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三木露風の「赤とんぼ」についての問題

最後に三木露風の「赤とんぼ」の詩についての疑問と小生の仮説について触れることにする。

1.夕焼け、小焼の、
赤とんぼ、
負われて見たのは、
いつの日か。

2.山の畑の、
桑の實を、
小籠に摘んだは、
まぼろしか。

3.十五で姐やは、
嫁に行き、
お里のたよりも、
絶えはてた。

4.夕焼け、小焼の、
赤とんぼ、
とまっているよ、
竿の先。

「赤とんぼ」は以上の4つからなる。そして4番目が最初の場面で、後の3つは回想であるといわれる。確かに4・1・2・3という順序で内容を考えれば、作者が大人になったあるときに、幼児期を回想したものを詠ったと考えられる。自身の回顧録によれば作ったのは、大正10年というから露風は30才台半ばであろう。

疑問の一つはたわいもないもので、「夕焼け小焼け」の「小焼け」とはいったい何のことだろうというもの。これについては今夕絶好の夕焼けが見れたので散歩の帰り際、日が暮れて辺りがスッカリ暗くなるまで観察することが出来た。
太陽が地平線、水平線、今日的には建物や近くの山陰に隠れる前の状態から,太陽が完全に隠れる直前までに赤く染まった空を「夕焼け」といい、太陽が隠れて・・・・するとそのとたんに周りが暗くなり夕焼けがいそう際立つ・・・・しばらくすると落ち着いてきて太陽の光も弱弱しくなってくる。これを「小焼け」というのではないかと思った。このわずかな時間はまだ周囲は暗くはなく、赤とんぼが飛んでいても確認が可能な状態であった。時間的には今の季節なら、18時から30分前後のことである。

もう一つ・・・これがたいそう厄介なのだが、3番の詩の「十五でねえやは、嫁に行き、お里のたよりも、絶えはてた」の箇所、「ねえやとは?」、「お里とは、誰の里か?」これにはいろいろな説があるそうだが、露風自身の「赤とんぼのこと」・・・という自筆原稿が発見されたことで、終止符を打ったかに見えたようだ。しかし小生はいかに自身の書いたものであっても、にわかにその内容をそのまま信じることにいささかの抵抗がある。

函館のトラピスト修道院で作ったこと。ねえやとは奉公に来ていた「子守役」のこと。その子守が大きくなったのでお里に帰った。理由は結婚である。・・・などの回想が書かれた自筆の原稿用紙が確かに存在する。
しかしどうしてもおかしい点があり、それは「お里の便りも絶え果てた」の部分、ねえやが嫁に行ってなぜお里の頼りが絶えるのか・・・サッパリ分からないのである。
ねえやは露風の幼児期に育った家に奉公に来ていて、露風のお守りをしたと考えていいと思う。露風は事情で=(両親の離婚か?)家を出て他のところに行ったが、しばらくは露風のお里にいた奉公人のねえやが露風に便りを書いていたのだろうか?またねえやは本当に15でお嫁にいてしまったのであろうか?

明治期であっても15歳ではいくらなんでも結婚には早すぎるのではないだろうか?
当時の適齢期は18から25だというデータも有るようだ。田舎だから早婚なのだろうか・
また
十五でねえやは、嫁に行き
お里のたよりも、絶えはてた
これを並列とする説も有る。すなわち意味の連続性はないという解釈である。しかしこれも小生には説得力に乏しい。

そこでこのように考えてみた。「15」・・・とは「私が(露風が)15歳になったとき」という意味。ねえやとは姐やでなく「姉や」。もともとこの回想の場面は、露風の幼児期の話だから作ったときからおよそ30年ほど前のこと、しかも露風の幼児期であったから、その記憶の大部分は「曖昧模糊」であっただろうと考えるのが普通である。思い込みや恣意的作為がなかったかといえば、ないとはいえない部分もあるかもしれないいのである。

ねえやは「空想の姉」が投影されたもの、もしくはは離婚した「母親の再婚」の投影で、父親と断絶した状態を「便りも絶え果てた」・・・私が15歳のとき姉やは実家を出て(20前後で)嫁に行ってしまったから、それまでなんらか縁のあった実家=父親の家系とはそれきり縁がなくなったという決別の唄を、「ねえや」を媒介とした空想の話へともって言った。・・・これが小生の推理である。

周りの人間関係はスッカリ変わってしまって、私は今ここにこうしているが、「赤とんぼ」だけは昔と同じように今も私の中にある。・・・・そんな心象風景が読み取れる.

