類似した曲随想

世の中には類似した曲が数多くある。有名どこの曲でははかなりポピュラーになっており、それは同じジャンルの中でも、ジャンルを越えても多くの存在が指摘される。
ネット上には「どこにて」などというサイトもあって、自由に似た曲のメロディを中心に自由投稿し、野球になぞらえ、「ヒット」「2塁打」そして「ホームラン」までの行かを・・・誰だったか忘れたがしている、面白いものも、すぐにそれとわかるものから、よくわからないものまで様々である。

小生も昔からこの手の遊びは嫌いなほうではないから、自分オリジナルを発見したときはとてもうれしかった覚えがある。

すでにだいぶ前になるが、「リヒャルト・シュトラウス」の「メタモルフォーゼン」の中に、「ベートーヴェン」の「エロイカ」の「葬送行進曲」と似通ったメロディを発見したときは、思わず「やった」と思ったものだった。d0063263_195485.jpg
しかしそれからしばらくして、様々な解説書や、説明書を読むと、当たり前のように、R・シュトラウスが「エロイカ」のオマージュとした曲であると書かれていることが多く、自分だけの発見ではないことを知ることになったのであった。
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それで何度か両曲を聴くうちに、もうひとつ似通った印象の有名曲で、それについて恐らく誰も言及してないであろう物を見つけることが出来た。
その曲は、あの有名な「アルビノーニ」の「アダージョ」。
この曲のメロディラインには、ベートーヴェンの「エロイカ」の「葬送行進曲」とよく似たところがある・・・・したがって「リヒャルト・シュトラウス」の「メタモルフォーゼン」にも似ていることになるという、結論を得ることとなった。

アルビノーニは、 1671年 - 1751年 イタリアはヴェネツィア生まれのバロックの作曲家であるから、ひょっとしたらベートーヴェンは、「エロイカ」の葬送行進曲のメロディラインは、アルビノーニオの模倣、あるいはオマージュのようなものではないかという、推理を立てたことがあった。
勿論実証することは無かったが、このような「仮説」が実証できたら割れながら面白い・・と思ったのは事実であった。
その頃は「アルビノーニのアダージョ」は「アルビノーニ」の作品とばかり思っていたからである。
弁明では決してないが、しかし「パイヤール」の演奏と、ミュンヒンガーの演奏を聴いていたときにはさほどかんじなかった「違和感」が、「ケーゲル」の指揮した「ドレスデン管弦楽団」の不気味極まりない演奏を聴いたとき、「アレ、この曲、バロック音楽としては斬新で、表現主義的な要素がある」と感じていたことは確かである。
ただ小生は、それを「ケーゲル」の演奏の仕業と解釈してしまっていたのであった。
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バロックの通俗名曲も、「ケーゲル」という稀な才能の持ち主の手になると、こうもデモーニッシュな音楽に変貌するのかとばかり思っていたのである。

今では「アルビノーニのアダージョ(レモ・ジャゾット Remo Giazotto 編)」と表記されることが多いこの曲。
小生の時代は全て「アルビノーニのアダージョ」作曲アルビノーニと表記されていたから、恐らく小生など古手の聞き手の多くは、「レモ・ジャゾット」という存在を知らなと思われる。

この人物は音楽学者で、1945年ドレスデン国立図書館が空襲で焼けたとき、焼け跡から「アルビノーニ」が残したトリオ・ソナタの緩徐楽章の断片を発見し、その断片「復元」されたものと言われている。アルビノーニのほとんどの作品がこのようにして、図書館の焼け跡から発見されたものといわれるが、「アダージョ」に該当するものはほんの断片のみで、それを「レモ・ジャゾット」が復元・・・・というより断片を加えてほとんど自身で作り直した・・・つまり自身で作曲したといっても差し支えないという。

