「ほっ」と。キャンペーン

ホテルNCの頃ー5

2年目になって、小生は「ブッチャー」に配属になった。
ここではローストビーフ用の肉の下準備、丸鳥を4つあるいは2つに切り分けたり、七面鳥ローストの準備、舌平目のフィレ加工、各種魚類の「おろし」、「コンソメ」用に、大きなすね肉の筋を取り除きミンチにしたり、牛フィレ、ロース肉の掃除、牛タンの塩煮込み・・・コーンドタン、コーンビーフの作成、
いわばメニューのメインの食材の加工提供セクションで、2Fで使う宴会、パーティ、婚礼用の材料もここで仕込む。
生きた伊勢海老をテルミドールと呼ばれるグラタンにするための処理や、冷製で出だすためにボイル後半割りにしたり、食材の中心を扱うセクションだったからとにかく忙しいところであった。

サーモンの使用量は最も多くて、3枚におろしたサーモンの数は数え切れない。
オードブルにはシュリンプのカクテルソース、牡蠣カークパトリックのための準備など、多岐にわたる。
魚の下ろし方でも舌平目とサーモンと、スズキ、鯛ではそのポイントはかなり違う。
舌平目のフィレ加工が自在に出来れば、ほぼ上達というのがメジャメントであった。
一方肉の場合はそれぞれの部位の大きさ、重さを一定に切り分けること、そして焼きやすいような配慮がキチンと出来ること、そしてハンバーグステーキの仕込である。
ホテルのハンバーグは、フィレやロースのあまり部分を使うが、その量が少ない場合は、フィレやロースのよい部位もをそのままミンチにして使うことがあるから、おいしいものができるに決まっている。

コンソメを作るには大量の牛すね肉(油成分が極端に少ないため、透明なスープを作るのに適する)を使用し、野菜と香辛料そして卵の白身と、マデラ、赤ワインなどの酒を混ぜ込んだものを大きな寸胴に入れてぐつぐつと沸騰させないようにして10時間ほどに出していく、やがてミンチと野菜が一緒になって玉儀斧白味が不純物を吸収して寸胴の上に浮き上がり、真ん中に穴を開けてさらに煮出したものを丁寧に漉していくという手間隙がかかるスープである。
スープの中ではもっとも高価で手間がかかり、いわばホテルの料理の顔であるとも言える存在だ。
やっと一人で抱えることが出来る大きな牛のスネ部分は1本まるまる配達されるから、解体しなくてはならない。
輸入のロースやフィレは、ある程度整えられてくるが、国産の場合は骨付きの状態で来るから、丁寧に骨をはずし、筋などを取り除く作業・・・掃除が必要だった。このために大量に出た筋や肉の破片は、全てデミグラスなどのソースに使われる。

コンソメスープは、浮き味にも気を使う。浮き実は「ガロニ」の担当で、大昔のある有名なシェフは、この「浮き実」を1年365日変化させて出し、大いなる評価を受けたという逸話があるほどで、コンソメと浮き身の関係は料理のメインディッシュとつけ合わせの関係にも似ている。
追加ごろのハンバーグを提供するレストランの多くのハンバーグなどは、肉の味がまったくしないものが多くなった。
だからコンソメを作るときに出る、ミンチと野菜の「残骸」・・・残りカスよりもまずい。
まだこの方が肉の味が残っているぐらいだ。
ハンバーグステーキを食べて「やわらかくておいしい」などとコメントする芸能人にもあきれることおびただしい。最近では「ハンバーグ」はあっても「ハンバーグステーキ」はめったに存在しない。

今ではもう情報が行き届いて、多分ご存知であろうと思うのだが、一度ホテルの朝食の定番「卵料理」を整理しておこう。

ご存知の通り、「スクランブルエッグ scrumble・・・いり卵であるがホテルでは決してフライパンで炒ることは無い。
家庭で作るスクランブルエッグは、まさに「炒り卵」でパラパラしてしまう。
ホテルでは浅い手つき鍋で作り、下が少し固まってくるたびにスクランブル・・・ごちゃ混ぜにかきい混ぜる。そうするうちにだんだん全体が凄く細かい卵の粒子状になってくるので、半熟状態で仕上げたもの。
これが正式なスクランブルエッグで、一番時間がかかり、つききりでないと、絶対に出来ない料理である。そのままでは食べにくいので「メルバトースト」・・・メルバというソプラノ歌手が愛好した薄焼きのパリパリしたパン)の上に盛り付けるのである。
予断であるが、音楽家の名前から撮られた料理の名称は意外に多い。
「シャリアピン」、「ロッシーニ」、「メルバ」などが特に有名「カークパトリック」はチェンバロ奏者にも同じ名前があるが、多分その人ではないかもしれない。

次に「オムレツ」・・・これは一人前に巻けるようになるまで、小生の場合約1000個の卵を捨てたが、TVなどで見られるオムレツは、ほとんどが手抜きの作り方である。本物は表面が薄皮1枚で包まれた中は、均一に細かくシェイクされていないと食感が悪く、見た目はオムレツの形を呈しているが到底オムレツとはいえないものが多い。
残念なことだが、相当に名がある料理人でも、いい加減なものを作っていることが多い。
総料理長でさえ、あるときTV番組でオムレツの巻き方を見せることになったときには、前日にかなりの量を練習したほど、しかしTVでは一般の人にはわからないだろうが、ホテルのコックの眼で見ると、100点満点を上げられない状態であった。
このように本物の「オムレツ」を巻くということは、継続してそれに従事している人でなくては出来ない、簡単そうで至極難しい、「芸術」の領域の料理でもある。

「ポーチドエッグ」という卵料理は一般的ではないかもしれない。
これはお湯の中に卵を割りいれて、ほとんど自然に卵が丸くまとまるのを見計らってやはりメルバトーストの上に盛り付けるもの。
これも簡単そうで難しい。何が難しいかというと、ほとんど卵自身に任せなければならないからである。料理人の出来ることは、まとまりやすくする手助けとして、油成分がついてない鍋の使用、お湯には酸性の・・・お酢とかビネエガーあるいはレモン汁などを少量加えておく、後は火加減と、箸などでの補助。
機嫌が悪いと卵はなかなか丸くなってくれない。このため1人前2個の提供で、余分に2個の卵を使う。出来不出来の要因がまったくつかめない不思議な料理で、もっとも料理人の腕から遠い卵料理である。新人がやって一発で出来るときと、ベテランが何度やっても失敗するとき、だから面白い。しかし幸運なことに、この料理のオーダーは極端に少ない。
ホテルの朝食で、10人が全て「ポーチドエッグ」を一時に注文したら恐らく、厨房はパニックになるであろう。

最後に「フライドエッグ」
70年代初頭に「成毛滋とフライドエッグ」というバンドがあったが、 卵料理・・・目玉焼きから名づけたのだろうか。
ホテルのコックの野球チームの名前は「FRIED EGGS」という名が付けられていた。
チームを作った男は珍しく音楽好きで、その頃から「マーチン」ギターを持っていて、淺川マキの
バックのギタリスト「萩原」そして友部正人が好きな男で、かなりのギターの腕前、家では蓄音機でSPを聴くのが趣味という。成毛滋と、卵料理をかけた一ひねりしたネーミングの真意を知っていた人は、ほとんどいなかったはずだ。

卵を油で揚げる料理もあるにはあるが、そうではなくフライパンで焼いてからオーヴンに入れて焼く。
最も一般的で、家庭でもよくやる、片面焼き・・・卵の表面に薄い膜がきれいに張ったように仕上がるものが「サニーサイドアップ sunny-side up」の最上級品。

両面焼きを「オーバー over」あるいはturned over (ターンド・オーヴァー)、または、tipped over(ティップト・オーヴァー)「という。
オーバーには2種類あって、黄身が半熟しあげが「オーバー・イージー over easy」
固いのを「オーバー・ハード over hard」といった。

しかしこの呼び名と料理名をハッキリ指摘できる人は誰もいなかったのが驚きで、人によって言うことが違う。
結局誰も正式にはわかってないことが判明したのであった。
考えてみれば、習ってきたのはフレンチだが、ヨーロピアンタイルの朝食ではこのようなフライドエッグは登場しなく、これはアメリカンスタイルの朝食になる。
そしてこのホテルではスイス留学はあっても、アメリカのホテル留学は無い。
だからうろ覚え状態で昔誰かがやったことをそのまままねしているから、全員が理解していない状態が続いてい手、中には間違えて覚えているものもいたのである。

「オーヴァーイージー」とは両面焼きの半熟仕上げであるが、ほとんど半熟では提供しないから「オーヴァーハード」となる。しかしこのオーダーはごく少なかったからあまり問題にならなかった。この「オーヴァーイージー」が厄介もので、フライパンを2つ使わないと完成しない代物。
かなり手間がかかり、失敗も多い。
多分外国人の注文であろうが、よくクレームにならなかったものだ。
外国人はメニューの写真表示と実物が少しでも異なると、すぐにクレームを付ける。どの国かは知らないが、日本人とはだいぶ異なる感覚を持っている。

後はスパニッシュオムレツやフレンチトースト、キッパードヘリングなどのメニューオーダーは一桁にも満たない数であった。

ホテルでは毎日早朝になると誰かがオムレツの練習をして、残骸をコッソリ捨てていた。
20個2人が巻くとして
20×2×365・・・年間約1万5千個の卵が廃棄されることになる。ホテルのゴミ箱は、まだまだ使える食材の宝庫と化していた。
このようにしてホテルのコックは贅沢な修行をすることが出来るから、砂やタオルを使ってしか、シミュレーションできないレストランのコックの数倍習熟度が増すのは当たり前であった。

by noanoa1970 | 2006-11-30 09:52 | 「食」についてのエッセイ | Comments(0)

「ホテルNC」の頃・・・4

この「ホテル「シリーズは、いわば小生の若き日の一時を、忘れてしまわないうちに、とどめ置こうというもの。
したがって興味のない方には大変申し訳ないのだが、今しばらくお付き合いいただきたい。
「ガロニ」に配属されて、「マッシュルーム」を白いままの状態を保ってブイヨンで煮込む方法を教わり、ジャガイモやにんじんのシャトウ剥きと呼ばれる包丁使い、そしてガロニの仕込み方とエビフライなどパン粉のついたメニューの調理のコツなどを覚えながら、やってきたのが「泊まり」であった。
泊まりのグループは八班に分かれていて、それぞれに7人から8人のコックが名を連ねていて、一番とされるリーダー各の・・・いわば班長の下に、およそ古い順に名が連ねられている。
小生は第1班の一番後ろに名前があり。
その上にはベルボーイから上がってきた、まだ二十歳ぐらいの半年ほど前に厨房に入った人がいた。
その上には入社3年にして日ごろの努力の甲斐あって、すでにストーヴ前で活躍していたが、朝は誰より早く出社し、掃除や洗物を率先してやるという、そして今まで無遅刻無欠席、この人も小生より年は若かったが、新人連中から慕われていた。
この人とは日々接触があったから、泊まりのことを事前にいろいろ聞くことができた。

