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スターバト・マーテル・・ペルゴレージ

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by noanoa1970 | 2005-09-30 16:28 | 宗教曲を聴く | Comments(0)

スターバト・マーテル・・ドヴォルザーク

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by noanoa1970 | 2005-09-30 11:29 | 宗教曲を聴く | Comments(0)

放浪・漂泊・さすらい・・・旅への誘い

「放浪、漂泊、さすらい、HOBO」と文学・音楽のかかわりはとても深いようだ。シューベルト、リストなどのロマン派の音楽家たち、マーラーなど後期ロマンの音楽家、わが国では「西行」「芭蕉」「山頭火」等の俳人もその代表であろう。方々へとさすらうからHOBOという・・・・といって意味を覚えたこともあった。このHOBOはブルーグラス、カントリー音楽の中にも頻繁に登場する。

本来なら、最初に、「シューベルト」を取り上げなくてはならないと思うのだが、余りにも範囲が広く、シューベルトの「さすらい」の持つ意味が深すぎて、今のところ書ける状態にはにはいたっていない。

先のBLOGで「彼岸花」について書いたときに、」「山頭火」と「西行」の句から、放浪のたびへと向かっている自分がいた。それで今日は「デュパルク」の「旅への誘い」をほんとに久しぶりに聞いて見ることにした。

ボードレールの詩を普通に読めば、「皆でどこか楽しいところに旅に行きましょう。気に入ればそこで死ぬまで楽しく、暮らしましょう」・・・などと読めてしまえるのであるが、デュパルクの曲がつくとそこには「彼岸」、「厭世と天国への憧憬」のようなものを感じることが多い。自ら命を絶って黄泉の国へとは向かうことが出来ない・・・・そこには唯一つ、当てもない「流離」「漂白」が残される。・・・シューベルトにもたぶんに潜むこの暗いイメージがついて回るのである。
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わが子、わが妹よ、思ってもみよ、かの地へゆき、
ともに暮らすたのしさを!
心ゆくまで愛しあい、愛しあって死んでゆく
おまえによく似た、あの国で!
・・・・見よ、この入江に
眠りたる 船、
漂泊(サスラヒ)の旅の心を乗せたりな。
・・・・
曇りがちなあの空の濡れそぼった太陽は……

ボードレール「悪の華」(旅へのいざない)より(芳賀 徹他訳)

詩のような音楽そして音楽のような詩・・・詩と音楽の吟醸の交感をして、近代仏蘭西芸術の「エスプリ」といっても良いのであろう。

このLPは1970年代後半に「仏音楽のエスプリシ」リーズとして、「ミュシャ」の絵で統一されたジャケットの音盤が十数点発売された。小生は音楽もさることながらジャケットの美しさに魅かれて、7枚入手したものの中の1枚である。
他にラヴェルの「シェエラザード」「ギリシャ民謡集」「ヘブライの歌」、ドビュッシーの「放蕩息子より」、デュパルクは他に、「フィディレ」が収録される。
演奏はジョルジュ・プレートル率いるパリ音楽院管弦楽団
「・・・ロス・アンヘレス」がソプラノを歌っている。
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by noanoa1970 | 2005-09-30 08:50 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

フォーレのレクイエム

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by noanoa1970 | 2005-09-29 19:00 | 宗教曲を聴く | Comments(0)

ディーリアスのレクイエム

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愛好者の多いディーリアス、そういえば音楽評論家の「出谷啓」氏は若いときからこの音楽家の作品の愛好者であった。彼はどうやらドイツ音楽以外に自分の活路を見出そうとしていたらしい節があり、「皆が聞かないような音楽」・・・・アメリカ音楽などを自分は得意にする・・・なんていうことを昔小生に語ったことがある。1960年代、ディーリアスを聴く人はそう多くなかったはずだ。ビーチャムのレコードが細々と発売されていただけの記憶がある。

最近ではディーリアスの熱烈な愛好家を「ディーリアン」というらしい。熱心な愛好家がこぞってHPやBLlOGを立ち上げている。流行の「癒し系」なのか?いやなことが多い今の世の中であるからか、「自然主義」的な志向を持つ音楽が愛好されるのも良く分かる気がする。

ディーリアスの音楽は、中身はもちろんだが、その「タイトル」がいい。タイトルメイクはドュビッシーのようである。仏印象派や象徴主義的なものにイギリスの田園風景の要素を加えると、ディーリアスとなるように思えるが、いわゆるディーリアス・・・らしくない音楽がこの「レクイエム」である。ディーリスのあの牧歌的で、花の香りが遠くから漂ってくるような音楽は、ここでは余り聞こえてこない。