なるほど、それで「アルビノーニのアダージョ」に潜む非バロック的な要素が沸いてくるところ・・・・中間部の、急で息せき切ったような転調のところ、どのようにそして何度聴いても「エロイカ」の葬送行進曲が出てくるところなどが塗りこめられていて、小生がベートーヴェンが模倣したと思っていたメロディラインが、実は「アルビノーニ」らしからぬ、現代の音楽家「レモ・ジャゾット」の手になるものならば、ベートーヴェンが真似たのではなく、ベートーヴェンを、「レモ・ジャゾット」が真似て、「アルビノーニのアダージョ」として売り出した(商売としたかどうかは定かではない)わけだから、「アルビノーニの模倣」などと、ベートーヴェンさんに、失礼なことを言ったことをお詫びしなければならない。

どうも近年、音楽そのものより、変な邪念が入り込む余地が多すぎ、「感性」が鈍ってくるのをヒシヒシと感じることが多い。
何とかしなくてはいけないと思うことが多い毎日だ。
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by noanoa1970 | 2007-01-31 19:00 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

2022年の悲劇・・・ソイレント・グリーンを思い出した

2020年地球の人口は、中国インドなどアジア諸国と、アフリカ諸国を中心に急激に増え続け、世界は食と住まいを失いつつあった。そしてかつて先進国であったアメリカ、欧州そして日本では、一部の特権階級と多くの貧民という格差の激しい社会となっていた。肉や野菜といった本物の食料品・・・特に「マグロ」は宝石なみに稀少で高価なものとなり、特権階級を除くほとんどの人間は、ソイレント社が海のプランクトンから作る合成食品の配給を受けて、細々と生活することを強いられた。

多少脚色はしたが、ある意味今日的な課題でもモある。
上に上げた人口増加は国別の格差をも生み、アフリカ、中国、インドの人口増加と、先進諸国における人口減少、そして「少子高齢化」現象は、金持ちと貧乏人という国民の間における格差を生むばかりで無く、国家間の格差を助長することになる。かつて後進国であったところが、いまや世界に君臨するが、その国々においても、人口増加の悪影響から免れることは出来ない。

1970年代のはじめごろ「Soylent Green」(ソイレントグリーン)という映画を見たときに感じた近未来のSFチックな映画の内容が、昨今急に現実味を帯びてきたような気がする。
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この映画では、「少子化」は語られていないが、高齢化社会による人口増加と、食糧危機による自然食の減少し、人口食品製造と、その原料にはなんと、高齢者の・・・老人の人肉が当てられている事を突き止めた男の話が語られる。

「ソイレント社」は、政府と結託し、ある年齢に達した高齢者を「姥捨て山」伝説のように、死に追いやり、それどころか、それを原料に人口食料を製造するという、反社会的な・・・しかし人類が生き延びるために、高齢者が犠牲になるのはやむをえない社会がやってくることを予言したSF映画であった。

「チャールトン・ヘストン」が刑事役で出演、その秘密を暴こうとする。
老人「安楽死」の場所は政府公認の施設で、「赤紙」が来た老人はだれかれと無く、そこに行き、死を前にして、かつての「古きよき時代」の映像を見せられる。

そのときに流れるのがベートーヴェンの「田園」交響曲であるのが印象的だった。

この話を急に思い出したのは、昨今マスコミをにぎわせたY沢大臣の発言「女性は子供を生む装置だ」ということが背景であった。

島根での講演会でのことらしく、ニュースによると、「少子化」を抑えるためには子供をたくさん作らなくてはならない。
統計学的に、子供を産む能力は15歳から50歳までの女性に限定される。
しかしこの年代の女性自体はもう決まっていて、これ以上増えることはない。
したがって、後はこの年代の女性ががんばって一人でも多く子供を産むしかない。
・・・・つまりは、企業で言うところの「生産性」を上げるしかない・・・とでも言いたかったのだろう。

女性は「子供を産む機械」のようなもの・・・・「装置」のような・・・との発言は、恐らくは「生産性向上」という企業の概念から来ているものと小生は思った。

この「機械」「装置」発言に野党やマスコミがこぞって反発しているが、チョットまってほしい。
彼らはこれを女性差別、人権侵害、といい「産む産まないはその人の自由」であるから、政治家や政府が口を出すことではないという。
そしてこのような発言をする政治家が〇〇大臣の要職についていることは、わが国の「恥」であり、世界から笑いものにされるとも言う。

