カテゴリ:歴史( 63 )

山本覚馬について知ったこと

山本覚馬
やまもとかくま
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出身
会津藩
生年月日
1828年2月25日
没年月日
1892年12月28日
年齢
満64歳没
新島八重の実兄であり幕末を代表する砲術家。 佐久間象山の塾で洋式砲術を学び、会津藩校・日新館で教授として軍事教育を行う。禁門の変では、長州藩への砲撃でその実力をみせた。維新後は、初代京都府会議長となり、京都府政の整備に努めた。 京都の同志社大学を創立した新島襄(新島八重の夫)の良き協力者としても知られる。

八重の兄、「山本覚馬」という人物が同志社大学に深くかかわっていたことを知った。
今出川の土地を提供して同志社を創立に協力したこと。
同志社は「覚馬」が名付け親であったこと。
新島襄の協力者で、深い関係だったこと。
目を患いながらも、新政府に重用されたこと。
後に京都府議員となって、京都の近代化を促進したこと。
牢獄で書いたという『管見』のなせる業であろう。
戦略家、山本勘助の末裔だとする説があること
そして同志社の新島襄を継いだ第2代総長が山本であったこと。
詳細はここにも
http://www.jpreki.com/jp/kaku.html
ここにも
https://www.junkudo.co.jp/mj/products/detail.

彼が牢獄で書いたという建白書については
http://office34.exblog.jp/15490918/

写本についてはここ
http://elib.doshisha.ac.jp/denshika/yamamoto/128/imgidx128.html

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by noanoa1970 | 2013-06-17 21:23 | 歴史 | Comments(0)

「柳」に纏わる仮説

以前から気になっていたことがある。
それは「柳」の木が、音楽上でかなり目に付くからである。
それで、もしかしたら「柳」は有る集団にとって、ものすごく意味を持ってきた樹木ではないかと想像したのだった。

以下の動画は、ヴェルディの「オテロ」で、デスデモーナが歌う「柳の歌」である。
不気味に何かを告げるような5音階調の序奏の後、母親が歌っていたといい、デスデモーナが劇中で歌うが、その時の音楽はグレートブリテンによく有る古謡のようなメロディーに変化している。
歌劇中歌をGB民謡風にするという芸の細かさ、このあたり、ヴェルディはすごい。

なぜそんなことに注目したのかというと、アイルランドからアメリカに移民してきた人たちの多くが定住した、アパラチア山脈の麓で、故郷の古い詩を歌って、故郷や昔を偲びつつ生活し、それが彼らの子孫に伝えられたものの中に「Bury Me Beneath The Willow」(私を柳の木の下に埋めて)という曲があることを知っていたからだ。
きっかけは、アメリカンフォークソングの元祖、「カーターファミリー」が録音した最初のアルバム、に録音されていたからであった。
1927年に録音された彼らのデビューアルバムの最初に、「Bury Me Beneath The Willow」を録音したことに、彼らの故郷に対する音楽魂があるような気がしてならない。
多くの人が歌っているが、ここはやはり、オリジナルカーターファミリーで。

詩の大意は、結婚式を上げるまでになっていた男が、別の相手に走ってしまい、愛も結婚も幻となってしまった女が、誰かに、柳の木の下に埋めてくれと頼んで、悲しみのあまり自殺してしまう。
あの柳尾の下に埋めてくれれば、きっと彼も、私が柳の下に眠っていることを知って思い出すことでしょう・・・・
偽りの結婚とそれによる死という内容(結婚式直前に殺される話はオールドバラッドに多い)と、4行誌であることから、出自がグレートブリテンのアイリッシュ、スコティシュのオールドバラッドであることの推測がつく。

カーターファミリーの先祖がアイルランドかスコットランドから持ってきて、歌い継がれたものとしても良いだろう。

一方ロシアの古謡にも「揺れる柳」という歌がある。(残念ながら詩の内容はつかめ無いが、陰鬱な気分のメロディーであった)

「オテロ」と同じシェイクスピアの「ハムレット」においては、オフェーリアが死ぬのが、河のそばの柳の木の下。

また、アン・ロネルがガーシュインに贈った有名な、「柳よ泣いておくれ」という曲があり、「しだれ柳よ
、私を哀れんで泣いておくれ、その枝を地に着くまで深く垂れて、私を覆っておくれ、闇がおりる時枝を垂れて 私のために泣いておくれ」
と、こちらは柳の木に、失恋した自分の哀れな姿を投影するものであり、柳の下に埋められている女性を想像させるものだ。

ルイスキャロルの詩「The Willow Tree」の中に、「あなたをこよなく愛した乙女、ここに眠る、この柳の木の下で」と、失恋と死に関係するようなものがあり、これも「柳」が死の象徴的に扱われている。

アイリッシュフォークソングにもイェーツが取材したと言う、「Down By The Sally Gardens」があり、「柳の庭を下ったところで愛する人と逢った・・・だが思いを遂げられなかった」という男側からの悲恋が歌われる。

イギリスの作曲家ジョージ・バターワースには、'the banks of green willow'(柳青める堤)という美しい曲があるが、作曲の経緯は不明である。

以上のことを集めて俯瞰してみると、「柳」はとくにGB地方で、悲恋や死とともに出現してくることの多い植物であることがわかってくる。

その姿からなのか、「しだれ柳」は、死体を埋まる場所として使われることが多い。
時代を超えてこれだけの「柳」が音楽や誌や演劇に登場することから見ると、かなり古くからの習俗あるいは何かの象徴およびトーテムだった可能性がなきにしもあらずだ。

一説には、柳は死と縁が深く、中国やトルコでは墓地に植えられるという。
柳の花言葉が存在していることなど、思いもしなかったのだが、英語圏ではしだれ柳を、weeping willowといいイギリスでは死者への嘆き、フランスでは憂鬱、悲哀、苦難といいう意味が花言葉にになっている。
これらは、屈強や不屈といった柳のもつ木の性格の真反対のようなことばかりだ。

花言葉の歴史には、古いものもあれば、新しいものも混在するようだから、それぞれの作品が作られたのが先か、花言葉が先かははっきりしない。

小生は料理もするので、柳葉庖丁を持っているが、これは明らかに柳の葉に似ているからであろう。
そして同じく料理の世界では、「柳の1枚板で造ったまな板」は、最高級品である。

東アジアでの「柳」を調べると、
唐の長安では旅立つ人に柳の枝を折って手渡し送る習慣があったというが、柳のように強く生きてくださいということと、柳の強い生命力になぞらえて、再会、復活の意味が隠されていると考えられる。

葉にサリチル酸を含むことから、解熱鎮痛薬としても用いられ後にアスピリンとなったとウイキペディアが教えてくれた。
ここらあたりに、柳がトーテムとして成り立った地域があったのではないかと想像させ、高熱で死ぬ間際の人にも人に柳のエキスが薬とされ用いられたが、それでも虚しく死んでいく人があったので、苦痛や、死、悲劇などと結びついていったのかもしれない。

古代の人は、柳の生命力に着目していた形跡があり、水に浸かっても生命力を保つ柳を、防水の木として河川の反乱を押さえるために活用したらしい。
近代川岸に柳の木を植えるのはそのためだったのだろう。

