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西岡恭蔵1997年4月

10年前の3月小生は民営化されたNTTが「通信機器」専門の営業部隊を創設したのを期に、東海・信越・北陸のNTT支社の営業部隊の営業教育の講師として長期出張をしたことがあった。
その頃、ちょうど北陸「金沢」に常駐していたのだが、そこで「ジョー・ハウス」という店とめぐり合うこととなった。店の主人は小生と同じ大学の1年先輩で、奥さんは京都出身。店には懐かしいフォークが流れていて話が弾むと、近く「ジョー・ハウス」が主催でフォークのコンサートをするという。

3回ある公演のチケット全てを購入して楽しみに出かけたのが3月の「加川良」、そして「高田渡&五つの赤い風船でもおなじみの中川イサトのデュオ」そして最終の公演の4月には「西岡恭蔵」のコンサートが控えていた。

先の加川良のコンサートは一つは「旧ジョー・ハウス」の閉店記念をかねていたから、お客は総勢100人足らずの内輪のコンサートで、後の一つは金沢芸術村の小ホールで行われ、いずれも久々の感動のひと時であった。
最後に控えた「西岡恭蔵」といえば、学生時代に学生会館ホールで「ディラン・セカンド」、「やしき たかじん」たちとともに、小生たち文連で主催したコンサートで聞いてからたいそう気に入って、後に彼のレコードをあるいはCDをほとんど入手するくらい好きな人となった。
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中でも「街行き村行き」が一番のお気に入りで、このレコードは何回聞いたことだろう。
一度CD化されたのをショップで見かけたことがあるのだが、レコードで十分とCDを購入しなかったばかりに、この録音は長いこと廃盤となっていて、オークションでは1万円で取引されることもあった。しかし数年前にやっと初期アルバム「ディランにて」とあわせて2枚セットで発売され、すかさず入手したのはいいのだけれど、オリジナルテープの紛失だろうか?アナログレコードからひろった?ものなのだろうか、残念なことに初期レコードの音の良さには到底及ばないものであった。

さて話は戻るが、コンサートガ迫ってきたある日「ジョー・ハウス」の奥さんによって「もしかすると「恭蔵さん」のコンサートが中止になかも・・・」という話が耳に飛び込んだ。彼女がコッソリというには「西岡」の奥さん「くろ」ちゃんの体調がかなり悪く、彼女はその詳細を知っていたのだが小生には言わなかったが、小生にはすぐにそのことを察した。
西岡の奥さんの「KURO」チャンという人は、優れた詩人で、数々の名作を聞けばビックリするくらい有名な人に書いていて、その彼女が悪い病魔に冒されていることを何かの拍子に知ったことがあったからである。

そして彼女は4月4日に亡くなってしまい。当たり前のようにコンサートは中止。
そればかりか、こともあろうに2年後の1999年4月3日「KURO」チャンの命日の1日前の日に「西岡」自身が、まるで奥さんの後を追うように亡くなってしまうという事件があった。 

1999年10月には「西岡」の追悼コンサートが行われ、その1年前には「KURO」チャンの追悼コンサートが西岡のプロデュースで行われた。西岡の追悼コンサートにはいけなかったが、「KURO」チャンの追悼アルバムは入手した。d0063263_1918505.gif

参加メンバーは
西岡恭蔵、砂川正和、大塚まさじ&永井洋、綾田俊樹、千秋&チャールズ清水、友部正人、加川良、Mabo&Kyozo、いとうたかお、太田裕美、桑名晴子、Morgan's Bar、シバ、中川イサト、高田渡、金子マリ、北京一、大上留理子&ジェニファ・ヨネダ、上田正樹、もんたよしのり、石田長生、ジョニー吉長、大庭珍太、誰がカバやねんR&Rショー、西村入道、アーリー・タイムス・ストリング・バンド、亀淵友香、有山じゅんじ&ゴンチチ、憂歌団、山下久美子、松本照夫、金子マリが参加する。

そうそうたる人たちに詩を提供していたことが分かるし、西岡のアルバムの中にもキラリと光るものが多々見られる。
「アフリカの月」「月の祭り」を聞くとその歌詞の素晴らしさを体感できる。
詩のフィーリングから察すると、西岡の初期アルバムで、作詞が西岡と全て表記されているが、ひょっとしたら、半分以上は彼女の作品だったのかもしれない。特に「街行き村行き」の「パラソルさして」; 「ひまわり村の通り雨」;「海ほうずき吹き」の歌詞には「KURO」が感じられる。

「コカコーラの広告塔に守られた夏が・・・」という「パラソルさして」の出だしの「コカコーラ」、初めて聞いたときには歌詞の中に「モダン」を感じたが、今では「レトロ」な感覚さえ覚える。
この「パラソルさして」での感性は、やはり「KURO」のものだろう。
バラード調の「西岡」、フォークロック調の「ディランⅡ」どちらも凄くよい。