でも、考えてみれば「少子化」を止め、子供の数を増やすのに、他にどういう方法があるのだろうか?1回の分娩で双子や三つ子四つ子を産むのなら子供の数は増えるが、それ以外の方法はあるのだろうか?勿論子供を育成する環境を整えることは大事であるが、だからといって少子化に急な歯止めはかからないだろう。
「産めよ増やせよ」という時代があったが、あの時は確かに人口が増えたのではなかったか、あのときの因果関係をもう少し精査して考える必要はありそうだ。

小生は決して〇〇大臣の肩を持つわけではないが、政党もマスコミも含めどうも「重箱の隅」的なことを重視し、狙いを大きく外す傾向にあることを懸念している。
正義面を臆面も無く振りかざすマスコミ、スキャンダラスな言動に目を光らせ、すぐにそれを「鬼の首取り」のように声高に叫んでばかりいる野党の政治家たち。

「窓は風景を切り取る装置である」
「オンブズマンは行政監視装置である」
「政治やマスコミの言動に対する批判装置が必要」
「人間は考える葦である」
「男性は子供を作るための装置の一種である」
「女性は子供を生み育てる装置でもある」
・・・・これらは、非常に意味深長な・・・示唆に富んだ言い回し、まさかこれに対して、差別だとか、蔑視だとか言う人はいないだろう。

〇〇大臣が言った事、政治家が発言したことだから問題なのだという言い方もあろうが、このY大臣という人、例の「ホワイトカラー・エグゼンプション」の説明でも、曲解されそうなことを自分で理解してなかったのか、平気で言う人だから、今回の発言に対してマスコミもかなりのツッコミを入れたのだろう。
しかし小生には、このことはどうしても直情的「言葉狩り」であるとしか思えない。
(決してY大臣の肩を持つつもりも、見方をするつもりも無いが)

それなら、批判する野党政治家やマスコミは、この発言が出た背景の「少子化」の歯止め作の対案を提示しながら批判しなくてはならないとと、小生は思うのであるが、相変わらずいつもの調子で表面的な・・・・本筋に関係ないツッコミを入れて、お茶を濁すばかり。

「ヤラセ」を批判してきたつもりの政党やマスコミが、自らも「ヤラセ」をやっていたという、お寒い話をリテラシーの欠如した人たちが「笑い話」としてしか受け止め得ない現状が大いに気がかりである。

「ちょっと文学的な・・・非日常的言い回しをしました」・・・・などとすぐ言えるような感性を、もしこのY大臣が持っていたなら、・・・・あの東京都知事であったら、もう少し毒舌というか(ブラック)ユーモアで、スマートな対応をしたことだろう。そしてこのような大問題にはさせなかったであろう。

いかにも某有名国立大学出の官僚出身の政治家らしくて、哀れに思えてきた。
センスと感性とリテラシーの欠如は、この大臣にとっては致命的である。

話は変わるが、宮崎県民による「市民革命」が今後どのような変貌を遂げるのか、キチンと見守って行きたいとも思うこのごろである。H知事にだけお任せスタイル・・・・選んだことだけでの満足に市民が終始すれば、どこかの二の舞となる恐れがあると思う。
宮崎県には「オンブズマン」的市民組織はあるのだろうか?

追記
「少子化」に歯止めをかけるための有効な手段は、ズバリ「産みたい夫婦」の家庭が複数子供を作ることしかない。
政府はこういう家庭に対して、手厚い補助を積極的にしていって、マスコミなどもそういう家庭を賞賛する姿勢を示していく必要がある。
こういうことを言うと、すぐに「産めなくても産めない体の持ち主、家庭」への配慮がないという人たちがいるが、それはそれで、そういう家庭を医学的に、そして養子縁組などの法律的な緩和をするなりして、守っていくしかない。

「産めよ増やせよ」が戦前の国策だから、復古した考え方と言って、非難する人たちは、「少子化」が進んでも仕方がないと思っているのだろうか?