「フト後ろを振り返るとそこには夕焼けが
ありました・・・」
「本当に、何年ぶりのこと、そこには夕焼けが
ありました・・・」
・・・「中央線よ空を飛んで、
あの娘の胸に突き刺され・・・」

と詠う「友部正人」のアルバム「にんじん」から「一本道」を思い出したので聴いてみた。
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by noanoa1970 | 2005-08-31 07:29 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(11)

夕焼け小焼け

「赤とんぼ」のほかに
仲村雨紅作詞 草川 信作曲の「夕焼け小焼け」という童謡もある。

夕焼け 小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘がなる
おててつないで みなかえろう
烏と いっしょに かえりましょう。

おとといの夕方はきれいな「夕焼け」を見ることが出来たが、あいにくカメラを持っていなかったので昨夕撮影に挑戦した。
しかし昨夕は太陽が少し雲間に隠れていて、特上の「夕焼け」を見ることが出来なかった。
それでも何とか雰囲気はあるので掲載することにした。
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午後18時15分ごろの夕焼け。これはこれで美しい「夕焼け」
おとといはこの場所で正面に見えた太陽が、だんだん沈んでいくさまを観察でき、変化する夕焼けに感動した。

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18時25分頃に同じところから撮影したもの。このような状態が「小焼け」なのか?辺りが少し暗くなり、雲もだんだん薄くなってくる。太陽はいま少し深く沈みその光も弱くなり、輝きも減少する。

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18時30分移動して撮影。「筋雲」はなくなってしまいほんの一部雲が残っているだけ。
それでも空は、うっすらと茜色だ。
太陽の方向がスッカリ晴れていれば、空一面が「茜色」に染まることだろう。
事実おとといの夕方はそうであった。
程度はあまりよくないが、「小焼け」の状態であろう。

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時刻は18時30分を過ぎた頃、それでもほんの少し薄茜色に染まった雲がを見ることが出来る。今ではもうその姿を見ることはなくなってしまったが、「コウモリ」や「銀ヤンマ」はこの時間でも十分飛ぶ。しかし「赤とんぼ」はこの時間になると、もうその姿を見せない。
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by noanoa1970 | 2005-08-30 12:45 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

「赤とんぼ」團伊玖磨の指摘

2.山田耕筰の作曲法上の問題点の指摘・・・について触れておこう。

北原白秋作詞・山田耕筰作曲
からたちの花
からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ

からたちのとげはいたい
青い青い針のとげだよ

ペイチカ
雪の降る夜は たのしいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
むかしむかしよ 燃えろよペチカ

雪の降る夜は たのしいペチカ
ペチカ燃えろよ おもては寒い
や栗やと 呼びますペチカ

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2つの唱歌の(下線部分は最も顕著)いずれもがメロディと発音(アクセント)が調和されていることが分かる。
「山田耕筰」に対する評価や、特徴として以下の記述を引用する。

「山田耕筰」の歌曲が特に秀でている理由は、日本語のイントネーションやアクセントがそのままメロディに生かされている点にある。」
「日本がヨーロッパ近代音楽を取り入れようとした時の最大の問題が、このヨーロッパの歌曲風のメロディと日本語をどのように結び付けるかであった。」
「その中で耕筰はその鋭い耳によって日本語のアクセントが高低アクセントであるということを感覚的に感じ取ったのである。」
「そしてそのアクセントをメロディと融合させることによって「からたちの花」を初めとした名曲の数々を世に送り出していった。」
「いかに彼の影響が今日まで日本の音楽に影響しているかを感じ取ることが出来る。」
「一音一音に母音を伴う日本語の魅力を、その響きとつながりの中に見いだし、言葉の美しい音の線を描き出すことを、最も重要視していることを実感した。」