最愛の妻をなくしたフォークシンガーの最後には、愛と悲しみ、そしてロマンを感じるのである。
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by noanoa1970 | 2006-04-30 09:27 | JAZZ・ROCK・FORK | Comments(0)

木曽谷の遅い春・・・2

先祖の地にある老木の桜は・・・・

畑仕事をしている農夫、あるいはこの付近一帯を開墾した先祖にその姿が似ているようだ。
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漸く咲いたばかり、まだ5分咲きであろうか。
d0063263_104315.jpg定かではないが「しだれ」のようである。かわいいそして小さく色の薄い可憐な花をつけている。
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老木の根っこは長い時間の間に斜面に沿って伸びていき、それに伴って枝も同じ方向に伸びた。枝の重みに耐えられるようにつっかえ棒がしてある。
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桜の老木の周り一面には、「タンポポ」ではなく今「福寿草」が満開だ。
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この地の春は1ヶ月近く遅い。
ここからも木曽駒ケ岳が見える。
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来年も沢山花をつけてくれるようにお願いした。
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by noanoa1970 | 2006-04-29 11:02 | 季節の栞 | Comments(0)

木曽谷の遅い春・・・1

4月20日には祖先の地の桜はまだ蕾状態であった。そこで1週間後の今日28日再度桜を見ようと赴くことにした。
この日は出掛けから快晴に近いお天気だから、期待が膨らんだ。
国道19号線を中津川から松本方面に走ると、途中は「八重桜」が満開。道の両脇はこぶしの大きさに見える桜の濃い薄いピンクが目に飛び込んでくる。

「大桑」を過ぎた頃には霊峰「御嶽山」d0063263_100849.jpgの勇姿が飛び込んできた。この辺りで見えることはめったにないことである。

途中「上松」では桜は満開、山の中腹辺りまで桜が咲いている様子が分かるので、木曽駒高原の先祖の桜がもう咲いているだろうという予測がにわかに信憑性を帯びてくル。

木曽駒高原入り口の桜と木曽駒ケ岳の姿に感動し、さらに進む。d0063263_1084062.jpg
今まで100回以上このルートを通ったが、このように御嶽山と木曽駒ケ岳が同時に見れるときは1割もない。今日は思い切って出かけてよかった。

この前と全く違って先祖の墓付近からは、前方に「「木曽駒ケ岳」と後方には「御嶽山」がハッキリと見える。
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お参りを済ませていよいよ先祖の地の老木に策桜を見ることにした。
「桜」の様子は次のページ
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by noanoa1970 | 2006-04-29 10:34 | 季節の栞 | Comments(0)

ディランⅡ・・・タンポポ噎ぶ春の野原

桜が散って少しさびしくなってしまったが、今あちこちの野山には「タンポポ」が咲いている。
年々その数が多くなっているようだが、これも外来種の「タンポポ」の影響であろうか?
外来種でも春にはタンポポが良くにあう。
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写真の近くの公園のタンポポは、下の説明から察すると、恐らくは外来種であろう。

<外来種のタンポポと在来種のタンポポとのちがいは、花の外片の様子
で分かる。外来種は外片がそり返っているのに対し、在来種の方はく
花にっついている。
在来種は、昆虫などに助けを借りて受粉するが、外来種はその必要がない。
在来種は、集団を作っているが、外来種はひとり生えもある >

昆虫の手を借りずに受粉できるのだから在来種を押しのけて増えるのだろう。

「タンポポ」というと、小生はすぐにある歌を思い出す。
d0063263_17413545.jpgそれは1970年代に関西を中心に活動していた「ザ・ディラン・セカンド」というフォークバンドの
セコンドアルバム「ザ・ディランⅡ」という2枚目のアルバムの1曲目「ガムをかんで」である。

この曲は、若い二人が結婚か同棲なのかは不明だが、ともかく同じ家または部屋に暮らすことになった喜びの歌であり、「朝 目覚めると、いつもの窓の景色も部屋の中も全てが、昨日と違って見える」「いつもの部屋は今、光輝く夢の国になっている」
・・・・「それは(台所で朝ごはんの支度をしながら、)歌っている君の声が聞こえるるから」

1970年代の初め、その頃の大学生=団塊の世代はその半分は恐らく70年安保闘争ならびに、学園紛争の只中に居た。
それとは無縁のノンポリとよばれた学生でさえも、休講で講義がない日々が続き、あるものはバイトに、あるものはギャンブルに、またあるものは徒党を組んで、そしてあるものは一人ジャズ喫茶で過ごした。

学園闘争に参加したものの多くは、やがて、決して重くはないが、「挫折」なるものを味わい、あるものは学園を去り、あるものは崩壊したサークルを立ち上げ、あるものはコミュニティの再生に努力し、またあるものは「個」の世界に入っていった。
集団・組織の無力さから逃避するように、異性と結びついていったものも決して少なくはない。

