
『日本人のすべてに「或るおおもと」を問うたのである。その「或るおおもと」がはたして日本が必要とした「歴史の本質」だったのかどうか、そこを描いたのだ。
それを一言でいえば、いったい「王政復古」とは何なのかということだ。』とも言っている。

つまり、単なる歴史小説ではなく、そこに表現されているものは、「日本の近代化」・・・・すなわち「勤皇さ幕」、「尊皇攘夷」、「大政奉還」、「新政府設立」になる「明治維新」とは民衆にとって、あるいは木曽谷の人々にとって、どういう意味を持ったのか?、ということのように思える。
実際読み始めてみると、この話にはかなり詳細な地方史実を取材し、それを藤村の文体で綿密かつ、ダイナミックに書き下ろしている。

木曾谷の田舎といっても、それは中仙道という江戸と京都を結ぶ交通の要所。その中の宿場にも、明治維新前後の激動の波動の波が押し寄せてきたのである。尾張藩の名古屋から馬籠は総遠くない距離にあるから、往来を行き来する人たちからの情報も入ってきたことであろう。

かくして、小生の4代前・・・高祖父は島崎藤村の「夜明け前」に登場することになるのである。

by noanoa1970 | 2007-02-26 14:16 | 家族の肖像 | Comments(0)

祖先の肖像

一度自分の祖先のことなどに、思いをめぐらそうと考えた。

何とか整理して、残しておかないと、恐らくその記憶は徐々に無くなり、子供や孫の代には先祖の記憶はものすごく遠いことになってしまうと思ったからだ。
小生にしたって、たまに祖先の墓参りには行くものの、祖父の記憶は何とかあっても、曽祖父やそのまた先となると、風のうわさ程度の情報しか持ち合わせていないことに気づいた。

先祖代々の墓や「碑」には江戸後期から明治期の・・・小生から4代前の名前が刻まれている。
小生の父親の父親のまた父親だから、高祖父/高祖母というらしく、生まれは江戸時代である。同じ墓には曽祖父母・祖父母も眠っており、祖父母は小生には記憶に新しい・・・といっても祖父は小生が小学校4年生、祖母は社会人になってすぐに亡くなったから、祖父のほうの記憶はほんの少ししかない。

小生の父親は健在ではあるが、もう齢80の半ばを超えつつあり、先祖の記憶があるのかどうか、今までに詳しい話を小生に語ったことは無い。

祖父は明治生まれでの林野庁の役人であったという。そのせいで転勤が多く、北海道で過したこともあるらしい。関東方面から晩年を今は名古屋市に編入されて久しい、東海道の「鳴海宿」
に移った。小生はその地で生まれた。何しろ「頑固」で、毎朝誰より早起きで、茶の間のラジオを大きな音でかけるのと、裏庭の畑で自ら作った野菜、果物を採取して、食卓に出したり、朝ごはんには、小さな蓋つきのの容器に入った珍品を10種類近く並べて、ご飯を食べるのが日課だった。おかげで小生も、「浜納豆」「アミの佃煮」「オクラ」などを幼児期から食べさせられた。

実の色が白いイチジクやもぎたての昔のトマトの味、夏には必ず「ハブ茶」があって、あの薬草のような味は当時は好きではなかったが、今では懐かしく思い出深い味となった。
最晩年の正月には、大きな「凧」を手仕事で作ってくれて、見えなくなるぐらいまで揚げたこと、キリギリスを捕らえるために、キュウリを糸につけて釣りのようにして小薮を時間をかけて探ったこと・・・・かなり長い時間がたってもキリギリスは釣れなかったが、それでも熱心にまだ続けようとする祖父を見た小生は、キリギリスが噛み付いたと思わせたくて、キュウリを少し手でちぎったことなど思い出した。
頑固だったが、孫には優しいところが多かった祖父であった。

さてこれから語ろうとするのは、4代前の先祖・・・・高祖父のことである。
江戸の後期から明治中期までの激動の時代を、長野県木曾谷地方で過した「男の生き様」などに迫れれば良いと思う。

