「ほっ」と。キャンペーン

カテゴリ:徒然の音楽エッセイ( 857 )

プロコフィエフと越後獅子

d0063263_2175821.jpg

バイロン・ジャニスでプロコフィエフの3番の協奏曲を聴いている。
この曲はスカッとするので憂鬱な時にはもってこい。
さてこの曲の3楽章には昔から日本の「越後獅子」が引用されているという解説が多い。
プロコフィエフが日本に滞在した時耳にしたのだとされる。
アルゲリッチの動画で問題の個所をピックアップしてみると以下のところ、3楽章が始まると同時に其れらしきメロディーが聴こえてくる。
https://youtu.be/6Xayz4dZ9tU?t=48s
それでは「越後獅子」はどうだろうか以下の個所を聞いてみてください。
https://youtu.be/xQ7Qo77cSYA?t=2m12s
どうでしょう引用したように聞こえたでしょうか。
民謡を引用するのが得意なプロコフィエフですから事実の可能性は大と思います。
弦楽四重奏2番mの説明にウイキによればプロコフィエフは、カバルダ民謡の主題を作品中に用いたが、それと同時に独特な和声付けの様式を維持している。とあり協奏曲でもプロコフィエフのリズムと和声がシナジーを造っている。

by noanoa1970 | 2015-04-03 21:07 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ブリコラージュの作曲家「アイヴス」

民謡を引用した作曲家は結構多い。
古くはベートーヴェン、ブラームス、ドヴォルザーク、チャイコフスキーを始めとし新古典派やロマン派の作曲家
後期ロマン派ではマーラー、近代音楽でもバルトークは知られた人だ。
あまり知られてないかもしれないがドビュッシーも其の一人といってよいだろう。
これら以外にももっと多くの作曲家の作品があり枚挙にいとまがないほど。
アメリカの近現代の作曲家アイヴスも其の一人。
アイヴスは熱心には聴いてこなかった作曲家の一人だが、有るとき交響曲の2番を聴いて、まるで引用の伝道師のような曲風に「なにっ」と思ったことが有った。
1つや2つ引用することはあっても、アイヴスのように引用だらけの作品にはお目にかかったことがないから、いったいこの作曲家は何を考えて曲作りをしたのかと不思議に思う事しばし。
そしてこれかもしれないと気付いたのは、骨董の世界で貼り合わせ繫ぎ合わせる美術手法の「呼継」、すなわち壊れた陶磁器を復元(単に復元ではない)するのに全く違う種類のものをもってきて完成させる技、ブリコラージュといってもよいかもしれない手法のことだ。
異質の材料を使って作品を仕上げるのだが、元の作品よりも芸術性が高くなるのは非常にまれなことだろう。
3番には宗教的な香りがするフレーズの引用が有るとおもったら、タイトルの「キャンプミーティング」とはキリスト教伝道の集会の事だったので納得してしまった。
d0063263_14362054.jpg

by noanoa1970 | 2015-04-03 14:37 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

オークレールのチャイコフスキー

ヴァイオリンのオルレアンの少女、ミシェルオークレール。
「気は優しくて力持ち」という表現は恐らく女性には使わないと思うのだが、久々にすばらしいチャイコフスキーを聴いた。
クルト・ウエスという指揮者の名前も昔懐かしい。
ウイーン交響楽団との演奏。
発売元のMASTER SEAL RECORDSについては情報に乏しい。
d0063263_2104858.jpg

by noanoa1970 | 2015-04-02 21:01 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

収納BOX

LP用の収納箱を整理。
d0063263_2037389.jpg

d0063263_20363593.jpg

d0063263_2036335.jpg

by noanoa1970 | 2015-04-02 20:38 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

センターラベルいろいろ

古いレコードノセンターラベル
d0063263_20285657.jpg

d0063263_2028502.jpg

d0063263_20284317.jpg

d0063263_20283534.jpg

d0063263_20282811.jpg

d0063263_20275878.jpg

d0063263_20274833.jpg

by noanoa1970 | 2015-04-02 20:30 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ワルターはいい

LPでワルターのモーツァルトとマーラーを聴く。
ニューヨークフィルとの演奏は素晴らしいの一言。
d0063263_20223489.jpg

d0063263_20202183.jpg

by noanoa1970 | 2015-04-02 20:25 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ケンプのリスト

ケンプでは珍しいリストの協奏曲。
ケンプってこんな弾き方もできるんだと、目から鱗の演奏。
知らなかったのは小生だけかも。
いつも言うけどDECCAの録音技術は非常に高いものがある。
d0063263_201759100.jpg

by noanoa1970 | 2015-03-31 20:15 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

