最大のコンプレックス

いろいろあるが、やはり最大のものとしては、音楽表現ができない・・・つまり楽器がろくに演奏できないということだ。

思えば感ずるところあって、小学3年生の時、「バイオリンを習いたい」と両親に告げると、母親は賛成したのだが、父親は「学業がおろそかになる」といって反対した。

初めて自らやりたいことを告げた少年のぼんやりとした希望は、無残にも父親の威厳の前で、その瞬間収縮してしまったのだった。

その後小生は、もっぱら聞く人になって長い時を過ごすことになったのだが、今も残念に思うのは、あの時何が何でもバイオリンを・・・といわなかったのかと、今でも悔やまれる。

そうであったなら、別にバイオリンで生計を立てなくても、学生オケや社会人になっても、地方のアマオケに入って、音楽を表現できた可能性があった。

父親は小生の音楽への要求をはねのけたが、妹のピアノには賛成し、3歳のころからピアノを習わせ、個人レッスンも付けさせた。

妹はいつもいやいやピアノの前に向かい、時には泣きながらレッスンしていた。
おかげで小生は、ツェルニーやハノン、ブルグミューラー等のメロディをいつの間にか、覚えることとなった。

そんな妹は、途中でピアノから声楽へと種目変更し、音楽専攻科のある高校から、音楽大学に進んだのだが、卒業するやまた一般教養女子大に進みたいといい、2度も大学生となった。

卒業後しばらくYMAHA音楽スクールの講師を経て、個人のピアノ教室をやっていたが、結婚してその後音楽とは縁のない生活をしている。

聞くだけ人間の小生としては、何か楽器をと、フルートを購入し、大学オケに入って塩素ぷ回に出たいと思っていたのだったが、いざ入部してみると、フルート人口はものすごく多く、ほとんどが高校時代のブラバン出身者で、小生のような全くの初心者はいなかったから、jこれは付いていけるはずもなく、すぐに諦めた。
そして同時に入部したDRAC=同市は大学レコード音楽研究会の席を埋めることになったのであった。

今小生ができる楽器といえばギターであるが、それは出来るといえたものはなく、コードを頼りに、フォーク系の簡単な楽曲を、パラパラ弾く事が出来るだけなのだ。

さて楽器コンプレックスというと、小生の場合単にそれだけではなく、実は小生の親類縁者の中には音楽関係の人がかなり多いことにもあって、それもその大きな原因となっているようだ。

小生の伯父は法医学の医者なのだが、そお嫁さんは、四谷文子に師事し、毎日音楽コンクールで優勝の経歴を持つアルト声楽家で、その息子は東大を卒業して(これもコンプレックスといえばそうかもしれぬが)IBMに入社したしたのだが、すぐに退社して、今は練習指揮者やマイナーオケの指揮者を務めている。

どうやら東大時代学生オケで、チェロを弾いていたから、社内オケを持つIBMに最終的に決定したようだが、すぐに夢は破れたようだった。

彼は母親が声楽家であった関係で、極小さい時からピアノをやっており、腕は相当たしかっだったようだ。
彼の弟はやはり東大を卒業し、大手の重工会社に就職したが、やがて信州諏訪の、小さいが有名な、もてなしの宿の娘と結婚し、現在は旅館の主人として生活している。

さてさらに、小生の父親の従兄の奥さんという人は、瀬戸遥子といい、かつて新日フィルのコンマスをしていたという凄い人。
小澤征爾とはかなり親しかったと聞いている。
現在は多くの門下生を持ちながら、確か愛知県立芸術大学の教授をしていると聞いている。

さらにさらに、小生の父親の父親方の従兄(学者)の息子は、現在 名古屋フィルのバイオリンパートのリーダーという存在である。

小生の母親の兄は、上野音楽学校・・現在の東京芸術大学を卒業し、家庭の事情から音楽の教師となったが、若くして亡くなってしまったが、小生が最も音楽の薫陶を受けたのは、この叔父からであった。

親類縁者は小生の家庭とは違って、医者や音楽関係者が多く、しかもほとんど全員が国立大学卒業者。

小生の父親は旧帝国大学の卒業であったことと、トヨタG2番手の会社で、労務人事総務端の責任者をやってきたこともあって、大学は国立でないとダメだ・・・そういう感覚の持ち主であった。