これら山田耕筰の作品の持つ特徴と、評価が有るにも拘らず、「赤とんぼ」ではその特徴がない・・・・「それではここはどうなんでしょう」と言って指摘をした人が、「團伊玖磨」であった。
恐らく「團伊玖磨」は今までの山田耕筰の作品と、「赤とんぼ」を比較して、「ゆうやけこやけのあかとんぼ」の出だしの「あかとんぼ」の「あか」に言及し、「か」・・・つまり「あ」にアクセントを置くのは山田らしくない、あなたの作曲法に反しているのはなぜか・・・と問いただしたというのだ。小生はこの指摘の背景には、「シューマン盗用説」が存在するのではないかと睨んでいる。・・・つまり山田にしては作曲法がおかしいから、このメロディは無理やり・・・・シューマンから盗ってきたもの・・・と本当は言いたかったのではないか・・・本来なら「あ」にアクセントが置かれなくてはならないはずだということは、「シューマン盗用説」に立脚してのことであろう、と推測してしまう。

しかしこの論争は「團伊玖磨」の完全敗北であった。その理由は明治期以前のの江戸弁と、いつの間にかそうなったいわゆる「標準語」の相違があって、山田は伝統的なアクセントを採用したから、「あ」にアクセントを置いた。念のため下町の古くからの江戸っ子に、あるいは古典落語家に聞いてみると、やはり「山田」の言通りだったそうである。山の手の住民「團」はそのことを知らなかったのである。

小生も学生サークル「DRAC日本音楽G」でで山田について勉強したときに、イントネーションを大切にする山田にしては「あか」の「あ」のアクセントはおかしい、と思ったことがあったが、流石山田耕筰、自身の信念は曲げていない・・・・ことが漸く分かって、ほっとした。

               追伸
いまふと思ったのだが、「赤とんぼ」には「山田耕筰」のほかの作品にはない特徴がある。
それは「赤とんぼ」の「あか(とんぼ)」の音階が「ラ・ド・(ド・レ・ミ)」ラ・ドと「6度」もはなれてれていることである。これは小生の知る限りの「山田耕筰」の童謡唱歌にはなかったもの。・・・・少しだけ「山田の作品らしからぬ」という感じがしたので、素直に書いておくことにする。・・・もしかしたら「團伊玖磨」もこのことに気づいていたのでは、あるまいか。
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by noanoa1970 | 2005-08-30 09:18 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

赤とんぼ騒動

山田耕筰とシューマンと題した先のブログで「赤とんぼ」と」シューマンの「ピアノと管弦楽のための序奏と協奏的アレグロ」作品134の類似性の「’さわり」について触れたので、その後について書き留めておこうと思う。
以下の3点についての諸問題を提示したのだが、今回はその1点目を取り上げる。
1.山田耕筰のシューマン盗用説
2.山田耕筰の作曲法上の問題点の指摘
3.三木露風の「赤とんぼ」の詩についての疑問

これについては吉行淳之介がその著書「赤とんぼ騒動」で書いているのでかいつまんで紹介する。
吉行はあるとき問題となるシューマンの作品134を聴き、「三木露風」が詩を作り、「山田耕筰」が作曲した日本人なら誰でも知っていて、今や日本の童謡にもなっている「赤とんぼ」に余りにも似ているフレーズが都合18回も出てくることを指摘し、(何度も聴いて数えたらしい)
ひょっとしたら、「山田耕筰」がシューマンを盗用したのではないかとの疑いを持つ。
「ゆうやけこやけのあかとんぼ」
(ソ・ド・ド・レ・ミ・ソ・ド・ラ・ソ・ラ・ド・ド・レ・ミ)・・・・が「赤とんぼ」の最初のメロディである。
「移動ド」だがシューマンの作品134は
(ソ・ド・ド・レ・ミ・ソ・ド・ラ・ソ・ラ・ド・ド・レ・ミ)(ソ・ラ・ファ・ミ)・・・・後の(  )のソ・ラ・ファ・ミの4つの音が連なる以外は全く同じである。