世の中には「先祖」を源平藤橘までさかのぼれる家系の人も多いかと思うが、小生の家系ではせいぜい4代前の資料が、諸所に見られる程度である。

親類の中には、出自を気にする人もいて、小生の先祖を「武士」とするものもいるようだが、資料で分かるのは「木曾谷」の村の一庄屋に過ぎい。
同じ姓(小生の姓は、全国でも100人ほどのかなり珍しい部類で、今までに正しく読んでくれた人は、高校の古典の先生だけであった。何でも古事記に名前のルーツと思しき物があるそうだ。そのほか正しく読んだ人は、その多くが祖先の生活した土地の人がほとんどで、最近九州の方から名前を呼ばれ、出身は九州だろうといわれたと、家内が語っているが、それは征矢野半弥という政治家で鹿児島新聞の社長がいたからであろう。あとは親類縁者関係の人ばかりである。)

一説には、武田に敗れた小笠原氏の家来で、小笠原長時に従い、最後まで流浪のたびの供をする。1569年に三好家に小笠原一族とともに頼る事になる。三好軍として小笠原貞慶が出陣し、敗走する際に、自分が身代わりになり死亡した。 といわれる征矢野宗功、宗澄の兄弟の存在がわかったが、果たしてそれと関係があるのかは定かではない。

木曽の村で庄屋を勤めたという文献があるが、出自が武士であるとするものは無い。
しかし「庄屋」の中には、武士階級のものが戦に敗走し、故郷に帰属して、「郷士」的生活を送る中、時の権力から、支配層・非支配層の中間的存在として、都合よく村社会を経営し、年貢を怠りなく収めるために、あてがわれた「職能」であるとする文献も存在するから、先祖の出自は、武士階級であったのかも知れないが、事実はハッキリしないし、わからぬままだ。

北松本には同じ名前の地名が存在するので、機会があれば郷土史などを当たってみたいと思っている。

父親や、祖父の話し振りでは、先祖を「武士」であるとしてきたようだが、小生には武士だろうが農民だろうが・・・それはどうでも良いことだ。
それよりも、どんな人で、何をやった人なのかが、興味の中心なのである。

ある文献からそのヒントが、かの「島崎藤村」の長大な歴史小説「夜明け前」にあるということがわかったので、ネットの「青空文庫」より、ダウンロードして読んでいる。しかしあまりにも長大かつ、歴史は嫌いではない小生であるが、最も弱点の「日本の近代史」・・・授業のせいにするのもおかしいが、高校時には時間が無くて、幕末から昭和にかけての最も重要なところが欠落し、仕方なく世界史で受験した小生であるから、司馬遼太郎の影響で、「新撰組」には興味が大有りであったが、わが国にとって「明治維新」とは一体なんであったのかなどを考えることは無かったのが正直なところ。

さて今回祖先の話を何とかまとめるに当たり、また「藤村」の「夜明け前」を読むに当たり、避けては通れぬ「日本の近代史」について、勉強してみようと思っているところだ。

断片的な記述になると思うのだが、都度ブログに書き残しておくことにしたい

by noanoa1970 | 2007-02-25 18:33 | 家族の肖像 | Comments(2)

お伝え

PP&Mの「ポール」が拉致被害にあった「横田めぐみ」さんを歌った
「SONG FOR MEGUMI」のニュースを昨日見たのでUPしておきます。
オリジナルメンバーであったらなお良かったのに・・・・


ご訪問有難うございます。
エネルギーを使い果たし、
新しい話題が見つかるまで、ほんの少し休息を
取らせていただきます。
週末から再スタートする予定です。

by noanoa1970 | 2007-02-21 12:46 | Comments(1)