最もそのころのトヨタGのほとんどは、大卒新入社員は、名古屋の国立大学閥を中心に、旧帝国大学の出身者で占められていたようで、たまに有名私立大学出身者を採用したときには、国立卒と私大卒の比較をして話すことがあった。

組織に忠実、上の命令遵守、トッピなことはやらない、そんな国立大卒の傾向は、当時の比較的大きな会社では、採用の基準でもあったのだろう。

高度成長期の間には、そのような人材でもよかったが、それを過ぎて、しかも製造と販売両方で成り立つ会社では、そんなことは行っておれなくなった。

小生が2度目の会社として選択した、外資系のOA機器製造販売会社では、そのような国立大重視の考え方はとっくに無くなっていて、私大の比率がすごく高かった。

小生は中途採用だが、面白いエピソードがある。
長くなるが、思い出したので・・・・

小生の同期入社に、前職が秋田の田舎で郵便局員だったEという男がいる。

面接の知らせが来たが、彼は今までビジネススーツというものを着たことがなく、取り急ぎ揃えたのだが、靴は買い置きしていたものを履くことにした。

なんとその靴は白色で、スーツとは全く相いれないものであった。
彼は全く躊躇なく、皮靴だからこれでいいだろうと、勇んで面接におよんだ。

面接官は、人事担当では無く、現場の責任者で占められており、人事担当者はあくまでバックヤード・・そんなところも一般の会社とはかなり違っていて、ある営業現場の課長クラスの面接官の一人Mというひと、そのEの白い革靴画目に入り、全く不似合いなものを堂々と身につけている、そのユニークさを買って採用としたのだった。

この話はそのM課長が後年、われわれの所属する営業部に配転されてきて、当時の面接の裏話として語ったものだ。

さて話を戻すが、どういうわけか小生の親類縁者は東大卒業者が多く5人もいるし、しかも他のほとんどが国立大学卒業者で、医者も3人いる。

サラリーマンが少なく、小生の父親と従兄の一人だけで、後は音楽関係か医者か学者、後は公務員で占有されている。

私大卒業者は、ほとんど小生だけという・・・それも今では意識はないが、かくれたコンプレックスとなっているのかもしれない。

今思えば、父親は弁護士か裁判官になりたかったようで、「ジュリスト」という専門雑誌を読んでいたようで、ああるとき押入れから大量の雑誌を発見したことがあった。

父親は長男であったから、祖父の退官後、すぐに大家族の妹弟の面倒も見なければならないという宿命から、大学卒業と同時に就職し、何らかの稼ぎが必要であったのだろう。

大学院の希望や司法試験という長期に渡る非生産の身の上は許されなかったのだろう。
それに引き換え、すぐ下の弟は、法医学専門のの医者となった。

そういう長男の堅実さが、至る所に現れ、小生の進路・・・大学進学についても、国立大学へといい続け、それはものすごいプレッシャーとなったし、大学進学の一番の希望であった南山大学の人類学を専攻し、考古学をやりたいという希望もかなえられず、法学部か経済学部のどちらかを選択させられることになった。

しかし最大のものは、「楽器が演奏できない」ということであり、何度もチャレンジしようと思いつつ今までなにも手を打つことなく、その世界に参加することができないでいる。

しかし音楽を聴くことの量と質は、かなり自信があるのだが、時として、楽器コンプレックスが顔を覗かせる。
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by noanoa1970 | 2009-09-30 11:10 | 家族の肖像 | Comments(2)

墓参り

墓参りに行ってきた、といっても、いつもの木曽ではなく、家内の実家の墓どころにだ・・・すなわち義父と義母がここに納骨されている。

場所は富山県砺波軍福野町、現在は南砺市となっている。

高速道路1000円を利用して、桑名から大垣ICまで、途中から東海北陸道経由砺波IC~福野へと向かう約250Kのドライブである。

福野町の「本福寺」が義父の実家で、その寺の持仏堂(納骨堂)に義父も義母も納骨されている。
もっと頻繁にお参りしなければならないのだが、福野はあまりにも遠すぎるから、小生の先祖の木曽の墓に分骨して、こちらにはたびたび・・・・つい先日もお墓参りに行っている。