泊まりのメンバーはその日の出社は14時、それから他のコックが帰った後宿泊客のディナーを担当し、次の朝の朝食を担当。
次の日のランチが終わったころに退社というローテーションだ。

朝食の準備として前日やっておくものと、当日やるものがあって、
卵料理に付け合せる「ベーコン」「生ハム」、メルバトースト(スクランブルエッグの下敷き用に薄く正方形に切り、角を落としたパン)は前日に暇を見つけて準備しておく必要がある。
「ベーコン」、特に「生ハム」は半分凍った状態でしかきれいにカットできないから、当日では硬すぎて切れないし、解凍してしまっては、やわらかくなりすぎて、きれいにカットできない。
メルバトーストは当日オーブンで薄い焼き色をつけカリっと仕上げるから、若いパンだと時間がかかるしパリっとしないから前日に切っておく。

オムレツ、スクランブル用の溶き卵は勿論当日用意するのだ。
しかしボイルエッグやフライドエッグ(目玉焼き)用の卵は冷蔵庫から出してすぐに使うと、例えば4分ボイルというオーダーがきても、卵が冷えた状態なので、実際には3分ボイルほどの状態となり、オーダーに対応できない。
したがって朝一番にケースから出し2時間ほど室温においておくことが必要となる。
朝食開始はあさ7時だから少なくとも5時にはやっておかねばならない。

このためグループの下っ端に2人は朝4時からおきて準備する必要があるのだ。
先輩達はみなそういう経験をしてきているから、7時少し前にならないと厨房に現れない。

朝厨房に入るとストーヴのオーブンに火を入れ、オムレツ用のフライパンにオイルをいっぱい注ぎフライパンんがいっそう馴染んでよいオムレツが巻けるようにしておく、30分ほど弱火でフライパンを馴染ませるのだ。
それが終わると、すぐに溶き卵の準備に入る。事前にボーイに宿泊客の人数を聞いておき、そこから必要量を推定する。
途中で足りなくなるとパニック状態となるから、少し余分を見るのだが、「オムレツ」「スクランブル」「ポーチドエッグ」「フライドエッグ」の比率は狂うことがある。

メルバトーストをオーブンで焼き、同じくオーブンで鉄板に並べたハムそしてベーコンを焼く、ベーコンは思ったより「クリスプ」・・カリカリに焼かなければならないが、注意していないと、すぐに黒焦げになる、いろいろなことをやりながらのことだから、失敗売ると足りなくなったときにはベーコンカットからしなおさないといけないから、大変なことになってしまう。
焼きあがったものを蓋付の箱に入れてデシャップ(盛り付け配膳台で常に保温状態になるよう蒸気で常に暖められていて、下の扉の中には食器が収納されていて、かなり熱くなっている)

このように順調に準備が完了し、スタンバイ状態になる6時ごろになり、やっと「オムレツ」を巻く練習ができる。
その努力家の先輩は・・昨夜は遅くまでスモークサーモンを切っていたにもかかわらず、下っ端の2人と同じように早くから起きてきて、段取りやオムレツの巻き方の指導をしてくれたのである。

小生は彼のおかげでいち早くオムレツが一人前に巻けるようになった。
冷蔵庫で昔ミンサー(肉をミンチにする機械)に肉を突っ込んでミンチを轢いていたら、ミンサーがストップしたので、入り口に手を突っ込み詰まった肉を取り除こうとしたとき、誤って自分の体がミンサーのスイッチを押し、かなりの傷を負うことになったという、危うくく手がひき肉にされそうになったと語ったことがあったが、彼はそれでも会社を休むことなく頑張って、片手でできる仕事をしたという有名な話がある。

彼に対しては仲間も目上も、恐らく一目置いていたのだろうが、ごく自然体の男だったから、意地悪もされなかったと見受けられる。実家を手伝わないといけないことが出来たといって、残念そうにホテルを去ることになるのだが、彼こそホテルに残れば「名シェフ」となりえただろう。

泊まりの夜の「ディナー」が終わるのが22時、片付けなどが終わるのが23時、そこから自分達の夕食・・・夜食を作り食べることになる。
最初の泊まりの夜の夜食は「歓迎会」と称して、あるものはベーカーからケーキを、あるものはパントリーからビールを、そしてブッチャー(肉魚専門部署)担当の男はステーキ用のフィレと、舌平目を、後のものは残りの食材から自分達が食べたいものをそれぞれが調理して、大きな
冷蔵庫のスイッチをいったん切って中に入り、そこでミニ宴会を始めるのだった。

そこでは誰かの新人のときのエピソードなどが語られ、飲み食いしながら時を過ごす。
ステンレスの台にはいつのまにか誰かが持ってきた大きな白い布がかけられ、さながらレストランの様相を呈している。
椅子が無いので立ってのことだが、椅子がもしあればものすごいディナーである。
前菜からメインディッシュ、デザートまで揃うフルコース。
後に知ることとなったが、「歓迎会」というわけでなく、「夜食」は泊まりの特権的なもので、どのグループもやっていること。
セカンドチーフたちも同じような経験で育ってきたから、よくないことと分かりつつ、禁止に出来ない。
考えてみれば10人には満たないものの、それに近い人数が毎晩ステーキだソールムニエルだ今日はビーフシチューだ、あるいはエビフライだといって、在庫を減らすのだから・・・そして毎朝誰かが大量の卵を「オムレツ」の練習で捨てるのだから、ここは通常の価値観では図ることが出来ない空間ということになる。
このころのヒテル・・・このホテルに限ってなのかもしれないが・・・計数管理などは建前だけで、まったく見事なまでの「どんぶり勘定」デ、当然その付けは利用客に回ってくるし、ひいてはホテル経営を圧迫するみなものになるのだが、当時は誰もそのことを指摘し、改善しようとは思わなかった。
それどころか、それがホテルのコックの特権で、そのくらいは過酷な労働・・・単に重労働ということだけではなく、自分の休みがあらかじめ決まらないで、出勤簿を見ると明日が休みになっている、土日祝日は冠婚葬祭でなければ絶対に休めない。まして連休などはホテルの暇な時期に月に1回あればいいほうで、夏休み、冬休みは当然のようにカレンダーどうり以下。

それらは全て総料理長が決める。
そうホテルの厨房では総料理長は神様なのである。
しかし組織系統はピラミッド型だが命令系統は必ずしも・・・実際にはそうならないことが多い。
なぜならコックの旧態的組織は、擬似徒弟制度だから・・・・誰の下で働いて腕を磨いたかなのである。しかしそのころから徐々にそのような構図が崩れていき、総料理長の下は彼の子飼いだけではなく、ほぼ同じくらいの経験者もいたりするから、そしてセカンドチーフの立場にいる人もいて、現場の実験は彼らが握っているから、ときに命令系統が二手になることがある。

セカンドの言うとおりにやっていたコックが、たまたま厨房に来田総料理長から「誰がこのようなことをやれといったんだ!」と怒られるシーンを何度か見たことがある。
こういう・・・今では特殊ということが出来る職人の組織の運営は難しいものがある。
「封建的なもののやり方」で上手く行ってきたこの世界に「民主的なもの」を中途半端に取り入れた弊害が見られたのがあのころのホテルであった。

今このような組織形態命令系統で運営したならば、その厨房はすぐに潰れてしまうことだろう。
ホテルの「名シェフ」がいなくなってきつつある時代の走りが70年代の世界であったのかもしれない。料理の腕がよいだけでは組織の長にはなれない「名選手必ずしも名監督ではない」というとおりである。

こんな風に時が過ぎ1年ほどたったあるとき、そのころ小生は「ブッチャー」といわれる「肉魚」専門部署に配転となっていた。
夏季プールが始まると、2年目のコックの誰かが交代で、プールに来る客用の食事を作る担当になるか、長野のゴルフ場付属レストランに出向するかであったようで、小生はプ-ルの担当となり2人でその夏を任されることになった。
そのころプールのあるホテルはそうざらには無く、人気があって今で言うところの「セレブ」の社交場、あるいは「ハイソ」な連中の溜まり場となることがあり、美しい女性も多く、したがって男性達も集り、モデルスカウト専門の
このホテルでは有名な客もいたほどで、盛況であった。

プールの支配人と服支配人を除き、監視役、そして食事係りは学生のバイトを使った。
プールの食事提供のために特別に外に作られた小さな厨房は、熱いのを除けば他には誰も来ない天国だった。
暇なときにはバイトの学生達が遊びに来たりして、かわいい女子大生も多かったので、それは楽しかった。「スリーディグリーズ」がはやっていて、ある女子大生がレコードが欲しいというので30%OFFで仕入れてやったり、「ヒューズコーポレーション」という3流のロックバンドのコンサートに無理やり誘われたり、音楽が好きな連中を家に招いて音楽を聴いたり、学生時代の空気を再び感じることが出来た。
メンダイ厨房のときは買っておいたコンサートのチケットをことごとく無駄にしたが、プールは終了時間がキッチリ決まっているのがありがたかった。
超有名な指揮者とオケのクラシックコンサート、「淺川マキ」「NGDB」これらは突然の残業・・・というより退社の時刻が決まってないから、一種の「賭け」のような状態で、ことごとく無駄にしてしまった。
年末の第九のコンサートなど、忙しい時期と重なるから絶対に聞くことが出来ないのである。

そんな天国のようなプール担当の短い夏が終わったある日のこと、あることが起こった。
それは今では懐かしい、ホテル時代の思い出深い出来事となって残っている。

・・・この話続く

by noanoa1970 | 2006-11-29 10:45 | 「食」についてのエッセイ | Comments(0)

「ホテルNC」の頃・・・3

加川のコンサートがあったから、急遽書いた緊急レポートが一段楽したので、「ホテル」の続きを!
前回は入社したところまでであったので、ソロソロ内情暴露?(笑い)を書き始めようと思う。
出社当日は新入社員研修だ、指定されたところに集合すると、新入社員は約30名ほど。
希望職種、男女の区別などは関係なく、合同研修が始まる。
「ホテル」とは・・・の概論に続いて、OJTの一環か、グループに分かれて、客室に連れて行かれる。
そしていきなり「ベッドメーキング」の仕方を教わる。
やはりホテルは宿泊が基本だから仕方が無いし、だがこれは面白い。
シーツのシワが出にくい方法を伝授され、その後ホテルの各職場の案内と、主な仕事の内容説明を受けた。
昼食後配属先に移動するが、その前に配属先のユニフォーム試着を地下1Fにある「リネン室」で行う。