カラヤンの惑星

今朝は清々しい春の気分。
スカッとした音楽をとホルストの「惑星」をカラヤン/VOPで。
米ロンドン盤だが音質は国内盤のロンドンとほぼ同じ。
米ロンドンはは、イギリスDECCAプレスの音盤を輸入し、米国でジャケットに入れたと言うし、日本盤はマスターをそのまま使用したというから他のレーベルに比べると音質がよいはずだ。ここにDECCAの音盤の音質の良さの秘密があるらしい。
惑星の優秀番数あれど小生はこの音盤を好んで聴いてきた。
評価の高いボールトの録音もあるけれど、やはり録音が優秀でないと。
カラヤンのDECCA時代の音源はいずれも優秀だ。
d0063263_20133018.jpg

d0063263_20132060.jpg

by noanoa1970 | 2015-03-30 20:13 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ラヴェルのボレロの凄さとは。

d0063263_20281954.jpg

ボレロについてはいろいろ書いたことが有るが、つい先日ポール・パレーのマーキュリー復刻録音を聴いて、ここにあるのではないかという結論めいたものに達することとなった。

そのことは録音されたものを再生することで分かったのか、それとも生演奏だともっとわかるのかは知らない。
小生の場合、ポールパレーの録音を再生した時に新たに確認できたことであった。

第9曲目出特徴的なのはホルンのほかに、「ピッコロ」「チェレスタ」が登場し両者が調整の違う音を奏でるににもかかわらず、なぜか妙に調和していることだ。

もちろん演奏によって、たとえばブーレーズ盤ではお互いが分離独立したままの音楽になっているが、パレー盤ではそうではなく、ホルンも併せ三位一体となった和声を作ってる。
このことが録音技術因果関係があるのか、演奏がなせる技なのか、そのほかの要素なのかはわからない。
しかし小生が過去に何度も聞いた音盤の中で、この音盤によって思いを新たにしたことはまちがいのないことである。

ここでチェレスタが使われてることを知ったのは、2000年の、まだ掲示板華やかなりしころ、妙な音の響きが聴こえてきたので質問すると、すぐにHN「熊蔵」さんから「セレスタ」と回答があった。

セレスタって何だろうと考えて、ようやくチェレスタの仏語読みだとわかったという経験があり、そのころからこの箇所の音の混じり方が尋常ではないことに気がついてはいたのだった。

恐らく今ならこの箇所について書いた著述が有ることは容易に推測可能だし、音楽研究者にとっては結構なネタであると思う。
がしかし、そのような類の書物を呼んでから聞いたわけではなく、自分の耳が不自然の自然、混じり合えるはずのない調性の見事な・・・モアレにも似た響きの交わりを聴くと、ラヴェルは意識的にこのような手法をとったと、確信できてしまう。

しかも音楽理論や作曲技法優先ではなく、感性そのものからの発想に違いない・・・・そういうことを思わせてくれるほど、そしてそのことはその後の前衛音楽、表現主義的音楽、と比較しても勝るとも、劣ることはない。

音楽理論や音楽思想とはあまり関係のない世界であることもシンパシーを、感じられる所以だ。
ピッコロとチェレスタは平行調、すなわち反対側の道路を歩く、小津安二郎「晩春」の父と娘のように、どこまで行っても交わることがなく、当然その接点もない。
がしかし、耳にはそう聞こえなくて、織物同士が重なるときにおこる「モアレ」のように美しく響くのだから恐れ入ってしまうのは、小津安二郎「晩春」の最後の場面での父と娘のようにである。

ただし経験的には、どの指揮者演奏でもそれがわかるのではなく、小生の場合はポール・パレーによって強く気が付かされたという事になる。

録音されたもの、すなわち音盤の良さはそういうことを何度も聞いて確認できることだろう。
そういった音楽的な気づき体験は、小生の場合音盤を繰り返し聞いたことによるもの、あるいは同じ曲の違う演奏を聴いてみて体感したことばかりだ。

確かに演奏技術や生演奏の実況的なレポートなども、役には立つが、その楽曲に深く切り込んだり、いつもと違って聞こえるのはなぜかなどという点に立てば、上記のようなことが発見できるチャンスは、広がるのだろう。

演奏会で感動したというのも悪くはないし、それはなぜかという事には少々乏しくてもよいような気はするがしかし、感動の要因をみうから探る必要があるのだと小生は思っている。