何回か聴いてみたが、山田耕筰のものは、その第一メロディとそれに続く第2メロディ・・・ABで完結していて其れが、4回繰り返されるのに対して、シューマンのは、突然前触れなく出てきて、しかも18回(途中で調性が変わるが)しつこく登場する。なんと言っても大きく違うのは、(ソ・ド・ド・レ・ミ・ソ・ド・ラ・ソ・ラ・ド・ド・レ・ミ)(ソ・ラ・ファ・ミ)・・・・後の(  )のソ・ラ・ファ・ミの4つの音がもつ意味で、シューマンには連続性があり、次につながろうとするのであるが、しかしなかなかつながらない。
そういう意味でシューマンのこのメロディは、当然やってきたしつこいストーカーみたいで、曲全体に及ぼす意味は、メロディの美しさ(日本人にはもう少し違う意味を持つが)以外には乏しい。そういう意味でこの作品はシューマンファンの期待にそぐわない。

石原槇太郎が「赤とんぼ」をドイツ人の友人に聞かせたら、「これはドイツの民謡と同じだ」といったという話や、「イスラエル」にも同じメロディがあるとか、このメロディのオリジナルの謎はさらに深まるばかり、いまや全世界を駆け巡るまでになってしまったのである。。

しかし小生は長年耳についてきたメロディでもあるからか、「国産である」という風に信じたい。
せめても「山田耕筰」がシューマンを盗用したのではなく、ドイツ民謡を応用したと思いたいのである。
去年面白そうなCDが発売されたので紹介しよう。
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山田耕筰が指揮をしたもの、カルメンマキ、賠償千恵子、JAZZのハンク・ジョーンズ、イ・ムジチ、ゲーリーカー、三宅榛名、ジャン=ピエール・ランパル/リリー・ラスキーヌ、仏語歌唱英語歌唱、など全篇「赤とんぼ」・・・シューマンの作品134曲も収録されている。
キング (KICG-3080)
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by noanoa1970 | 2005-08-29 07:34 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(3)

山田耕筰とシューマン(赤とんぼをめぐって)

犬の散歩で少し離れた高台の公園に夕方出向くと、最近では目面しく「赤とんぼ」が頭上を数匹飛び交っているのを発見した。
すぐに「山田耕筰」「三木露風」の「赤とんぼ」の唄が頭の中で鳴り、懐かしい思いがした。、

帰宅して思い出したように取り出して聴いたのが、、シューマンの「ピアノと管弦楽のための序奏と協奏的アレグロ ロ短調作品134」。

数年前のことペーター・マークがバックを勤めたシューマンのピアノ協奏曲のCDがあったので入手して聞いていて、最後に収録されていた「ピアノと管弦楽のための序奏と協奏的アレグロ作品134を聴いたその瞬間、あの「赤とんぼ」のメロディが何回も聞こえてきたのに驚いたことがあった。このことは「知る人ぞ知る」・・・コアな聞き慣れたクラシックファンなら知っている人は多いらしい。小生は全く知らずに、作品134を聴いたのはそのときが初めてであったから本当に驚いた。
気になっていろいろ調べてみると、大変興味深いことが分かった。
それは以下のの3点に集約される。

1.山田耕筰のシューマン盗用説
2.山田耕筰の作曲法上の問題点の指摘
3.三木露風の「赤とんぼ」の詩についての疑問
本日ははそれtらの事にも興味が湧くが、後日触れることにしてとりあえずシューマンの該当の作品134を聞くことにした。
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ペーターマーク指揮
ベネデット・ルポ(ピアノ)
スイッチェリア・イタリアーナ管弦楽団
ARTSレーベル
「シューマンピアノと管弦楽全集」
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by noanoa1970 | 2005-08-28 07:25 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