地球温暖化に対しての防衛が個人レベルまでなかなか降りないのと同様に、少子化も総論賛成、各論反対の見本みたいに、国民レベルの問題にまでの実感がないのだろう。

ソイレントグリーンの世界は、非現実の社会ではないと思えるところもあり、そうなったときには、今声高に叫ばれている「人権」などは皆無の世界となることに気づいてない人が多すぎる。

しかし小生は正直言って、「少子・高齢化」は、世界の地球の必然で、バラツキはあるものの、いずれそれを抑えるための「自然の摂理」的な・・・・恐ろしいことだが・・何かが起こり「人間多すぎ」を解消する力が地球の内部から、あるいは宇宙のダイナミクスによって湧き出てくるような気がしてならない。
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by noanoa1970 | 2007-01-29 11:15 | Comments(1)

これは参加したかった!

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高田さんの生誕60周年記念か?
いやいや、そうではない。58年と、ポスターに書いてある。
キッチリとした節目でない時に開催するところが、高田を髣髴させて、これまた「良い」。

武蔵野に住む息子から本日連絡があった。
メンバーの「シバ」とはどういう?と聞くから「シバ」は我が家の愛犬だと答えておいて、すぐに。
「ブルースハープ」の上手な味のあるブルースシンガーと答えておいた。
「いせや」の解体がもう終わって、かの地は、すでに更地になっているという報告もあった。
こうしてだんだん「武蔵野」が姿を消していくのだろう。
そういえば、小生が以前いた保谷に、DRAC-OB氏が去年仕事でいたときに、頼んで偵察に行っていただいた、古い大きな民家を少し改造し、立派な庭園を見せながら、広東料理を食べさせる「武蔵野」という中国料理の店も、すでに無くなってまったく違うものがたっているとか。

武蔵野台地の古い名残が消えていくことを、国木田独歩も多分、墓場で嘆いていることだろう。

情報を早く仕入れていたら、ちょうど学生時代のサークル仲間の、関東地区新年会2次会も同じ時期に開催されたので、合わせてぜひとも参加するところだったのに!!残念。

「タカダワタル的」の「スズナリコンサート」とほぼ同じメンバーによるものだから、キットよいと思うのだが・・・・
「武蔵野タンポポ団」ならぬ「武蔵野マーガレット」という出演者も妙におかしい。
「柄本明」は一体、今度は何を歌うのだろうか・・・興味は尽きないのである。
2人の「中川」のギターと歌も聴きたいし・・・・「いとうたかお」も然りである。
松田のハーモニカは、ピカ一だし、高田の息子「蓮」のペダルスチールも、板についてきている。
「なぎら」はまさか、いつものように、高田を冒涜する替え歌・・吉祥寺の自転車置き場の歌・・・・を歌ったりはしないだろう。

そんなことをめぐらせるのだが、
開催が明日ではなんともならぬし、チケットは多分すでに売り切れだろう。
あまりにも悔しかったので、ポスターを探して、貼り付け残すことにした。

新潟の先輩からいただいた「八海山」を飲みながら、仕方なく今夜は、「タカダワタル的」のDVDで我慢することにしよう。
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by noanoa1970 | 2007-01-27 18:10 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

QUAD、ESL-63用アンプのこと

QUADのコンデンサーSPは、ユーザーの方でも知らないような潜在能力の高さを持っている。
小生の経験では、当初このSPの本来の姿は、「フワッと柔らかで、臨場感があり、透明感がある、しかし大音量では使えなく、したがってヴォーカルや室内楽には向いているが、大編成のオケが活躍するシンフォニーでええは力不足」であるという激しい誤解をしていたが、低負荷・・・ⅠΩでも供給能力が高いアンプ・・・例えば純A級のアンプで、8Ωで100Wでも4Ωでは200Wさらに低負荷の1オームで400Wを供給する能力があるアンプが望ましいことを知ることになった。
そういう意味ではQUADのSPの能力を十分発揮させるためには、同じQUADのアンプでは役不足であった。405-2や606ではそこそこ良い音は出てはいたが、一般の風潮どおり、ブルックナーやマーラー、そしてワーグナーは少ししんどい。