柳の木の下に埋めてもらえば、死んでもまた復活できると信じていたと仮定するには少々無理があるのは承知だが、これだけ柳の絡んだ作品に触れると、まんざら空想でもないような気がしてくる。

「柳」=「死」「苦難」「苦痛」「悲恋」≒「復活」「甦り」「再生」「再会」・・・柳が出てくる作品には、死と同時に数々の願望が隠れていると思って差し支えないのではないだろうか。
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by noanoa1970 | 2012-11-02 23:44 | 歴史 | Comments(2)

フライ・・・残りもの

フライフィッシングをやめて15年になる。
それで少し前に手持ちのタックル類をすべてオークションで処分することにした。
ロッド、リール、そして未使用のラインはオークションで結構良い値段で売れた。
中でもスコットの20周年記念モデル、グラスパックロッドは、購入価格の2倍で落札された。

友人にあげたフライタイイングマテリアルとヴァイス以外の残りの殆どは、処分することができたが、どうしても処分できないものが残ることになった。
使いさしのティペット、リーダー、マーカーそのほかフライフィッシングに必要な小物たちだ。

その中で想い入れ深いものは、やはり「フライ」であろう。
まして自分で巻いたものならば、これは記念に残しておくべきだし、見るだけでも創造力を掻き立てるもの。

先日フライベストに入れっぱなしになっていたり、フライの道具類を入れるフィッシングバッグを整理して見つけたのが、長い間眠ったままになっていたFLYBOXが見つかった。

これらのFLYBOXの殆どを、ベストに入れていたのだから、フライベストの収容能力には、いまさらながらに驚いた。

なにが起きても良いようにと、あらゆる装備をして臨むのがフライフィッシャーマン。
水生昆虫から陸生昆虫の、幼虫から成虫まで、その時魚がなにを好んでで捕食しているか、やってみないとわからないから、種類とフックサイズを併せると、恐らくその組み合わせは何万通りにもなるだろう。

そんなにも多くのフライは、とても用意できないから、昔からある伝統的なフライを中心に、あとは自分好みのバリエーションを補足する。

わが懐かしのフライはこんなもの。
整理整頓されてないがとりあえずUPしておくことにした。
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by noanoa1970 | 2012-04-26 17:30 | 歴史 | Comments(0)

ふるい広告再び

昨日処和32年の「ピース」の広告を記事にしたが、31年の広告を見つけたので、それも掲載することにした
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ヴァージニアの味とあるが、女性にもおすすめとは書いてなく、ピースのパッケージも記載されないもの。
かなり簡素な仕上げである。

もう1つは昭和30年のビールの広告である。
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ホップが3つイラストで書かれていて、「ホップの利いた」をバックアップしている。
いまならサッポロビールだが、かつてはアサヒビールがホップを広宣のネタにした。
三ツ矢サイダーは姉妹品として掲載されるが、当時小生は変わった出来事があると飲ませてもらった。
「全糖」と書かれた赤いシールが貼ってあるものと、なにもないもの、つまりサッカリンなどの科学甘味料が使用されたものがあったように記憶する。

サイダーは小生の好みだったようで、「ひまし油」をサイダーに入れて無理やり飲まされたことがあったが、サイダーの中に、ポッカリとヒマシ油が浮かんでいるのが嫌で激しく拒否したことがあった。

嫌なものでも、好きなものと一緒にすると飲むであろうという大人の底知恵が、小さいながらも嫌だったのだろう。






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by noanoa1970 | 2011-12-11 12:59 | 歴史 | Comments(2)

湯船の中で考えたこと

風呂の中でこんなことを考えた。
まとまりがついてないままであるがご勘弁願いたい。

朝、早朝と書いて「あした」と読むことは「早朝の雨」:ゴードン・ライトフットの名作「early morning rain」の訳「あしたのあめ」からも分かるように古語での活用法である。

夜明け後の早い時間が「あした」ということで、昔の人は夕方から夜明けまでの時間帯を
「夕べ(ゆうべ)」「宵(よい)」「夜中(よなか)」「暁(あかとき)」「朝(あした)」と5つに分けていたらしい。

太陽が登りかける直前を「暁」、徐々に明るくなってくる頃、すなわち早朝が「あした」ということになり、「早朝」を「あした」とした「early morning rain」の邦訳は適切だ。

古来「あした」が朝及び早朝の意味を持っていたということはわかるが、明日と書いて「あした」と読み、翌日のことを表すのは何故だろうか。

むかし「明日という字は明るい日と書くのね」「若いという字は苦しい字に似てるわ」とアン真理子が歌っていたが、明日すなわち翌日を「あした」となぜ呼ぶことになったかははっきりしてないようだ。

翌日のことをあれこれ思いやるのは、前日の夜であろうことから、明日、翌朝の日に想いを馳せるということで明日を翌日の意味で使うことになったのではないか、というのが小生の推理である。

さてもう1つの謎、どうして、夜明けを「あした」と言うようになったのかについては諸説あるようだが、これも小生の推理を働かせて・・・

略語を使うことは、斬新で時代の先端を行っているに等しいことと思ったのは、昔も今も変わらなかったようだという大前提のもとに。

太陽が顔をのぞかせる直前、ぼんやりと明るくなってくる頃を、「夜が明けました」云々言っていたのだが、少々長くて悠長だったことから、誰かが「よがあけました」という呼称から「○が○け○ま○た」を削除し、「あした」と言う呼称を編み出して、それが伝播して夜が明けること、夜明け=早朝を「あした」というようになったのではないかと推理してみた。

昔の人の中にも現代の若者のような略語が流行の先端を行くものとおもっていた人がいたのだろう。
「ありがとうございました」を「あしたー」というのと一見同じような形成パターンであるように見えるが、重要な違いは、意味合いが封じ込められているかいないかで、「あしたー」はそれだけでの意味合いはなく、お礼をいう時でないと効力がないから、単に短くしたというだけである。

とんでもない妄想的推理でしかないが、他の諸説も大なり小なり。

「夜が明けるとき」という意味で「あけじた」と言っていたが「あけじた」から「け」が抜けて転じて「あした」となったという、例えばこの説にしても略語でそうなったとの説明で、しかも「明け時」を「明けじた」と発音するのは東国地方というから、範囲はかなり狭いと考えて良いしそれが普遍的になrったという確証に乏しいから、、あまり説得力はないと思う。

しかしいずれにしても、「略語」説は、まちがいではないような気がしてならない。
そして略語の中に、意味を保持しつつ簡略化されたもの、単に短くしただけのものの大きく2つがあるように思える。

昔の人の中にも、略語を使うことは流行の最先端を走っているものと勘違いしていた人がいたのではないか。いやむしろそれを楽しむ風潮が有ったのではないかとも思う。

略語など有る一定の組織でしか使わない、そしてその他の人が聴いても意味が分からない言葉を使うことによって、ひとつの共同体を作る原動力になったということもあるのではないか。

卑近なでは「業界言葉」の一つ、言葉を逆さまに言う・・・ジャズをズージャということは、最初はジャズ屋の一部が使い出したと思われるが、それが徐々にに浸透し、今やマスコミ業界でも使われるようになったものであろう。