リストのレクイエム

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余り聴く機会がなく眠っていた音盤を聴いてみようと思った。15年ほど前に京都の老舗の店で入手したもので、数回聞いただけで長いことしまいっぱなしになっていた。しかも小生、「リスト」は交響詩やピアノ曲を聴くだけで、決して熱心な聞き手ではない。いわば「リスト」初心者である。ただどういうわけか宗教曲はかなり好きなほうで、一時集中して聴いていた。リストのレクイエムもそのときに入手したものである。

1868年に初演されたこのレクイエム。編成はテノール×2、バリトン×2、男声コーラス、オルガン、トランペット×2、2トロンボーン×2、ティンパニと小編成。。恐らくこのレクイエムはコンサートで演奏するのが主目的ではなく、教会内で演奏されることを目的に作曲されたものかもしれない。
リストのレクイエムは次の6曲からなり。通常のレクイエムの典礼文をかなり省いたこの頃のレクイエム以上に簡素化されている。

1.レクイエム(レクイエム・エターナム)
2.怒りの日(ディエス・イレ)
3.ドミネ・イエズ(オッフェルトリウム)
4.サンクトゥス
5.神の小羊(アニュス・デイ)
6.リベラ・メ
以下は通常のレクイエムの典礼文である。
1.Introitus(入祭唱、Requiem aeternam dona eis Domine..... Te decet hymnus Deus in Sion....)
2.KYRIE
3.Graduale(昇階唱、Requiem aeternam..... In memoriam aeterna erit justus....)
4.Tractus(詠唱、Absolve Domine, animas omnium fidelium defunctorum....)
5.Sequentia(続唱、Dies irae, dies illa....)
6.Offertorium(奉献唱、Domine Jesu ChristeHostias et preces tibiDomine..)
7..SANCTUS
8.AGNUS DEI
9.Communio(聖体拝領唱、Lux aeterna luceat eis, DomineRequiemaeternam
リストのレクイエムも19世紀のほかの作曲家「シューベルト」「シューマン」あるいは「ベルリオーズ」「ヴェルディ」「ドヴォルザーク」などと同じように順序を入れ替えたり、省略していることが分かる。しかしいかに省略といえども、「キリエ」がないことには、いささか驚かされた。
19世紀以降は、フォーレとデュリフレを代表的例外とし、ヴェルディ、ドヴォルザークに顕著なように、Sequentia「Dies irae」の比重が大きくなる傾向が強く、リストのレクイエムもドラマチックには仕上げられている部分はあるが、なにぶん小編成過ぎて、「交響詩」で見せるようなリストではない。

グレゴリオ聖歌風のフレーズがいたるところで登場し、その編成からも「グレゴリオ聖歌」を思わせるようなところがたぶんにあり、宗教曲が好きな人なら、サン=サーンスのレクイエムと同様、聞いておきたい曲のうちの一つである。

聴いているうちに気づいたのだが、「教会で演奏されたものであろう」・・・という推論はひょっとして間違いかもしれないと思った。小編成で、音量はさほど大きくなく、あたかもグレゴリオ聖歌を髣髴させるが、ところどころにオルガンの強奏部があり、かなりドラマチックに作られているので、「演奏の仕方で・・・両用可能に仕上げた」・・・・という推理にしておくことにしたほうが良いのかもしれない。

CDはハンガリー出身の職人的堅実指揮者
ヤーノシュ・フェレンチェク(指揮)/ハンガリー国民軍男声合唱団
アルフォンズ・バルタ(Ten)、ソルト・ベント(Bar)
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by noanoa1970 | 2005-08-26 17:48 | 宗教曲を聴く | Comments(0)

変化する「繰り返し」

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映画「秋日和」は、夫を亡くした美人の未亡人と、その夫の旧友たちの間に繰り広げられる、・・未亡人の娘「アヤ子」=「司葉子」の結婚と、娘を結婚させるために、旧友3人が密かにあこがれていた未亡人「三輪秋子」=「 原節子」をも再婚させようとする、・・・・「晩春」の母親バージョンである。

