カテゴリ:徒然の音楽エッセイ( 860 )

よる年波に勝てはせず・・「浄夜」をめぐって

「クラシック招き猫」掲示板で、シェーンベルクの「浄夜」のお薦めは?という投稿があった。
小生は、「名演、名盤、を教えて」・・・という類の投稿にはレスをしないでおくことが基本的スタンスである。他人の評価を気にしてCDを購入し音楽を聞くなど、小生はマッピラご免で、他人の「感性」ほど当てにならないものもないし、まして自分でも昨日良かったのに、今日は悪い・・・なんてことはしょっちゅうであるのだから、おいそれと下手なことはいえない。

音楽を言葉で表現することは難しいことであるから、単に「名演、名盤」では、その言葉の概念も去るところながら、所詮昔から「定評ある」=「オーソライズ」されている、=えらい評論家先生のお墨付き有る・・・などという範疇に落ち着かざるを得ない。中には苦心してその理由を詳しく表現しようとする人もたまにいるのだが、やはり故人の感性の範疇に推しとどまっており、意欲を掻き立てられ、積極的参考にして購入にいたる、ということにおいての説得力に欠ける。小生など見習ってその音盤を購入する気持ちには到底なれないので会る。
自分が購入した音盤を他人がどのようにに評価しているのかが気になるのであろうか?小生にはサッパリ分からないのである。
「名盤、名演は?」という投稿は今もなお続いているようだ。

ある日「浄夜」のおすすめを、教えて」という投稿があり、しばらく返事を書き込むのを躊躇していた。
小生はこれは多くのレスがつくだろうと思い、小生の、出る幕ではないと、決めていたのだが、どういうわけか、2、3日経っても一向にレスが増えない。そしてその投稿には、自分は「この演奏を愛聴です」と、ある演奏が上げられていたのでそれなら・・・・とやおら重い腰を上げ、レスすることにした。

小生は、音盤について投稿するときには、その音盤を必ず投稿前に改めて聞くようにしている。
今回も「ブーレーズの6重奏盤」を聞いてみた。質問投稿者の方が、その音盤を愛聴していると書いていたからである。

さてそこからがこの話の本題なのだが、小生が聞いたのは、ブーレーズの6重奏版の演奏、しかしこの音盤、演奏技術、解釈、アーティキュレーションなど、どれをとっても余りにもひどく、ブーレーズらしからぬところが多々あった・・・中でもバイオリンの過度なポルタメントにはひどくガッカリさせられた・・・ので、期待を裏切る演奏として、その旨の投稿をした。
ところが後で気がついてみると、小生が聞いたものは、ブーレーズの指揮した6重奏盤でも、録音年の違う、演奏者も違うものだったことが判明した。音盤を取り出して、聴き終えてかなりの間何の躊躇もなく、「ドメーヌ-ミュージカル-アンサンブル」1967年録音として、投稿をしてしまったのだった。しかし実は、小生が聞いたのは、「インタ-・コンテンポレイヌ」との新録音であったのだ。
小生ブーレーズの「浄夜」は3種類所有しているのだが、実は投稿前に、気に入っている、古い弦楽合奏版、そしてもう一つのこれも古い6重奏盤を探したのだが、あいにくレコード棚のどこかに紛れ込んでしまい、すぐに見つけることが出来なかった。つい近くににあったCDを取り出し、聴いたはよいのだが、投稿する段になった瞬間、、「インタ-・コンテンポレイン」との音盤が「ドメーヌミュージカルアンサンブル」との音盤に化けたのである。
投稿した跡でこれに気がついたので、すぐにお詫びと訂正の投稿をしたのであったが、・・・・・・・・・・・・
その次がまたいけない、

小生のお気に入りの「浄夜」の演奏を「ブーレーズの合奏版」としなければならないのに、なぜか「バーンスタインの合奏版」と誤記してしまったものだから、すぐに愛好家の方からご指摘・・・というか「バーンスタインに浄夜の演奏が有ったことを知らなかった、録音データなど、入手できる可能性も含めて教えて欲しい」という質問があった。
データを確認するために、音盤を探さないといけないと思い、レコード棚をゆっくり探すと、それは存在した。例の「クリムト」の「接吻」のジャケットのものである。さて録音は・・・・とジャケット記載のデータを探していて、ハタと気づいた。なんと「バーンスタインの指揮」のものと思い込んでいたそれは、実は、「ブーレーズ」がニューヨークフィルのメンバーと録音したものだったのである。
いっぺんに血の気が引いた。またも大きなミスをしたまま、投稿してしまったのである。