映画「珈琲時光」を観る。

小津のオマージュ作品として本作品を見ることを、やめるために、3回ほど見ることとなった。
「ドキュメンタリー」タッチのような本作品の、「テーマ」は・・・と考えるに当たって、どうしてもある人物のことについて、触れないわけにはいけない。
その人物とは、劇中で一青窈演じるライターを職とする「陽子」が・・・・(井上陽子という役名は、一青窈歌う劇中歌の作者井上陽水であることかららしいが、このあたり、小津生誕100年記念にあわせたように、プロデューサー宮島秀司による仕掛けが大いに感じられる)
・・・取り掛かっている最中の「江文也」その人である。
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劇中で、何故陽子が「江文也」に興味を抱いているかが語られることはないが、それは恐らく、
陽子の出生と関係すると思われる。
陽子は台湾人の母と、日本人の父との(非嫡出子なのか嫡出子なのかハッキリしないが・・・)子供という想定。国籍は多分日本人だとは思うが、それもハッキリとはしない。
台湾人の母親は陽子が4歳あたりのときに・・・離婚したのだろうか?、陽子の元から去ってしまい、今は日本人の義母がいるという環境である。

陽子の生い立ちや生まれてからの環境などの詳細は、劇中で明らかにはされないが、台湾の日本語学校で講師をしたという件があるから、台湾語(この表記も複雑であるが一応台湾語としておくことにする)台湾での生活があったのであろうことを推測させる、しかし・・・・何故、そしていつ日本に来て生活をし始めたかについては、これもハッキリわからない。
台湾人の母と日本人の父の間に出来た子供であることだけは明らかなようだが、陽子の国籍も明らかにされない。

小生は学生時代、このブログの名前の由来でもある「DRAC」・・同志社大学レコード音楽研究会というサークルにて、「日本音楽」・・・邦人によるクラシック音楽について研究活動をした経験があり、その当時出ていた文献で、「日本における西洋音楽の歴史」という長大な本を読み漁ったことがあり、明治期における近代化、西欧化の音楽教育に活躍した「伊沢修二」などの記述から、1970年初真出に活躍した作曲家およびその作品について触れる機会を得た。
しかしながら、「江文也」という作曲家で声楽家の存在は、その当時一切語られるものはなく、よって小生はその存在すら知らないまま長い時を過した。

別件だが、日本の音楽教育の第一人者、「伊沢修二」は台湾で、教鞭をとったことがあるらしい。

わが国有数の作曲家と目される人物が、何故隠された存在のままになっていたかという答えに、実はこの映画「珈琲時光」の主人公と目される陽子の、「江文也」に関する取材テーマの理由がある。
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江文也(1910~1983)は台北で生まれ、幼児期に「アモイ」に移る「台湾人」であり、来日して電気工学を学びながら、東京音楽学校で「山田」、「橋本」から音楽を学び、1936年のベルリン・オリンピックの芸術競技作曲部門で日本人として「台湾の舞曲」で入賞した。(オリンピックは文化芸術領域まで拡大された時代があった)

このとき、絵画部門では、東山魁夷、小磯良平、棟方志功が出品したが、いずれも落選。
日本画専攻の藤田隆治と鈴木朱雀が入賞した。
音楽部門では、日本から5人が応募。
山田耕筰、諸井三郎、箕作秋吉、伊藤昇、そして「江文也」であった。
この当時台湾は、「日清戦争」の結果、日本の統治下にあり、江文也は、日本国籍を有していた。(江文也が銅メダルとの誤報もあったようだが、4位入選が正しいらしい)

何故オリンピックにまで参加した「(台湾生まれの)日本人」、「日本国籍」をもつ「江文也」が、日本の文化史、音楽史から消し去られたのか。
長谷川和夫、李香蘭が主演した「蘇州の夜」の映画音楽を担当し、松島詩子の「知るや君」の作曲、「シュロの葉陰に」の作詞は、「江文也」の作である。恐らく当時の庶民の中には、「江文也」の名前を知っていた人も少なくなかったと思われるのである。
先日TVで上戸彩が、中国と日本の大きな歴史の流れに翻弄され、数奇な運命を辿ったアジアの歌姫・映画女優・・・・悲劇の李香蘭「山口淑子」を演じたドラマが放映されたのをご覧になった方も多いだろう。