しかし家内はやはり「本福寺」に行きたいようで、東海北陸道全線開通と、高速道路料金割引の誘惑もあって、ついに出かけることにした。

初めて知ったことだが、お花を入手に立ち寄った店先には「甲子園出場おめでとう」のポスターが貼られていて、富山県立南砺総合高等学校福野高等学校が甲子園初出場することが分かった。

町はどこもガランとしていて、これはひょっとしたら、町内の人が大勢甲子園に駆け付けたのではないかとも思ったが、まさかそのせいではないだろう。

「本福寺」を守る家内の従兄家族も、恐らくはお盆前の休暇だろう、不在であったが、勝手知ったルところゆえ、持仏堂の鍵を開けて、枯れたお花を取り換え、お線香を揚げた。

所謂石造りの「お墓」は存在せず、「本福寺」関係の親戚は、代々持仏堂に納骨されている。

持仏堂にはかなりの故人が納骨されていて、やや狭くなってきたようで、今後増えたときのことが心配ではある。

持仏堂は骨壷がそのまま置けるようになっているから、一般のお墓よりは少々リある。
したがって故人を偲ぶ気持ちも、心なしか強くなるようだ。

持仏堂はかなり古いもので、少々傷みもあるが、石ばかりの墓地の中ではただ一つ、木質の異彩を放っている。
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帰りは北陸道をひた走り、長浜ICで降り、勝手知ったルルートで、関ヶ原~上石津を経由し、桑名まで。

合計550Kとほとんど運転していた勘定になるが、それもたまにはよいものだ、しかし寄る年波には勝てないもので、未だ腰が痛い。

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by noanoa1970 | 2009-08-08 15:15 | 家族の肖像 | Comments(0)

名前の由来

小生の名前は「治憲」という。

名前は祖父が付けたと、小さいときから聞かされてきて、父親からは、名前の由来を、昭和22年(1947)5月3日、日本国憲法が発布されたからと聞いていた。

小生は23年生まれだから、こじ付けだろうと思って、しらべると、以下のようなことが分かったから、まんざらこじ付けでもなかったようだ。

「日本国憲法が発布記念して昭和23年7月の「 国民の祝日に関する法律」で、この日が祝日と定められた」・・・この日とは5月3日の「憲法記念日」のことである。

1948年5月3日は確かに憲法記念日であるが、小生は1948年3月に生まれたのだから、
それよりも2ヶ月早い。
はたしてこれも正しいかどうか、良く分からないが、命名が何時のことかが分かればハッキリするのだが・・・・(生まれてから2ヶ月もたってから命名したのだろうか?)

団塊の世代の一部の人は、「憲」という漢字を当てた名前が多いという話もある。

小生は長い間、この名前の由来をそのように信じてきたのだが、あるときこれはどうも胡散臭いと思うようになったのである。

小生の父親は大正生まれ、法律を学んできた事から、一次は法曹関係に進みたかったのだが、事情があって民間の鉄鋼製造メーカーの労務畑に就職した。

朝鮮特需の最中で、会社は忙しく、さらには朝鮮特需によって引き起こされた労働者へのしわ寄せから、労働運動が活発となり、左派色を強めた労働組合が、組合をしきって会社と決裂するのを抑えることに奔走したそうだ。

今でも「〇産党」に、激しい嫌悪感を抱いているのは、そのときの心身の苦労からであろう。

小生は昭和23年3月、愛知郡鳴海町、現在の名古屋市緑区鳴海町という、東海道の宿場町の古い閑静な住宅地で生まれた。

父親は鳴海から、文化的には遠いが、距離的には近い知多半島の付け根の、聚楽園という小さな海沿いの町に出来た、〇〇製鋼という会社に就職し通っていた。

ここは海を埋め立てた土地に、近くに名古屋港があったせいか、大きな製鉄会社が3つも参入して現在に至っているところ。

小生が生まれると直ぐに、実家の鳴海の家を出て、聚楽園の荒尾という集落で、会社の近くの農家の離れを借りて移り住んだ。

荒尾の「加家」というところで、風呂は知り合いの家に、もらい風呂をしに行くという生活で、垢で汚れたような湯船に漬かるのを、「今日は湯船に入るな」といわれた覚えがあるという悲惨なときもあった。

d0063263_10471272.jpg「平州保育園」から「平州小学校」へと進むことになったのだが、この学校は郷土の学問の師「細井平州」に因んでその名が付けられた学校で、先生やPTAの役員が、有りとあらゆる場で、ことごとく「平州」の業績の偉大さを話すのを聞かされてきた。