思い込み・・・・なんといやな響きの言葉だろう、自分で気がつかない間に、思い込みの激しい人間の一種になっていたとは!!
またもお詫びの投稿をすると、その方からご丁寧な返事があり、ひとまずこころが落ち着いた。
この掲示板の参加者の皆さんはそれなりの人物が多いと以前から思っていたが、やはりそう思っていたのに間違いはなかった。

その夜、反省の意を込めて手持ちの「浄夜」を全部聞いて見ることにした。

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上が「ブーレーズ」の指揮した「ドメーヌ・ミュージカル・アンサンブル」との6重奏版・・・これはすごくいい。エヴェレスト・レーベルの1960年代のLP、フランス・ディスク大賞受賞と表記されている。
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実はこれが最もお気に入りなのだが、廃盤でCD復刻されてなく入手不可能なので、投稿を差し控えた。ゼルキンが提唱し、カザルスが、参加した・・・室内楽の音楽祭として定評の有る「マールボロ音楽祭」の録音。6重奏版で今まで小生が聞いた中では一番のお気に入り。どういうメンバーが集まって結成したか、その経緯は不明であるが、個々の演奏スキルは非常に高い。その緻密なアンサンブルと指揮者を立てない素直な演奏のよさが随所に出た、これは本当に聴いていただきたい演奏であるが、残念なことに廃盤のままである。ロマンチシズムの表現力と息の合ったハーモニーが織り成す音楽は、「ブーレーズとドメーヌ・ミュージカル・アンサンブル」の演奏を凌駕する。カップリングされたゼルキンが参加したブラームスのホルントリオもすこぶるよい演奏である。「ブルーム」が演奏するドイツ式ホルンの音が深く響く。
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ブーレーズとNYPメンバーによる合奏版。小生が気に入っている演奏。ロマンとリリシズムあふれる演奏。ブーレーズにしては珍しく感情移入激しい演奏だ。
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この録音はブーレーズらしからぬ演奏だ、何が言いたいのかサッパリ伝わってこない。素人の演奏家と思うほど技術的問題を抱えている。その割りに不必要な「ポルタメント」を多用している。なんともわけの分からない演奏である。ブーレーズの失敗作といっても良いだろう。
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若手の北欧の指揮者「サロネン」の合奏版。突き放した演奏をしようと思っているのだが、つい感情移入してしまうところもあり、全体のバランスを少し崩しかけている、ゴツゴツした演奏。
アンサンブルは巧みなのだが意志薄弱・・・今ひとつ惜しい演奏である。
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by noanoa1970 | 2005-07-22 07:00 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

コンヴィチュニーのもう一つの第9

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注文しておいたCDが一昨日届いた。かなり前のこと、「FORLANE」から4番、5番の交響曲と第9のカップリングで発売されたものを入手したのだが、音の状態が悪く、演奏のよさが伝わってこなかった。今回「ARIOSO]からの発売のものは、リマスターしたとあったので、それを期待したのだ。コンヴィチュニーにはすでに定評のある、ゲバントハウス管との全集があるが、この録音は、ライプツィヒ放送響との演奏である。
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コンヴィチュニー(指揮)、ライプツィヒ放送交響楽団
ハンネ=ローレ・クーゼ(S)、エヴァ・フライシャー(Ms)、ロルフ・アブレク(T)、ハンス・クラーマー(B)

これは・・・なんとも凄い演奏だ、全集の録音と基本的な音楽構築には変わりはないと思われるが、それよりもさらに増したアーティキュレーションがあり、、リタルランド、アッチェルランド、クレッシェンド、デクレッシェンドを散りばめて、言いたいことを全身で表現した演奏だ。リマスターの成果で、細かいニュアンスがより鮮明になり、音楽に輝きが出てきた。
ティンパニの鳴り方も、断然良い。