「ハーマンカードン」の擬似ブリッジ接続を教えてもらって、試しはしたがどうも満足する音で響いてくれない。「クレル」も試したが、「ハーマンカードン」同様、アンプがクラッシュすることはなくなったが、広域の再現性に問題を抱えた。

世間では、真空管アンプでの評価が高かったので、300Bシングルプッシュでドライヴするも、静かに音が出てくるのみ、を経験することになった。
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そんな折、オーディオ誌のページの片隅にほんの少しだけ紹介されていたのが、現在使用中のアンプ、「inner sound社」のその名もずばりESL-AMP・・・「Erectrostatic Amplifier」
つまり「静電タイプ専用ドライブアンプ」=俗に言うところの「コンデンサー型SP」あるいは「プレーナータイプSP」専用のアンプというjことだった。

デモで持ち込まれた実物を聴くに及んで、あらかじめ取り寄せた説明書の内容が激しく一致したから、四の五の言わずに、すぐに入手した。
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ネットなどでは「コンデンサーSP」の調整にお悩みの諸氏がかなり多いと思われるので、何らかの参考に紹介することにした。

従来のアンプが「カレントドライブ」アンプなのに対して、このアンプは、ヴォルテージドライヴアンプ」である、ということから解説は始まる。
小生は、オーディオマニアではないから、詳しいことはわからないが、同じ100Wを供給するアンプが2つあり、1つは1Vで100A
2つ目は、100Vで1A
どちらも同じ100Wを供給出来るこの2つのアンプのドライブ能力は、コンデンサーSPの場合特に顕著で、2つ目のアンプのほうが絶大なる音の出方・・・SPの鳴り方をするというのだ。

当該アンプは、このことから、コンデンサーSPを強力にドライブするには、従来のアンプの考え方ではNO・・・つまり「カレントドライブ」ではダメで、「ヴォルテージドライブ」が必要であるという見解。そのコンセプトで作られたのが、当該アンプというわけである。
市場のあらゆるアンプは、「ダイナミック型SP]をドライブする目的で作られているから、それらのどのアンプ・・供給W数が500だろうが1000だろうが、それはあくまで「ダイナミックSP」をドライブする指針にしか過ぎないという。

その大きな理由としては次のことがあるそうで、それは小生も何度か経験済みのことなのだが、
スピーカーの持つ特性として、特に広域の再生時にはSPのインピーダンスが極端に下がり、通常8Ωでも、2Ωやあるときには1Ωになってしまうことが頻繁にある。
このため、そうなるときに備えて、供給力の高いアンプが求められてきた。
W数の高いアンプは、音量を上げるためではなく、実は、この目的のためだともいえる。
現在市場に出ているほとんどのアンプは、低負荷になると供給W数が上がる設計になっている。

しかしコンデンサーSPの場合は、今までのアンプのような理屈で作られたものとは次元の異なるスペックを要求し、「カレントクリッピング」という悪さから逃れる体質を持たなければ、たちまちアンプがクラッシュしてしまうことになる。「ハーマンカードン」では、このため何度かアンプの「ヒューズ」が飛んだことを経験しているし、そのほかのアンプでも、安全装置が何度か作動し、そのたびに、音楽が中断された経験を持つ。
したがってユーザーは比較的小音量でも聴けるようなソースとして、室内楽、やヴォーカルを聴くこととなり、それがこのSPに似合っている・・そしてその再現性が良いなどと、あらぬ方向に発展したものと、小生は思っている。
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当該アンプには、まだいろいろな仕掛けがあるらしいのだが、専門的過ぎてピンとこない。
●CHあたり2000VAの電圧供給を可能にしヴォルテージクリッピングをなくした。
●8Ω負荷で300W、4Ω負荷で600W、2Ω負荷では1000W以上を供給、
  トータルパワー4600W/CH
●135A/CHの電圧供給パワー
●パワーキャパシティ250Wの大電力モトローラ社トランジスタ×18個/CH
●1600VAトロイダルトランス使用
以上のデータを公表しているが、これがどのくらいのものかは、小生にはわかりかねる。
しかし、SPの負荷が1Ω以下になっても十分にドライブできることを補償する「値」であるとされ、使用してから6年になるが、ただの一度も問題を起こしたことはない。
以前にもまして広域の再現性に優れ、大音量でもびくともしない。