「異教徒のレクイエム」とも称されるこの曲。
シューベルトの暗く重たい「未完成」交響曲の冒頭にも似た序章からして、少し不気味な感じ方が漂うう。
「戦争のために、若くしてこの世を去ってしまった芸術家の思い出のために・・・・」と副題のついた、通常の典礼文を使用しない、・・・・マーラーの「大地の歌」のような声楽と、それに合唱をつけた交響叙情詩といってよいのだろう。全て英語による歌詞がついている。

作曲年代は(1913~16)、第1次世界大戦の最中であるから、この戦争で亡くなった若い芸術家たちをの追悼に作られたのかもしれない。彼はドイツ生まれであり、イギリス、フランス、アメリカを始めさまざまな国で生活をしている。この世界大戦を彼はどのような目で見たのだろうか。彼もまた国籍を持たない心中複雑な、放浪芸術家であったのかもしれない。
なおこの作品はフェンビーによる口述筆記以前に作られたものである。

4曲目の要約によれば、マーラーの「大地の歌」第6曲、告別 Der Abschiedに似た「輪廻転生」「永劫回帰」といったものを感じる。

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とこしえの
あらたな芽生え
この世のものは
全て帰り来る
帰ってくる
春・・夏・・秋・・
そして冬が過ぎ・・
やがて、また春が訪れる
新しい春が訪れる

歌詞はニーチェ。ほかシェイクスピア、旧訳聖書からも引用してあるらしいが確認出来てない。
LP:メルディス・デイビス指揮ロイヤルフィル、ロイヤル合唱団、
CD:LPと同メンバー、LPに収録されてない「告別の歌」「夜明け前の歌」が収録される。「告別の歌」では指揮が、マルコム・サージェントに代わる。
フェンビ-の手により口述筆記の曲となる素晴らしい「IDYLL」が聴けるのもよい。
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by noanoa1970 | 2005-09-29 09:30 | 宗教曲を聴く | Comments(0)

フォーレのレクイエム

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by noanoa1970 | 2005-09-28 23:03 | 宗教曲を聴く | Comments(0)

フォーレのレクイエム

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アラン・クレマン:ボーイソプラノ
フィリップ・フッテンロッハー:バリトン
サン=ピエール=オ=リアン・ドゥ・ビュール聖歌隊
ミシェル・コルボ指揮ベルン交響楽団
録音:1972年5月、ベルン
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by noanoa1970 | 2005-09-27 19:04 | 宗教曲を聴く | Comments(0)

彼岸花・その花の下・・・・出家と放浪

いつもならお彼岸の中日付近に満開の花なのだが、今年はどうやら開花が早く、彼岸も終わる日となってしまっては、精気あふれるものを探すのに苦労してしまった。
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曼珠沙華咲いて ここが私の寝るところ   山頭火

サクラの木の下には死体が埋まっている・・・・・誰の言葉だったろうか?坂口安吾だったか?
でも小生は「死体」が埋まっているのなら、曼珠沙華の下である・・・とかねてから思っていた。
この「山頭火」の自由律の俳句を見つけて、わが意を得たりと思ったものである。
「寝るところ」とは文字通りとれば、歩きつかれた果てに、道端に野宿することであろうが、彼はそうした放浪の果てに、死への予感とともに、死ぬ場所を常に求めていたように思う。
「寝るところ」とは「死ぬ場所」のことでもある。

「山之口獏」にも「生活の柄」という放浪の詩があり、「高田渡」が曲をつけ歌っている。

もちろん「サクラの下」というのも。・・・続古今和歌集巻第十七の雑歌上、花歌中ににある「西行法師」の歌に、、
「ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比」という歌もあり、この「はな」とは「サクラ」であるから、サクラの木の満開の下には「死体」が埋まっているというのも分かる。
西行は佐藤義清といい後鳥羽院を警護する北面の武士であったが、二十三歳のとき突然出家して法師となり、大和の長谷寺に参籠してからは高野や吉野に隠れ、また諸国を行脚遍歴して東は陸奥まで足を延ばし、西は中国、四国に至るまでその足跡は及んでいるという。
高校生の頃、熱心に読みふけった吉川英治の「新平家物語」では佐藤義清=西行法師出家の背景が詳細に書かれてあったと記憶する。