コンヴィチュニーは「両翼配置」=「古典的配置」=第1バイオリンと第Ⅱバイオリンを左右に配置したスタイル・・・を取る指揮者なのだが、有名なベートーヴェン全集では、レコード会社などの要求なのか、「近代配置」=第1バイオリンのとなりに第Ⅱバイオリン配置、を採用している。
しかしこのことはコンヴィチュニーの本位ではなかったのだろうと考えられる。

多くの録音が「モノラル」のため、両翼配置を好む指揮者とは思われていないようであるが、シューマンやメンデルスゾーンなどの演奏では、すこしわかりづらいが、よく聴くと両翼配置で行っているように思われる。情報によれば、1961年の日本公演時にも「両翼配置」で演奏したという。小生は、当時そのようなことなど全く無頓着な時期だったので、記憶にないが。・・・・

独唱陣もこの録音の方がハッキリしたうたい方で非常に好感が持てる。ドイツ語丸出しの歌い方だ。合唱は少人数で、男声合唱にバラツキありで少し難があるもののよく健闘しており、傷はない。

リピート部分の言い回しに大きな変化をつける。小節の終わりの音の前にアタックをつけているところが随所に見られる。・・・コンヴィチュニー節のオンパレードでこれを聴けば従来のコンヴィチュニーへの「保守的」イメージは完全に払拭されるに違いない。
なにより驚いたのが。「友よこのような音ではない」とバスが歌うところ・・・・の「音」=「テーネ」の音階である。
全集盤とは異なる歌い方をしている。これには正直驚いたが、これはこれでよいと思った。
ハンス・クラーマー(B)は実に良い歌い手である。
このリマスター盤によって、「モノラル」では有るが、小生はコンヴィチュニーの第9を、ライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団とのものより、このライプツィヒ放送交響楽団との演奏をより強く支持する。
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by noanoa1970 | 2005-07-20 07:00 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

敬愛の音楽家たち・・・F・コンヴィチュニー

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コンヴィチュニーをドイツ人だと思っている人もいると思うが、彼は「チェコ」の「モラヴィア」出身である。
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地図を見ていただければ分かることなのだが、チェコのモラヴィア地方・・・コンヴィチュニーが勉強した音楽院の有る「ブルノ」という都市から程近い「ドナウ川」を越えれば、すぐに「ウイーン」にいけるし、ウイーン経由で、「南ドイツ」の都市にもとても近い位置にある。「プラハ」からは旧東ドイツはすぐの位置だ。

コンヴィチュニーの音楽の底辺には、チェコ・モラヴィアの地の利が齎すドイツ、オーストリア、ハンガリー、などとの芸術文化的交流から来る普遍性と、民族のナショナリズムの両面を感じることがある。
「ヤナーチェク」は少し先輩で同郷の出身である。恐らくブルノ音楽院で交流があったのだと推察される。
彼の音楽の根幹に有るものは「規律の中の自由」であり、もう一歩やりすぎると羽目をはずすギリギリで押しとどめる・・・・例えばそのようなアゴーギグが随所に見られる。同時代のフルトベングラーとは、このあたりで音楽表現に一線を画す。

第9の演奏も、よく言われるような、「オーソドックス」では決してない。3楽章におけるテンポの動かし方が・・・終楽章の「アチェルランド」と「クレッシェンド」の運び方。そして何よりも、心憎いほど絶妙な「間」の取り方は何時聞いても小生には心地よい。

このコンヴィチュニーの「テンポ」は例えば、胎児がお母さんの鼓動を聞いて安心して眠るような落ち着きと、柄も言わぬ懐深い安心感を小生に与えてくれる。
「波長が合う」・・・・とは、まさにこのことなのかもしれない。そして彼の残したほとんどの録音について、そのことが言えることは、驚異的である。

コンヴィチュニーの音楽に潜む魔物を体感した人は、彼の音楽から離れられなくなり、恐らく生涯にわたり聴き続けることだろう。
残念ながら、そういう人はまれであるけど・・・・万人向けの音楽家でないから、これは致し方ないし、そしてそれで良いのである。
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SKD=シュターツ・カペレ・ドレスデンとの「英雄」は、緊張感と、安堵感の中に身を長い間おきたくなるような演奏である。音盤ではまれなことであるが、何回聞いても飽きることがない演奏でsる。・・・コンヴィチュニーの録音はそのことが非常に多いのだ。
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by noanoa1970 | 2005-07-16 07:50 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