ゲーセン・・・最近はこのように意味のない縮めただけの略が多いようだが、ゲームセンターでなく、音楽をやっている一部で使われた言葉で、五千円貸してくれをゲーセン貸しててくれと言う具合に、CDEFGAHのGは5番目、このことを知って使うのは音楽関係でも演奏する側である。


またよくあるオーケストラの助っ人「エキストラ」を「トラ」というのは、オーケストラの関係者で、これは他の人にほんとうの意味を知られたくないというところと、オーケストラのトラをひっかけた言葉のように思う。
演劇や映画のエキストラを「トラ」というのは聴いたことがないから、オケ専門の言い方なのだろう。

これらは自分たちの領域を示すアイデンティティのようなものして考えることも出来、その言葉も意味も知っていいる人は他人でも大きな仲間意識の中に入ると言うことを示すものであろう。

隠語によるゲマインシャフト形成と言うと怪しげに聴こえるかもれないが、自然発生的要素と、意識して・・必要性からのもの両方があいまったところで成立してきたのだろう。

しかしながらこういう言葉も、今やマスコミがドラマや映画バラエティなどで平気で使うし、その言葉を使うタレントを主演させていることから、かなり多くの一般人の知る所となってしまい、一般的な使い方になると思われるようなものも散見されることから、かつて存在したゲマインシャフト的な効力はなくなりつつ有るようだ。

話としては隠語の成立過程探求のほうが面白いが、「略語」に戻ることにする。

略語として生き延びる条件としては、単に短くするだけでなく、素の言葉の意味を保持しつつ発音の具合が良く言いやすくなくてはならないのだと思う。

発音に無理がある略語は生き残らないようである。

日本語として定着しつつ有る外来語も日本語と比べて発音が楽なものが優先的に使われるようで、「〇〇を得ることをゲットする」というように、日本語のほうがわかりにくく長くて硬い言い回しのものは外来語に取って代わられる。


「甘味」という言葉は、発音の「かんみ」と聴くだけでは何を言っているのか分からない人が増えてきたのだろう、だからスイーツという外来語のほうが、発音から甘いものを連想させやすいからだろうか、今や日本語として定着しそうである。言い易いしおまけに少々気取った言葉に聴こえ、マスコミのバックアップもあって定着まちがいないようだ。

分からないのは、「車のキー」というのに、「家のキー」「玄関のキー」とは言わないこと。
最も「車の鍵」という人も居ないわけではないから、「KAGI」という発音はステ去られたわけではないようだ。

結局は耳に馴染み、言いやすいことが略語としての条件というyことではないだろうか。
それがどのような意味を持つかは、略語に関してはそれ自身が独立してしまうので、ドウでもいいことなのかも知れない。

「あけましておめでとうございます」を「あけおめ」と略すのはドウかと思うが、其れでもエキスはキチント入っている。

しかしこの言葉は日本人が持つであろう伝統文化と抵触するから、流行るかドウかは分からなく、小生は流行らないであろうと見ている。

「なんでも略せばいいってものじゃない」と白戸家のお父さんも言っていたが、略される前の言葉のエキスは忘れないで略していただきたいものだ。



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by noanoa1970 | 2011-11-26 10:47 | 歴史 | Comments(12)

エクソダス外伝

歴史的な記述が不正確だなどとして、エジプト国内での上映が禁止された。「エクソダス:神と王」
聖書の中の話をSF大スペクタルとしたのだから仕方あるまい。

小生が「エクソダス」ということばを知ったのは、小学校の6年生だった1961年のこと。

小生が生まれた実家に遊びに行くと、高校生の叔母が映画音楽を聞かせてくれ、その中に「栄光への脱出」のテーマミュージックがあり、だんだん盛り上がりを見せるオーケストラを使用した
その素晴らしさは、今でも口ずさめるほどメロディを鮮明に覚えていることからも解ることだ。

英語が得意な叔母は「エクソダス」と、この曲を教えてくれながら安物のレコードプレイヤーで聞かせてくれた。映画を見て感動し、レコードを入手したのだと思う。

ちなみにこんな音楽である。

本日は「エクソダス外伝」というタイトルだが、このところの小生のブログでのコメント話題が聖書の中の逸話によるものが多くなってきたこともあって、出エジプトの移住先の「カナン」や「モーゼとアロン」のこと、ヤハベの狙い、エジプトの利害など、尽きない興味から、色々な意見を参考にしてまとめてみたことをアップするものである。

推測が相当入っているが、歴史文化、民俗、民族、生態、古代史、など、小生が読んだ書物の考え方、特に梅原猛、網野善彦、鹿島昇の著作そして新国民社の季刊誌『歴史と現代』をよむにいたり、ものの見方考え方に大きな変化が生じたと思う。

そのような思考方法を駆使して、さまざまな情報を集め、そこから読みとれたものを書き連ねたので、アップしておくことにした。

エクソダス前後のカナン
バアル信仰で牛をトーテムとする多神教信者、農耕主体民族のカナン人(カナン人には2派があって、1つはカナンを去ってフェニキア人となった種族、もう一つがカナンにとどまってイスラエル人の支配下に置かれることとなった種族といわれる)、それとも農耕の必要性から、バアル神という邪宗を受け入れることになった、ユダヤの民、居住地域は異なるものの、カナンにはペリシテ人(アラブ人)をはじめ複数種の民が住んでいたようだ。

カナンの宗教
多神教で農業神の象徴であるバアル信仰の中に、「牛」をトーテムとする偶像崇拝のカナン人が存在した。
バアル神のトーテムが「牛」であることを指摘する学者が多いが、「バアル」とは「主人」の意であるから、多神教のトップに位置した神ではないだろうか。牛をトーテムとしたバアル信仰、蛇をトーテムとしたバアル信仰など多くのバアル信仰があり、中で権力が強い集団が担いだトーテム(牛)が、バアル信仰の代名詞となったということであろう。

バアル神とは、水と密接な関係を持ち、脱皮という転生を繰り返すというから、つまり豊穣の象徴たる「蛇」の存在を匂わせ、トーテムの中で主流である「牛」と結びつき神格が出来上がっていったとみる事が出来る。

「蛇」を中心にして、蛇に他の動物の特徴を付け足した「龍」は、蛇と同じく農業の民の信仰の対象になったが、「龍」には、たくさんのトーテムの合体が見られ、農耕の民の統合が行われたことを表すものとする見方も否定できない。

さらにバアル神の神格に「暴風雨」があるとの指摘は、農業と「水」との関係にtらし合わせれば、否定的にバアル神に存在するものとされたようだし、スサノオノミコトにも同じ現象があるから、納得出来ることである。

日本の古代史に出てくるスサノオノミコトが、「牛と蛇」そして「暴風雨」のトーテムの合体の産物であることを指摘する研究家もいて、シュメールやエジプトにおいて同じものが見られることにも言及していることは、バアル信仰の出自に関係する事になるのではないかと思われる。