これだけ能力もあり活躍もしていた「江文也」であったが、日本音楽コンクールの声楽で2年連続、作曲で3年連続、常に二位に甘んじていたという事実は、彼の実力の成果の表れだけとはいえないものがありそうだ。
「台湾人」であるからという、見えない「差別」のようなものが存在したのかどうか、その後「江文也」は、「中国大陸」に渡航する。
1938年に北京師範学校教授として迎えられ、1944年に国立音楽院院長となり、順風満帆と思われた。
しかし、1945年日本が無条件降伏し、北京が国民党政府の治下に移ったため、「江文也」は中華民国籍となった。国民党政府は「江」が日本軍部に協力したとの理由で、「文化漢奸」として投獄する。
また文化大革命のインテリ弾圧によって「分離主義者」として批判され、追放された。文化大革命終了とともに、「平反」で解放されたが、その頃には健康を害し、肺気腫、胃潰瘍、脳卒中で倒れ73歳でこの世を去った。

入賞作「台湾の舞曲」はオリンピック入賞後、「レオポルド・ストコフスキー」の眼にとまり「フィラデルフィア管弦楽団」を指揮してビクター・レコードに吹きこまれたという。

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・・・作曲者が曲に付し
た文章を次に掲げる。
 『私はそこに華麗を尽くした殿堂を見た。
荘厳を極めた楼閣を見た。深い森に囲まれた演芸場や祖廟を見た。
しかし、これらのものはもう終りを告げた。
これらはみな霊となって微妙なる空間に融け込んで
幻想が消え失せるように、神と子の寵愛をほしいままに一身に集めた
これらは、脱穀のように闇に浮かんでいた。
ああ、私はそこに引き潮に残るニッ三ツの泡末のある風景を見た』
・・・・・オリンピック入選作「台湾の舞曲」に間して「江文也」自らが語ったとされる言葉である。

このように、小生が見る映画「珈琲時光」のテーマは、『アイデンティティーを探し続ける日常の旅』であり、「家族愛」でも「男女の恋愛」の話だけではない。

「陽子」は、役を演じる「一青窈」、そして「江文也」と同じ境遇の・・・・心情的な国籍が定まらない、日本と台湾、日本統治下の台湾、中華民国、そして中華人民共和国という複雑な政治経済社会、そしてこれまた複雑な「言語」・・・・云わば、「国語を奪われた民の国」の元にあって、それぞれの仔細な立場は違うかもしれないが、「アイデンティティ」を喪失していった、あるいはその渦中にある自己の「アイデンティティ」探しと確認のための終わりのない旅をテーマとした作品といっても間違ってはいないだろう。
それらは、監督:ホウ・シャオシェンによって、「オブラート」で巧みに包まれているが・・・・
美しく自然に流れる光の映像の隙間には、そのことが陰となって現れているように感じられる。

それは、さながらこの写真のように、複雑に交差する電車が象徴するような、思いの表象であろう。
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とくに現状の・・・台湾と、大陸の情勢は、作品の監督ホウ・シャオシェンも巻き込んでしまうほど重要な問題と意味を抱えている。2.28事件を扱った「悲情都市」の視点は、やんわりとはして入るが、この映画の中にその暗い影を落としているようだ。

架橋と思しき台湾人を父にする妊娠、そして婚外子となることを承知で・・・自らの出生と照らして・・・・シングルマザーになる決意をする陽子。

かつて自分がなしたと同じようなことが脳裏にあるのか、生まれてくる子供にとって、何が一番幸せなのかの判断がつかない父親、そしてどうすることも出来ない存在の母。
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(とても心配で調べると、幸いにもこのケースの場合「日本国籍」を取得可能ということがわかった。)生まれてくる子供は、日本人というアイデンティティを持つことは出来るが、父親探しの旅は永遠に続くこととなる。

日本国籍への憧憬があるのか、母国をなくした喪失感なのか、そうでないのかはまったくわからないが、少なくとも拠って立つところを失くしたり、出生の複雑な秘密を持つことは、決して幸せなことではないだろう。・・・再三「肉じゃが」を求める陽子の心象は、妊娠による偏食を表すとともに、「日本的なるもの」への憧憬および日本人でありたいと無意識に願う、心の表象であったのかもしれない。