この歌が発表されたのは1972年ごろ、関西フォークの連中も何がしかの学園闘争の中に身を置いていた時期である。四畳半フォークなどと呼ばれフォークの歌い手の中の一部が「個」の世界に回帰して行ったのもこの頃である。

この「ディラン・セカンド」の「ガムをかんで」もそういった時代背景を反映しているのだろう。
挫折はしたものの、君と一緒に暮らして行けるなら、過去の苦しみもスッカリ忘れてしまうことができそうだ」・・・セクトの人間からは日和見として批判されたが、当時の学生の多くの心情はこのような歌に表れているように思う。
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「ガムをかんで」の終曲

川向こうに行ってごらん
君を立たせるプラットフォームに
君を待つ汽車が停まっているから
終点まで乗ってごらん
タンポポ噎ぶ春の野原に
真っ赤なな夕日が見れるはず

ガムをかんで戸口に立とう
通りを抜ければ、そこは丸木橋
かわいい君に一輪の花を
このままでいいたいいよね、君と一緒なら

作詞作曲 大塚まさじ   歌 ザ・ディラン・セカンド(大塚まざじ&永井よう)
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by noanoa1970 | 2006-04-29 09:01 | JAZZ・ROCK・FORK | Comments(0)

高田渡の一周忌・・・黒田三郎『夕暮れ』

「夕暮れ」   詩 黒田三郎

夕暮れの街で
僕は見る
自分の場所からはみ出てしまった
多くのひとびとを

夕暮れのビヤホールで
彼はひとり
一杯のジョッキをまえに
斜めに座る

彼の目が
この世の誰とも交わらない
彼は自分の場所をえらぶ
そうやってたかだか三十分か一時間

夕暮れのパチンコ屋で
彼はひとり
流行歌と騒音の中で
半身になって立つ

彼の目が
鉄のタマだけ見ておればよい
ひとつの場所を彼はえらぶ
そうやてったかだか三十分か一時間

人生の夕暮れが
その日の夕暮れと
かさなる
ほんのひととき

自分の場所からはみ出てしまった
ひとびとが
そこでようやく
彼の場所を見つけ出す


「夕暮れ」   曲 高田渡  黒田三郎の詩による
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<原詩との大まかな違いを太字で示した>

夕暮れの町で
僕は見る
自分の場所からはみ出してしまった
多くのひとびとを

夕暮れのビヤホールで
(彼は)ひとり
一杯のジョッキをまえに
斜めに座る

その目が
この世の誰とも交わらないところを
(彼は自分で)えらぶ
そうやってたかだか三十分か一時間

雪の降りしきる夕暮れ
ひとりパチンコ屋で
流行歌(と騒音)のなかで
遠い昔の中と

その目は
厚板ガラスの向こうの
銀の月を追いかける
そうやってたかだか三十分か一時間

黄昏が
その日の夕暮れと

折りかさなるほんのひととき
そうやってたかだか三十分か一時間

夕暮れの町で僕は見る
自分の場所からはみ出してしまった
多くのひとびとを

高田渡の音楽はその多くがメロディは「カントリー」「ブルーグラス」「ブルース」などアメリカの音楽を借りてきて、また歌詞は古今の詩人たちのものを借りてきた・・・いわば借り物で作られた音楽である。
人によってはそれを「盗作」めいた言葉で揶揄するが、しかし小生は、彼の音楽にいわゆる「オリジナル」以上の価値を見出している。

そもそも彼が借りてきたメロディの一つ「ブルーグラス」にしてもほとんどが「伝統歌」とされているし、たとえ作曲者が明示されていてもその多くが「伝統歌」を少々アレンジし、歌詞を付け替えたりして自分の曲としているものが多い。
そのことは「カントリー」にも「ブルース」にも当てはまる。

わが国で例えるなら、「木曾節」・・・「木曾のなぁー木曾の御嶽山は・・・」という民謡である。
この民謡のメロディは様々なスタイルがあり、中には「正調木曾節」というのさえある。
しかしどれが正式の=オリジナルのメロディかは定かではない。
考えればそれは当たり前で「伝統歌」などというものは、そもそも口頭で伝えられ記憶されたもの、いずれかの時に誰かが、あまたあるものの一部をとって楽譜に起こしたものだから、それもまた「one of them」なのである。

実際カントリーとブルーグラスで、演奏スタイルと歌唱法ならびに、歌詞を変えてはいるが、全く同じメロディを使っているものがあることを経験するし、中にはそのルーツを遠く「アイルランド」に求めなくてはならないものもある。

それらのことを考えると、高田渡の音楽には「盗作」などという側面はなくなり、そればかりか彼が借用してくる・・・いわば、彼がリスペクトした「詩人 たちの詩」に借り物のメロディをほんの少し編曲することによって遭遇させることによって、全く異次元の音楽へと変身させ、時には心の琴線を強く刺激するという事実に注目し、評価すべきだと思う。