小生が学んできたことから言えば、多神教はトーテムを持つから、「黄金の牛」の像とは、「牛」をトーテムとする種族が存在するということで、カナンの先住民カナン人は、農耕を糧とする多神教信者であること。
カナン人の中に「牛」をトーテムとする種族が存在し、牛をトーテムとするカナン人とマージすることで、カナン人の農耕技術と宗教を受け入れたイスラエル種族があったことが推測される。(牛は農業の力仕事の役目を担う重要な働き手だが、乳牛・肉牛として使われていたとすれば、牛トーテムの民カナン人も、すでに遊牧民と混血していた可能性がある)
カナンは豊かな土地であるがため、いろいろな民族種族が移住し、協調と争いを繰り返すことで支配非支配、統合分裂も産まれてきた。

エクソダスの背景は何だったのか
カナンにはもう1つ重要な、海洋貿易の拠点港としての位置付けがあったから、巨大国家であるエジプトが目をつけるにいたった。(フェニキア人の祖がカナン人であるという説があって、イスラエル人が支配するにいたり、カナンから出て行ったが、いつの時代か再びフェニキア人としてカナンに戻り、海洋交易の利権を持った)

エジプトで奴隷として働いていたイスラエル人、それを束ねるモーゼたちの悲願は、神から約束されたイスラエル人の土地カナンに戻って永住する(建国)ことで、エジプトの為政者ファラオは、カナンを海洋交易の拠点として熱望した。
ここにおいて、エジプトおよびモーゼが主導するイスラエルの民に、ウインウインの関係が生じることとなる。

一般的にエクソダスは、民族差別で虐げられたイスラエル人が、エジプトの圧政に抵抗して、集団でエジプトを脱走し、約束の地カナンに行きつくという話である。

エクソダスの新解釈
しかし別の見方として、カナンの港を手中にしたいエジプトと、カナンにイスラエル国家建国を願うモーゼの利害を達成するには、カナン侵略を企て実行することが必用であった。

イスラエルの神ヤハベは、カナンの現状、つまり多神教のバアル信仰が蔓延しつつあったことを危惧したので、モーゼとアロンに、バール信者を駆逐するために、カナン侵略をするよう指示をだした。
(しかし途中でアロンはモーゼ、従ってヤハベに逆らったので、カナンに入ることが許されなかった)

以上のように推測すると、モーゼとアロンは実の兄弟だったのか、遊牧の民であるとされが、アロンはエホバを信仰するイスラエル人であったが、実は半エホバのバアル信者ではなかったのか、つまりカナン在住のイスラエル人がバアル信仰者となっていったのと同様のものがアロンにあったと考えられ、二人の出自はアロンは農耕、モーゼは遊牧家系だから、実の兄弟ではなかったと考えてもよさそうだ。

検証はできないが、民族的な違いがあったかもしれないという仮説を立ててみたい気がする。
アロンの話は、バアル信仰勢力が、いかに強大であったかを、ものがたるものでもある。

以上のように書いてきたが、あまりにも断片的すぎると思うので、一旦まとめておくことにする。

まとめ
カナンは「乳と蜜が流れる土地」が象徴するように、肥沃で住みやすいところだったから、カナンという土地には古来から様々な民族が移住するようになっていった。
カナン人もその一派であり、源流がカナン人であるフェニキア人が再入植して、海洋交易の権利を得て居住したし、古代からのカナン人もいた。
遅れて移住したイスラエル人、南部にはアラブ系のペリシテ人(パレスチナ)もいる、いわば民族の坩堝状態であったと思われる。

当初彼等はテリトリーごとに住み分けていて、生活様式や信仰は独自のものがあった。
しかし人口増加が主な要因で、生産手段の確保増強の必要性が生じ、テリトリー争いが始まり、戦争が出現したが、中には融合して混血するものもあった。

古代イスラエル人の種族の中に、異宗教異文化のカナン人と混血したり、人口増により、食糧自給のために生産手段を変更追加の必要性から、遊牧民はカナン人の農耕に着目するようになり、農耕の民は遊牧に注目した。
このことから牧畜・・・農耕をしながら牛や羊を飼うという、より安定した合理的な生産手段が生まれ、生産性が高まるることとなった。

農耕を取り入れた遊牧の民の中に、カナン人の守り神である豊穣の農耕の神を奉じるものが出てきた。
カナン人の宗教は多神教の自然神信仰で、遊牧の民イスラエル人が信仰してきた一神教のエホバ信仰とは基本的には相容れないものだったが、農耕を取り入れたことから必然的に、カナン人の農耕の神「バアル信仰」をも取り入れるようになった。
つまり、農耕という生産手段の必要性が農耕の神を受け入れることにつながり、牧畜と農業という2つの生産手段を融合したイスラエル人が出現したということであろう。

カナンがバアル神信仰者だけの土地となってしまう恐れが出てきたことを危惧したエホバは、モーゼとアロンにエクソダスを指示し、移住先をカナンと決め、バアル神信仰者をカナンから駆逐するようにしむけた。
カナンのイスラエル人に農耕の必要性が高まり、バアル信仰が、多大なな影響を及ぼすほど、勢力を強めていったことを象徴するものとであり、エクソダスの途中のアロンの「黄金の牛」の話はバアル信仰の偶像崇拝を表すものであろう。

「黄金の牛」とは、バアル信仰の偶像崇拝のためのトーテムで、バアル信仰のトーテムとされるが、多神教であるがゆえに、実はさまざまなトーテムを奉じる民がいたのである。
バアル信仰とはバアル神を奉じる信仰というより、バアル神を支える自然神信仰だと小生は思っている。
「牛」「蛇」「鶏」「猪」など、農耕に関係ありそうな動物、水や太陽、材木など、トーテムは種族にとって大事なもので、種族のアイデンティティを表すものでもある。

森の民古代ケルト人が信仰したドルイド教は、「樫の木」というトーテムをもつ。バアル信仰の一派に「黄金の牛」をトーテムとした種族がいたということから類推すると、同じトーテムがシュメール人の中にも有ることから、カナン人の祖はシュメール人だったという可能性がある。

最初はモーゼに従順だったアロンは、やがてモーゼに反抗するようになる。
このことの見方に、ユニークなものがあって、モーゼとアロンは兄弟ではなく、逸話上作り出されたもので、本来2人は対立軸上に有ったのだという。
それが2人のトーテムに表れていて、黄金の牛を造ったアロンを「牛」トーテム、そしてモーゼを家紋がそうであるから「菊」トーテムとする見解がそれである。。

モーゼとアロンについては、よくわからないことがあり、聖書に出てくる現象の背景を徹底的に深読みする必用がある。
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by noanoa1970 | 2011-07-19 10:36 | 歴史 | Comments(29)

忘れかけていた、悲しみの出来事

いつも訪問しているHABABIさんのブログに、少年期の辛い思い出話と、ユーミンの歌を関連付けた記事があるのを読ませていただいた。

心が動いて、そして、思い出したのは、高校に入学したその日のことであった。

簡単なオリエンテーションのあと、校庭の一角で教科書を貰ってからそれぞれの教室に入る段取りとなっていたのだが、教室のある棟と階を間違えてしまい、指定された教室に入るのが遅れてしまった。

教室の最後部の扉から入ったのだが、すでにその時は全員が着席していて、先生らしき人が教壇にたって話すところだった。

しまった・・・入学そうそう・・と頭の中がパニック状態になって、自分の座る場所を探すのだが、目にはすべての席が埋まっているように写ったから、冷や汗が出てくる始末。

どのくらいの時間がたったか、その時少年のような顔つきをした1人の男が、後ろを振り向いて、ここ、ここが空いていると、声に出さないが、手招きで合図してくれたのだった。