ある日道端で突然、他の男の子供の妊娠を告げられる、陽子に思慕の念を抱いている男。
男が書いた「山手線で囲まれた・・・首に懐中時計を下げた胎児の絵。
これらの場面が・・・・
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「リヒャルト・デーメル」の詩に「シェ-ンベルク」が作曲した「浄夜」の風景の、あるいは「アダージョ」・・・(マーラーの5番交響曲の)と呼んでも差し支えないような曲調を想起させる。

また、劇中に登場する「センダック」の絵本は、陽子の幼児期と、生まれ出るであろう子供の将来に対しての不安のの疑似体験を語るもののようだ。
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『まどのそとのそのまたむこう』("Outside over There, 1981") は恐怖を元にした絵本の好例である。この絵本はセンダック自身の子ども時代の恐怖体験が元になっている。それは幼い頃どこかへ出かけたときに姉ナタリーに置き去りにされたというもので、そのときの不安な感情がこの絵本に色濃く投影されている。内容はゴブリンに連れ去られた妹を助けるために姉が空を飛んで洞窟へ向かうというもので、この絵本も子どもが持つ世界の両面をしっかりと描いている。姉は妹を憎み、そして愛してもいる。だからこそ妹は姉が目を放した隙にゴブリンに連れて行かれてしまい、そして妹を助けるために冒険に出かけることになる。この絵本で主人公は姉であるが、センダックはゴブリンに連れ去られた妹のほうにより感情移入をしていたという。それは妹が味わった孤独と同じ恐怖を、彼自身子供時代に体験していたからであった。

本作品は、柔らかにそしてユックリと流れる日常に、とても深い「光と影」を孕んでいることを感じさせる映画である。

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時に背景で流れる「江文也」のピアノ作品は、当時の邦人作品の中では飛びぬけて異才を放っていて、誤解を承知でわかりやすくたとえるなら、ジャポニズムあるいは「東洋」を積極的に反映した印象派の音楽、さらに言うなら、少しシニカルな「サティ」の音楽、あるいは少々の前衛的手法やモードを多用した「モンポウ」にも似ていて、大変興味深い。

この映画での俳優の演技については、意味深いものがあるが、それについてはここでは言及を避けておくことにする。ただ、河瀬直美の「萌の朱雀」のトーンのような幹事を大いに持ったので、いずれそのあたりについては書いてみたい。

「説明的な映画が多い中で、あなたは私たちを子ども扱いしていない」・・・・カンヌ映画祭の審査員の誰かが・・・ヴェンダースではないだろうが・・・・河瀬直美の作品を評していった言葉であるとされるが、これと同様なことが、「珈琲時光」にもいえるのだと思う。

監督:ホウ・シャオシェン
製作:宮島秀司  リャオ・チンソン  小坂史子
脚本:ホウ・シャオシェン  チュー・ティエンウェン
撮影:リー・ピンビン
音楽:(主題歌)一青窈
出演:陽子:一青窈
    肇:浅野忠信
    誠治:萩原聖人
    陽子の継母:余貴美子
    陽子の父親:小林稔侍



 

 

by noanoa1970 | 2007-02-19 09:15 | 動画・ムーヴィー・映画 | Comments(0)

ブリコラージュ&クロームメッキの映画「珈琲時光」・・・2

侯孝賢が小津へのオマージュを強く持っていたと思われる根拠としては、小津映画のテクニックの模倣とも思える以下のようなところがあるのは事実であろう。
小生なりにここで一度整理しておくことにする。

・畳に座った人物たちを安定した構図のなかで捉える最適のポジションがこの低い位置からのカメラ・アングル「ロー・ポジション」 ・・・陽子が帰省した実家の場面
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・構図を重要視するため、「カメラを固定しあくまで標準レンズ」を使用。
・・・これはあらゆるシーンで見られる大きな特徴である。
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・ショット間の繋ぎはほとんどカットによるものあり、オーバーラップ、フェード・イン、アウトといったテクニックを使わない「カット繋ぎ」。