彼は詩人たちのオリジナルを少し省略したり、一部を変更したりしているが、どれもこれも音楽の理にかなっているのと同時に、(ここが彼の隠れた才能なのだろうと思うところなのだが)「限りなく言葉を少なくすることで逆に言葉の重みを増す」・・・まるで自身が「詩人」であるかのようにオリジナルを変身させるのである。

この改編を「詩人」の許可を得てのことか否かは分からないが、少なくとも、小生が挙げた3つの「詩」に関して言えば、高田渡は成功したといえると思う。

上に「詩人」のオリジナルと高田渡の改変ヴァージョン両方を上げたが、その2つは微妙にニュアンスが違うところがある。
大きいのは詩人の時代背景と高田の時代背景の違いによる「感じ方」の違い。
例えば「はみ出した」と「はみ出てしまった」・・・・今流に言えば「’自己責任」比率の多い少ないの微妙な差が感じられる。

詩人の時代には「戦争」や「不況」で生活が暗いことはあっても、まだ人間不信はまだ余り感じない。
しかし高田の時代には高度成長期の人間不信という歪み、疎外感、孤独感、挫折感・・・そのような要素が強く感じられる。

パチンコで30分か1時間気を紛らしても、外は相変わらず激しい雪が降っている、パチンコを終わればまた再び、極寒の冬の夜の中に出て行かなくてはならない。
このまま暖かい場所に居たいのだが何もしないでここに居ることも出来ない。
・・・高田はどうしようもなく行き場を失った人間のどうしようもなさを、そのまま音楽にしている。
この辺りは高田のHOBOソング「生活の柄」「歯車」「ものもらい」「石」にも現れている。

一方詩人は・・・「誰でもあるつらいときは、ほんの一時でも気分を紛らわせることが救いである。そうして気分が少し晴れたら、もうおうちに帰りなさい、そうすれば暖かくお前を迎えてくれる人たちが待っているから・・・」「決してあきらめたり、悲観することはない、つらいのはお前だけではないのだから」・・・何とかがんばろう・・・がんばれば、未来は決して暗くはない・・・

高田の音楽と詩人のオリジナルからの受け止め方の違いをそのように感じている。
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by noanoa1970 | 2006-04-27 18:53 | JAZZ・ROCK・FORK | Comments(0)

高田渡の一周忌・・・吉野弘『夕焼け』

【吉野弘 1926年-。詩人。山形県酒田市出身。高校卒業後、就職。徴兵検査を受けるが、入隊前に敗戦を迎える。1949年労働組合運動に専念し、過労で倒れ、肺結核のため3年間療養。1953年同人雑誌「櫂」に参加。1957年、詩集「消息」、1959年詩集「幻・方法」。1962年に勤務を辞めて詩人として自立。詩画集「10ワットの太陽」、詩集「吉野弘詩集」「叙景」、随筆集「遊動視点」「詩の楽しみ」など著書多数。】

この「夕焼け」という詩は不思議で厄介な詩である。
「夕焼け」 吉野弘
いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりがすわった。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘はすわった。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
また立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘はすわった。
二度あることは と言うとおり
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
かわいそうに
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッとかんで
からだをこわばらせて――。
ぼくは電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
なぜって
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇をかんで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。

高田渡の唄で聞いたときには、娘の「親切心」が不条理にも裏切られ、最後には自らその気持ちを捨ててしまった・・・人を信じることができなかったことへの後悔の念を抱くがゆえに、・・・途中で気がつくのたが、人間不信から「素直な親切心という美学」を持ち得なかった自分に対して情けなく、満員電車の中で立ち続ける老人へのつらさを思い、「タイミングを逸してしまってごめんなさい」という気持ちが交差する感情・・・・あの時は、どうしようもなかった・・・・が、しかし当然するべき行為をしなかったのだから、自他両方から責められてもしょうがない・・・現代の若者の多くが、すでには失なってしまったであろう、あるいは多くの若者が持っているであろう「合理化された感性」の持ち主ではないというところが、この「若い娘の救い」であり、電車の中の光景を目にした人を通しての作者の視点という風に受け取っていた。

しかし原作を読むと小生の考え方に変化があった。

下にあるのが高田渡が歌にした・・・つまり吉野弘の原詩の一部を割愛したものである。
そしてさらに下に、「太字」で付け足したところが割愛され部分である。
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 歌詞=高田渡 曲=高田渡

いつものこと
電車は満員
そして いつものこと
若者が坐り
年寄りが 立っていた

うつむいていた娘
年寄りに席をゆずる
礼もいわずに 年寄りは
次の駅で降りた
娘は坐った が
また 別の年寄りが
娘の前に 娘の前に
娘はうつむいた が また
年寄りに席をゆずる
年寄りは礼をいって
次の駅で降りた
娘は坐った
二度あることは三度という通り別の年寄りが
娘の前に
娘の前に

かわいそうに娘
うつむいて うつむいたまま
席をゆずらず
次の駅も
次の駅も
口唇をかみしめ
つらい気持ちで
娘はどこまで
どこまで行くのだろう
口唇をかみしめ
つらい気持ちで