敬愛の音楽家たち・・・F・コンヴィチュニー

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by noanoa1970 | 2005-07-15 19:11 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

新郎の父の挨拶

「結婚式の音楽」「生まれて初めての体験」では、小津監督が「彼岸花」の中で言わせた言葉を引用することを思いついた・・・ということを書いた。そして父親の挨拶でそれを使うことになったのだが、欲張りの小生、無論それだけでは物足りない。そこで、挨拶の内容と関連する物を何か加えたいと考えた。「結婚行進曲と運命」の話では座がしらけてしまうし、かといって並みのことはやりたくない。
そうだ最後に父親からのプレゼントとして何か音楽を贈ろう・・・・そう心に決めた。
やはり「生」がいいかと思い,ひそかにギターの練習をしてみたが、他人に聞かせるほど上達しない。
そこで仕方なく音盤に登場願うことにした。
挨拶の時間は、何回も推敲し縮めて約5分・・・・これでも長いと司会者に言われたので、もっと短くしてくれと息子が意ってきたが小生はそれをガンとしてはねつけ、さらに「取って置きの音楽を流す」から、合計10分くれと、強行に言った。

すると、そんな「長い父親の挨拶は、いまだかって経験したことがなく、来客に迷惑になるからおやめなさい」・・・・というようなことを息子を通じて言ってきた。

小生は再度これを突っぱね、結局7分いただけることで歩み寄った。
さて何を流しても長くなるのは目に見えていたが、少し拘りをもって選曲にかかった。

2・3分の曲・・やはりクラシックは無理、アレコレ考えてその曲の中の「歌詞」が昔から気に入っていたものを引っ張り出した。

それは「加川 良」という男が1970年のはじめごろ歌っていた曲で題名を「流行歌」という。
当時の流行歌の音楽シーンは「愛だ」「恋だ」「好きだ嫌いだ」「失恋だ」「悲しいだ」そんなものが反乱している時代だった。・・・もちろんそれは今でも連綿と続いているのだが・・・・
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加川良の歌は、アンチ「流行歌」とでもいうような内容で、その歌詞に実存的なものを当時感じていてとても好きであった。
「流行歌」はアルバム「ヤァー」と「HOBOS」コンサートの中に収めれれている。使用したのはコンサートライヴのほうである。

最後のフレーズ・・・「君は君のことが好きでありますように・・・僕は僕のことが好きでありますように・・・・」そうなのです自分が好きになれない人間は他人を絶対好きになれないのです。
間奏から流し、2分でギリギリ収録することが出来やっとこの曲、結婚する若者に送る曲となったわけである。

加川自身もこの曲をコンサート会場などのお客さんにおめでたいこと・・・誕生日、結婚などがあると良く歌っていた、ということを何かで読んだことがあるから、まんざら、お門違いでもなかろう。

出席していただいたお客様の中に、d0063263_1804042.jpg加川良、ましてこの曲を知っている人はいないと確信していたが、お客様見送りのとき、見知らぬご夫妻=新婦の親戚だろう・・・から「感激でした、良さん大好きです、それにおかけになった曲の歌詞・・・その通りだと思います」・・・と、思いがけない反応があった。世の中そう捨てたものじゃないと改めて感じ入った次第であった。右上は「下宿屋」が収録されている「親愛なるQに捧ぐ」
録音のときのマグテープをジャケットデザインに使用している。

当の新郎新婦にはあまり受けなかったようなので、目論見は「失敗」ということでしたが・・・・
その時のことを思い出してくれる日がいずれ来ることを信じてやまないのである。
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by noanoa1970 | 2005-06-12 09:34 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ボレロ

ボレロの小太鼓のリズムパターンを「モールス信号」で読み解くと、「この曲はつまらなく演奏してくれ」というメッセージになる。・・・・・というのは、もちろん「真っ赤な嘘」
小生このような実験をひそかに行ったことがあるのだが、苦労した挙句何にも引っかかってこなくて、思わず、「いったい俺は何をやっているんだ」と自身に苦笑したことがある。