3人の旧友のうちの一人、写真右の大学の先生「平山精一郎」=「北竜二」は妻を亡くし現在独身である。残りの旧友二人は、未亡人の娘を結婚させるために、(シブシブながら、)その大学の先生の後妻として、「原節子」演じる未亡人を結びつける役を立ち回ることになる。
そんな3人がバー「ルナ」で待ち合わせ、飲みながら話すシーンである。

写真左「,間宮宗一」= 「佐分利信」 と真ん中「,田口秀三」=「中村伸郎」の2人は、すでに未亡人から旧友の遺品の「パイプ」をもらっている。まだ遺品をもらっていない写真右の男、「平山精一郎」=「北竜二」=大学の先生が未亡人との縁談話の経過を聞こうとする。
未亡人は縁談を断わったのだが、旧友の2人は、最初は縁談に余り乗り気でなかった大学の先生をその気ににさせた都合上、「ダメだった」とはすぐにいえない。少し遅れてやってきた大学の先生に、先に来ていた2人が、どう切り出してよいものかを考えあぐねて、いずれも酒のつまみの自分の「ピーナッツ(南京豆)」をサービス?するのも「ばつの悪そうな仕種」とみられる、「繰り返すパイプの仕種」への伏線であろう。

縁談話の経過を聞くためにやってきた大学の先生の質問に対してする仕種が、パイプをほほに当てて、なでる・・・というものである。
生返事なので再度聴いてもまた同じ動作を繰り返すが、最初の動作そのものではなく、良く見ると、1番左にいる「佐分利信 」のパイプはもち手が変わり、左の頬をなでている。

このパイプは未亡人の縁談相手の大学の先生だけがいまだもらってなく、このパイプに頬ズリすることは、亡くなった旧友の遺品を通して、未亡人への思いを表すものであるとともに、照れ隠しと、縁談が不調に終わったことに対しての安堵感(憧れのマドンナが仲間の一人と一緒になってしまう現実からの回避)、バツの悪さ、等の心理が、良く現れていると思う。
一人だけもらえない「パイプ」という小物の意味は、縁談が不調に到った象徴だ。

複写機で有名な大手OA機器メーカーの「アペオス」のCMで、一人だけ「アペオス」を知らないのを間接的に「小ばかにする」・・・どこかのバーでのシーンがあるが、そのCMの製作者は、この「秋日和」のシーンをコピーしたであろうと思われる。
小津の映画のワンシーンは、最近のCMなどでにも影響を及ぼしている。
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by noanoa1970 | 2005-08-26 08:21 | 小津安二郎 | Comments(2)

トンカツは「ハレの日」の食べ物

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戦後10数年のこの時代、日常の食卓に「トンカツ」が登場することはほとんどなかった。
今ではランチにさえカツ丼やトンカツ定食を食べることが出来る。小生の子供のときは、誕生日、入学祝、5月の連休などごく限られた日にしか食べることが出来なかったのである。
小津の映画にはよく「とんかつ」が登場する。しかしそれは久しぶりに再会した先生と生徒、あるいは母と娘が久しぶりにそろって外食をする時などに限られるのである。

そしてこのシ-ンのように・・・・
妹の結婚相手として相応しい思っている会社の後輩に、それとなく意思を確認するシ-ンで落ち着いたトンカツ屋の2階で「とんかつ」を振舞うシーンが描写される。
振舞う方は肝心の話を切り出そうとするために、トンカツになかなか箸が出ないが、切り出される側はそうとは知らず、食欲が進みお代わりまでする。

いわば男は妹の来るべき「ハレの日」ために其れを期待しつつ、安月給であるにも拘らず、非日常的なトンカツを相手の男にご馳走したのだ、・・・・結果は芳しくないのだが・・・・