やさしい心に責められながら
美しい夕焼けもみないで

口唇をかみしめ
つらい気持ちで
美しい夕焼けもみないで


<原詩より割愛されたところ>
高田渡は下の部分を削除したのだが、その理由は普通に考えれば、「唄になりにくい」からであると考えてよさそうだ。しかしこの部分は作者の考え方の表出した大切で重要な部分だということは誰でもわかるだろう。

固くなってうつむいて
娘はどこまで行っただろう。
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。

優しい心の持主は→受難者となる→その理由は→他人の痛みを感じられるから
つまり作者は満員電車の光景を見た人の目を通して「娘の中にある優しさ」を見出し、その優しさがゆえに自ら受難者となる・・・といっている・・・つまりそのようにこの電車内の光景を解釈して、読む人に聞かせているのである。あるいは、この光景を見た電車内の「ある人」の感じ方の一つを代弁した・・・作者の考え方とは異なるもの、という風にも取れないことはないのだが、
それにしては説明が哲学的過ぎるから、やはりここは作者の考えの表現と取ってよいと思う。

詩の中の光景を自分で解釈する・・・このような詩が今まであっただろうか。
小生には初めての経験である。
そうまでして作者が訴えたかったものは何であろうか?

学生時代に読んだ美学書の中に「美」とは・・・『例えば全く自然な姿で、何も意識しないで、目の前に年寄りが立ったら当たり前のように席を譲ること。』というものが有った。
そこには「年寄りには席を譲ろう」などのマナーや倫理、教育等の「教え」を遥かに超越したところから出てくる、人間としての自然な姿、その行為が「美」に通ずる。恣意的なものが全くない自然な行動、それがすなわち「美」しい行為。ということ。
・・・そんな内容だったと記憶する。

娘が席を譲ったのは、そのような「美」的な行為に当てはまるものであったのかは分からないが、仮にそうだとしたら最後まで娘は席を譲り続けたはずだ。
しかし娘は3回目の老人には「心の葛藤はあったが」席を譲らなかった。

その理由は、席を譲った老人が2人ともすぐに電車を降りてしまった。一人は娘の親切に礼の言葉もなかった。
そこで娘はこのように考えたのではあるまいか。
「3人目の老人もすぐに降りてしまうのだろう」・・・・・「今まで私が席を譲ろうとしてきたが、何も私だけがその行為をしなくても、隣の人だって同じように席を譲ってもいいじゃない・・・」「席を譲ってすぐに降りてしまうのでは席を譲った意味がないじゃない」「どうせこの老人もすぐに降りるに違いないからもう少し様子をみよう」・・・・・そのような思い、すなわち2人の老人の姿から、娘は最初に持ちえた自分の「感性」を「理屈」でそれを超えようと・・・つまり「合理化」してしまったのだ。

当初持ちえた素直な親切心が、老人2人のの偶然にも重なった行為によって、娘にとっては、ある種裏切りとして映り、3人目の老人との遭遇時には、「感性」が「合理化」されてしまうまでになってしまったということなのだろう。
しかしそのような娘を誰一人責めることは出来ない。責める権利があるとすれば、それは自分が自分に対してのみである。

しかし作者は
「やさしい心の持ち主は、いつでもどこでもわれにもあらず受難者となる。何故ってやさしい心の持ち主は、他人のつらさを自分のつらさのように感じるから」
といって娘を「優しい心の持ち主」であるとし、だから「つらい思いをする受難者となった」といっている。

これはどういうことなのだろう?

確かに娘は親切な心=優しい心を持っていたが、しかし限界があった。
途中でその優しさを理屈をもって「合理化」し、結果席を譲らなかったのだ。
娘は確かに親切であった、しかし、3人目の老人に対しては、そうでなかったのも事実である。
それなのになぜ、この娘を作者は「優しい」というのだろう。

後悔するから優しいのだろうか?歯を食いしばって夕焼けも見ないで耐えるから、優しいのだろうか?他人のつらさを自分のつらさのように感じることが「優しさ」なら、なぜ娘はそれからでも席を譲らなかったのか?

詩人のこの説明的な「優しさ」論はいくら考えても不可思議である。

一つ気づいたことがある。それは電車の中でこの光景を見ていた「男」が途中で電車を降り、後はこの「男の思い」で、話が進行していくこと、そしてもう一人詩人の「哲学的な言及」が、そこに割ってはいる・・・ということは、つまり二人の目がそこにあり、さらにこの詩を読む読者の目・・・3人の目がそこに存在するということである。

「男」と「詩人」は決して同じ解釈をしてなく、また読者の解釈も、おのおの違う。
ひょっとしたら、作者はそこを狙ったのではあるまいか。?
そのように考えると詩人がわざとらしく「哲学的な説明」を入れ込んだ理由の謎が解けるように思う。・・・高田渡が削除したように不必要で、詩としては重苦しく、想像あるいは感受性の幅を著しく欠くように思えるのだが、考え方の「対比」としての存在として考えると、詩人の意図が見えてくるような気がする。

電車の中の「男」の目線は、ごく一般的なもの、そしてこの「詩人」の解釈は、一般的解釈とは全く異なる。
想像するに以下のようなものではないのだろうか?