しかし小生には、若くして・・・余りにも若くして出家(ひょっとしたら、本来の仏門に帰依するという意味での出家ではないのかも・・・)してしまった西行より、「山頭火」の終わることなき放浪に、より人間くささを感じているが、西行も放浪の旅をしたのだろうか?少し気になるところである。
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by noanoa1970 | 2005-09-27 10:46 | 季節の栞 | Comments(0)

ローエングリンと宗教戦争

掲示板「猫」に「お母さん」という面白げなスレッドが立った。其れに対して「ワーグナーにおける母親不在」という、これも興味深い返信がありそれに刺激されてアレコレ考えるうちに、一つの推理を思いついた。
ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩「ローエングリン」のもとは「ケルト神話」であるという、確かにローエングリンの父親は「パルジファル」であり、この人とは、キリストの聖杯を守った英雄だ。ケルト神話といってもキリスト教的にモディファイされているから、話はややこしいのだが、ケルト伝説の「アーサー王物語」をキリスト教的解釈で再編したものの中の話である。

ここにこの「ローエングリン」の秘密が隠されているのではないだろうか。
登場人物は
エルザ=ブラバンド家の長女弟にゴットフリートを持つ。
さてこのエルザの両親はこの物語では登場してこない、ブラバンド領主である、父?母?ここもハッキリしないのだが、・・・ここで見過ごせないのは、ブラバンドの家督が長女エルザによって継承されるというところである。ここは推測の域を出ないのだが、エルザの父は入り婿で、キリスト教徒、エルザの母親は代々続く異教徒の名門家系、とすることは出来ないだろうか?
とするとつまりブラバンド家は伝統的には、「母系家族」であるが、ブラバンドで争いが絶えないのは、恐らくキリスト教徒と異教徒であるブラバンドの領主夫妻それぞれの派閥間の抗争によるところであったのではなかろうか。

もう一人の重要な人物は「オルトルート」である。彼女は名門の家系出身でありながら、異教徒で、ゲルマンの神々の名前を大声で呼び叫ぶなど、とても奇異に映る、また「魔女」として扱われ、エルザの弟「ゴットフリート」を「白鳥」に変身させてしまう役割をする。

小生は、この「オルトルートとエルザは異父姉妹か、従姉妹の関係、母親の妹がオルトルートかもしれない。つまり全くの他人ではないように思える。ブラバンド家の家督を女同士で争ったと見てているのだ。オールドアイリッシュバラッドの中にも、姉妹同士の争いの「クルエル・シスター」、跡継ぎの領主の息子ランダルが森の中で恋人に毒を盛られて死んでしまう(実は母親の息子殺し)「ロード・ランダル」というバラッドがあり、いずれも母系社会から父系社会への変化の中での家督継承問題の矛盾をあらわしていると読める。

ローエングリンは異教徒を改宗させ、エルザと結婚することで、領土を奪おうとするための「白鳥の騎士」として、「聖杯王」「パルジファル」の息子というお墨付きと威厳を持って現れる。
エルザに条件をつけて結婚=キリスト教への改宗を迫るが、エルザはその約束を破る=キリスト教への改宗を拒否。
小生はここに異教徒をキリスト教に改宗しようとして、またその領土を奪おうとしてやってきたキリスト教の若き英雄が、その企てに見事に失敗する様が描かれているように思うのだ。

エルザは弟ゴットフリートを殺したという罪で訴えられるのだが、そして物語では「オルトランド」が魔法によって白鳥に変身させたと書かれているが、真相は「弟殺し」が隠れているように思う。ここに母系社会の復権を読み取ることが出来るのだが、流石にキリスト教はそれで終わらない。
白鳥に姿を変えたゴットフリートを元の姿に戻し、ブラバンドの領主は「エルザではなく」弟のゴットフリートである・・・といって去っていくところに、キリスト教の最後の勝利が読み取れ、「異教徒の象徴としてのエルザの死」によってキリスト教社会の到来=ローエングリンによって助けられたことでキリスト教に改宗した弟の領土支配が読み取れるのである。ここに父権社会が確立するのである。

母系社会から父系社会へのキリスト教的価値観による転換が行われるのだが、アイルランドの聖パトリックのように、キリスト教と異教=多神教、自然神信仰=豊曉の神信仰=母神信仰
=母系社会を融和させて、土着民を宗教的融和へと導いていた例があり、その重要な武器はキリスト教の「マリア」信仰ではなかったかと推理される。