小さく有難うとおじぎしたまま着席でき、そして次の日、その親切心にきっとイイヤツに違いないと、県外入学の小生には、誰も知人がいなかったこともあって、友達になってもらおうと探したのだが、いくら探してもどうもあの少年のような顔が見当たらない。

どうしたのだろう、と其の次の朝も捜すが、やはりあの特徴的な少年顔の男はいない。

そして先生が出席をとるとき、ようやく気づいたのが、生徒の1人が3日間連続で欠席していて、その人があの親切な童顔の人物だということ。

一体どうしてしまったんだろうと思いながら、近くに座っている同じ中学出身者らしいのに聞くと、少しいいにくそうに、彼は重い病気にかかっていて、高校には入学したが、すべての日数の通学は無理と最初から分かっていたようだとのことだった。

そうだったのか、あの時の手招きが彼の顔を見た一瞬だったのか、そう思いながら半月が過ぎたある朝のこと。

教室のそこだけ空いていた席に、あの童顔が座っているではないか。

前から知っているものは、大丈夫云?々と話しかけていて、そのたびに童顔は丁寧に返事をしている光景があった。

少し頬が赤らんでいて、傍目には健康そうにみえたから、ひょっとしたら健康を取り戻したのではないかと思うほど、しかも割とよく通る声で時には大きな声を出して笑うから、よかった・・・そう思っていると、其の次の日童顔はまた休んでしまった。

そして夏休みに入る少し前ぐらい、以前より少し良くなったのか、登校した童顔は授業後まだ帰らないで、持ってきたガットギターを取り出し、おもむろに弾きはじめた。

タルレガのラグリマがゆっくりと流れ、続くトレモロはかなり上手に弾いた。
そしてそのころ音楽にかなり興味を持っていた小生、それをきっかけに話すことができた。

入学式直後、空いている席の合図をくれたことを、覚えていて、病気療養で時々、半月に1度ぐらいしか学校には来られないこと、ギター部を作りたいこと、住んでいるところや、お姉さんがいて、同じ高校の3年生であることなどを話してくれ、小生も県外から来たこと、バスと汽車を乗り継いで通うこと、県内で1番大きな市営住宅の一角に住んでいること、趣味は音楽などと、短い時間だったが、話すことができた。

半月に1度しか会うことができずに、夏がさり、秋の風が学校の周りの畑を通るようになった頃。
学園祭の準備に忙しかったときのことだった。

Mが名古屋の国立病院に入院したらしいという情報があって、見舞いに行っても問題ないとの姉さんからの
情報を得、そのころ仲良くなった同県人の友人と一書にお見舞いに行くことにした。

勝手知ったる名古屋だったが、何しろ巨大な国立病院には幸い縁がなかったから、右往左往しながら病室にたどり着き、面会したが、急に入院するほどの変化はないようだったから、訳を聞くと、「実は手術が決まり、それまでの検査などのための入院で、手術は1ヶ月後の予定」という。

やがて思いつめたような口調で彼が言うには、「自分の病気は思い心臓病で、このままだとあと数年しか持たないと、医者からいいわれている。
手術の成功率は高くないが、それでも手術にかけてみようという気になった。」

もし成功したら、毎日学校にいけるし、港一緒になんでもできる。
だからもし成功したら、来年度は学年が違ってしまうかもしれないが、その時も友だちでいてほしい。
ギタークラブをつくって皆に感謝の意を表するために、演奏会を開催したいなど、手術の結論にいたるまでの、なみなみならぬ思いなど少しもおくせずに、わざと明るい声でいうのだった。

それではギタークラブ、音楽クラブを創設するのに、力をかそうと小生もいい、頭脳明晰な君だからきっとおなじ学年になれるとおもうなど、出席日数のことをさておいて言うしかなかった。

重い心臓病、放置すれば数年の寿命と聞いた上に、手術はかなり難しく、このころ名古屋で1番の心臓外科の権威である国立病院でも、かなり困難な手術のようだから、彼の賭け・・というよりも、なにもしないで、座して死を待つことを拒否した、彼の意志の強さに、感動したものであった。

冬がもうすぐそこまでやってきているある日の夜遅く、1本の電話がなった。
友人のIからで、今日の手術の結果帰らぬ人になった、そう電話の声は告げた。

予想をしていなかったというと嘘になるが、しかしあんなにイイヤツがそう簡単にあの世に逝ってたまるかと、それを打つ消す力のほうが強い今日までだった。

言葉もほとんど発することができず、ただ頷くだけだったように思うが、Iがこれからすぐにお通夜に行こうというのを遮り、情報もないのに行ってはかえって迷惑になろうし、今夜は身内だけのほうが良いのではと、まるで大人のような言葉で中止させた。
時計はすでに夜の11時近かった。

おまえ、薄情なやつだなーと言われたが、黙ってそれを受け入れたのは、すでにそれまでに2度の身内の葬儀を経験していたからで、その日のうちの通夜は、来訪者の世話に追われ、身内が悲しみに浸りお別れをいう暇もなくなってしまうことを知っていたからである。

次の日の朝、担任から今回のことを知らされたが、ほとんどの生徒はすでに知っていて、午後からの告別式には全員で出席することにした。

3つしか年が違わない彼のお姉さんが、学校関係者に挨拶し、以前から顔見知りだった我々に、よくあなたがたの話をしていたと告げるのだった。

そこで涙腺が一気に緩んだのは言うまでもないこと。
お姉さんの美しい顔が、有難うと言っているようで、悲しくそして何か淡い空気が流れたようだった。

小生の入学直後の席の話、彼女は彼から聞いていたらしく、最初のお友達でしたねと、少し微笑んだようにいった。

そのころ読んでいた小説の見開きに、「本日親友死す」と書いた覚えがあるが、それがなんだったか記憶はもうない。

それから何年かは、命日を覚えていたが、実に悲しいことに今は正確な記憶がない。

しかしあの時のあの笑顔と手招きした顔はハッキリお覚えているから、許してくれるだろう。
そしてこの45年以上前のことを思い出させてくれたHABABIさんに感謝しなくてはならない。

そして思い出の音楽は、彼が弾いていたタルレガかソルの練習曲になる。

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by noanoa1970 | 2011-04-30 17:47 | 歴史 | Comments(2)

哀れ、最後のサンカの末裔

報道されることが殆どない「サンカ」を扱ったドキュメンタリー番組。

10月16日テレビ朝日放送の「報道発 ドキュメンタリ宣言 知られざる日本の原風景“サンカ”~最後の末裔が語った真実~」を観た。

小生が小学4年か5年生の時だから1960年前後、学校帰りに近道であった、名古屋市千種区猫が洞にある猫が洞池を通ることがあったのだが、そこである時テント小屋があるのを見つけた。

少し遠くから立ち止まって見ていると、子どもが出てきたのだが、テントから母親と思しき人が出てきて、子どもをテント内に素早く連れ込んででしまった。

母親は丈の短い着物を着ており、割と小ざっぱりした身なりだったから、浮浪者とは考えにくく、次の日に同じ場所に行くと、昨日在ったテント小屋は、きれいサッパリ無くなっていた。