「詩人」は娘に存在する、・・・(今の若者に欠けている)「マナー」や「親切心」を認めてはいるが、
真の意味での「優しいここの持ち主」「受難者」として認めててはいない。

「詩人」は、娘を「優しさ」「受難者」の象徴として描いているのではなく、むしろ「中途半端な優しさ」は、周りの人たちも、自分をも傷つけることになる」というようなことを言いたかった。
相手のことなど、なにも分かってないのに、身勝手に行動してしまう・・・小生にもよくあること
相手の苦しみを自分の苦しみとして感じることが出来る人などは、どこにもも居ないのであり、相手の要望を組み入れない親切心での行為=行為の押し売りは欺瞞であり、偽善である。

そのような中途半端な親切心から出た行為だからこそ、普遍性がなく、良かれと思ってやったことにしっぺ返しをされてしまう。
そんなものは「受難」でもなんでもない。

人類史上数少ない本当の受難者といえるのは、「キリスト」あるいは「マリア」及び「マタイ」、「ヨハネ」・・・すなわちキリスト教的「愛」を悟っていた人だけなのだ・・・・・・
「愛」のない「やさしさや親切心」などは、ある種の「悪」である。・・そんなメッセージが聞こえてきそうな気がする。

高田渡がこの部分をカットした理由の、本意は分からないのだが、直感的に何かを感じ取っていたのかもしれない。そして」小生も、この部分がないほうが好きである。
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by noanoa1970 | 2006-04-26 18:45 | JAZZ・ROCK・FORK | Comments(2)

山吹の逸話


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山吹の黄色は見事である。この山吹に因む和歌として、醍醐天皇の皇子・中務卿「兼明親王」が詠んだ【七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞはかなしき】(後拾遺集)という歌がある。
さらに有名な話としては「太田道灌」の逸話がある。

道灌が鷹狩で遠出し、雨に合って一軒の家に入り、「蓑を貸していただきたい」と申し出ると、その家の女性は、お盆に乗せた山吹の枝を黙って差し出したという。雨が小止みになったかで道灌はその家を去って家に帰り、この不思議な話をすると、それは・・・・・
といって知恵者から先の和歌を教えられたという。

「道灌」はこの歌の存在を教えられるまで知らなかったというが、鄙にも稀な機知に富んだ高貴な女性との遭遇の話だから、自分より知見があると女性を讃えることに力を貸し、この逸話を真実味があり、奥が深い話にする必要から、それはどうやら「道灌」自身の創作話のように小生には思われる。

それによると山吹は花が散っても「実」をつけることがない・・・すなわち「実のない」=「蓑ない」という掛詞を背景に、さらに元歌の「山吹の歌」を共通の認識として利用して、、貧乏なあばら家で、「お貸しできる蓑もない」ということを暗に示したものだという。

この話を初めて聞いたとき小生は、なんと機知に富んだ、感性豊かな情景だろう、今は落ちぶれてはいるが、世が世であればと思わせるばかりに、この女性の美しさと高貴さが伝わってきたものだ。

小生の庭には「白山吹」があり、世の茶人はお茶花としてよく使うという。
黄色の山吹の艶やかさはなく、そちらかといえばやはり「ワビ、サビ」の花なのであろう。
質素だがとても愛らしい花であり、開花している時期は非常に短い。

しかし、この山吹は黄色の山吹と異なり、ちゃんと実をつけるのである。花が散ってしばらくすると地面に小さな黒い実が沢山落ちていて、その中のいくつかが芽を出して大きくなったものが数本ある。

和歌の引用の話と違うではないかとばかりに、調べてみると「シロヤマブキ」は、いわゆる山吹ではなく別種であルことが分かった。さらに黄色の山吹も一重と八重があり、実をつけないのは「八重の山吹」で「一重」のものは実をつけるということも分かった。

ということは「道灌」の逸話の山吹は「八重」であり、元歌の「七重八重花は咲けども・・・」とピタリと符合することになり、この逸話の植物学的根拠も明らか、単なる創作ではないように思われるのである。

さらに気になって元歌を紐解くと
下記のごとく歌を詠んだ背景らしき文章があるではないか。

小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける
・・・とある。

小倉山付近)の家に住んでいた頃、雨の降った日、来客が帰りに蓑を借して欲しい言われたので、山吹の枝を折って持っていってもらったことがある。その方は不思議そうに帰って行き、それから何日か後にここに来た時に、あのときの「山吹」の意味が納得できなかった、と言ったので、その返事としてこの歌を届けた。
・・・という意味である。