ほとんどの新入社員が宿泊に関係する仕事で、ベルボーイ、食堂の給仕、電話交換手、そしてパントリー(酒、各種飲み物、アイスクリームを提供)、ベーカー(パンとケーキ)と厨房に合計3名が配属され、そのうちの一人が厨房に配属の小生。
白いコック服(ホテルでの名称はコート)は、NOANOA時代に上着だけ着ていたが、上下と帽子、それにネッカチーフと前掛けを付けることになる。
ウロウロしていると、後は現場で教えてもらってくれというので、1Fにあるメインダイニング厨房へと向かう。

まず料理長に挨拶すると「君は将来ホテルで上に行きたいか、それともいずれ自分で店を持つ
つもりか」といきなり聞く。その選択肢では考えていなかった小生だが、迷うさまを見せるのはよくないと、とっさに「できれば店を持ちたいです」そういった。
これが1F厨房か2F厨房配属かを決める問いかけだったということは後で分かったが、
1Fは文字通りメンダイ(ホテルの主厨房)の厨房だから、主に宿泊客の食事、そしてVIPの食事、たまにイベント関係者用の「食券」と呼ばれる・・・例えば「カレー」「オムライス」などの「弁当」にあたるものを大きないべんと・・例えば新車発表会、様々なジャンルの大掛かりなの展示会・・・そのスタッフに提供する簡単な昼食100から300食・・・・を担当する。

コースからアラカルト、そしてランチもディナーもある。
2Fは結婚式披露宴、法人主催のパーティ・宴会用の食事を提供するところで、主に「盛り付け」が中心となる。
材料の切り出しやある程度の調理を1Fのメンダイで処理したものを、2Fに上げ、火を入れたり、盛り付けたりして、ビュッフェや婚礼、イベント用の食事として出す仕事だ。
2F独自で作るものは各種「冷製オードブル」と「スープ」、そして「ホット」と呼ぶ暖かい料理。この材料は1Fメンダイで提供したものを料理することになる。

もうひとつホテルの最上階には観光客やフリーの客が使うことのできるレストランがあって、そこにも厨房があるから、このホテルには西洋料理用の厨房が3つあることになる。
総料理長の下には黒ズボンとブルーのネッカチーフのセカンドチーフが、1Fに2人、2Fに2人
最上階にも2人合計6人いた。彼らはいわば現場責任者である。
コックの数は1F2Fで約60人、最上階には20人ほど。

最上階は一般顧客向けのレストランとしての存在意義があったから、所謂フレンチ中心のメニューを提供する「ホテルの高級西洋料理レストラン」としての顔を持っていて、セカンドチーフはいたが、「一国一城の主」的な存在、一種独特の「古いレストラン的な職場雰囲気」があった。
何度か手伝いにも行ったが、いつもピリピリしていて下とは違う緊張の連続、ここのセカンドはものすごく怖いことで有名な人であった。

ネッカチーフの折り方と身に着け方、きれいな結び目の作り方をOJT頂、最初は厨房の案内。
お昼を回った頃だったので、オーダーはあまり無く、少し暇になりかけたようで、1年先輩という人が案内してくれた。
聞けば厨房では「今度大学出の新人が来る」ということで、話題となったらしく「どうしてこの道を選んだのか?」などと聞いてくる。
案内を受けながら適当に答えていると、その人前職が「自衛隊」だというのには驚いたが、扉を開けて入ったとてつもなく大きい冷蔵庫に驚いて、その話は中断となった。
厨房の背面にステンレスの扉が一面に並んでいて、それは室内冷蔵庫だということがすぐに分かったが、その左右に両開きの大きな入り口が合って、右の扉の奥にあるのが、20畳はあろうかと思えるような冷蔵室。

ここで別室の冷凍室から、冷凍されている輸入物の肉を出してきて解凍したり、国産の肉・魚をしばらく保存したり、切り出した魚・肉類をワゴンに乗せて置いておき、2Fに上げるために一時保管する素材の保管庫であった。
この場所でも必要に応じて調理することもあるから、真ん中に調理台があり、周りを2階建ての棚が囲んでいて、様々な素材が置いてある。
これらは長期保存するためのものでなく、どちらかというと、数日の間に使うための準備のためのものである。
恐らく婚礼の会食用に使うのだろう。
チキンが丸ごと50羽、掃除してない状態でフィレ肉が20本、生きた伊勢海老がケ-スに入ったままゴソゴソ音を立てながら200匹置いて有ったのにまたビックリ。

野菜類の冷蔵用の部屋、ソースやスープ保存用の部屋(匂いが移るので専用)、そして生クリーム、バター、ミルク用の棚、があり奥に肉用の冷凍庫と魚用の冷凍庫が独立していた。

大きな冷蔵室場所は、毎晩ある秘密の場所に変身することになるのだが、そのことはそのときには夢にも思っていなかったんおであった。

職場の案内が終わると、小生は「ガロニ」と呼ばれる担当のグループにまず入ることになった。
「ガロニ」とは「ガルニ」・・・「ブーケガルニ」キャロット、パセリの軸、セロリ、ローリエなど所謂「香味野菜」類を束にしたものの呼び名として最近では一般的になってきたその「ガルニ」。
すなわち野菜であり、それはメインディッシュなどの「付け合せ」専門担当グループのことであった。

このころのホテルは、耳学問と実地見習いによる・・・「盗んで覚える」という職人の伝統が、まだ消えてはいなかったところがあって、フランス語を中心に、いろいろな外国語が入り乱れていて、その言葉の意味の根源を知るものはあまり存在していなかったようで、「ガロニ」とは「ガルニ」と発音すべきところを、このホテルでは「ガロニ」というから、面食らうことが多少あった。

例えば
「デシャップ」にある(あれ)、取って来てくれ!といわれて、レシャップだかデシャップだか・・ともかく分からないので、困ったことがあったて、すぐにそれが「DISH UP」・・「ディッシュアップ」のことだと分かったが、「デシャップ」というこちらが外国人の発音に近いから、耳で聞いて覚えた名残で、文字から入れば「ディッシュアップ」という覚え方になるだろうから、それはそれでよいのだが、その意味するところを知るものは少なく、「あそこの場所」をデシャップという・・と覚えている人がほとんどであったのには参った。

コンカッセに切る、シャトウに・・・、モンテする、フランベ・・・などなど発音と動作は対になるがその意味することろまでは、決して教えられることはない。これがまだこの時代のホテルの料理人の世界であったのは事実だ。
小生は第2外国語にフランス語を選択し4年生まで持ち越したのと、もうひとつの理由で、京大西部講堂の近くにあった、「日仏会館」の仏語会話スクールにしばらく通ったから、料理用語は持っていた辞書でおおよそ確認できたが、特殊専門用語はやはり「ラ・ルース」の辞典を頼った。
総料理長が書く各メニューは勿論フランス語であるが、ものすごく上手で・・・習字のお手本のような書体で書かれてあったから、かなり努力して練習したのだろうと推測させられた。

「ガロニ」の仕事は付け合せを仕込むことだ。
「付け合せ」といっても決してバカにはできない重要なもので、本当に一流の料理か否かは、「付け合せ」を見れば分かる・・とさえ言われるほど。
だが、当時の小生にはそのことが分かるはずも無く、しかしストーヴ・・・火を使って調理する担当を「ストーヴ前」といい、ソースとスープの仕込みと、煮たり焼いたりの調理をする。
ある程度の専門能力が要るから、3年ほどの経験を経てストーヴ前担当初心者となるが、それには他のいろいろなセクションを回らなければならない。

「ガロニ」は調理代の「ストーヴ前」とは向かい合うレンジで、タイミングを見ながら「付け合せ」=「ガロニ」を調理する。
「ガロニ」の基本は「赤味」「青味」「白味」という3色の野菜を組み合わせたもので、フランスの国旗を意味するとも言われるようだが、いろいろな説があるから真実は分からない。
「白味」の代表選手がフライドポテトなどポテトを使用したもの。
ジャガイモを洗って、大きさによって4~6にカットしたもの「皮を剥く」
よく「いもの皮むき」といわれるが単純な「皮むき」ではなく、形をきれいに整え、見た目が美しく、そして調理しやすく、触感がいいように、3分の1ほど削り込んで、面取りを施す必要があった。
一皿3~5冠つけるから1人前ほぼ1個のジャガイモを使うことになる。

このため大量のジャガイモをフライドポテト用に切り出し、皮むき面取りするから、大量の残骸が出ることになるが、それらは全て廃棄されることになる。
家庭でやるように、ジャガイモの薄皮を剥いてからやれば残ったものも再利用可能なはずであるが、ホテルでは決してそのようなことをしないのである。

大量に3枚卸にされるサーモンの頭もすべて廃棄する。非常にもったいないがフランス料理にはサーモンの頭を使うレシピは存在しないから、残しても無駄で、サーモンは魚のブイヨンにもならないから、仕方がないこととなってしまうのだ。
ここころのホテルの料理はまだ古典的フランス料理で、やがてヌーベルクイジーヌの「ポール・ボキューズ」が一斉風靡する前のことであった。彼の登場によってフランス料理が変化し、やがて現在のように、和食のテイストを取り入れたような物の流行となった。

彼なら鮭の頭を使った料理を開発したであろうが、古典的フランス料理では魚の頭は模造のものを使う。これは臭みが出やすいなどの害を防ぐためだったのだろう。

フライドポテト用にジャガイモを加工するには、ペティナイフという小さな包丁を使う、そして三日月形に整えながら皮を剥き、面取りするのだが、このナイフはナイフの柄の部分を持つのではなく、手のひらでナイフの刃の部分を直接握るのだという。
ナイフは押したり引いたりしない限り絶対に切れることはない・・・とは知ってはいたが、刃を指の腹に押し当てて握り、しかもその状態でジャガイモの面取りだから、これは恐怖であった。
何度もためらったが実際にやっている先輩を見て・・・そうしていない人もいたにはいたが・・・とにかく勇気を振る絞ってやってみると、指に腹はナイフの刃の後はついたが、どこも傷つきはしなかった。
柄の部分を持つとナイフの柄に近い部分の刃を遣うことになるから、よく研がれたナイフならいいのだが、そうでないものはきれいな面取りができない。
ナイフの刃を直接持つやり方であれば、ナイフの刃の先端部分の鋭いところが使えるから、きれいな面取りができる。
このことはフライドポテトにしたときにハッキリとした差が出ることになるのだ。