ボレロの機械的リズムの上に支えられ、、だんだんクレッシェンドしていくという、単純であるが、いまだかって誰もやったことのない手法の斬新さと、音楽性に激しく心を動かされ、中学生時代に音楽の時間に聞かされた時のものとは、全く違う思いを持つにいたったのである。この曲を演奏者をとっかえ引返してどれほど聴いたことだろう。

モントゥ、アンセルメ、ミュンシュ、クリュイタンス、デルヴォー、に始まり、ロザンタール、プレートル、カラヤン、ブーレーズなど並み居る指揮者たちの解釈を沢山聴いてきた。写真はお気に入りのロザンタールのもの6枚組みの全集となって発売された。d0063263_18215345.jpg

そして最近になって・・・・この曲は何かを製造するときの、その工程を表現しているのでは?・・・と、ふと思ったのであった。それはなんだか、手工業から少し規模の大きめの生産ラインのようなものによって製品が出来上がっていくような気分を味わうことが多かったからである。

TV CMでこの曲が多く使用されるのもなんとなく分かる気がしている。
活力増進の薬品、人口髪の毛、、化粧品、車、デジカメなどなどのCMに使われているのを聴いたことがある人は多いはずだ。

調べてみると、ラヴェルはストラヴインスキーによって「スイスの時計職人」と揶揄されたこと、父親がエンジニアでその影響を少なからず受けたであろうこと。
友人とオランダ・ドイツをめぐる船旅に出たラヴェルは、自然の眺めなんかよりも、ライン川沿いの工業地帯の圧倒的な光景に感動して「ああ、この僕たちを取りまく、城のような形をして流れてくる鉄や火の大伽藍、そしてベルトコンベアや汽笛や凄まじいハンマーの音がつくりだす驚くべき交響曲をどうやって君に語ることができるだろうか!」・・・・・
という内容の手紙を書いたという話があるそうで、こうしたラヴェルの人工美礼賛は、彼の生活した住居にも現れているとのことらしいのである。

パリの万博、そしてアール・ヌーヴォーd0063263_11445926.jpg博覧会から影響を受けたと思われるラヴェル、工芸の時代は、ヌーヴォーからデコへと移っていく、ルネ・ラリックはヌーヴォーからデコへの移り変わりを自らの作品の変遷によって示すことのできる数少ないガラス工芸作家である。

琵琶湖の東に、長浜といという町がありそこにラリック専門の私設美術館d0063263_11334860.jpg「成田美術館」がある。そこに行って作品の変遷を見るとその辺りが良く分かる。d0063263_11341383.jpg
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写真左はアール・ヌーヴォー時代の作品、右はアール・デコ、ヌーヴォーがいかにも手工芸の
良さである手作りの雰囲気を残し、手作業でしか表現不可能な複雑な曲線を使っているのに対してデコは大量生産可能なように、単純なデザインに変化している。
d0063263_18104376.jpgボレロの楽譜を見るとまさしくアール・デコ工芸のお手本といったような感じを受けてしまう。直線と曲線が絶え間ないサイクルをかもし出しているようだ。
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by noanoa1970 | 2005-06-11 11:36 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

「時計仕掛けのオレンジ」の中の音楽・・・新発見

学生時代に京都で見たキューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」のDVDが安価に発売されていたので入手してみた。当時はなんだかわけが分からなかった内容であったが、繰り返し見るうちに、「なるほど」・・・・と思えるようになった。
 内容は少しおいておくことにして、今回新たに発見したことがあった。d0063263_8271342.jpg
最初の暴力シーン・・・「悪る」のグループが、人気のない薄暗い路地裏で、酒に酔いつぶれている・・・恐らく「哀れな放浪者」風の設定の老人・・・に、殴る蹴るの乱暴を働くシーンがある。
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暴力を受ける直前にその老人が口ずさんでいたのが、「モリー・マローン」・・・アイルランドのオールドバラッドである。老人がアイルランドからの移民であることは、ほぼ間違いないと思う。
落ちぶれてHOBOとなってしまったのだろう。そして故郷をしのんでこの歌を口ずさんでいたのだろう。