・シーン間やシーケンス間に必ず風景のショット、場所を説明するようなショットがはさみこまれている「カーテン・ショット」の多様・・・・場所や駅名がわかるものを必ず表示している。
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・人物同士の視線が一致しない構図優先の画面を作り上げる「正面向き・逆向き・横向きのショット」 ・・・登場人物の会話は、すべてが視線を合わせることがない
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・ワンシーンがワンカットの長回しで撮られているような時間の流れ・・・「連続した時間の流れ」・・・電車を乗り継いでの移動のシーン、歩くシーン
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・同じ画面に同じ様な形をした物や人物が並ぶ構図が登場する「シンメトリー構図」・・・高崎の実家の場面など。・・・・しかし小津ほど細部にまでこだわりはなjく雑然としたところが多い。
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・何事もなく静かに過ぎていく「連綿と続く日常生活の時間」がまるでアダージョのように流れる。 ・・・小津映画と同じようにこのことが主題なのかもしれないのだが。

侯孝賢の「珈琲時光」には、ほぼ間違いなく上記の小津敵特徴が窺える。
しかしくどいようであるが、侯がそのテクニックを、自然さに紛れ込ませた不自然さを断片的に、コラージュのように紛れ込ませたところで、結果は意図した真逆 になってしまった。

ただあくまでも、この作品を小津のオマージュ作品という目で見るから、あえてそのようなことを言わざるを得ないのだが、 もし本作品を「小津安二郎」のオマージュという呪縛から開放して観ることが出来たら、違う何かが見えはしないだろうかと、・・・・・・

そこで、改めて本作品を観ることにした。

by noanoa1970 | 2007-02-18 10:00 | 動画・ムーヴィー・映画 | Comments(0)

ブリコラージュ&クロームメッキの映画「珈琲時光」

小津をオマージュしたとして、小津安二郎の生誕100周年記念に作られたという「珈琲時光」を見た。製作は2003年のことであったが、当時小生はこの映画の存在すら知らなかった。
最近、ひょんなことから、「江文也」という音楽家を調べていたら、「侯孝賢 ホウ・シャオシエン」という名前と、「小津安二郎」が並列に目に飛び込んできたので驚くとともに、「珈琲時光」の存在を知ったのだ。
恥ずかしながら小生・・このタイトルを知ったとき「時光」を「ときみつ」と読んでしまい、コーヒーショップを舞台に繰り広げられる、人間関係を描いた映画だと瞬間的に思ってしまった。
小津映画には当時のカフェが時々出てきて、現在では薄らいでしまった、かつてのお店が持っていた雰囲気にあこがれていたから、小津のオマージュと、されるこの作品を、とっさにそう思ってしまったのであった。

監督は台湾の人、前々から彼の作品は小津調をかもし出すと各方面で言われているとのことである。
そんなこと・・・「小津安二郎と江文也」のこともあって・・・・それに、この映画の中の若い女性陽子が、「江文也」について取材しているということも手伝い、レンタルショップに走ることになったのが数日前のことであった。

この作品、小津監督の「オマージュ」、「小津安二郎生誕100周年記念」・・・とアチコチで宣伝されていたらしく、作品を見る前にその情報がインプットされたので、どうしても小津映画と比較して観ることになるのだが、その最初の印象はというと。以下のようなものであった。

『およそ当時の現実と、近いとはいえない「家族の姿かたち」を、演出と演技によって非常にリアルに、そしてその結果その当時大衆化したともいえる小津映画に比べ、
この映画「珈琲・・・」は・・・・
昨今では、どこにでもありそうなごく日常的な話題を、およそ演出や演技と呼べないような・・・「素」で、(たとえ意識的なものであったとしても)終始一辺倒で通し切ってしまった結果、逆にリアリティのない絵に仕上がってしまった。』・・・・小津映画を「不自然の仲の自然さ」と喩えるなら、「侯孝賢 ホウ・シャオシエン」のこの作品は、「自然の中の不自然さ」である。・・・・、端的に言えば、小生の感想はそのようなものである。