「行列してようやく食べることができたラーメン」のような批評や感想は頂けない。
しかしそのほうが、やろうと思えば追体験可能だからまだましである。

今ではそのことについての音楽研究所も出ていると聞くが、最初の疑問が今から約45年前の事、ベト9・・・4楽章のバリトンの歌い方の違いが何故かという事であったことを付け加えておきたいと思います。
その昔ならば第9は、2枚組ばかりだったのでそうやすやすと買えるものではなかったが、カラヤン盤が1枚で出た時に、其れまで聞いていたコンヴィチュニー盤と違うので、なぜかと思ったことにある。

by noanoa1970 | 2013-06-17 20:35 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

知られざる演奏家のチャイコフスキー5番

最近でこそこの人の名前を知ってる方も少しは増えたようだが、1960年代初期に熱心な音楽愛好家であった人意外はその名前は知らないといってよいだろう。
小生も偶然クラシック全集にソの名前があったので知ったのだが、どうせ三流の指揮者だと勝手に思っていた。トスカニーニ、ワルター、フルヴェン、カラヤン、追ってライナー、セル、ベームの時代だったからそれ以外はみな三流なのだ。
その中には最も気に入っている指揮者コンヴィチュニーのベートーヴェンもあった。

さてチャイコフスキーの作品は、熱愛者とそうでない人に二分されるようだ。
学生時代の音楽サークルでは、毛嫌いする人間とそうでない人間がいた。
その理由は恐らく、どの曲を聴いても、聞く人に媚びを売るかのような甘い旋律と、見せかけの威勢良さなんだろうと思うことがある。

ベートーヴェンの5番と比べるのは無理があるが、同じ「動機」を使っているから、それは比較される運命にあるのだろう。

今日は、ふだんあまり聴かないが、超有名なチャイコフスキーの5番の交響曲を選択した。
誰の演奏でも良かったのだが、生まれて初めて全曲を聞くことになった演奏をチョイスしてみた。

d0063263_1911680.jpg
大昔LPで聴いていたものが、近年CD復刻されたものだが、この指揮者の名は殆ど知られてない。
録音データがその昔は全くなかったが、復刻されたものは、かなり多くの情報が記載された。
レオポルド・ルートヴィヒ指揮、ハンブルク国立フィルハーモニー管弦楽団
録音:1960年ハンブルク・クルトゥアラウム
原盤はオイロディスクで、60年にしては多くないステレオ録音である。

5番の交響曲(チャイ5)には、名演と言われるものが多数存在し、歴代の指揮者でこの曲を振ってない人はいないぐらいで、かのフルトヴェングラーでさえ降っているし、ストコフスキー、ムラヴィンスキー、カラヤンにいたってはかなりの数の録音を残している。
従って全ての録音を収集するのは困難なぐらいである。
多分視聴者受けするのだろうことは、推測可能だし指揮者による、あるいは同じ指揮者でも違う表情を見せることができる曲だからなのか、マニアックな好事家の中に、チャイ5ばかり収集している人もWEBで見かける。

小生のようなひねくれ者は、いつでも入手できそうな、いわゆる名演と呼ばれるものは避けたくなるのがいつものこと。

チャイ5は、フランツ・コンヴィチュニーを主に、レオポルド・ルートビッヒで聴いてきた。
「運命の動機」で始まり、その動機はいたるところで姿形を換えて登場するから、ベートーヴェンの5番の演奏のように色付けなどは不必要、甘ったるい感傷などもってのほか・・・いや、そう言う演奏はゴメンだといったほうが正しいかもしれないから、二人の演奏は満足度が高い。

幸いチャイ5は、早い時期に数少なくして自分好みの演奏にあたったから、何十種類も在庫を持つ必要がなかった、そういう意味でラッキーであったし、そもそもそんなに好きな曲でもないから、これで満足していると言ったほうが良いのだろう。

偶然だろうが、小生好みのチャイ5の演奏、コンヴィチュニーとルートビッヒには類稀な共通点があることが解って驚いてしまった。
それは、生まれがほぼ同じであり、両者ともモラヴィア出身、歌劇場で叩き上げた指揮者であり、職人気質な芸風であること、活躍の割に残された音源が少ないことなどだ。
さらに何れも目立つような指揮ぶりではないが、曲全体の構成から隅々を見ていくといった手法が類似していること、演奏することに対する意志の強さが伝わってくること。
逆に言えば、派手さがなく大向こうを唸らせるような大見得などは無い。
アゴーギグはここぞに絞り込み、ゆっくりめのインテンポで指揮をすることが多い。

コンヴィチュニーは、出来不出来が有る指揮者だが、特にライブでの、出来が良い時の演奏は、他者を寄せ付けない気迫と集中力・・・音魂がある。
一方ルートビッヒは、ブラ1、チャイ6、ベト9でも、実に堅固で乱れのない着実な演奏を残した。