小生は知らなかったのだが、今ではサッカーやラグビーの応援歌としても使われているようだ。小生がこの曲を知ったのは、今から40年以上前のこと・・・・そのころ「アラモ」というすごい映画が上陸、ジョン・ウエイン、リチャード。ウイドマークの出演するこの映画は、仲間の間で評判となり、学校ではその話題で持ちきりのときがあった。
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小生は学校が終わってから友達と二人で始めての夜間外出、70mm映画体験をし、その迫力にしばし圧倒されたのでした。映画の中で流れた音楽が耳から離れずにいたので、早速近所のレコード屋に走ったのですが、しかしオリジナルサウンドトラック盤は売り切れで、仕方なく「フェアマウント・シンガーズ」というグループが歌っているドーナッツ盤を買うことにした。

「モリー・マローン」はこのB面に入っていた曲で、日本語のタイトルは「悲しきむらさき貝」と書かれてあった。
In Dublin city where the girls they are so prety,
'Twas there I first met with sweet Molly Malone!・・・・と始まる曲は、不思議なことに英語の歌詞とともにいまだに記憶にある。意味は分からなかったが、「sweet Molly Malone」にいたるメロディは異国の郷愁を誘い何か悲しげなように聞こえていた記憶があう。そしてまた、最後の部分のAlive alive o!は単純に何かの陰鬱な叫びだとばかり思っていたのであった。

むらさき貝とは「ムール貝」のことであることを知るのに、何十年ついやしたことだろう。

ダブリンの街をで貝を売り歩く美少女・・・彼女はある日熱病で死んでしまう、しかし人々は今でも貝を売り歩く彼女の亡霊を見るのだ・・・・
亡霊や幽霊、精霊などが登場する話は。、アイルランド、スコットランドのオールドバラッドに良く歌われている。ミック・ジャガーやザ・バンドなどによって歌われた。「LONG BLACK VAIL]・・・・墓の中の恋人に夜な夜な会いに行く、黒いヴェールをした女性の話などは、その典型である。
さて話を「時計仕掛けのオレンジ」に戻すとしよう。

キューブリックは無類の音楽好きである。この作品でも「第9」、「ロッシーニ」、「パーセル」、「神の怒りの日」、「雨に唄えば」の音楽が、効果的にある種の意味合いを持って使われている。
また2001年・・・・では、R及びY・シュトラウスが、・・・シューベルトの2番のピアノトリオ、チーフ・タンズのオリジナル曲が「バリー・リンドン」で・・・・枚挙に暇がないほどである。

小生はこの「老人」に対しての暴力シーンを見たとき・・・・キューブリックはアイリッシュである、あるいはその血が流れているに違いないと思った。
そしてそれは「バリー・リンドン」d0063263_108945.jpgを見て確信に近いものとなったのである。(しかしどのような文献においてもそのことは書かれていない、むしろバリー・リンドンの撮影中に、なぜかIRAの影に怯えたことがある・・という話があるそうなので、やはりイギリス人なのかもしれない、キューブリック=クーベリックならユダヤ系である可能性も高いが事実は闇の中である)

キューブリックは「アラモ」に大変な思い入れがあったのだろうことは容易に推測可能だ、。アラモとアイルランドはとても関係が深く、監督=主演のジョン・ウエインがアイリッシュであり、作中の、ジム・ボウイ、デビー・クロケットもアイリッシュ・・・そう、アラモ砦で戦った義勇兵の中には、アイルランドからの移民が少なからずいたからである。
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by noanoa1970 | 2005-06-10 16:21 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

クラシック音楽への目覚め

小生はDRACの「日本音楽G」に入部したのだが、当時好きな音楽はやはりベートーヴェン、シューベルト、ドヴォルザークであった。
中学生になって我が家に初めて「ステレオ」なるものがやってきた。その当時家庭用「ステレオ」装置はコロムビアとビクターが2大勢力を占めていて、マニアックな山水、パイオニオア、トリオというハイグレードな装置を持っている家庭はほんとに少なかった。
真空管のアンプが組み込まれた一体型ステレオで最新の「エコー」という残響を施す技術が搭載された、ビクターのものを購入してもらった。
ステレオ盤が2800円モノラルでも2300円、おいそれと買えなかったので、ステレオ付属のテストレコードを飽きるほど聴いていた。

d0063263_15384270.jpg程なくコロムビアから「世界名曲大全集」という50枚組みのセットが出た。1枚1000円という廉価であったことと、知り合いに頼んで割引してもらったこともあってか急に父親が購入した。