それでは、世間で言われている「小津監督のオマージュ」とは、一体何を持ってするのだろうか。

確かにところどころのカットには、小津映画のワンシーンからの模倣が見られるが、小津がそのカットにすべからく意味を与えていたのに対し、侯孝賢のそれは「コラージュ」のように、その部分に関しては、ほとんど意味を成さないものばかりであるように思えたばかりか、それが、時として非常に唐突に出現するから、せっかくのこの映画のトーンを台無しにしてしまうところが多々あることに気がつくこととなった。

・画面の中にもうひとつ画面を作るところが随所にあるが、小津の美学とは縁遠い。
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・例えば小津の「東京物語」・・・・尾道の港付近で、船が行き交うシーンは、侯孝賢では,京浜東北線と山手線あるいは御茶ノ水付近でJRと丸の内線が交差するシーンに応用される。
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・秋日和で、男3人がバーのカウンターに並んで腰掛けるシーンは、墓参りの帰りに親子3人で立ち寄るラーメン屋のカウンターに後ろ向きで映るシーンとなる。
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・若いフリーライターの陽子が、住んでいるアパートの大家さんに、酒とグラスを借りに行くシーンは、やはり東京物語での原節子が向かいの住人から、お酒を借りるシーンと重なる。
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・「珈琲・・・」で陽子が親しみを寄せる古本屋の男に、台湾から懐中時計を入手してきてプレゼントするシーン・・・その前に乗る電車の最前席でそれを取り出して、運転席のガラス窓にかざすシーンは、東京物語で、嫁原節子が、亡くなった義母の形見に、といって義父が与えた懐中時計を、帰りの汽車の中で眺めるシーンと重なる。
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・陽子が急に出かけるといって、意味も無く自転車を漕いで・・・意味も無く電車の駅に、行き帰りするシーンは、どう見ても単なる小津映画の「晩春」の自転車のシーンを借り取ってきたとしか思えない。
句意味、あるいは無駄・・・何故このシーンが必要なのかと考えてしまうところがいくつも出現するのが「珈琲・・・」
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・小津の「晩春」で旧友が鎌倉の家を訪ねたときの「方角問答」は、「江文也」ゆかりの喫茶店を探すために、立ち寄った喫茶店で、今昔の地図を広げて探すが、それでも行きかたがわからなくて、喫茶店の店主に尋ねるシーンと重なる。
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・東京物語で、老夫婦が背を少し丸くして並んで座っているシーンは、「珈琲・・・」での実家の父母が娘の妊娠を告げられ、なんともしがたい雰囲気で、物も言わずに座っているシーンと重なる。
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まだまだ小津映画のシーンの「切り取り→貼り付け」はあるが、このあたりにしておこう。

小津にはこれらのシーンは全て前後の脈絡があり、中には伏線めいたものも潜んでいることが多いのであるが、侯孝賢にはそれらしきものがまったく見えないのである。
もちろん見えるから〇、見えないから×であるというそんな単純なことを言うつもりはないが、これらのことで本作品を手放しで小津のオマージュとする、メディアや論評家、批評家諸氏の目を小生は信用しない。

侯孝賢本人が、小津をどのように思い語ったかは別として、このタイミングで製作し、そのような論評に反論すらしないのであれば、やはり本人もつまるところ小津のオマージュ作品としての位置づけを名実ともに認めたのだろうことを思うと、・・・そしてもしそれが事実だとするのなら、侯孝賢は本当に小津をオマージュもしくはリスペクトしていたのだろうかと、疑いたくなるのである。

「珈琲・・・」に現れる小津のオマージュの影は、あまりにも表面的な・・いわばカットシーンだけをキリトリ、コラージュしたような稚拙なものであるという風に言わざるを得ない。
恐らく侯孝賢は小津の作品を、何か異なる次元で見ていたのか、あるいはあまり熱心に見てなかったのではなかろうかという疑念さえ持ってしまうのだ。

台湾の人間だから・・・「言葉の障害」はあるにしろ、異邦人だから小津の描いた戦後の日本、そして東京がわかるはずはない・・・などと言っているのでは決してなく、映画に携わる・・・まして映画監督であるのなら、映像だけでなく、表現される「語り」の意味も、テンポも、そしてリズムまでにも注目し、理解しなければならぬと小生は思うのだが、もしそうでないとして「オマージュ作品」というものが果たして存立しえるのであろうか?