このとき小生は京都を去るにあたって、「菊一文字」という老舗の刃物屋からペティナイフを1本仕入れてあった。
何故「菊一文字」カというと、司馬遼太郎の「新撰組」あるいは「燃えと剣」をTVドラマにしたものが好きで、「栗塚旭」の「土方歳三」そして「島田順司」の「沖田総司」に思い入れがあって、沖田が京都で仕入れた刀が、「菊一文字」で、この和包丁を「白沙村荘」の「お菜ところ」でも使っていたから、小生も1本だけ入手したのであった。

最近では一流レストランでも冷凍の・・・ファーストフードと同じようなフライドポテチがついてくることが多いが、この頃のホテルでは、全てこのように準備されたもの、付けあわせといっても手間隙そしてコストがかかっていたものであった。

おなじようにして「赤味」のメインはキャロットのバター煮のために、面取りをするのだが、ジャガイモよりは数段剥きにくいのであった。
しかしキャロットの面取り後の残骸は、ブイヨンを作るときには無くてはならないから、保存されるのだった。

青味としては季節の・・・キヌサヤ、インゲン、ブロッコリ、たまにブリーンピース、それらをブイヨンで煮て温野菜として白味、赤味と同時に付け合せる。赤青白の順に付け合わされるが、メニューによって勿論付け合せも変化する。
ステーキ類でソース類を使用しないメニューであれば、フライドポテト、だがウインナーシュニッエルのように、パン粉を付けて調理されるものにはソースで食べるからポテトでなくスパゲッティを付ける。魚の場合は、少し大きめの、茹でたポテトという具合にメインディッシュによって変化させる。小生はプチオニオンをブイヨンで煮込み、肉のジュースをを究極まで煮詰めて作る、グラスというソースを加えたものが好きで高価なメニューによく使った。

ともかくストーヴ前に立てるということはラッキーで、
揚げ物は全て実践できたし、向かいから全てが見えるから、先輩達の調理手法を見ることもできた。

1F2Fのコックは普段の接触は少ないが、それでも週1回の当番のグループは混成だったから、すぐに顔見知りに慣れたし、仕事の連続性も有ったから、人の交代も盛んに行われた。
そうしているうちに、「ガロニ」の担当になってすぐに、始めての「泊まり」の日がやってきた。
「泊まりのグループ」の役割は、宿泊客のメンダイでのディナーと、ルームサービスそして翌朝の朝食の担当だ。

・・・・続く
次回は泊まりの時の話などを

by noanoa1970 | 2006-11-28 16:06 | 「食」についてのエッセイ | Comments(0)

10年ぶりの邂逅・・・3

加川の、このところの共演者として「すぎの暢(のぶ)」という男が気になるが、彼のHPを見つけたので参考しされたい。
「すぎの暢」HP
小生は「ラップスチール」という言葉をはじめて知るところとなったのだが、「ラップ」とは歌唱法ではなく「膝」の意味。ラップトップPCという呼び方が過去にあったが、その「ラップ」のこと。すなわち膝において演奏する「スチールギター」である。
このあたり「ブルーグラス」で使う「ドブロ」の発展系と見ることができそうだ。
「すぎの」は、ピックアップとシーケンス・・シンセサイザーを使うものと、アコースティック(PA経由)のものを使い分けていた。

小生は「すぎの」の演奏を初めて見聞きしたのだが、彼のテクニック・・・というより、ほぼ即興に近いであろう、その音楽を作り出していく感性に、非凡な才能を大いに感じた。

「加川」が、どの曲を最初に持ってくるのかも興味があって、「水」=「アイ&アイ」との推測は外れたものの、
「レゲーの・・・・」で始まる「贈り物」を持ってきて、序奏では「すぎの」のラップスチールを、
スピーカーユニットのコーン紙がエッジをこすり、そしてボイスコイルが焼けてしまうのではないかと心配させるような音量のBAZ音。
チューニングによる、あるいはスライドバーによるところの、あの独特なクロマチックでときにハーモニクスさえ感じられるような・・・大宇宙的な響きに、しばしドキドキさせられながら酔いしれた。
これはソロによる「エレクトロニック・オーケストラ」と十分いえるだろう。
「ピンク・フロイド」のあの大仰な装置と比べるのはどうかと思うが、隔世の感がある。
しかし「すぎの」の音を賛美しながらも、別の耳では「加川」との受け渡しが気になり始める。

しかしそこは十分手馴れたもの、加川が歌いだすと、ラップスチールは、裏旋律を絶妙なハーモニーバランスで奏でる「楽器」と化すのであった。

これは大成功の競演!!
のっけから圧倒され次には「こっちだよ」と「高知だよ」をダジャレタところも潜む、南にすむ人への憧れと、擬似望郷の歌「高知」へと続き、小生の大好きな「ラブソング」となる。
録音では「ナッシュビルト-ン」でいっぱいの、スチールギターとピアノのバックで今日の演奏より、やや早めのテンポで曲が進行したが、ここでは感慨深そうに、思いを噛み締めるかのように、ユッタリと歌う曲調にアレンジされていて、大人の編曲の仕方に好感を持った。
贅沢だがしかし、ピアノの音はぜひ欲しいところだ。

次は小生初耳の曲、調べると「夜明け」という曲らしいが、アルバム「教訓」の「夜明け」ではない。

心配した観客の入りはざっと80%ほど。チョット見には満席と映るほど。

見渡すと、このホールの大きな特徴は2つあって、そのひとつは
天然目がふんだんに使われて作られているということである。
入った瞬間まだ新しいためか、木のよい香りがした。
そしてホール内にスモックがかっていることに少し驚いた。最初はそれを「照明」効果のアップに使うためと、思っていたが、ホールを出たロビーにもそれは立ち込めていたから、一瞬急性の「白内障」を起こしたのかと思ったことを忘れて、よく考えると、どうやらそれは木材をふんだんに使用していることから、冬の乾燥と、暖房の乾燥による木の脱水症状を防ぐため、湿気付加のためのものではないかと気づく。
照明にもそのミストは寄与していて相乗効果を上げていた。

今ひとつの特徴は「オペラコンサート会場」のように、周囲を囲む中2階がつけられていることである。ここにはざっと100席ほど収容できるようだ。
観客はこの2階部分を除きほぼ満席状態。
小生の悪い予測を大きく裏切ってうれしい誤算だった。客層はやはり40代以上が大半で、若者の姿は小生には数人しか見れなかった。

しかし何か仕掛けが・・・・多くの客の中に「桜」の存在を感じることになったのが、曲が次に移ったときのことだった。
というのは
加川が・・・・この人、口数はいつも少ないが、実際はどうなのかしら、多分楽屋などで、主催者からこの「北方町」のことを事前に聞いていたと思われる発言を2つした。
それは周囲の町がこぞって町村合併に進む中、唯一北方町だけがそれに乗っからずに、「自主独立」を通したということ。それを加川は例のごとく「あまり、このようなことを僕が言うことではないが」と前置きしてから、気を使いながらも「反骨精神の気構えある北方町民」と讃えた。

道理で、来る途中の付近の町の表記が「本巣市○○町」となっていたのに、この北方は、HPでも「本巣郡北方町」となっていた、この意味がやっと飲み込めた。

今ひとつが・・・これはほとんどの皆さんが初耳だと思うのだが・・・・
北方町はあの「高田渡」の出生地で、小学校4年生まで、この地で過ごして東京に引っ越したというではないか。
これには本当に驚きであった、高田が岐阜県出身とは聞いてはいたが、岐阜は岐阜でも、よりによって本巣郡「北方」とは・・・・・偶然なのか、そういう経緯があって北方の誰かが、すでにこの世にいない高田の代わりにと、加川を呼ぶことにしたのか?
加川もこの事実を今回初めて知ったのだそうだ。
町村合併を拒否して、わが道を行く北方市民と高田の反骨精神を、加川はダブらせたのではないだろうかなどと容易に想像できたのであった。

そんな話をしながら聞き馴れた、曲のイントロを演奏し始めるので、京都の秋は、コートなしでは寒いくらいで・・・の「下宿屋」だと信じきっていると、突然それは高田の持ち歌でもっとも有名な「生活の柄」であった。
そして小生は、このときの加川が、「してやったり」という顔へと少し変化するのを見逃さなかった。それは「高田」の持ち歌を歌うということは「北方」町民サービスであり、リスペクトの証であり、そしてそこにあるメッセージとして、小生は
「下宿屋」のイントロをそっくりそのまま高田の「生活の柄」に応用する・・・「下宿屋」と思わせておいて、そんな仕掛けをすることで、観客の「質」を見ようと思ったのではないだろうか?
加川ほどの人物だから、これまでの多くのライヴに参加した客の質を図りたい・・・そのような気持ちがあっても当然のことであると思うし、それは十分考えられる。
「ミュジシャンと聴衆の駆け引き」≒コミュニケーションは、実はそんなことから始まるような気がする。
「凄いですね」と、繰り返すように言いながら集った観客の数を表現、「僕もホールでやったことは無いことは無いんですよ・・・」との表現に、いつもの「ライヴハウス」や「喫茶店」でのライヴと異なる空気を敏感にキャッチしたに違いないことを感じたのは、小生だけであろうか?。

加川という男は、・・・長年の「生活の知恵」なのか、彼本来の気質なのか、果てまた近江商人の末裔の血がさせるのか真偽のほどは到底分かるはずは無いのだが、時々このような「仕掛け」を施すことがある。

冗談やで、冗談をちょっと・チョットだけ・・・といって「戦争をしましょう」を歌いだしたり、こんなことをしたら「フォークソング」みたいでいやになる・・・など、どこに彼の本音があるのか分からない発言をして人を困惑させ、煙に巻く。
「高田渡さんから破門された」・・・とどこかで言ったことがあるらしく、以前「これについて知っているか」という問い合わせをもらったことがあるが、これとて恐らく彼独特のシニカルな表現、あるいは「反語」のようなものだと、小生は思うのだ。

加川は高田をして、「僕にとっては歌や音楽は、高田さんで完結している」という発言をもしているから一体どれが彼の本音か分からない。
わざとそうしておくことの・・・すなわち加川が今流行の「曖昧戦略」によるメリットを、彼の歴史の中で十分知ったからだと思うところである。

こうして加川の「生活の柄」は始まり、少しアップテンポ気味ではあったが、単独で歌う加川を初めて聞く興奮でいっぱいになった。
ワンフレーズをフィンガーピッキングで弾きながら、「コーラスお願いしますよ」と観客に言う。
しかし、ここに加川の仕掛けが潜んでいることを知らない、「俄か70年代フォークファン」がいて、まんまと加川の戦術に引っかかって見せた。