今では50枚あったものが10枚前後しか手元にない。長い年月の間に方々に飛散してしまい。実家においてあったものは処分されてしまった。

その中には今となっては貴重であるモニーク・ド・ラ・ブルッショルリ/パウルムガルトナー/モーツァルティウム管のモーツァルトPコン20番、23番、F・コンヴィチュニーの4番、5番、6番のベートーヴェンの交響曲のモノ盤(当時はLGOと表示されていたが、小生は、ライプチッヒ放送管の録音であると思うようになった)

オイゲン・ヨッフムの兄G・ルートヴィッヒ・ヨッフムの貴重な録音、珍しいデルヴォー/ハンブルグ響の仏近代物、アルテュール・ローターの第9、レオポルド・ルートヴィッヒのチャイコフスキーなどなど・・・・・レア物と呼んでも良いような録音が数多くあった。

これはコロムビアがオイロディスクやスプラフォン音源と契約していたことがなせる業であったのだろう。

小生はこの全集でバロックから近代までの有名曲を知り、口ずさむことができるまでそれを聴きまくった。
F・コンヴィチュニーの来日はそんな1961年春のことで、名古屋市公会堂で4番、5番の公演を聴くことが出来た。しかしそのときは全くよさもわからず退屈な印象であった。
ただ生の音響の圧倒的な音だけが心に残っているばかりである。
コンヴィチュニーを聞くのには余りにも若すぎたのであう。

1962年コンヴィチュニーはチェコの公演中に倒れ、帰らぬ人となったのだから、日本人にとっては、最初で最後の演奏会だったわけである。
かくしてコンヴィチュニーの名前とその演奏は、全集の中に入っていたベートーヴェンの4,5,6番とバンベルク響との「新世界」それにVSOとの「ジークフリート牧歌」によって色濃く刷り込まれたのである。
下のLPジャケットはコンヴィチュニーの「新世界」でエテルナ原盤とコロムビアからの国内版である。

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すごいと思った録音は、ローターの第9の余白に入っていた、イシュトヴァーン・ケルテッシュ(ケルテスでなく当時はそう呼ばれていた)とバンベルク響の「エグモント、レオノーレの序曲、この演奏はすごい・・・と当時から思っていた。まだケルテス30台後半のときで、一連のドヴォルザークの全集がDECCAから出るはるか前のこと。
下のLPジャケットは、全集のコンヴィチュニー/バンベルク響の「新世界」そしてVSOとの「ジークフリート牧歌」である。
このLPの溝が怪しくなってきたので上の2枚を購入した。
d0063263_21173525.jpg残念なことに「新世界」は一度CD化されたきり、その後の再発はいまだかってない。
間違ったコンヴィチュニーの音楽イメージを払拭できるのは、この「新世界」とシューベルトの「グレイト」、そしてブラームスの「1番の交響曲」と、ブルックナーの7,8,9番だ。

ベートーヴェン全集だけで彼を判断すると彼の一面しか見ていないことになるはずである。
例えば「エロイカ」でもLGOとの物とドレスデン、シュターツ・カペレのものではまったく音魂に異質なものを感じる。
どうやら彼はもちろん出来、不出来はあるが、「ライヴ」で底力を発揮するタイプであるとたぶんに思うのである。。
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by noanoa1970 | 2005-06-10 12:45 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

生まれて初めての体験

この1月に息子が結婚した。それらしい雰囲気が強くなってきたある日、最後に新郎の父の挨拶という厄介ものがあることを知った。
さー困ったことになったと思う半面、いや小生は現役時代にはプレゼンテーションをいくつもやってきたんだから、ぜんぜん平気さ・・・という気持ちが同居した。

とはいっても話す内容を考えねばなるまいと思い、やおらPCの前に座るも、考えれば考えるほどアイディアが出てこない。ごく一般的な挨拶だけはどうしても避けたい要求に駆られていた。