記憶には、「細井平州」は尾張藩校・明倫堂(現在の愛知県立明和高等学校、小生の頃は旭丘と並び、愛知県下の優秀校だった)の初代督学(今の校長)となったという。
そして「明倫堂」という言葉が今でも耳に残っている。

鳴海から、父親が勤める鉄鋼関係の会社のある聚楽園に、小生が生まれて間も無く引っ越すことになったのだが、この聚楽園という町の引越し先「荒尾」という集落こそ、「細井平州」を排出したところであった。

小生の祖父の祖父・・・すなわち小生の高祖父は、長野県の木曽谷の「原野」という集落の庄屋をやっていたが、あるとき次男に家督を譲って、自ら江戸に赴き学んで帰ってくるや、全財産を投じて木曽駒高原の山間地を農作物が栽培できるように開墾し、努力が実ることなく挙句に破綻した人である。

「細井平州」は「農民にも学問を」といい「塾」を開いたが、高祖父「三羽」という人も、「開化亭」という、農民達とのサロンを開いたという。

そして儒学を学び、自ら多くの和歌を詠んだ人でもある。(小生の手元には、高祖父「三羽」が、紙にも事欠いていたのだろう、紙の両面を使って和歌が書き留められているものが残っている)

祖父から見れば、祖父の祖父「三羽」と「細井平州」は、イメージがダブルものがあったのだろう。

d0063263_10483085.jpg「上杉鷹山」という人は、誰でもその名を聞いたことがあると思うが、実は、「鷹山」は、十六歳で元服のとき、将軍徳川家治より諱の一字をもらって「治憲」と名乗り、「鷹山」という名を用いるのは総髪した五十二歳の時から・・・と有るように、正式には「上杉治憲」という元服名:諱(いみな)なのだ。

この「上杉治憲」に質素倹約を説いたのが「細井平州」。
「細井平州」の勧めに、藩の経済再建を目標に積極的な殖産興業政策を実施し、田畑の開墾、桑・楮・漆などの栽培、養蚕・製糸・織物・製塩・製陶など新産業の開発に力を入れ 自ら先頭に立って奨励につとめた「上杉治憲」と高祖父「三羽」は、祖父の中で恐らくダブって見えたのだろうと思われるのである。

「三羽」は、規模は小さかったろうが、製塩・製陶以外は「上杉治憲」の取り組みに詫匹敵することを手がけていたのだった。

祖父は林野庁の役人だったこともあって、アチコチ転勤したと聞く、恐らくこのあたり旧米沢藩の「開墾事業」についても調べていた形跡があるし、祖父は父親から高祖父のことも聞いていたのだろう。

失敗したが、その基礎は作られ、今では立派に米さえ作れる農地にもなっている木曽駒高原開拓の先祖の偉業を、藩の復興のために生涯を捧げた「上杉治憲」の偉業にダブらせることは、かなり高い確率で考えられることである。

祖父、高祖父、聚楽園荒尾、「細井平州」、「上杉治憲」、そして憲法発布の記念の祝日の制定日23年7月。

祖父は、このあたりの事象の複合体から、小生に「治憲」という名を命名した・・・

小生は、「憲法発布」を記念してというしか、父親からは聞かされて来なかった、自分の名の由来について、このようなことが隠されていたのではないかと、大いに推測している。

そして何故父親ではなく祖父が命名したか・・・それについても不思議に思うことがあるが、それは永遠の謎である。

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by noanoa1970 | 2008-07-23 10:48 | 家族の肖像 | Comments(0)

放蕩息子の帰還

東京から息子がGWに帰ってくるという。
車だから、混雑を避けて間のウイークデイでのことだ。
メールで送ってきたスケジュールには、東京に持っていったAV機器を全部持って帰るとかかれてあった。
結婚してもう数年になるが、部屋が手狭なので活用することが無く、ほとんど押し入れに仕舞いっ放しになっていたのだが、その押入れの中も・・・物が増えてきたせいで、AV機器類が邪魔となったそうである。