七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき

何だ!!「道灌」の逸話はこの元歌の逸話をほんの少しだけ編曲したものに過ぎないことが分かってしまった。俗に言う「本歌取りの「歌」でなく「逸話」であることがハッキリと分かってしまい少しガッカリさせられてしまった。

どうやら「道灌」の逸話は、本人によるものなのか、他人なのかは分からないが、全て作り話の可能性があような気がしてならない。
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by noanoa1970 | 2006-04-24 14:01 | 季節の栞 | Comments(0)

菅原克己「ブラザー軒」と氷水の器

「ブラザー軒」では「音」と「光」が、現世と来世をつなぐ導入和音を担っていることが分かる。
その「音」とは氷を噛み啜る音であり、ミルクセーキを作るシェーカーの音であり、ガラス暖簾がこすれあうときに出る音である。
そして氷水(カキ氷)を入れる器と、匙が器に触れ合う音であり、周りのお客が立てるざわめきの音でもある。

一方光は、ガラス暖簾に灯りが反射してキラキラと放つ光であり、店のランプの光であり、氷の輝きの光であり、氷水のガラスの器の色と光である。
そして光は、灯りが遠くてあたらない場所も・・・つまり「影」もまた光である。

作者は遠い昔の思い出を、氷とガラスの音と陰影によって呼び覚まされた。絵画的で、音楽的な詩でもあるように思える。

ガラスの器はその命が短く昔のもので残っているものは数少ない。
我が家に当時のカキ氷=氷水入れとして用いられていた器があるので引っ張り出してきて、カメラに撮めた。明治期から昭和初期のものまで有るが、やはり古いものは趣があり、希少価値も手伝って人気があるらしい。
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作者も幼少時父と妹と一緒にこのような器で氷水を食べたのだろうか。この詩を書いたと思われる昭和中期までの器は、写真のように背が低いお皿のようなものか、あるいは型で作られた無色透明の器であったであろう。
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写真中同じものが3つあるものは松本城付近の骨董屋で30年ほど前に入手したもの。
この写真の中では最も古く、明治期か大正期のものである。
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by noanoa1970 | 2006-04-24 10:01 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

高田渡の一周忌・・菅原克己『ブラザー軒』

4月16日は彼の一周忌である。一周忌記念コンサートでも開催されるのを期待していたのだが、行われるべくして行われる・・・当然のように思われるであろう、だがそれらしきものはない。これは本人の生前からの希望なのか、彼なら十分考えられることだ。

小生は彼の残したアルバムを聴くことにした。「タカダワタル的}というDVDを入手したのだが、余りにもリアルなので、見るに忍びないところが多々ある。2枚組みの2枚目で高田渡のトリビュートらしき感じで何人かが歌うものでも見ることにしよう。

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それで小生が取り出したのが高田渡が彼の歌で引用した「詩人」の詩である。彼は信奉する詩人がいて、多くの詩人たちの詩を引用しているのだが、中でもこれからあげる詩人の詩は、心の琴線に触れるものである。
その一人が菅原克己の「ブラザー軒」、もう一人は吉野弘の「夕焼け」あと一人が黒田三郎「夕暮れ」である。

今日は「ブラザー軒」をご紹介しよう。

「ブラザー軒」

東一番丁、ブラザー軒
硝子簾がキラキラ波うち、
あたりいちめん
氷を噛む音。

死んだおやじが入って来る。
死んだ妹をつれて
氷水喰べに、
ぼくのわきへ。

色あせたメリンスの着物。
おできいっぱいつけた妹。
ミルクセーキの音に、
びっくりしながら。

細い脛だして
細い脛だして
椅子にずり上がる
椅子にずり上がる

外は濃藍色のたなばたの夜。
肥ったおやじは小さい妹をながめ、
満足気に氷を噛み、
ひげを拭く。

妹は匙ですくう
白い氷のかけら。
ぼくも噛む
白い氷のかけら。

ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
おやじはひげを拭く。
妹は氷をこぼす。

簾はキラキラ、
風鈴の音、
あたりいちめん
氷を噛む音。

死者ふたり、つれだって帰る、
ぼくの前を。
小さい妹がさきに立ち、
おやじはゆったりと。

ふたりには声がない。
ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
ふたりにはぼくが見えない。

東一番丁、ブラザー軒。
たなばたの夜。
キラキラ波うつ
硝子簾の、向うの闇に。

仙台の七夕祭りの夜のこと。ガラス暖簾の音とキラめく光と影、、シャリシャリと氷をかく音、氷を食べる=食む・・・噛む音。男は大人になって懐かしいその場所を訪れ、昔のように氷水を注文する。昔のようにシャリシャリという感覚は余りなくなってはいたが、都会の「カキ氷」のように、真っ白な雪のようでもない。この店のカキ氷は電動でなく手でハンドルを回すタイプだ。
男は昔のように「せんじ=霙」を注文する。
ガラス暖簾のきらめきの光と音、そして氷を噛み啜る音で、男はその瞬間過去と現実が入り混じる「誘導催眠」=幻視状態となる。