書いては消し書いては消ししているうちに疲れたので、生誕100年を記念して大々的にその作品が取り上げられ、リモコンと格闘し、必死に録画した「小津安二郎」作品から、先日半分見たままの続きをと思い「彼岸花」を見ることにした。

彼の作品の根幹に流れるものは、昭和初期から中期にかけての「家族」の姿を、息子や娘の「結婚」という視座で捉えつつ、「東京物語」では高度成長期に差し掛かろうとしている日本の家族がだんだん核家族化して行き、そのせいで親子の間に不条理な亀裂が生じてくること、やさしさや愛情は肉親からという幻想を打ち壊しながらも、戦死した息子の嫁の、義理の父母に対する愛情によって救済される。・・・という内容である。

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さて「彼岸花」は、娘の結婚を心配してあれこれ手を尽くそうとしている親に内緒で、交際していたことが発覚、父親は激怒、知り合いの娘には「結婚は真鍮のようなもの」「はじめから金を目指さなくても良い」なんて、さも分かった風に説教するのだが、こと自分の娘となると話が違う。
本音と建前が違う典型的な親の姿を演出している。

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ストーリーの展開は少しおいておくが、小生はこの父親役の佐分利信が、結婚の相談をしに来た知り合いの娘役である山本富士子に言った言葉
「真鍮の結婚でよい」「あとは夫婦力をあわせ真鍮から金を目指せ」・・・・
この言葉がなんだかとても心に残ったので、そうだこの言葉をスピーチに引用しようとすぐに心に決めた。

真鍮というのは「銅」と「亜鉛」の「合金」で6対4がその絶対比率、どちらが弱くても強くても良い真鍮とならないことなどを知り、これを使おう、しかも小生の好きな小津監督が言わせた言葉なのだから、これに勝るものはない.

かくして挨拶スピーチの内容はほとんど決まったのだが、それだけでは能がない。
ある工夫をするのだがその話はまたいずれ・・・・・
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by noanoa1970 | 2005-06-09 12:30 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

結婚式の音楽

d0063263_8272424.jpg結婚式披露宴のBGMにと、息子が帰宅し小生の音楽部屋でCDを漁りダビングし始めた。
何でもクラシック音楽をメインとして、ところどころにポイントとなるような今風な曲を挿入するらしい。
口を出そうかと思っていたが、しばらく様子を見ることにした。

小生はかなり前から面白いことに気づいていたので、こんな質問をしてみた。
「メンデルスゾーンかワーグナーの結婚行進曲は流れるのかね・・・・」と
・・・どこでも流れる音楽だからあえて流さないよ・・・・と息子

イーグルスの「デスペラード」はある・・・と息子
あるけど「無法者」というその意味を知っているのかい?と小生

それもまたいいだろうと内心思いながら、あることを思っていた。

ベートーーヴェンの5番の交響曲は「運命」と呼ばれている。またこの最初のフレーズは、クラシックが嫌いであろうと、老若男女、古今東西を問わず知らない人はいないほど有名だ。
「ミミミドー・レレレシー」の「ミミミドー」の部分・・・この音の塊=音型を「運命の動機」というらしい。ベートーヴェンが巧みに用いて質実ともに有名になったその音型は、恐らく遠い昔から・・・例えばグレゴリアンチャント、いやそれ以前から存在しており、何らかの意味合いがあったものであろうと小生は思っている。d0063263_8275649.jpg

この音型は思いつくだけでも、ブラームス、ショパン、チャイコフスキー、マーラー、そして、メン「デルスゾーン、ワーグナーが好んで用いている。
ベートーヴェン自身も、ピアノソナタ「熱情」において全篇この「運命の動機」で構成している。

メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」の中の「結婚行進曲」の冒頭・・・金管のファンファーレは何を隠そう、まさしくこの「運命の動機」そのものなのだ。

そしてなんとワーグナーの「ローエングリン」の中の結婚行進曲の冒頭もまた然りなのである。
ベートーヴェンもメンデルスゾーンもそしてワーグナーもこのフレーズを2回繰り返し印象付けているのだ。

このことにある日気づいた小生、大発見とばかりにしばし音楽学者気分に浸ったものである。
果たして「結婚」は「運命」なのか?
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by noanoa1970 | 2005-06-08 10:29 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)