彼らへのオケの信頼度が伝わってくるようだが、コンヴィチュニーが私生活においても、団員と交流が多かったという以外の情報はない。

寝聴きしていたのだが、これでは失礼とばかり、起き上がって再度聞くことにした。
チャイコフスキーの音楽上の弱点、泣き節といつまでも続く未練、浅ましさと弱さ、それをおい隠すような強がりの咆哮に辟易している人は、コンヴィチュニーとルートビッヒ盤は良い回復剤になるに違いない。
特にルートビッヒ盤は、ステレオ録音リマスター処理でかなり良い音質だ。

この音盤には、トーマス・シャーマンと言うアメリカの若手指揮者の「イタリア奇想曲」がカップリングされている。
面白い試みは感じられるが、これといった評価のつけにくい演奏で、オケに多くを救われたような演奏である。
ただでさえそう見えることが多いチャイコフスキーを、特価の見切り商品のように安っぽくしてしまった。
同じオケでも、指揮者によって出る極端な違いが面白い。
ハンブルク国立フィルハーモニー管弦楽団の腕前は素晴らしく、ルートビッヒとの集中度は最初から最後まで途切れない。

大げさな表現になるが、50年代中後半から60年代初期の演奏家は、いずれも全身全霊をかけているというような録音が多いのはなぜだろうか。
多分そういう録音しか世に出さなかったという一種の良質なフィルター機能が働いていたのだろう。

近年の大物指揮者のどれもが、名ばかりの評価の割に、音楽の中に意思が見られないのはなぜだろう。
贅沢に甘んじているからなのか、演奏家もサラリーマン化してしまった・・・そんなことはないと思うが。
何でもかんでもCD化して発売するわけだから良作も駄作もあって当然といえば当然なのだろう。

演奏することの意味合いが変化してきたのだろうか。
実の力とは関係なく、マスコミなどの持ち上げ方で、マエストロやヴィルトゥオーソが誕生してしまい、評論する側の権威や力も弱体化したせいなのか。
聴取側に目利きが少なくなったからなのか。
クラシック音楽に求めるものが大きく変化したせいなのか。

「売れること」前提だから、しかたがないとは思うが、それならばそれで大衆芸能と同じになると良いが、決してそうはならないのがクラシック音楽。

3分程度の曲を聞くのに慣れてしまった耳には長すぎるし、器楽演奏が多く、歌曲があっても外国語だからなにを言ってるかわからないのも、それを助長するのだろう。

fbをやっているが、昔は聴取側は、ジャンル分けの中に存在していた、・・・俺はJAZZしか聴かない、とかロック命という具合だったのが、最近はジャンルを問わない聴取者が多くなったのか、音楽の垣根が壊れ、耳もそれに馴染んだのか、広く浅く音楽を摂取する人や、時代の先端を走っているように見える人物の影響で、彼らが日常聞いたというものや、文章にしたものを自分も聞こうとする追従体験者が増えたように思うことがある。

ほとんどがWEBで、その音楽のエキスを瞬間的に見聞きできるから、それで満足しているのかもしれない。
しかし同じ曲を聞けば、情報を与えてくれた人と同じ音楽体験が出来たと錯覚している人間が多いように思う。

音楽には聴き方というものがあるのは確かだが、それは誰かから教わって身につくものでなく、自分自身で身につけるものだから。毎日の自然の訓練を続けると耳が開けたような瞬間が数多く発見できる。

イケメンピアニストや美形女流ヴァイオリニストがやたら目立つこのごろであるが、目立ち方が質素な中にも素晴らしい演奏を聞かせる人もある。

コンサートでも音盤でも、こうなると当りくじのような様相を帯びる。
当り・・・の演奏録音はそうすやすと手には入らなくなった。

生であれば其れが無いかといえば同様に存在するのではないだろうか。
CDの評価などを見ることがあるが、どうしても大手CDショップの影響下にあることが多いようだ。
影響下といったのは選択肢のことで、直ぐに廃盤そして復刻をくり返し中には廃盤のままのものも多い。

そういう中でヴィンテージ復刻とされるシリーズは小生には非常にありがたいもの。
「塔」というニックネームの大手ショップは自社で復刻発売しているが、そういう中に優れた演奏録音は多い。

レオポルド・ルートビッヒもその中の1人で、チャイコは5.6番、そしてベト9も世界初出である。
売れるか売れないかは大きな課題であるのは承知であるが、これらの企画を今後も続けていただきたい。

by noanoa1970 | 2013-06-12 19:02 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)