そう云う体験から数十年経ち、ある時「サンカ」という存在を知ることになり、あの時のテント小屋は「サンカ」ではなかったかという、推測から今や確信となっていったのだった。

そういう経緯があって、小生の主たる民俗学的興味の「サンカ」の報道番組があるという情報を得て、しかもサンカの末裔が登場するという、前代未聞の報道番組を期待して見ることにしたのだった。

詳細はここでは触れないが、番組で報道された、サンカの末裔の兄妹の妹、Mさんについての番外情報・・・これぞ知られざる真実か、を意外な形で発見したので、ここに揚げることにした。

Mさんは番組でも登場し、かつて住んでいた「背ぶり」の場所に案内したり、当時の家族親類の写真を懐かしく見ながら、これはだれ誰・・と説明していた。
何時頃取材したのかはわからぬが、このときの番組内ではMさんは、まだ洒脱だった様だ。

記事によると、2008年、そのMさんが、決して健康的文化的生活とは言えない中、亡くなってしまったという。
昭和22年生まれだそうだから、小生とほぼ同年代、60歳という若さで亡くなったことになる。

ここに挙げられている記事は、行政がいかに人権を無視したのかという事件を示すとともに、そして「サンカ」ひいては少数民族などに対する行政の不法行為を示すもの、事実ならば決してみのがせないことである。

地域住民の・・・割と親切なことに比べ、行政の・・・まさに文字通りお役所仕事ぶりが伺える。

サンカの特殊性をネタにした、行政批判側の記事とも取れ、一方的ではあるし、この記事に対しての反論や弁明がないため、すべてを鵜呑みには出来かねるが、事件内容が行政の善意の産物の行為だったというには、余りにも御粗末ではないだろうか。

報道ではこの点にはまったく触れてなかったが、おそらくネタをつかんでいたのではないかと推測される。
ここまで踏み込んだ報道であれば、さらによかったと思うのは欲張り過ぎだろうか。

記事内容は以下の通り、記事はかなり詳細にわたっている。

「最後のサンカ」の孤独死と、預金を勝手に引き出す東松山市職員!
地方行政を読む - 東松山市
2009年 5月 02日(土曜日) 00:00
「日本一の福祉都市」をめざす東松山・坂本市政でまたも不祥事!
「最後のサンカ」の孤独死と、預金を勝手に引き出す東松山市職員!
不正行為のウラにまたしても坂本市長ファミリーの陰!!


 昭和22年に生まれ、昨年4月26日に没したMさん(60・女性)。定住することなく、山間を移動しながら生業を営んできた「サンカ」(山窩)と呼ばれた人々の、最後のひとりである。Mさんの両親はサンカ研究の先駆者であった三角寛も取材しており、記録によれば9人兄弟の4女にあたる。セブリ(瀬降り)と呼ばれる河川敷のテント集落で生まれたMさんは母の死後、施設をへて就職し結婚。一時は建設会社の寮で生活していたのだが、再び夫と河川敷に小屋を建て住み着いた。やがて夫が亡くなり平成11年の冬、小屋が火災で全焼。Mさんは以前から面倒を見てくれていた農家が「生活保護」を申請し、農家が経営するアパートに移り住むことになった。

「保護者」は「日本一の福祉都市」を目指す東松山市。だがMさんに対する市の扱いは非常識きわまりないもの……いや、文盲のMさんにとっては、はっきりいえば「殺人的」だった。彼女に生活保護措置をとらず、布団さえ与えず、Mさんの預金を勝手に引き出していた東松山市。あげくにはMさんの死後、彼女の遺産を無断で遺族に分配していたのだ!

Mさんに「生活保護」措置をとらなかった東松山市
あまりにも痛々しいMさんの布団すらない孤独死
「いったい市役所は、Mさんに何をしてあげたのか」
 社会福祉協議会を舞台にしたリーマン社債1億円焦げ付き問題発生から、坂本祐之輔市長らによる市職員恫喝、それにさかのぼる常軌を逸した市役所内部での官製談合(職員2名が逮捕)など、「福祉の充実」を看板にした東松山市政が揺れている。こうしたなか、新たな不祥事が発覚した。

 昨年4月26日に死去したMさんは、近所の要請もあって数年前から東松山市役所福祉課による「生活支援」を受けていた。ところが、どういうわけか市役所が「預かっていた」Mさん名義の預金通帳から、死亡前後に多額の現金が引き出されているのである。約200万円あった貯金は、Mさんが亡くなった当日から3日後にかけて、40万円、50万円という大きさでATMから下ろされているのだ。(詳細な内容は後述)。

 Mさんが東松山市福祉課に“保護”された経緯を知る行政関係者は、こう述べる。

「Mさんは、昭和30年代頃まで東京を含む関東地方の山間で暮らしていたサンカ(山窩)とよばれる人々の末裔です。夫を亡くし孤独な身となり、障害も持つMさんをかわいそうに思った近所の人が『自分が経営しているアパートに入居させてもよいから、市で保護してあげてほしい』と申し出て、この人と市役所との話し合いでアパート入居となり、以後、福祉課のケースワーカーの訪問をしばしば受けながら暮らすようになったのです」

 ここまでの話なら「美談」といえるだろう。しかし、現実はそうならなかったのである。
「アパートの家主さんは、『Mさんはぜひ、生活保護で措置してあげてほしい』と市役所につよく要望していました。Mさんが障害を持つ高齢者だったからです。そして、てっきり生活保護を受給して暮らせるようになったと思っていたのに、Mさんが亡くなってから部屋に入るとコタツに冷蔵庫があるものの、布団もないありさま。そのコタツや冷蔵庫も近所の人があげたものです。市からケースワーカーが週2日来ていたにもかかわらず、です。『いったい、市役所はMさんにどんな暮らしをさせていたのか』と、近所では怒り出す人もいました」(前出の市民)

 本紙が取材してみたところ、驚くべき事実が次々と明らかになった。まず、東松山市福祉課はMさんに生活保護を受給させていなかった。そして驚くべきことに、Mさんの障害者年金が定期的に振り込まれる預金通帳を市役所が預かっていたのだ。残された通帳によると、その残高は死の直前の4月15日には201万1,649円にもなる。その前の2月18日までさかのぼると、数日おきに数千円から27,000円程度まで(これは振り込みなので家賃ではないかと思われる)、9回にわたって出金されている。

「残高が200万円くらいもある通帳が出てきたというので、家主さんを含め近所の人は驚いていました。まさか市役所がそんなものを預かっているとは、想像もつかなかったものですから。『そんな金を預かっていたなら、なんで布団くらい買ってやらなかったんだ』と、Mさんが不憫でなりませんでした」(同)

 Mさんに対する東松山市役所のあまりに杜撰な仕打ちに、事情を知る市民の怒りは高まるばかりだ。しかし、ことはそれだけにとどまらなかったのである。

市福祉課の常識で考えられぬ不法な「無権代理」行為!
遺産分割協議もないまま個人の遺産を勝手に分配
坂本市政下の東松山市役所は“無法地帯”か?
 Mさん名義の預金通帳から、残高が最高額だった4月15日以降に出金された額と日時等は、表のとおりである(カッコ内は残高)。