この映画を小津のオマージュ作品という肩書きの元で見たときに、小生にはそのように・・・・かなり否定的に見えてしまったのが正直なところであった。

さすればこの映画を観るために必要な視点とは、何なのであろうか?

by noanoa1970 | 2007-02-17 10:25 | 動画・ムーヴィー・映画 | Comments(3)

長浜、安藤家「小蘭亭」・・・福田 大観時代の「魯山人」食客の家・・・5

「小蘭亭」は、六帖ほどの大きさ。
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天井に注目してもらうと、やはり中国風の円形の文字図案が施されている。
魯山人は高い台を作って、その上に仰向けになって、これを書いたという。
杉板を薄い青色で塗った上に、濃い緑青色の文様が施される。寝姿でこれを仕上げるにはかなりの根気と労力を必要としたことだろう。

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廊下から 「小蘭亭」へと入る入り口の襖扉に施された・・・円形の明り取り、左右両開きの襖扉に加工されている。この色使いなど、後年の陶磁器の絵付けの元祖のように思うところがある。

母屋から見た「小蘭亭」、「小蘭亭」から見た母屋。
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以上が小生の見た「小蘭亭」の概要である。
体格の大きな魯山人が、この大きいとはいえない「小蘭亭」の空間で、何を思っていたか知る由もないのだが、長浜と京都を行き来しながら、やがては北陸への逗留の旅へと向かう
若き魯山人がそこに居たのだと思うと、後の諸作品の基礎は、ここ長浜での逗留時に培かわれたものかもしれないという気が、大いにするのであった。

by noanoa1970 | 2007-02-16 07:37 | 季節の栞 | Comments(0)

長浜、安藤家「小蘭亭」・・・福田 大観時代の「魯山人」食客の家・・・4

それでは魯山人がしつらえた「小蘭亭」を見ることにしよう。

その前に、・・・
魯山人が篆刻した、部屋いっぱいの長さの「呉服」の大きな看板を載せておきたい。
文字が魯山人の常套句のように、「緑青」色の顔料で塗られている。
「呉」を「亀」に、「服」を「鶴」に見立てたという説もあるが、小生にはそのような感じには受け取れなかった。
あまりにも大きいので全貌が映しきれなかったのが残念だ。
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「清閑」と篆刻された「福田大観」時代の作品。
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「小蘭亭」へ続く廊下にも、かなりのこだわりがある。
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廊下脇の明り取りの小窓のデザイン、網代つくりの廊下の天井、ガラス欄間の四角と円の造形と、その奥から見える、チューリップ型のシェードの照明が作る絵のすばらしいこと。
ディテールにまで一切の手抜きをしない魯山人の姿勢は、この若いこの頃から表出されているようだ。

一般には「中国風」といわれることが多いが、小生には「アール・ヌーヴォー」「アール・デコ」風に感じるところも多い魯山人の造作である。。

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ガラス戸にはやはり中国風のサンのデザインが施される。今のように一枚ガラスではないだろうから、サンにあわせてガラスを変形サイズに切り出しての作業は大変であっただろう。

d0063263_13535624.jpg木製の手摺りにさえ、やんわりとした湾曲を持たせている。優れた職人技の成果である。

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魯山人が「小蘭亭」を去るときに、記念なのか、遊び心なのか、頭の節目を金で塗りとめたといわれる。
今でも角度によっては、光り輝くそれは、古の魯山人の「遊び心」を髣髴させ、人間味を感じることとなった。

by noanoa1970 | 2007-02-15 09:59 | 季節の栞 | Comments(0)