時は昭和の20年代か30年代、終戦後漸く復興の兆が出てきた頃。男は故郷を離れ、東京で暮らしているが七夕に仙台に戻ってきた。
父親は戦争で亡くなり、妹は病死して久しい。

ここ「ブラザー軒」のガラス暖簾の向こうは、死者の世界に通じている漆黒の闇。七夕の夜に彦星と織姫が天空で1年に一回会うことができるように、七夕の夜のこのガラス暖簾は、あの世とこの世を結ぶ念1回限りの通路なのだ。

時代は遡って大正末期か昭和のはじめ、父親はその当時は太っていて威厳があったが、優しかった。妹は体質が弱く病気がちで、いつもメリンスの着物姿で寝たりおきたりしていた。
夏に熱っぽい時には氷水をよく欲しがった。
そんな妹のために父親は、男と妹を連れてこの店に来た。
妹は「イチゴ」を、男は「霙」、父親は黙って「ビール」を飲み、栄養を取らせるために妹にはミルクセーキをさらに注文してくれた。当時のカキ氷は今のように量が多くなかったので、妹は残さずに飲んで食べ満足した様子だった。
父親とは、いつもアレコレ話すこともなく食べ終わると商店街を抜けて家に帰るのだった。

・・・・「誘導催眠」の中でそんな光景がハッキリと目に浮かんだが、ガラス暖簾のチャラチャラという音、そして電燈の光を反射してきらめく光の影、店内のザワザワした音の風景で、催眠から覚醒するのだが、男は30年以上昔の父親と妹の姿を、もう一度ハッキリと目に焼き付けることが出来た、この「仙台、東一番町、ブラザー軒」で、今こうして自分が生きて居ることの、幸せを確認するのであった。自分は父親と妹の「死」の犠牲によって生きている、とさえ思うのであったそして男は来年も再来年も・・・毎年この時期にここに来ることを心に誓うのである。
高田渡の歌から小生が想起した幻影である

詩の作者菅原克己(すがわら かつみ)は
1911年宮城県に生まれる。
私立日本美術学校図案科中退。
戦時下、左翼運動や反戦思想のため警察の監視下におかれる。
1951年最初の詩集『手』を木馬社より刊行。
戦後は新日本文学会で活動し、
詩のサークル「P」の主宰者として後進を育てる。
1988年逝去。
生涯に八册の詩集と一冊の小説・エッセイ集を遺した。

戦中から戦後にかけて市井の片隅に生きる庶民の姿を平明な言葉で生き生きと活写した詩人。数多くはないがいまも熱烈なフアンをもつ。彼の記念日を「げんげ(れんげ)忌」といい、高田渡も生前出席して歌を歌ったそうである。

d0063263_13385442.jpgなぜか、大林宣彦監督, 山田太一原作の映画「異人たちとの夏」を思い出し、もう一度見たくなった。
映画は男がある夏の日、迷い込んだ地下鉄を上がると、地上にはは昭和中期の世界が広がっていて、死んだ両親と再会し短いひと夏を一緒に過ごす・・というもの。
この映画では「すき焼き」を親子で食べるシーンが印象に残る。
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by noanoa1970 | 2006-04-23 11:03 | JAZZ・ROCK・FORK | Comments(4)

木曽は山の中・・・先祖の地に生きる「桜の老木」

木曽福島町内、あるいは木曽駒高原のふもとでは「桜」の名所も多いのだが、この地は「桜」の生育には適してないらしく、桜を見かけることはごく少ない。しかも「ソメイヨシノ」は、恐らく1本も無いことと思う。先祖の地の桜も勿論ソメイヨシノではなく、その種類は定かではないのだが、幹、枝ぶりから、ましてやこの厳しい環境下での幹の太さから類推すれば100年以上は生きており、この地を切り開いた先祖の代から推測すると、200年近くなると思われる。
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どのような思いで、ここに桜を植えたのか・・・その心境を思うと・・・
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おととし痛んだところを補修したので、今年は生命がよみがえり、沢山の花をつけてくれることを願っていた。墓参りを終えてきてみたのだが、あいにく今年はまだ小さな蕾のままであった。去年は4月25日に来てみたのだが、そのときにはすでに咲き終わりほとんど散っていたので、今年は、開花宣言情報を鵜呑みにして、少し速く来てみたのだが、やはり自然はそんなに甘くない。人間の知恵などを、遥かに超越したところで動いている。
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多分後1週間で満開だと思うが、この老木の桜の花は、非常に小さく薄墨桜のような色で有るから強い雨や風に会ってしまえば、すぐに変化してしまうから、運がものを言う。小生も今までにたった一度だけベスト状態を見ただけである。

28日にもう一度チャレンジしてみようと思っているので、そのとき運がよければこの老木の可憐な桜の花をお目に掛けることが出来るかもしれない。
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by noanoa1970 | 2006-04-22 09:15 | 季節の栞 | Comments(0)