自ら台本まで書いたとされるワーグナーが、彼がテキストとしたエッシェンバッハの書物、古代の伝承とキリスト教の関係性をどのように捉えていたか興味が湧くところである。

エルザとローエングリンの、有名な「結婚行進曲」の「運命の動機」は、この結婚が「破局」に終わる運命の象徴なのか、キリスト教と異教が絶対相容れられないことの象徴なのか・・・・ワーグナーが其れを意識してこの曲を作っていたとしたら、彼はやはり天才的「総合芸術化」である。
ニーチェとの親交そして決別、ヒットラーとの係わり合いなど興味は尽きない。
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by noanoa1970 | 2005-09-26 11:46 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

M・Aシャルパンティエの「死者のためのミサ」

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お彼岸も終わりだ。そろそろ宗教音楽から抜け出そうと思うのだが、・・・・シャルパンティエを最後にするとしよう。他の宗教曲のLPやCDの写真はすでに登録してあるので、後は思いついたときに文章を書くことにする。
ちなみにデジカメとスキャナーを使ってv貼り付けたのは、ヴィヴァルディー、D・スカルラッティ、ペルゴレージ、ハイドンの「スターバト・マーテル」・・・そうそう忘れてはならないいけない、ドヴォルザークもある。後はフォーレのレクイエムがしつこいくらいに貼り付けてある。小澤、コルボ、フレモーそしてそのほかの「レクイエム」としてF・マルタン、ディーリアス、ゴーロア、ブリテン、ラッター、サンサーンス、シューマン、デュリフレ、・・・これらを3週間ほど集中して聞いた。流石に疲れ、飽きてきたのでこれからは随時書くこととすることにした。

「M・Aシャルパンティエ」の宗教曲は、「テ・デウム」「真夜中のミサ」などが知られているが、およそ500ほどの作品中、宗教音楽の占める割合は400曲ほどといわれる。なんと80%が宗教曲なのだから、「宗教音楽家」・・・というより、多分教会のお抱え音楽家だったのであろう。しかし彼のプロフィールの詳細は余り知られていないようである。
今日はその中でも演奏される機会の少ない「レクイエム」を取り上げた。

彼は以下のように3つの「レクイエム」を作っており、
・死者のためのミサ曲(Messe pour les trepasses a 8)H.2(1670代初め)[独唱,
 2重cho,2fl,弦楽,BC]
・死者のためのミサ曲(Messe des morts a 4 voix)H.7(1690年代)[独唱,cho,BC]
・死者のためのミサ曲(Messe des morts a 4 voix et symphonie)H.10(1690年代) [独唱,cho,2fl,ob,弦楽,BC]
このLPにはそのうちの、2番目と最後に作られたものが収録されている。
いずれも明確な作曲年が分からずおおよそで記される、そして2番目H・7が、低弦の通奏低音のみの伴奏で歌われるのに対し、最後の作品H・10ではオーケストラがつけられている。
この録音では「古楽器」のオケで演奏されるのが特徴的で、オケのないものが教会の中で聞いているような、素朴だが厳粛な響きを出しているのにに比べ、オケがつくと・・・・作品の違いよりも、音の違いの方が強烈に印象付けられてしまい「古楽器」のどちらかというと明るめの響きと、バロックフルートの音色、またこの作品に特徴的なのか、コーラスの女性パート、女性ソロを際立たせるせるような作風のせいなのか・・・・「レクイエム」ではあるが、「真夜中のミサ」のような「暖かさ」を感じてしまった。
2人の女性ソロと女性コーラスによる「ピエ・イエズ」も非常に心地良く聞こえる。

どうやらシャルパンティエという作曲家は「聖」と「世俗性」を強く併せ持つ作曲家で、宗教曲にでさえその「世俗性」の資質?が出ているようである。とても親近感が湧く曲が多いのも彼の音楽特徴なのか、初めてあの「真夜中のミサ」を聞いたときの感動と慶びに良く似たものを久々に味わった。
この演奏で古楽器を採用したのはまことに大成功で、逆説的であるが、其れがこの「レクイエム」を現代に通じる新鮮なものにしているのは、多分間違いのないことであろう。
ルイ・デヴォ指揮ムジカ・ポリフォニカWestvlaams Vocal Ensemble
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by noanoa1970 | 2005-09-26 06:50 | 宗教曲を聴く | Comments(0)