「生活の柄」のコーラスといえばあの部分・・・一度でも聞いている人なら誰しも分かり、その意味は分かるし、この歌の・・・「山之口獏」の詩の内容も理解している。
なのに
後方に陣取ったある集団たちが、何を思ったのか「手拍子」を始めたのだ。
「おいおいそれは無いだろう」と、小生は苦々しく思っていると、その瞬間、加川が歌をやめギターだけを弾きながらこう言ったのだ。
「手拍子を打たれると、僕は歌えなくなってしまうんです。だから手拍子はやめー・・・」と、少し強い口調で言うのだった。
内心「よく言った」とほくそえんだ小生、すぐ、あることに気づいた次第であった。

ライヴ百戦錬磨の加川だから、たかが手拍子で歌えなくなる・・・・そんなことはありえないこと。
アウフフタクトが欲しいときだろうと、少しリズムが狂った手拍子だろうと、ほとんど関係なく演奏可能なはずである。
そうでなければライヴなどは絶対できないことになる。

また「加川独特の言い方が出たな」と思ってその意味するところを解読した。
別の言い方をしてみるとそれは次ののようになるはずだ。

『お客さん、僭越ながら、先ほど私はコーラスをお願いしますよ、といったはずです。手拍子をトは言ってないでしょ、私が尊敬してやまない高田さんのこの歌を取り上げた意味と、この詩の内容からして、ここは手拍子を打っていただくようなものではないってことが、お分かりにならないようですね、とても残念です。私の歌には手拍子を打って似合うものはほとんど無いのです。中には例えば・・・女というものは嘘つきで・・・・なんていう歌・・家女を非難する歌じゃなく、女を味方している歌ですから誤解の無いようにしてください。この歌には手拍子がキチンと入れてありますから、この歌のときこそ、手拍子をお願いします。
ほら手拍子を始めたそこのあなた達、頼まれて来てくれた人たちでしょ。
もちろんそういう方も歓迎しますがね。
できればチョットでいいから共通認識を分かち合いたいと思ってもいるのですよ。』

・・・・勿論これは小生の至極勝手な・・本人の意思や意識とはまったく関係ない想像なのだが、小さなライヴ空間と、ホールでのコンサートの違いが浮き彫りされた瞬間でもあるような気がしてならなかった。
80%の動員は、それは壮観で、主催者も、演奏者もその点だけを見れば満足せねばならないであろう。
しかし・・・である
加川ともなれば、このようなコンサートの、主催者側の仕掛けを見抜いてないはずはない。

「すぎの」そして「有山」まで演奏するライヴのチケットが@1000円。
きょう日、義理と人情で集められる、学生オケの入場料でさえ@1000円である。
コンサートの企画者、仕掛け人、主催者は、一体どのような意図で、加川良ライヴを企画したのだろう。
そのことが最初からず~っと気になっている小生である。
第2弾3弾という連続性は、果たして期待できるのだろうか?

「すぎの」は少し前から退場していて、しばらくは加川のソロとなり、板垣退助の・・・「百円札」をへて「すぎの」が再登場して、ダントツの名演と小生が思った「女の証」の開始となる。
「すぎの」の低域用らしき・・・コンコルドのような羽のついたスチールギターの第2メロディからのスタートだから、何が始まったのかと、一瞬思ったが、すぐにそれがあの曲であることを知り、詩の内容が当時とは違う重みを持ったことに気がつくのだった。
そして「熟年離婚」の文字が同時に脳裏を翳めた。
次元の異なる感動・感慨が去らないまま「コスモス」が始まり、終わる。
「幸せそうな人たち」も知らぬ間に通り過ぎ、ふとわれに返ると、まさかと思っていた「教訓Ⅰ」の例のごとくイントロなしでいきなり始まった。
「すぎの」のスチールがまるでフィドルのような音色を出し、間奏も素晴らしかった。
しかしこの曲には「バンジョー」と「フィドル」入りのブルーグラスっぽいあのオリジナルの方を、より好む小生であった。ブルーグラスあるいはカントリーバンドとでのライヴを見聞きしたいものだ。

その昔、巷では「泉谷しげる」 が歌った「春夏秋冬」と同じメロディラインの曲。
この原曲を前まで覚えていたが、思い出そうとしても出てこない・・・トラディショナルフォークだったと思う。
こちらは泉谷ほどの悲惨な青春期の歌ではなく、少し明るめにアレンジした愛の孤独の歌「ONE」

これでお決まりのアンコールとなり、「有山」が登場し3人の競・共演となる。
チンクエッティの歌の題名みたいな「胸にあふれるこの思い」が終わって、再登場。

最後の歌となるのだが、実はこの歌については特に思い入れがある。
それは3年前の息子の結婚式の最後、新郎の父の挨拶のとき、小生が用意したものが2つあって、ひとつが小津安二郎の言葉、そして後一つが加川の「流行歌」の一部を会場で流すために、いいとこ取りの3分間に仕上げたことであった。
結局「HOBOS」コンサートライヴから収録して、挨拶のエンディングとして流したのであった。

出掛けに女房は、「あのマッチ1本・・・」という歌やるかしら・・・もしやらないようなら私、大声で息子の結婚式に使った曲、だからやってよ・・・という・・と少しはしゃいでいた。
そしてライヴの終わりごろになると、やらなかったね・・・リクエストしたら・・・などと小生を即すのだった。
演目は決めてあるはずだし、共演者もいるから、そして会場が会場だけに小さなライヴハウスでビールを片手に・・・という雰囲気ではないから、本当にもうあきらめていたのだが、
イントロのフィンガーピッキングが始まった瞬間「やる!」と悟ったのだ。
最後にこの曲を持ってくるとは・・・これは2重の感激だ。

この曲は加川のライヴでは、何かいいことがあったときに歌うようであるから、今日のホールでのコンサート、北方が高田の生地、満員の観客、などなど何かうれしいことがあったのだろうと思っていた。
しかし後で分かったことなのだが、11月25日の前日は加川の誕生日59歳になったそうで、本人は一言も言わなかったが、かなり年のことを言っていたのはそのことがあったからだろうと思われた。
反応のない聴衆ばかりで・・・・勿論加川の誕生日まで小生は知らないから・・・これは失礼しました。
しかし誕生日まで知っている異様な「加川フリーク」の存在・・これにもまた怖いものがある。

「生活の柄」「女の証」「流行歌」・・・この3曲で、上級な満足感を味わえた。
クラシックコンサートとはまったく違う種類の「感動」の存在を再認識したのだった。

写真は一切撮ってないから、残念ながらアップできない。
でも隣の中年女性は盗み撮り常連のような手馴れた様子で、MDの録音機をバッグに、マイクを手提げにつけて休憩の時間にメディア交換するというなれた手際。
あまりの手際のよさと、かなり美形だったので、何も言えずにいた小生。(笑い)
しかしそんなことを忘れるほど、内容の濃いライヴであった。

以上で「加川良コンサート」の概況を終わることにしようと思うが
大事なことを書き忘れたので追加する。

加川の風貌は10年の年月を感じさせないほどまだまだ若々しかった。
同じ年の小生としては、非常にうらやましい。
声はというと、前日にもライヴをやったせいか、年のせいなのか、往年の艶が少し無くなりつつあるようだ、しかし声量にはほとんど変化が無いように思えた。
興味の中心、使用したギターは、金沢で使用していたマーチンWOOシリーズ・ヴィンテージではなく、YAMAHAモデルであった。

姿格好は小生のYAMAHA・LDモデルと同じに見えるが多分特注だろう。
マーチンは「有山」」がD-18・・恐らくヴィンテージ・・を使用していたが、頻繁に調弦していた。
金沢でW00を使用した加川も頻繁に調弦していたが、今回調弦は見られなかった。
それだけYAMAHAのモデルの精度がよいのだろう。
カポをはめると多少の調弦が必要になるし、冬場は特に音程が狂いやすいから、調弦が必要になってくる。
しかもチューニングに非常に神経を使う加川のこと、
・・・しかし小生は、今回調弦らしきものをしたのを見ることは無かった。
長年の経験の結果、わが国の風土環境気候にあった楽器を求めるに至ったのだろう。
マーチン独特の艶の乗った音ではないが、とにかく安定した音で、低音から高音まで破綻無く
きれいな音を響かせていた。
このあたりどうもYAMAHAのピアノにも共通した音作りがあるようだ。

小生も国産モデルを選択しておくべきであった。
ネックのソリで絃高が高くなったのを修理したら、極端に音の響きがなくなってしまったし、フレット間隔が長いのか、ネックが少し長すぎ、ボディが大きすぎて小生には合ってないようで、YAMAHAのモデルのほうがはるかに弾きやすい。

by noanoa1970 | 2006-11-27 22:38 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(1)

10年ぶりの邂逅・・・2

こうして始まったコンサート、前座というには大物だが「有山じゅんじ」の登場。
「五つの赤い風船」のごくごく初期のメンバーでもあった彼も、いまは方々で、ギター1本でブルースを中心としたソロライヴを元気にやっている。
何故今回加川のコンサートに同行したのかは分からない。
小生には加川と、有山の音楽は異質に映るからである。

「風船」出身の「中川イサト」を通じて知り合ったのかどうかは分からないが、この男根っからの「シャレ男」だから平気で人を食ったような話をし、曲を作る。
「ダジャレ・ブルースシンガー」というときっと本人は怒るかもしれないが、
小生は「有山」と「加川」の競演にあの
・・・小生にとっては忌まわしき・・・・
1996年 ちょうど金沢でのライヴを聞いた頃出した、「加川良 with TE-CHILI」の「R.O.C.K」というアルバムでの2人の競・共演を聞いて、これで小生にとっての「加川」は終ったと、本気で思ったほどなのだった。

しかし金沢石引きでのライヴで、その考えが間違いであることを認識させられ、少し安心したとともに、「有山」のダジャレたブルースっぽい音楽も、単独でやる限り嫌いではなくなった。
今回彼は10曲ほど・・・観客を乗らせようとその努力の甲斐あって最後には大きな手拍子で音楽に乗る人も多く見られるほどであった。

テーマソングと自身で言っていたが彼のことだから真偽は分からないし、彼は「風船」をやめた理由をアチコチ言ってるらしく、もっぱら有山の母親が受験勉強を控えた息子の生来を慮って「風船」の「西岡たかし」に脱退を直訴した。
すなわち、母親による「お受験のための風船離脱勧告」によるもの・・・とされているが、「上田正樹」なら、さもありなんと思うところはあるが、どうもこの話は胡散臭い気がする。