スピーカーが3種類、アンプが1つ、LDプレーヤーにDVDプレーヤー、それにプロジェクターと、100インチスクリーンだから、相当な物量となる。
そのまま持ってこられては困るので、小生の部屋を片付ける条件で、許可を出した。

それで昨日1日がかりで、不要品を処分し、棚を整理して可能な限り収納し、スペースを作って、昔のようにAV環境を整えることが出来た。
ゴチャゴチャだったオーディオ機器類の配線なども整理でき、部屋全体が少しスッキリした。
1日を費やしての力仕事だから、小生一人ではとてもやりきれないし、第一やろうという気持ちにならないから、これを一石二鳥というのだろう。

これで昔収集したLDも大型画面で見ることが出来るし、サラウンドも楽しめるし、ピュアオーディオと完全に分けてあるので、影響も無い。

うれしいのは、パイオニアの名機とうたわれたCLDーHF9Gが余ったので、独立CDプレーヤー部分を生かすべく、ピュアオーディオに接続し、2系統のCD出力があるので、それぞれピンケーブルを変えて、音の違いを楽しめるようになったこと。
この当時のオーディオAV機器は作りがシッカリとしていて、銅版のシャーシを使ていて重量があり、新しいほうのもう一つのLDプレーヤーの2倍の重量がある。
CDの音質も単体の中級CDプレーヤー以上の力を発揮する。

さすがにビクターSX-500SPでは、オーディオ似使用するには力不足だが、AVアンプでイフェクトして聞くと、かなりのもの。

100インチスクリーンはさすがに小生の部屋でも大きいから、東京の狭い住居では土台無理な話であるから、里帰りする運命にあったのだろう。

この扉面に100インチスクリーンを設置する
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設置し、スクリーンを開いた状態
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VICTOR:SX-500と、YAMAHA:NS-1000MM
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新しく増えたAVアンプ、LD,DVDプレーヤー
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下がパイオニアCLDーHF9G・・このCD部分をピュアオーディオシステムに接続した
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パナソニックの液晶プロジェクター
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写真真ん中に見える背の高いのが、リアスピーカーとして使用したYAMAHA製のもの
今まで部屋の四隅にただ立っていただけであるが、今回活躍の場を得ることとなった。
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おかげで正面の棚がスッキリ、レコードもCDも、そこらにあふれることがなくなったが、棚の上部に置いたLPレコードを取り出すのが困難になった
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by noanoa1970 | 2007-05-04 11:07 | 家族の肖像 | Comments(0)

先祖の肖像・高祖父「三羽」が遺したもの

島崎藤村により、高祖父「三羽」は「河合定義」として、かなり変形されて書かれており、実像の人物像は、藤村によって歪曲されて書かれていると、指摘する研究者もいるし、島崎藤村『夜明け前』における木曽山林事件の虚実<林業経済史の立場から>という西川善介氏の指摘もある。端的に言えば、藤村は島崎家の身分を代官並みの扱いとした上で、文中青山半蔵=島崎正樹=藤村の父が出したと書かれる4通の嘆願書は、実は島崎家のかかわりはまったく無くて、小生の高祖父を含む木曾谷の中ほどの村落・・・奈川村、荻曽村、藪原村、菅村、原野村、末川村、西野村、黒沢村、王滝村、三尾村の総代によるものであるという指摘がなされる。
つまり青山半蔵=島崎正樹の村落の馬籠はその嘆願書の提出村落の中に含まれてないということである。

藤村が地方史や伝聞、古書などをあたり、また木曾谷各地の取材をしたことには間違いないが、あくまで藤村の「夜明け前」は小説であり、史実とはいえない脚色されたところがある・・・特に御料林事件のくだりにおいては、史実と異なるが、後世藤村の小説を史実のように勘違いしていることに、懸念を示したものである。

人物像においても、小生の高祖父への言及は、年齢も違うし、思想心情も違うようにかかれるのは、ひとえに「島崎家」あるいは「島崎広助」(小説では24歳だが事実は20歳・・・河合定義とだれる高祖父はこのとき54歳、請われて広助を補佐した立場であったが、小説では広助をそそのかしたように書かれる。高祖父はこれ以外にも依頼されて総代として別の嘆願も提出し、東京にも赴いている)
ある研究者は、高祖父三羽に依頼が強く来た理由として、木曽から東京へ長きに渡り出奔し、一条宮門跡に使えるとともに、勉学は勿論、東京の情勢を知っていた数少ない教養人であったからであるとする。