Mさんの預金通帳による出金記録(H21.4.15以降)

4月17日   12,000円 (1,999,649円)
4月25日   10,000円
4月25日  400,000円
4月25日      105円  ※手数料
4月26日  500,000円
4月26日      210円  ※手数料
4月28日  500,000円 (589,334円)


 以上は、本紙が遺族らの協力で提供された通帳コピーの記載によるものだ。Mさんが亡くなったのは4月26日。その前日を含め、死後に至るまで3回にわたり、計140万円が引き出されている。

 生前のMさんとよく言葉を交わしたという近所の人は語る。

「Mさんにこんな多くの貯金があったなんて、驚きです。生活保護を受けているとばかり思っていたものですから。でも、なんでMさん名義のお金がこれだけあるのに、あんなにみじめな暮らしを市役所の担当者はさせていたんでしょうか」

 Mさんが市役所の保護を受けた頃から事情をよく知る人は、こう語っている。

「いっしょに暮らしていた兄が亡くなったとき、貯金を100万円くらい引き継いだのです。その後、Mさん自身に支給される障害年金が口座に入金され続けたのですが、Mさんはこれを自分で一向に使えないままで、貯まっていったのです。Mさんは『役所の人がお金を自由に使わせてくれない』ってボヤいていましたが、私たちは『そんなことないよ。ちゃんと相談してごらん』とアドバイスしていました。結局、預金通帳は東松山市役所の福祉課が預かっていて、市の担当職員がお金の出し入れ一切をやっていたのです」

 実は、一見「親切」に思えそうな東松山市福祉課のこの行為は、法を逸脱する重大な誤りだったのである。これについては、後述する。

 それにしても、福祉課の担当職員は、何を判断基準にして大小の金額をMさん名義の預金口座から引き出していたのか。これらの金額の使途について、Mさんの世話をやいていた住民の一人が不審に思い、市役所福祉課に説明を求めた。これらは、東松山市役所が使用している事務箋に書き留められている。

福祉課が説明した「Mさん預金の引き出し内訳」

貯金高   1,989,649円
市役所支出   496,171円
M子支払分   200,000円
H子支払分   200,000円
S次支払分   500,000円
不明金      3,217円
貯金残高    590,261円 (H20.9.30 解約時残金)
S郎支払分   250,000円
寺支払分     60,000円 (高済寺)
現在の残金   280.261円


 ここにある「M子」「H子」「S次」「S郎」は、元々のメモには実名記載されており、Mさんの親族である。なんと東松山市福祉課は、遺産分割協議もないまま勝手に故人の遺した金員を親族に分配したのだ!

 これは弁護士すら正式の委任がなければできない「無権代理」行為そのものである。もちろん、刑事犯罪に該当する不法行為である。

 本紙は、この事実を把握した後、口座を扱っていた銀行支店や行政専門家のもとを訪れ、これまでの調査で明らかになった事実について見解を問うた。銀行支店の担当者は、こう語った。

「亡くなった方の名義である預金口座は、当然銀行側がお客様の死亡を把握すれば、すぐに凍結して出金を止めます。遺族による遺産分割協議の成立を見て、初めて出金させるのが原則です。ただ事情によっては葬儀費用その他で当座の現金が必要な場合、所定の手続きで出金させていただくことになっています。Mさんのケースについては、驚いています。市役所がお客様の預金通帳を預かって出金を代行していたことは、自動支払機を使う限り把握しようがありませんでした。もちろん東松山市役所から当店扱いの預金通帳を預かって管理しているというようなお話は、一切ありません」

 世の中では「振り込め詐欺」が横行している。それゆえ他人名義の口座の扱いは、その代行について厳密にチェックされるように指導がされている。ところが東松山市福祉課は、こんな世間的常識のイロハに属する手続きすら怠っていたのである。

 元行政マンは、こう述べる。

「孤独で身寄りがなかったり、親族が近くにいなかったりする痴呆症や精神障害の高齢者等についてその財産管理を代行するのは『成年後見制度』を活用することになっています。障害や痴呆の程度等によって、後見人、補佐、補助の3通りの代行者・援助者が任命されることになっており、親族かその人の住む自治体の首長が裁判所に成年後見制度活用の申し立てをし、保護を行うのです。これが自治体の福祉行政の基本です。東松山市福祉課は、民法や制度をまったく無視した独断、我流でMさんを『保護』したのであり、これは刑事犯罪に匹敵する大きな誤りです」

Mさん担当のケースワーカーは「坂本市長の親族」
東松山市役所は「犯罪者の伏魔殿」か?
東松山市民よ、もはや坂本市政の転換は急務だ!
 またも犯罪行為である。東松山市役所の中には、財産権を含む基本的人権の尊重を重要な柱とする憲法をはじめ、法律というものはまったく存在しないのだろうか? 

 昨年の官製談合事件、坂本市長と側近らによるリーマンブラザーズ債焦げ付き1億円損失の隠蔽工作や職員恫喝、坂本市長ファミリーによる高齢者配食サービスを舞台にした福祉の「食い物」化、同じく坂本ファミリー・ルートの関与が濃厚な大東文化大学との不可解な土地取引・小学校敷地引渡しなどに続き、次々と腐臭ただよう悪事の片鱗が見えてくる。東松山市役所とは、まるで「犯罪者の伏魔殿」ではないか。

 先の元行政マン氏は、次のようにも述べる。

「東松山市によるMさんの扱いには、驚きを通り越したものがあります。しかし、地方公務員というものは、県レベルでの研修交流も行われ、人事交流もあるので、この市だけが他の自治体と比べてことさら違法行為が多いことを、職員の責任だけに帰するのも変です。むしろ、成年後見制度の適用の鍵を握っているのは、坂本市長のような自治体首長であり、市長が怠慢で職責を果そうとしないため、福祉課レベルで行政行為としては不自然なことが横行している、と解釈することも可能でしょうけれども。それにしても非常識きわまりない。ひとつ間違えば、担当者が横領の刑事犯罪で逮捕される重大な逸脱行為なんですから」

 本紙は、次のような情報も得て、裏づけも得た。Mさんを担当した職員(ケースワーカーK氏)は坂本市長の親族なのだ。週に2回もMさんを担当しつつも、布団すら与えず、いったい何をしていたのか。

「日本一の福祉都市」という目標を掲げつつも、福祉を食い物にし、そして福祉でしっかり守らなければならないはずの弱者をないがしろにする東松山市政。

 いまや坂本市政の転換は、東松山市民にとって焦眉の課題といえるのではないか。市民はいまこそ「主権在民」という言葉の意味をもう一度、よく噛みしめるべきだろう。こんな犯罪的リーダーを選んでしまったのは、他ならぬ東松山市民なのだ。■
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by noanoa1970 | 2010-10-22 11:49 | 歴史 | Comments(2)

いまではスッカリ・・・・

その様な面影は、多分ないように、自分自身でも思うところが多いのだが、たいそう気を使う幼児であったと、記憶をしていることがある。

その頃の近所付き合いでは、たとえば、自分の子供が悪くなくても、悪いことにして誤る・・・そんな方便が一般的のようであった。
少なくとも、小生の生活していた地方の一集落においてであるが。