だからこの曲を彼のテーマソングであるとはにわかには信じられないのであるが、
最初に歌ったのが
「星の世界」としてわが国で知られる歌、このメロディは一方、「讃美歌21-493番「いつくしみ深い」としても有名、「岩井宏」がバンジョーを弾きながら「紙芝居」というタイトルをつけ、この曲から第2メロディをはずしたものを歌った。
「有山」はそれに英語の歌詞がついたものを自身のテーマソングといいつつ歌うのだ。
アメリカの音楽に詳しい有山だから、この曲のルーツや変遷を知らないはずは無いと思うのだが、小生はこの曲のルーツをヨーロッパ大陸の、恐らくブリテン諸島・・・ケルト系のいずれかの民謡ではないかと思っている。

移民によって持たらせられたこのメロディが、黒人のゴスペル、ブルースと溶け合い、白人にはカントリー・フォークとして、そしてルーツのヨーロッパでは「教会」が「讃美歌312番」「讃美歌21-493番」・・・「いつくしみ深い」として民衆の信仰心を助長するために多くの民謡を取り入れたその一環として採用し、それがまたアメリカに輸出され、相乗効果で広まったのであろうと推理している。
わが国では「星の世界」といい日本語の訳詩も存在する。
息子の結婚式でこの「賛美歌」を歌った覚えがある。

憂歌団の「木村」や「内田」、小生は好きになったが異質フォーク人もと「ディランⅡ」の「大塚まさじ」あたりとカップリングしたら面白いとは思うが、いかがにも、加川」では??居場所の違いを感じてしまう。

しかし彼の声はともかく、ギターには目を見張るものが有った。
観察すると彼の用いたギター・・・それはピックガードの形状から「マーチン」だと分かったが、さらに双眼鏡で見ると、どうやらそれは恐らく、かなり古い「D-18」らしいことと想像できた。
そして多分Mゲージを使っているように彼のピッキングからの音は告げた。

カモン買いもん
有り余る=有山る・・・と語呂あわせをした彼のウイットあふれる歌を披露して終了となり球形となった。
「ウルフルズ」の誰かがひょっとして有山をリスペクトしている・・・ふとそんな気がした。

by noanoa1970 | 2006-11-26 15:33 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

10年ぶりの邂逅

昨夜25日、岐阜県本巣郡北方町の「生涯学習センター・キラリ」で「加川良」のコンサートがあった。
彼のライヴは、金沢に単身赴任中に偶然知ることとなった、大学の1年先輩M田さんの店、石引の「ジョーハウス」が閉店になるので、愛好感謝記念に行われたもの。
M田氏は「加川良」、「高田渡」そして「西岡恭三」と3つのコンサートを企画したのだった。運良く小生は高田と加川のコンサートに参加することができたが、加川のライヴはそれ以来のことだった。

開催場所のホールの情報はネットでは情報が乏しく、行きかたもままならないし、連休を挟む土曜日の交通を考えて早めに家を出た。
散歩を欠かせない犬のためと、せっかくだから周囲の町並みや商店街でも探索するつもりで、お昼前には出発したのだ。

北方近くの町までどうやらたどり着くと、道路標識の下に取り付けられてある地名看板が「本巣市」○○町としてあるのに気づいた。行き先のホールのある場所は確か「本巣郡北方町」となっていたのだが、例の市町村合併のため、呼び名を変えたのだろうと思い、特にそれ以上詮索することなく目的地に到着。

途中2箇所の道の駅によって、この地方の名産「柿」を入手。
赤子の頭ほどもある、今まで見たことも無いような大きさの富有柿が安価であったが、さらに安価なものを・・・それでもスーパーでは@150円はしていると思われるものを入手した。
7個ほど入って300円、格安すぎて申し訳ないような気がする。
さらに157号線北に向かう・・・この国道は岐阜と福井を温見(ぬくみ)峠を経由して結ぶ難所の国道だ。
その先は「薄墨桜」で有名な根尾谷に入っていく、揖斐川の大きな支流である根尾川は、鮎の名産地でもある。
小生は昔F・F・・・fly fishingをやっていた折には、この道を、ほとんど福井県境まで出かけていたから、越前大野へと抜ける交通の難所をよく知っている。
一度金沢から普通乗用車でこのルートで帰省したときには、何度か危ない目にあった。
今の時期なら「熊」が出没するかも知れない。
峠付近は数件の民家があったが、今はどうなったのだろう・・・廃村の雰囲気を感じるところだった。そこを流れる小さな渓流では「岩魚」がよく釣れた。

2つ目の道の駅は、車がたくさん停まっていて盛況。
どうやら紅葉狩りを楽しむ行楽客のおかげであるようだ。周囲の山はもうすかっり、錦の着物を纏っている。
売店の横に戦国時代の、「凱旋門」のような大きな「城門」があり、その脇の建物には「織部の里」と書かれた看板があった。
何故に「織部の里」?ここはどちらかといえば中農か北西農にあたる地域、「織部」はその発祥を「東農」地方であるから、何故にそのように名乗るのかと不思議に思って、受付にいた責任者らしき人物に「ひょっとして「古田織部」に何か関係あり?と問うて見ると、どうやらこの地区で「古田織部」が誕生し、幼少の時期を過ごしたという答えが返ってきた。

そこで少し意地悪く「織部」の古いもの、あるいは「古田織部」自身の作品の展示は?と聞くと、少し答えにくそうに、前は置いてあったが、現在は岐阜県の博物館においてある・・・などという。
入場料300円だが、もし古いものを展示してあるのなら、見学しようと決め手のことだったから、即座に入場をやめた。
よく見ると看板には、入場料300円・・・だが、この中からお好きなものを1点差し上げますと、織部焼きの椀、ぐい飲み、皿が3点展示してある。
これを入場の記念あるいは、お土産と見るのか、展示品がプアーなので、これで300円の帳尻を合わせようとしているのかよく分からないが、とにかく「織部の里」などという紛らわしい表記はやめて「古田織部出生の地」としたほうがよいのに・・・と思った。

長くなったが、何故この話をしたかというと、それは「加川良」のコンサートでの出来事の「前振り」になると思ったからである。

そんなこんなで、駐車場の心配もあったから、開場18時、開演18時半というのにもかかわらず
開場の駐車場に15時半に到着、このまま待ってもしょうがないので、犬の散歩を済ませ、犬の食事を済ませてから、付近を散策しながら、歩いて15分ほどの大手スーパーで軽い食事をとることにして、戻ったのが17時。
あたりはスッカリ日が暮れているが、風も無くさほど寒くない。

チラホラと車が出入りするようになったが、まだ1時間あるから、しばらく車の中で仮眠しようと思っていると、だんだん車の量が増え、スタッフらしき人が通行案内用の赤ランプを持って行き来始めた。
ホール入り口まで様子を見に行ってきた女房が、20人ほど並んでいるという。
PAを使うことだし500人ほどのホールだから、どこでもいいと思いつつも、小生には2つ気になることがあった。
1つは10年時を経た加川の「風貌」の変化。
そして加川の使用するギターである。
金沢では「マーチンのW・00」・・・Dシリーズとは違い丸い優美な・・・女性のお尻を連想させるような形のモデルである。

眼底出血を起こしてから、また視力が一段と衰えたから、それらを観察するためにはやはり前列をキープする必要があったから、1時間並ぶことを選択した。

遠方から来たのか?このホール、初めてのようで、最前列で並ぶ5人ほどの中年の集団が大きな声で話すから、聞こえずして聞こえてくるのだが、どうも何か分け合って最前列をキープするための算段をするかのように、ホールの入り口やホールの形状を盛んに気にしている。
何でも彼らは15時に来て、交代で並んでいるという、そして17時を少し回った頃、そのうちの一人の女性が、どこかに行って戻ると、やはり大きな声で「6時前に開場すると係りの人が言ったから」という。
どうやらこの人15時から並んでいることを訴えて、規定の18時より前の開場を迫ってきたと見える。
そうしているうちに開場の関係者が来て、「開場を18まで延ばすつもりはありません。」と叫んで回ってくる。

また・・・「当日券をお求めの方は、ここでは扱いません、当日券は角を曲がって少し行った事務所で発売しています」とも叫ぶ。
なるほど当日券が余っているということは、客の入りが心配だと、内心思いながら、列の後ろを見ると、およそ100人ほどの並び。
これなら300人は入るだろうと、小生の少ない経験ではあったが、推測してみた。
民間や学生のイヴェントではないから、席以上の枚数のチケットを流通させることは無いはず。

危険だが手馴れてくるとよくやる手段・・・30%増量チケットを流通させることがあるのが常だ。
上手くいけばこれで80%以上の動員率を確保することが可能になる。しかし読みをはずすと、補助いすが許可されるところはよいが、消防法の厳しいホールではそれがままにならないから、立ち見となってクレームがつく。

学生時代文連主催でやった「学館ホール」での「浅川マキ」コンサートがその典型。
泡を食った顔見知りの幹部が飛んできて、座席の確保ができないから、文連に属する連中は席を立って立ち見にしてくれ、そして5人ほどに声をかけてくれという・・・そんな事件もあった。
一体やつら、どれだけの増量チケットを流通させたのだろうか?
全国の大学での淺川のコンサートの動員数などのチェックをしたのだろうかと、欲に目がくらんだやつらを哀れに思ったこともあった。
うれしい悲鳴・・・といって、学生だから済んだことだった。

どうやら冬の夜空の下、中高年を気遣ってのことで、ありがたい配慮ではあるが、ものにはルーールというものがあって、パンフにもチケットにも「開場118開演18時半」と明記されているにもかかわらず・・・自分達の都合で早く並んでいる人たち・・・・席がなくなるわけではないのに、上席に座りたいという願望のために・・・いわば自己都合のために自分で選択した方法なのだから、放っておけばよいし、17時半に来たらもう開場されていた・・・なんていう、そして主催者が官庁の出先機関だけに・・・・逆に民間ではありえないことだと、少々心配したが、結局30分早く会場となった。
こういうところがよくも悪くも、所謂「田舎文化」なのであろうか。

よかれと思って実施したことが裏目に出ないことを願って、小生もその配慮に甘えることにして、正面の2列目・・3列目がベストであったが1列目は例の集団が、3列目は前に並んだ人たちが占有したためほぼベストの「よい席」を確保できた。

by noanoa1970 | 2006-11-26 12:28 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

「ホテルNC」の頃・・・2

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ホテル入社時に簡単な試験があって、総勢50人ほどの就職希望者が集った。
筆記試験はしごく簡単、集った希望者はさまざまな学歴の人たち、希望職種に関係の無い一般常識程度であったから、あっさりと終わったが、予期せぬ小論文を「長髪について」というタイトルで書けという。
この時代は大学や一部高等学校では学生運動が盛んで、その経験者で会社組織にそぐわないような考え方の持ち主、あるいはホテルマンにそぐわない風貌の持ち主に対しての「踏み絵」であると、とっさに思った。