高祖父は、勘左衛門→正晁→三羽と名を変えたが、木曽駒ケ岳山麓の農地開墾に携わる中「皆可亭」という名前の住居を作り、幾人をも招いて「観月の会」などを催したという。
彼の残した・・・・和紙の両面にびっしりと書かれた和歌の一部が小生の手元にある。
それらの中には、荒れた土地に住まいして開墾に励みながらも、明日への希望と、自らの人生を肯定的に受け止めながら、周囲の自然をめでるといったものが詠まれている。

残された和歌から数点挙げることにする。
・夕べ夕べ草葉にのぼる白露の光涼しきころにもあるかな

・おのがじし声のさまざま鳴く虫を千草の花の陰に聞くかな


・すぐなるをおのが心の暮竹とよのうきふしにならはざるなん

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by noanoa1970 | 2007-03-01 11:56 | 家族の肖像 | Comments(0)

祖先の肖像4・・・木曽御料林事件の背景

木曽福島町史 第2巻 現代編Ⅰ 昭和57年 木曽福島町役場発行に、「島崎広助」、と小生の高祖父・・・小説での名前「河合定義」が訴えを起こした「事件」の背景となる記述を発見したので、参考としてあげておくことにする。
簡潔にまとまっており、分かりやすい。

太閤検地から江戸時代尾張藩の管轄になっても、木曾谷の農民は、他の農民よりも年貢の負担が軽かったという事実が、ある研究者の手で明らかにされている。
それは恐らく建築などのインフラのおおもとの木材供給を引き受け、山を林を守る民の位置づけを、「お上」が暗に認めていたからであろう。
その上・・・森林管理の代償として、年貢(米)の納付高の軽減と、入会地とされる山林へは自由に立ち入って、生活の必需品を収穫することが許されていたようである。
ところがそのような生活が、明治政府の様々な命令によって、不可能にならざるを得なくなった村民は、新しい世の中への期待が完全に裏切られたとして、江戸時代への回帰を夢に見つつ明治政府に対しての反発・不満を持つにいたったのだろう。「夜明け前」で語られるものは、このような意識の流れがいつも底辺にあるように思われる。

高祖父は、訴えを起こす前に、明治政府の「地租改正」による税負担が重くなることを察し、このままでは村民の暮らしがままならぬことを悟ってか、今まであまり重要視されてこなかった「農業」を見直し、発展させるべく、農地の開墾作業に取り掛かっていたということだと思っている。

以下引用
尾張藩の林政と木曽美林

〔果たして圧政だったのか〕

木曽国有林といえば「ヒノキの美林」として余りにも有名です。その美林成立を物語る時、必ずといってよいほど話題になるのが「木一本首ひとつ」のたとえ話です。
この言葉は江戸時代、木曽を領有していた尾張藩の山林保護政策がいかに厳しいものであったかを示すたとえとして、これもまた有名すぎるほど有名です。

四国の香川県一県の面積に相当するといわれる木曽谷は、その95%が山林で、尾張藩はこの広大な山林を全部藩有林とし、住民の私有は許されていませんでした。
尾張藩では山林の保護制度として、巣山(すやま)・留山(とめやま)と呼ぶ禁伐林を設けて住民の立ち入りを厳禁し、また停止木(ちょうじぼく)と称して、ヒノキ・サワラ・ネズコ・アスヒ・コウヤマキ・ケヤキの六木を禁止する制度をとり、禁伐林の木を盗む者を「盗伐り」(ぬすみぎり)、停止木を伐る者を「背伐り」(そむぎり)として厳罰主義をもって住民に臨んでいました。ヒノキ一本を盗んだだけでも首が飛ぶといった厳罰をおそれたのが、「木一本首ひとつ」の言葉の由来だと伝えられてきたものです。

尾張藩の圧政に苦しめられた木曽谷の住民。こんなイメージをもたれる人もさぞ多いことでしょう。
しかし、江戸時代初期における1~2例を除き、盗背伐者が極刑に処せられたという事例は、記録にはほとんどでてきません。
また、住民の立ち入りを絶対禁止したといわれる巣山・留山(木曽全郡で59箇所)の面積は、木曽全林からみたらわずかにその7%に過ぎず、これ以外の山林は明山(あきやま)といわれる開放林でした。