そして、そういう日常の毎日が、「そうすることが良いことなんだ」「そうすることで丸く収まる」という、事なかれ主義的考え方に、反抗する気持ちはあったが、逆の立場をも垣間見ることで、割り切れぬ納得をしていたようだった。

まだ温度が熱い銭湯の湯船の淵に腰をかけて、温度が低くなるのを待っていた時、遅れてやってきた近所の友達が、挨拶代わりに、小生のおでこをつついたあおりをくらい、まだ熱い湯船にまっさかさまに落ち、御湯を大量に飲みながらも、近所のおばさんに両足を持たれひっぱりあげられた時にも、えあ類のは湯船の淵に座っていた小生だと、母親から言われたことがあった。

そんな生活における、方便的思考が身についてしまったのか、かなり気を使う幼児へと、小生はなっていって、それは両親に対してでも、一時期はそうであった。


小学一年生か、もう少し小さい頃のこと。

朝食は、真中が火鉢が置けるようになっていて、普段は蓋が閉まる、丸いテーブルでとるのだが、母親は一段低い炊事場で、まだ家事の最中。

テーブルには父親と小生が向かい合って食事をし始めた。

その頃、生玉子は貴重品で、おまけに高価であったから今のように毎日食べることがかなわなく、一週間に1~2度くらいしか食卓に出ててこなかった。

卵が必用な時には、鶏をを飼っている辻本さんと云う、近所の家に五〇円持って3個買って来るのだった。

その朝もそうして食卓には卵がならんだ。

父親は、味の素と醤油を加えて、丁寧に丁寧に卵を溶き、熱いご飯の上に卵をかけて、そしてさらに念入りにご飯と卵を、これでもかというほど混ぜてから食した。

そんな、卵という非日常な食べ物の扱い方をしならい小生は、父親の一挙一動を注意ぶかく見守ったのであった。

すると、父親は残りの卵を全部掛けて2敗目を食し、さらに卵の器に少しご飯を入れて、残りの卵をすべて掬い取るようにして、食べたのであった。

小生はそれを見て、器に少し残っている卵は、その様にして食べるのかを知り、自分ではそうしないで、黙ってその器を父親に渡したのだ。

それは父親の満足げな顔が何だか嬉しくなったからであった。

しかし、器を受け取った父親は中を見て「なんだ、何もないじゃないか・・・」そうぶっきらぼうに云ったのだった。

喜んでもらえる・・・そう勝手に思っていた小生は、その時抑えられなくなってボロボロと涙を流したが、多分父親はなぜ泣いているかを知る由もなかったことだろう。

小生は絶対に卵とご飯を完全には混ぜないし、カレーライスを食べる時でさえ、ご飯とカレールーをまぜない。
そして「味の素」を絶対に使用しない。


もう一つの思い出話があって・・・・

それは小生の叔父が遊びに来た時のことである。
叔父は煙草を吸う人間で、小生はいやだったが、その叔父に抱っこされて、高い高いを遣ってもらった。

くわえ煙草のままだったから、何かの拍子に小生の腕に煙草の火が接着し、思わず悲鳴をあげてしまった。

驚いて小生を下におろした叔父と、周辺の人間に対して小生が云った言葉は・・・

「蜂に刺された・・・」であった。

もちろんこのことは、小生のためにと「たかいたかい」をして遊んでくれようとした叔父に対しての気遣いと、その叔父がくわえ煙草で子供を火傷させたという周囲の目から叔父をまもってあげるためであった。

多分水ぶくれができていたと思うから、火傷のあとだと気がつくであろうが、「蜂に刺された」ということになって、其の場が終わった。

もっとも、あしなが蜂あたりは、家の中まで新入することがあって、その光景を見て知っていたから、煙草の火とは分かってながら、とっさに蜂の性にしたのだが。

今思うに、実に子どもらしからぬ気使いをする子どもだったか。
今では其の真反対になった自分の存在に、遠い幼年時代がなつかしく思えるのであった。

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by noanoa1970 | 2010-09-21 12:29 | 歴史 | Comments(2)

Françaises Libresド・ゴールとチャーチル・・・「ナチスドイツ フランス侵攻の30日」

ド・ゴールとチャーチル・・・「ナチスドイツ フランス侵攻の30日」が放映され、久しぶりにくぎ付けとなって最後まで観てしまった。

歴史は嫌いなほうではないが、ヨーロッパ戦線については、フランス西部戦線が舞台の「コンバット」あるいは、イタリア戦線を舞台にした米国陸軍のTV番組「ギャラントメン」でしか、其の知識がないのが実状だ。

しかしこれらは、いずれも戦時の兵士の日常を描いたものだから、大局的な動きは残念ながら伝わってこなかったし、時代背景はすこし後の米国参戦以後のことである。

それで小生、恥ずかしながら、今の今まで・・・特に「パリ陥落」に象徴される、ナチスドイツ・・・ヒトラーのヨーロッパ支配の実状を知らずにいたのだ。
そして、それに伴うフランスレジスタンス運動の原点がうかがい知れるのではと、大変矯味を抱いた次第。

ヴィシー政権ペダンとの確執、そしてイギリス亡命。
イギリスBBC放送を使用した徹底抗戦プロパガンダ。
チャーチルとの政治的信頼関係。

面白かったのは、イギリス・フランス連合国の成立を図るところで、こんなことが秘密裏に行われていたという事実であった。

観ながら思い出したのが、高校の古典の女先生が語った言葉。
「ルーズベルトのベルトが切れて、チャーチル散る散る首が散る・・・・」
戦時中女学生だったという、古典の臨時教員は、当時だれもがこんな歌を口遊んだというのであった。

その女先生、凡河内 躬恒(おおしこうち の みつね)の発音が、(おおしこうち みつね)とは聞こえなくて、(おおしこうち のみつね)・・・「のみつね」と聞える発音だったから、小生かなり長い間「のみつね」とおもっていたのだ。

漢字を見たが「のみつね」と呼んでもおかしくないと思っていたから、まさか出所を表す「の」だとは創造だにしなかったのである。

以前の古典の先生は、小生の名字を間違えることなく、正しく発音した・・・生涯で唯一の人物であったから、そしてその出典が万葉集からだと云ったから、尊敬の念を抱いていたのだが。

古典の代理教師の老女先生は、これと云って面白くも何ともなかったが、女学校時代に口遊んだという「チャーチル散る散る・・・」だけが印象的であった。

ネットで調べると、やはりその歌は実際に唄われたらしく、「ルーズベルトのベルトが切れて、チャーチル散る散る国が散る、出て来いミニッツ、マッカーサー」とつづくのだそうだ。

そしてそのメロディーは、「ツーレロ節」=「シャンランぶし」だったという説もあった。


話しはずいぶんそれてしまったが、放送の中のチャーチルが、吉田茂とよく似ていること、それが風貌と政治姿勢とリーダーシップのすべてにおいてであることに気がついた。

有事の際、我が国のTOPはどのように決断し、国民を導いていけるのだろうか・・・かなり不安にさせられることに、なってしまった。

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by noanoa1970 | 2010-09-21 11:34 | 歴史 | Comments(0)