ダイナミックSPとは基本的な音の出方の差は、勿論あるが、音量音圧どれをとっても決して遜色ない。
しかもコンデンサーSPの持つ「透明感」「奥行き感」「リリアなナチュラル感」「思いのほか良く出る低音」「色彩感」などなど、いままでドライブしてきたどのアンプよりも数段優れた能力に、アンプとコンデンサーSPQUAD、ESL-53のひょんなご縁に改めて感謝したい気持ちでいっぱいである。
この気難しいSPを操縦するお婿さん探しも、20年かかってしまったが、恐らく2度と離縁はないであろうと確信している。
ただただ、くれぐれもQUADが故障しないことを祈るだけだ。

またこのアンプはダイナミックSPのドライブ能力にも優れていて、YAMAHA、NS-1000があのような音で音楽を聞かせてくれたのは35年たった今回が、初めてのことであった。
勿論YAMAHAをかなり追い込んで調整もしたが、このアンプの力が相当に利いていると思う。

QUADも当該アンプも、これらを現役で扱うことは、すでに無くなってしまったのはとても残念なことである。
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by noanoa1970 | 2007-01-26 18:19 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(7)

QUAD、ESL-63に惚れ直す

このところ、調整が上手く行ったYAMAHA NS-1000で音楽を聴くことが多かった。
CDでも、LPでもYAMAHAは、かつてないほどの音楽を聞かせてくれて、このSPの潜在能力の高さを思い知ったのであった。
ショルティとVPOの「指環」のLPでは、「ワルハラへの神々の入場」の金槌の音も、ジークフリートの葬送行進曲の最強部の音も、CDを凌駕する音で鳴り響いてくれるようになり、ダイナミックタイプのSPの底力をも感じることとなった。
35年かかってようやくここにたどり着けたのだから、あきらめないでよかったと思うこのごろだ。

ここ数ヶ月聴くことの無かったQUADを改めて聴いてみようと言う気が起こったのは、ヴォーカルの再現性を再確認せんがためであった。
何を聞こうか迷った挙句、取り出したのは、「ベーム」がBPOを振った「魔笛」のLP。
ソプラノの最高音やレチタティーボに代わる「台詞」、そして序曲におけるベームのユッタリ目のテンポ設定での木管を強調した演奏の再現性を見たかったことによるものである。
ザンフィルフルート≒パンフルートの音、グロッケンシュピーゲルの再現性など、オーディオ的にも聴き所は多い。
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聴いていて、思わずうなってしまった。
QUADがこのようなすばらしい音で鳴っていたとは!
YAMAHAと比較するのも、おかしな話だが、そして妙な表現で恐縮なのだが、QUADで聴く音楽は、「気を抜くことのない安心感」がある。
「気を抜くことが出来ない」のは、まさしく音ではなく音楽が、音楽的な音が表現されているからであり、音楽的な音とは、生命感ある音、音が生きているからである。

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YAMAHAの音もオーディオ的な「良い音」から生きた音に変貌してきたが、音と音の間に、僅かではあるが角張ったものを感じることがあるのに対し、QUADでは、それがまったく皆無で、非常にリニアなつながりを見せる。
したがって「ハラハラ、ドキドキする」ことは、YAMAHAにあっても、QUADではそうではなく、かなり自然に音楽に引き込まれる・・・・QUADはそのような感想を持つにいたることが多い。
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by noanoa1970 | 2007-01-25 16:20 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

歌う愛犬

d0063263_1365615.jpgJAZZでは?とキャノンボール・アダレイのアルバムを聴いて実験してみた。
これもLPであったが、見事に反応して、歌ってくれた。
JAZZでもクラシックでも、LP、大音量、金管楽器・・・それが条件のように思えてきた。
スピーカーに向かって座りなおして聞き入る愛犬の様子・・・伝わるでしょうか?
音楽好きな犬であることは、どうやら間違いないようだ。