今でこそ食べたい時にすぐ食べることの出来る「トンカツ」であるが、当時は相当高価であったはずだ。昭和37年当時肉屋のコロッケは(中学校の近くの肉屋によく買いに行っていたので、記憶が鮮明なのだが、)1個5円だったがトンカツは60円~80円、お店なら100円以上したのではないかと思う。今なら2000円以上にに相当する。「佐田啓二」が食べるトンカツは、厚さが2センチほども有る立派なもの、小津もさぞトンカツが好きだったと思わせるような場面である。

トンカツは「ハレの日」の食べ物であった。
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by noanoa1970 | 2005-08-25 08:31 | 小津安二郎 | Comments(0)

ドュビッシーと英仏国歌

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ドュビッシーの誕生日は8月の22日だそうだ。小生はそのようなことまで覚えているわけではないが、いくつかのブログにそれに因んだ記述があったので聴いてみようと思った。
何を聞こうかと少し迷ったのだが、夏の夜にもってこいの「前奏曲集」を取り出した。たいていはこれを小生はBGM的に鳴らしていることが多い。プーランクは朝フォーレは夕方そして夜はラヴェルかドュビッシー・・・いずれもピアノ曲を聞くことが多い。
前から気になっていたのだが、2集には英仏2つの国歌が出てくる音楽がある。
ひとつは「ピックウイック卿礼賛」そして「花火」だ。
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「ピックウイック」になぜイギリス国歌が使われているかは、ほとんどの記述が、「チャールズ・ディケンズ」の小説からインスパイヤーされた・・・と有る。ピックウイッウとはなんであろうかと、少し突っ込んで調べると、「ピックウィック・クラブ」」(原題 THE PICKWICK PAPERS)に行き当たった。この小説はディケンズの最初の長編で、貧しいが元気なイギリスの老人たちが旅先で巻き起こすユーモアとペーソスあふれるものらしい。らしいといったのは、この長編小説いまや読み手がいないのか、とっくに廃版となっていて未読であるからだ。文庫3冊の長編であったという。
BBCがこの小節をTVドラマに仕立てたものが、DVDになったらしいので、いずれ見ることにする。・・・・・はなしを戻そう。

なぜ[ドュビッシー]←[ディケンズ]→[イギリス国歌]なのか?
ディケンズがイギリス人だからイギリス国家では余りにも能がなく「子供の領分」の「ゴリウオーグのケークウオーク」でワーグナーの「トリスタン・・・の、愛の死」をパロディったドュビッシーらしからぬことではないか?

そしてついに発見したのが「ピックウイックペーパー」の中に登場する「ビッグジョー」に関しての
以下の記述。
「1956年にBurwellらが、日中の強い眠気、心不全、呼吸アシドーシスを持った肥満の患者について報告しました。Burwellはこの患者がチャールズ・ディケンズの小説「ピックウィック・クラブ」に登場する「少年ジョー」に似ていることを思い出します。
ジョーはいつも日中眠く、赤い顔をして、太っていることからこのような症候群を「ピックウィックの症候群」と呼びました」
・・・・イギリスの初老の中産階級の・・・・例えば「チャーチル」のような風貌をパロディったのであろうか?
それにしても「無呼吸症候群」が「ピックウイック症候群」と呼ばれることにただ驚くばかりである。医者のBurwellは文才の有る読書好きの人だったらしい。

このように類推すると「’花火」の中の仏国歌は花火が消えるように遠くで鳴っているから、よく言われるように「パリ祭」にインスパイヤーされたものと考えるより、一時は華々しかったフランスの国家の衰退を象徴するものだとも考得てもいいのかもしれない。

CDはいつもは「フランソア」か「ギーゼキング」を聴く方が多いのだが、1・2集が1枚に収録されていて比較的録音が良い「アーツ」レーベルの「ジャン・ピエール・アルマンゴー」のピアノのもの。無名だがノイエ・ザッハリッヒカイト的な演奏で、ギーゼキングを新しくしたような演奏で、好感が持てる。なにより連続して1・2集が全部聞けるのがいい。しかも安価である。
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by noanoa1970 | 2005-08-24 20:25 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ここでもドアは内開き

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by noanoa1970 | 2005-08-24 13:25 | 小津安二郎 | Comments(0)