そういえば、面接時に人事課長らしき人物が、ホテルのロビーで、「うちは組合も無く、みな和気藹々とやっている会社だ」と強調するように言ったことを思い出した。
小生の履歴書を見て1年留年しているので、・・・大学を卒業してコック志望という少し変わった希望を不思議に感じて、所謂政治的左翼の考え方の持ち主が、オルグなどで、職場を荒らすことを恐れたのか、かなり気遣っている様子が感じ取れた。

しょうがないので、京都時代のNOANOAのいきさつ、そして「料理の基礎技術」を習得しようと思った理由を話すと、どうやら納得したようだった。

それは、かなり前のブログでも書いた覚えがあるのだが、日本画家「橋本関節」ゆかりの人物として、・・関節の息子の嫁で白沙村荘の「お菜ところ」をやっていた「おばさん」と親しい・・・「永仁の壷事件」の加藤唐九郎と並ぶ当事者として「小山富士夫」(村松友視が新しい視点で小山富士夫を書いているが、小山がおばさんに語ったことについては知らないであろう。小生は小山が語った話を、おばさんを通じて聞いたことがあった。)その小山がNOANOAに来たときに、小生は彼のために特別に、「かぶらと子牛のトマトソーズ煮込」を提供した。
「お菜ところ」のおばさんから「今日小山先生がきはるから、NOANOAで何かご馳走してあげて」と頼まれたから、いつものメニューには無い高齢者向けのものを考えたのだ。
薄味にして素材はやわらかいものを使い、京都の冬は寒いから、体が温まるもので、有名な陶芸家でもあった小山だから、彩のよい芸術的センスのあるものをと考えた結果がこのメニューであった。
トマトソースの赤とかぶらの白、インゲンとブロッコリの緑・・・唐三彩のイメージを描いた。

小山先生は、「オールド・パー」の水割りと一緒に、たいそう喜んで全部食べていただいて、帰り際に「ありがとう」といって1万円ものチップを置いていかれた。
そのときに先生は、「美味しかったが、一流になるにはもう一歩・・・」のようなことをさりげなく言い残した。
白沙村荘のオーナーに頼まれてのことだったかも知れないと、一瞬思ったが、やがて1万円のチップの虚しさがこみ上げてきた。
全て独学でのこと、NOANOA開設前の半月ほど、・・・女子大を卒業して白沙村荘に就職し、他の女性はほとんどギャラリーか庭での仕事に着いたのに、この女の子だけは運悪くNOANOAに配属となった美人の女の子・・・と一緒に、白沙村荘が懇意にしていた「山科」の、夫婦二人でやっている・・・有名な和歌「○○○の滋賀のおおわだ・・・の、「○○○」という名の小さな洋食レストランに出向したが、具体的な基礎技術はほとんど身につかなかった。

忙しすぎて「教えてもらう」とは夢のまた夢で、ほとんど裏仕事で使われるのだったから、「のらくろ」をはじめ、今では京都で有名な洋食屋「小宝」で、所謂洋食を食べたことのほうが本当の意味では勉強になった。
どうにか覚えたのは、NOANOAとは関係の無いカレーのルーの作り方であった。
業務用のカレーパウダーを小麦粉と、バター、そしてニンニクとオニオンのみじん切りをソテーしたものを加えて長時間いためると、風味が出てしかも保存が利くからオーダーがあるときにそれをブイヨンで溶き、後に野菜と肉を加える・・という当時としては斬新な仕込み方であった。

しかし当時の洋食屋やレストランでは「デミグラスソース」は何とか作るが本格的な「トマトソース」を作っているところはほとんど無かったし、イタリア料理そのものをやっている店は無かった。
スパゲッティは湯で置きを炒め返し。トマトピューレとケチャップで味をつけたものがほとんどだったから、イタリア料理の基本であるトマトを使った「トマトソース」は料理本の中にあるのみであった。

横道にそれたが
「このNOANOAでの出来事が、小生が「ホテル」で「料理の基本技術」を習得しようとする理由です。・・・」
と、小生は人事課長の前でハッキリと言い切った。
後で分かったことだが、厨房のコックの中にたまたま、この地方(全国的に有名な陶器の産地)では有名な作家の末息子が、なぜか料理をやりたいと、縁故でホテルの厨房に入っていたのだった。
ホテルのロビーには、彼の親父の大振りな)小生の好みからは程遠い、観賞用の作品が大事そうに飾ってあった。

多分そのことが人事課長の脳裏を霞めたのだろう。
ともかく面接は無事終了し、筆記試験となったのであった。

「長髪について」どう思うかという視点で書けというので、素直に、そして会社のお気に召すままに書いてあげようと思ったが、どうも癪であったから、「長髪」は元来「反戦」のシンボル的なものであったが、わが国ではいつの間にかそれが「ファッション」となってしまった。
「ファッション」は、個人の自由として認めるべきではあるが、ホテルなどのサービス業では、お客様への快適さを販売するのだから、お客様を不快にさせる可能性がある長髪は、ホテルマンには相応しくないであろう・・・・などということを書き連ねた。

素直に相手=会社の意のままには従わないぞ・・・
このような「チープな題目」でものを書かせるな・・・・
という抗議のメッセージを「ファッションとしては自由」というところに、ほんの少しだけ入れたつもりだったが、あのイエスマンらしき人事課長は、どのように読んだのだろう。

少なくとも、フロントなどお客にダイレクトに接する職場では、やはり長髪はまずいであろう。
小生が客の立場であったときのことを考えればこれは明らかだ。
しかし、このようなことを、ワザワザ問いかける姿勢に、小生は(一流)ホテルへの入社前に、このホテルの体質的な・・・中間管理職の哀れな姿を見てしまったような気がした。

いくつかの場所で挨拶などをしにきた、偉そうな人達が「ホテルNC」を、この「ホテルNC」チェーン・・・・とわざわざ言うのを奇異に感じたが、その理由はすぐに分かり、駅前のM新聞の持ちビルの一角をかなり昔から「ホテルNN」という名前で開業していて、もうひとつ長野県の木曽駒にカントリークラブに併設されたリゾートホテル「KKホテル」を統合したから「チェーン」というのだ。
そしてM新聞の資本が入っていて筆頭株主はM]新聞であることを知った。
このため従業員はM新聞購読券をもらえるから、それまでC新聞だった我が家もM新聞の読者となった。

こんな経緯があって
面接筆記試験が終わり合格通知が届いたのが、春も早い1973年3月はじめであった。

by noanoa1970 | 2006-11-24 11:38 | 「食」についてのエッセイ | Comments(0)

「ホテルNC」の頃

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小生の好きなイーグルスのヒット曲に「ホテル・カルフォルニア」という歌がある。
彼らが解散して久しいが、「解散じゃない!14年間OFFを取っていた!」というフレーズで始まる30年後に、一時再結成したときのライヴコンサート、そして2004年10月31日東京ドームで行われたラストコンサートでは、往時の長髪はスッカリ影を潜め、中年のチョイワル親父の5人が元気な姿を見せた。ティモシーだけは相変わらず女性のような美しいロングヘヤーをたなびかせながら、ファルセットボイスを聞かせてくれた。
往年の時よりは1音ほどキーを低くしているように思ったが、それでも当時と代わらない・・・アレンジが斬新なものも多く、新鮮にさえ写ったものだ。
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むかし「ホテル・カリフォルニア」を自身では歌えるほど何回も聞いたので、てっきり歌えるものと勘違いして、カラオケで挑戦したのだが、DSPに表示される歌詞と小生の覚えた言葉が異なるところが多すぎて、ほとんど歌いきることができずに、恥をさらしてしまったことがある。
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「ドン・ヘンリー」の歌は昔と遜色なく・・・しかも「味」を出していて、南米、あるいはラテン系にアレンジされたそれは、12絃ギターのイントロからガットギターに変更されていたが、彼らの精神的成長を表現するかのようで、「ドン・ヘルダー」と「ジョン・ウォルシュ」の掛け合いや「グレン・フライ」の「テーク・イット・イージー」も、「ティモシー」の「言い出しかねて」も顕在だった。
初期からはメンバーの入れ替わりもあるにはあったが、1994年再結成アルバム 『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』 以来のメンバーで近年のライヴが行われた。
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東京ドームは超満員。音の環境は劣悪、彼らの姿を見るには遠すぎ、小生は双眼鏡を片手に参加した。
周りはといえば、さすがにイーグルス・・・老若男女、年齢層を問わずあらゆるお客が参加していたから多少驚いたが、彼らの音楽が広く行き渡っている事実に感激したものだった。

「ホテル・カリフォルニア」の詩はとても難解なところがあって、シュールな感じがする。小生はいまだにその内容を理解できないでいるのだが、どうやら
ある事象の終焉が近づいているのにもかかわらず、それに気づかないある種の人たちは、あいも変わらず、パーティを開いて集り、昔の・・・古きよきアメリカ?を忘れようとしたり懐かしもうとしている。
そんなことをして毎日を過ごすことの無意味さに、それではいけないと気づいた人が、その場所から脱出を試みようととするが、何度脱出しても
再びかの場所に帰らざるを得なくなってしまう。
そんな素・敵・なところ・・・それがカリフォルニアホテルだ。
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おおさっぱには、このように読めるが、そこに象徴されるものは解明されないままである。
「ウェストコースト・ロックの楽観性に対する皮肉的な表現」とする説もあるが、恐らく彼らの表現はそのような「ロック」という音楽分野にとどまることは無いと、小生には思われる。

文化・文明あるいは体制批判はもちろん、人間に対してのもっと根源的な問いかけをしているように読めるものもあるから、出てくる音楽性もさることながら、彼らの素晴らしさを感じることになる。
例えば、「ラスト・リゾート」は単純なメロディーの繰り返し・・・変化していく繰り返しにとって、歌詞の内容がだんだんリアルに、そして重たいものになっていく・・・「ドン・ヘンリー」の歌いこなし方には、そのあたりのことがよく表現されていると見える。
「ラヴェル」の「ボレロ」にインスパイアされたに違いないと思う小生である。
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このブログの表題「ホテルNC」とは、1970年、京都銀閣寺畔「白沙村荘」にギャラリーとして立てられたふるい洋館を改造して開設し、独学ではじめたピザとスパゲティの店「NOANOA」に限界を感じて「料理の基本技術」を習得すべく、1973年に入ることとなった、都会の・・・当時その都会では一流のホテルとの評判が高く、政財界のパーティ、大きな結婚式披露宴は、ここでやることが、ある種ステータスであった。
大きなお城のお堀のすぐ脇に立てられ、客室やレストランからは、夜になるとライトアップされたお城が見える環境に位置するそのホテルは、政治力を使って、かの地に建設を許可してもらったという噂で持ちきりだった。