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by noanoa1970 | 2007-01-21 08:28 | 動画・ムーヴィー・映画 | Comments(0)

HIS FAVORITE VOICE

昨夜のこと。調整が上手くいって最近音楽が鳴り始めたYAMAHA-NS1000で聞くアナログレコードの優秀録音を物色していたところ、長く聴いてなかった物に遭遇した。
このLP、演奏がいまいち気に入らなかったので、あまり聞くことが無く、この音楽は、かなり古手の指揮者の手になるものを好んで聞くようになっていた。

しかしこのLP、かねてから優秀録音の筆頭に上げられていたことを思い出し、プレーヤーに乗せることとしたのである。

テラークの3本マイクによるダイレクトカッティングのD→Aだから、当然ながら?、下手なD→D録音よりも全てにわたり、秀逸である。
おまけに録音機器の特性は従来が20000Hz止まりなのに対し、テラークのそれは、22000Hzに及ぶものを採用した当時としては最新鋭の機器によるもの。

各楽器の粒立ち、音場特性、ダイナミックレンジ、SN比、解像力などに優れていることは一聴しただけでわかる。
ほぼベストな状態に調整したSPからは、今まで聴いたことが無いようなティンパニーのpからfffまでのすさまじい音が聞こえて来るし、かつては、再現し切れなかった、「神の怒りの日」のテューバも今回は見事な音楽性を保った音響で聞こえてくる。
CDでの録音・・・デュトア指揮のモントリオール管弦楽団の物よりも、数段ハイレベルなのにも驚くことしきり・・・・
かなりのハイヴォリュームで聴いたが、「うるさい」感じがまったくしないことにも、改めて驚いた。

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曲名を書くことを忘れていたが、聴いたのは・・・
ベルリオーズの、あの「幻想交響曲」
演奏はロリン・マゼール指揮のクリーヴランド管弦楽団
この曲を聴くのも久しぶりのことだったが、音響の凄さに身震いさせられ、心臓があぶるような感覚を味わったひと時だった。

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レコードをB面にしてしばらくしたとき、あることが起こった。
いままで伏せていたわが愛犬シバが、スクッとSPの方向を向いて、いきなり遠吠えを繰り返し、それは長々と続いて、終曲まで続くのだった。

実は、今までにもこのようなことはあって、コンヴィチュニーのブルックナーの5番、つい最近ではカラヤンのワルキューレでも起こったことであるが、よく考えると、今までの経験では、それが起こったのは、全てアナログLPレコードを聴いていたときでのことなのである。

ブルックナーで試したことがあるのだが、当初コンヴィチュニーの演奏だけに反応する、小生と好みを同じくする愛犬、と思っていたが、どうもそうではなく、LPレコードの音に反応するようなのである。
ちなみに、他のブル5の反応箇所を5種類ほど聞かせてみたが、いずれもCDだったので、反応は無しだった。
>

前回のカラヤンのワルキューレも今回のマゼールの幻想交響曲も、いずれもがLPレコードなのだ。
これはどういうことだろうか?少ないサンプリングにしか過ぎないが、小生の推理によると、LPには犬にしか聞こえない、ある種の周波数が録音されていて、それが倍音成分などと絡んで、SPから出ているのではないだろうか。
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CDでは、その限界点がLPよりも低い周波数に設定されているため、人間にはさほど影響がないのに、犬にとっては出てくる音が大きく違うのだろうと・・・・・。
犬笛という高周波の笛もあり、犬の訓練にも使用されるというから、人間には聞こえなくても出ている音を犬はきちんと聞き分ける能力が備わっているのは事実だろう。
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by noanoa1970 | 2007-01-19 17:26 | 愛犬シバ | Comments(0)

12年目・わが追悼の心

早いものであれから12年たった。
小生は年々風化してしまいそそうな気配の漂う、かの地から遠くの住民であるが、「活断層」のほぼ真上にあるところに住んでいることが近年判明し、人事ではないと思うようになって来た。
また、あの惨事から見事復興を遂げた、阪神地区の市民の方々の努力と勇気、そして不幸にも亡くなられた人々への、ほんの微かで僅かな追悼の意を込めて聴いた音楽、それは
「モーリス・デュリフレ」の「レクイエム」そして「グレゴリオ聖歌を主題とした4つのモテット」であった。
いずれの曲も、「犠牲になられた人達」のことを忘れないで、そしてその方たちが天国で安らかに眠ることを祈るものとして、現代の作品の中では秀逸のレクイエムであると思われる。

演奏はデュリフレが亡くなった1986年に録音された、エラートのデジタル録音。
「テレサ・ベルガンサ」「フォセ・ヴァン・ダム」の独唱。
コローヌ管弦楽団と、合唱団
オルガン:フィリップ・コルボ
指揮:ミシェル・コルボ

遠くグレゴリオ聖歌がしのばれて、敬虔さにあふれる楽曲。
ホザンナのフーガは特に傑作だ。
演奏もベルガンサの非宗教的歌い方が逆に良い結果をもたらしたようだ。
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合唱と管弦楽の編成の曲は、やはりアナログで聴くほうが味があるようだ。
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by noanoa1970 | 2007-01-18 16:29 | 宗教曲を聴く | Comments(0)

菊花紋大皿コレクション

我が家のお気に入りの骨董の中でも、たいそうお気に入りで、見つけると入手してきたものに、「菊花紋の大皿」がある。
20年ほど前なら、伊万里、染付けを扱う骨董店で、よく見かけることはあったが、今では大きな骨董市でもこの皿を置く店は少なくなってきた。
「菊」の文様は日本人好みなので、入手すると簡単には手放さないし、普段容易に使えるし、染付けだから、どんな料理にも良くあうので、なかなか出てこなくなったようだ。

我が家ではスパゲッティ用の皿として使うことが多い。
京都の実家にあったものに、買い足して現在10枚ある。
それぞれが異なる趣を持っていて、デザインも時代の変遷や、作者によって異なるのが面白い。染付けの「藍」の色調もそれぞれ風合いが異なる。
全部を出して並べてみたのは、今回がはじめての試みだが、
こうしてみると壮観である。

現代物のテーブルを改造して、囲炉裏にしたものの縁に並べてみた。
近隣の金属加工業者さんに頼み、厚さ5ミリの銅版で炉を作り、テーブルに嵌めこみ、テーブルを古色に塗り替えた。
珍しい「鎖のわっか」で出来た自在を入手し、天井からぶら下げてみた。
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by noanoa1970 | 2007-01-17 16:56 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

商店街探索

無類の商店街好きな小生。
本日は名古屋の西の「弥富商店街」、そして名古屋も真ん中に位置する「円頓寺」えんどうじ商店街に赴いた。
そこで見つけたものを少しだけ紹介する。

先ずは弥富商店街の名物
金魚最中
「ランチュウ」を模した最中、弥富は今から約250年前、大和郡山より金魚を輸入してこの血に定着させたという。真ん中の金魚ゼリーは、遠方をワザワザといって、おまけに頂いたもの。
抹茶の餡のものが特に美味しかった。
近くの桑名にも「蛤最中」があるように、最中は何にでも姿を加工できるから、ご当地物が出来やすい。
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円頓寺商店街
昔はかなり活気があった記憶があるのだが、現在ではその面影があまり感じられなかった。
大道理をはさんで300m以上ある立派な商店街であるが、ところどころシャッターが下りていた。商店街の中には3つ以上の神社仏閣が存在する。

写真を撮るのをウッカリ忘れてしまったが、近くには駄菓子問屋が数多く立ち並ぶ。

名古屋の中心街から一歩入ったところにはまだこのようなふるい建物や町谷が残っていて、感激した。
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商店街の名前の由来の寺「円頓寺」
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商店街の入り口付近。「名古屋」の旧名のような表示があった。
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古い洋食屋があったが、あいにく休みだったので、「きしめん」を食べて帰った。
焼き鳥や、くしカツ屋多し。夜は活気を見せるのかもしれない。
JR名古屋駅から徒歩10分の位置にある古い町並みの町だ。
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by noanoa1970 | 2007-01-16 16:23 | 季節の栞 | Comments(0)