小生は1973年から約5年間、このホテルのメインダイニングレストラン=メンダイ担当厨房のコックとして色々なことを学ぶことになる。
分け合ってそこを退社後、まったく畑の違うOA・コンピューター製造販売会社に身を置くことになり、そこには25年在籍することになるが、このホテル時代の出来事いろいろを、忘れないうちに、書いておこうと思う。

ホテル厨房の「裏話」などもあるし、もう時効であろうから、迷惑がかかる話でもない。
35年前当時のホテルの厨房とは一体どのようなところだったのか、少しばかりご披露することにした。
これから随時書いていこうと思うので興味のある方はぜひ見てください。

by noanoa1970 | 2006-11-23 13:25 | 「食」についてのエッセイ | Comments(0)

雑感あれこれ

近所の小学校で朝のマラソンが始まった。
犬を連れての散歩のルートを変更しないとといけないが、いつもなら丁寧に、町内の道路や遊歩道を使用しますので、よろしく・・というチラシがポストに入るのだが、今年は見忘れたのか、入れてないのか、小生には突然であったから、小学生の集団が大勢走る中を犬と散歩することとなった。

ご多分に漏れず、速い子も、遅い子もいて先生らしき人物が数人ウォッチしながら、「がんばれ!!」と声をかける。
あまりにも遅すぎて後続のグループに追いつき、追い越されそうになるドンケツの生徒を先生が伴走しながら走っている光景も見ることができた。
生徒たち、時々声は出すが、ほとんどがまじめに走っている。
この季節のひとつの風物詩で、こんな光景からは今問題の「いじめ」などは、到底想像できない。
だが小学生が走るのを見て一つ気になった事がある。
それは彼らの走るときの足音だ。
ほとんど全員がバタバタドタドタという音を立てていることである。
この音にわが愛犬が反応して吠え掛かるから、言っているのではない。
様子を見ているとどうもおかしいのである。

小生が子供のころ、こんな風にドタドタバタバタという音を立てて道路を走る仲間は一人もいなかった。
散歩の途中このことが気になってず~っと考えていたが、どうやらその原因らしきものを突き止めることができた。

ひとつは道路そのものである。未舗装道路から舗装道路になった違いは少なからずあるだろう。
次に「靴」、今の小学生は昔のズック靴などでは考えられないほど、高価で優れたものを履いている。
しかしその理由がバタバタドタドタの真の理由であるとは考えにくい。
そしてさらに思い当たったのが、走り方そのもの、しばらく観察していると、ほとんどの生徒がつま先で地面をけって走っていない。
足もひざも十分上がらないままに、足を少しだけ上げ下げして走っている。
だから着地は足の裏全体になって、結果ドタバタという音を立てているのだ。
「ジョギンでいいから・・・」といってもこの走り方は問題だろうと思う。

小生は走ることは大の苦手だから、偉そうなことはいえないのだが、
つま先とかかとの使い方をまったく知らないのが今の小学生と見えてしまった。

走ることの技術的な本能を忘れてしまった小学生、なるほど、だからスリッパをペタペタと音を立てる、着物を着たとき、草履をペタペタさせる、ツッカケをコロコロズルズルさせる。
この社会的現象の原因は、当然本能的に身に着けているはずだと、周囲が思い込んでいることが、実はわかってないということの現れであるということなのだ。

「履物をペタペタ音をさせて歩くやつに、ろくなやつはいない」誰が言った言葉だったか、こんな格言めいたものを思いだしてしまった。

べたべたバタバタドタドタと集団で走る子供の姿を見て、引率の教師はどのように感じるのだろう。子供らの親はそのようなことを果たして知っているのだろうか?
体育の授業で先生は何も触れないのか?
答えは言わずもがな・・・何ひとつ気づいてないのが現状であろう。

もうひとつ最近特に気になっていること、それは「自転車」の乗り方のマナーとルールである。
小生の町には「遊歩道」が比較的整備されていて、遊歩道から車道へと何本も道通じている。
その車道のほとんどには、歩道がつけられているから、利用者にはとても安全で便利なことである。
しかし
この遊歩道や遊歩道を、知ってか知らないらないでか・・・恐らく知らないからであろうが、平気で自転車を運転して走る人間が、その大半を占める。
幼稚園児から小中学生、高校生、果ては青年、主婦・中高年まで、ありとあらゆる階層に渡る。
このことは現役を退き、朝夕散歩に出るようになって、初めて気づいたことなのだが、とにかく全てといっていい人たちが遊歩道や歩道を我が物顔で自転車を運転して走るのだ。
中には、すぐ後ろから、速く歩けとばかりにベルをチャリチャリ鳴らすものもいる。

『自転車は「車両」だから道路の左端を走る。
歩道を走ってよい場合はその旨標識があるからそれを遵守する、ただしあくまでも歩行者が優先だから自転車に乗ったまますれ違わないこと、広い歩道の場合は自転車は、歩行の妨げにならないように車道よりに走ること。
歩行者を追い立てるようにベルを鳴らしてはいけない。
自転車通行禁止の歩道を運行するときは自転車を引いていくことなどなど・・・』

いまさらでも無いことなのだが、以上のあらましがマナーとそして交通ルールである。
運転免許を取得した人ならそのときに交通ルールとして自動車教習所で習いもしたであろう。
しかしそうでない人たちは一体このことを学び知ることができるのだろうか?
昔は常識的であったことも、今ではスッカリと忘れ去られ、しかも環境が激変しているから、マナーはともかくルールが現状にそぐわないこともあるだろう。

車両通行の激しい道路で、道路の左を自転車で走ることは、確かに危険なこともある。

家庭では自転車をほしがる子供に、当たり前のように、自転車を買い与え、自転車の技術的乗り方を必死に親が教える、といった光景をよく目にする。
そして我が子の交通事故が心配(被害者の立場で)だから、安全な場所で自転車を使わせる。
その最たる場所が、自動車の被害に遭いにくい公園、歩道や遊歩道なのだ。

「自転車に乗るときは、歩道か遊歩道・・・自動車の来ないところで乗りなさい」
「車道に出ないようにしなさい・・・」
どこの親でもこのようなことを、当たり前のように平気で言う。
だから子供たちは自分の安全のために危険の少ない歩道や遊歩道を思いっきりのスピードで走り回ることになる。

ここに自転車運転のマナーや交通ルールが入り込む余地はまったく無い。なぜかといえば、親たちも自転車の交通ルール、マナーの教育を受けたことが無く、まったくに無知であるから。
そして新しい視点つまり、「自転車は、歩行者からは交通強者」になっているという視点の欠如である。
道路行政にも問題があるので、何も自転車の交通ルールを絶対に遵守しろ、とはいい辛いが、
そこをマナーという道具を使ってで運用すれば、現状よりはよくなると思う。

去年小生は、もう少しで危ない目にあう経験を2度立て続けにした。
散歩道の遊歩道から、車道の側面にある歩道にでようと、曲がろうとするとき、進行方向とは逆に、一人の少年の乗った自転車がいきなり歩道から、遊歩道に左折してきた。犬はとっさによけたが小生の体に自転車の前輪が当たった。

歩道から遊歩道に自転車がスピードを出して入ってこようなど思いもしなかったので、ビックリしたが、幸い何事もなくすんだのだが、さらに驚いたことはその少年・・小学校高学年か中学生の言葉
「すみません」ではなく、「あぁびっくりした」だったということ。本当にビックリしたのだろうが、その後に「すみませんでした」「ごめんなさい」という言葉が出ないのかと、ひどくがっかりしたこと。

さらに同じところで、・・・そのことがあってから注意していたが、今度は中年の女性がいきなり曲がってきたから、危うくつっかかりそうになった。
犬は危険を感じている仕草をしたから、小生もスタンバイしてはいたが、それでもいきなり左折したから相手は急ブレーキをかけた。

するとその女は、自転車を降りて、小生をにらみつけんばかりの形相をしたから、小生もにらみ返してやると、初めて「すみません」と一言言って、再び自転車に乗って去ろうとするので、「チョット待て、」というと、その女、「すみません」と言ったじゃないの、ブレーキをかけて止まったから何も無くすんだのだからもういいでしょ」みたいなことをのたまった。

少しこの高慢ちきな女を懲らしめる必要があると思って
「ここは遊歩道だから、自転車に乗っての通行はしてはいけない」、「自転車通行したければそこの車道の左側を走りなさい」このくらいはご存知だろうが・・・
というとその女は、変なプライドがあったのか「知らなかった」ということを言わないで、それでは「自転車を押していくからいいでしょ」と言い放ってそそくさと、立ち去るのであった。

年のころなら40台だから青少年を子供に持つ身であろう。
こんな人間の親が少なからず存在するから、こんな親に育てられた子供は、身勝手な・・・自分のことしか眼中に無い人間に育ってしまう。

安全なところで自転車に乗せるのはよいが、そこにマナーとルールがあることを、
幼稚園児の時期から、平気で与える自転車が「凶器」と化すことがあることを、
自ら学習し、子供に教えなければ、こういう子達が自動車を運転するときのこと考えると・・もうすでにそうなっている現状だが、空恐ろしくなのである。

国会で今日も審議されつつある、「教育基本法」の改定も必要なことだが、「常識、当然、」・・・「はずである」と思われていることで、忘れ去られ、見落とされていること、それらの棚卸を教育に従事するものだけに・・・学校教育者・文科省の範疇にとどめおいては、この国でいま起こっている問題は決して解決されないと強く思うこのごろである。

「規律の中の自由」「自由の中の規律」が個性を伸ばす
こんなこともわからないものどもたちが、例えば「愛国心」という言葉に過敏すぎる反応を見せ
本質を遠ざけ、知識人達も・・・この言葉もすでに死後に近いが・・・同調する傾向にあるこの国の悪しき習慣にも閉口する。

小中学生の「テロ」におびえる文科省の役人、教育委員会、教員達にもあきれ返ってしまう。
わが国の「よいフィルター機能」・・・昔は、さまざまなTPOでそれが働いてきた。
ある時期、一部の者によって、「戦争」へと利用されたのは事実だが、この機能を前面否定したことから、わが国の悲劇が始まったともいえなくは無い。

しかしこの「フィルター」を発揮させえる基本的な力の根源を剥がれて、あるいは自ら剥いでしまったから、復活は相当困難なことであろう。

戦略的鎖国論などという話もあったが、相当なダイナミズムの元に、「変革」を実践しなければ、このままズルズル行くのは目に見える。
このようにして、文化・文明そして国が滅び、世界が、地球が消滅していくのかもしれない。

by noanoa1970 | 2006-11-22 12:40 | 季節の栞 | Comments(0)