〔繁栄する木曽谷の経済〕

住民は明山へ自由に立ち入ることを許され、日常生活に必要な家作木(かさくぼく)[建築用材]や薪炭材・柴草・干草、食糧の補いにするクリ・トチ・ナラの実(ドングリ)などを採取することを公認され、停止木である六木以外の木材なら、誰でも自由に利用することができました。

このため、江戸時代における木曽谷住民の生活水準は、他の藩の農民と比べ高くとも、決して低いものではありませんでした。当時の木曽谷は中山道の要衝に位置し、木曽十一宿があり、その交通所得も宿場町の発達につながっていったのです。
桧物細工(ひものざいく)[木地・漆器など]、木櫛・桧笠・下駄などの木材加工業による収入が大きく、当時としては驚異的な数字である1万5千人の人口を擁して繁栄していたのです。
そして、この消費都市である宿場町を控えた周辺の農村の約2万人の人たちも、藩行(はんこう)伐木に従事する杣(そま)・日雇(ひよう)などの林業労働による収入、木曽馬の名によって知られた畜産、宿場町への家作木や薪炭材の供給などによる収入が少なくなく、郊外農村的要素をもって、貨幣経済が流入し、比較的経済基盤が安定していました。宿場町の奈良井・平沢・八沢(福島)では、住民の生活資材として毎年尾張藩から無償で給付される「御免白木」(ごめんしらき)と呼ぶヒノキの割材を使って、木曽谷特産の市漆器を生産していましたが、こういったヒノキの特別利用のほか、開放林である明山から伐り出した雑木を利用した木材加工業も発達していました。
歩く商品として経済性の高かった木曽馬の生産も、明山に含まれる草刈場からの飼料としての干草が確保できたことのよって可能になり、莫大な量に上りました。
また、不安定な食糧事情にあった木曽谷では、クリ・トチ・ナラの実・ササの実(野麦)や、わらび粉・くず粉・かたくり粉にいたるまで、みな重要な食糧になっていましたが、これもみな広大な明山から自由に採取していたものであり、馬の飼料として笹の葉も毎年、相当奥地まで入り込んで採集していました。


〔木曽美林を生み出した尾張藩の山林保護〕

このように見てくると、尾張藩が明山のヒノキをはじめとする停止木を厳重に保護しながらも、いわゆる停止木以外の立木の伐採を許可し、これを利用させるといった、木曽山林の約93%に及ぶ明山を住民に開放していた林業政策が、木曽谷住民生活安定に大きく結びついていたことによるものだとうかがいしることができます。
明山から雑木類がおびただしく伐り出されたということは、停止木であるヒノキをはじめとするいわゆる木曽五木の生育のための障害木が徐伐あるいは間伐されることになり、「五木を残し、雑木を伐れ」と住民に山林利用の活路を明山に求めさせた藩の施策は、労せずして自然のうちに一種の整理伐作業を推進させ、結果的には今日みられる木曽美林を生み出すひとつの要因となっているものとみることができます。
こうした観点から木曽国有林の成立を見るならば、「木一本首ひとつ」の恐怖林政によって成立したとする木曽山に対する歴史観は見直さなければならないことになります。

〔明治時代の林政と御料林事件〕

しかしながら、尾張藩が木曽山林のすべてを藩有とし、明山の入会権は認めていたものの、私有は一切許さなかったその政策は、明治維新後の官民有林区分に当たって、木曽谷住民に大きな不利を与えることになります。尾張藩有の木曽山林のほとんどが官林に移行されたからです。明山まで官林に指定されれば、住民の立ち入りは禁止され、生活の糧を失うことになります。

この官民有林区分に対して、反対のノロシを上げたのが、明治の文豪島崎藤村の兄、島崎広助です。彼は妻籠宿本陣の当主。御料林事件と呼ばれた事件解決に向け、木曽谷住民の先頭にたって奔走しました。
しかしこの時期、官林が天皇所有の御料林に指定されたことから、運動は困難な局面を迎えます。明治時代の天皇は現人神。反対を唱えることは、天に弓引くことだったからです。しかし広助はあきらめることなく粘り強い交渉を続け、結局御料林の決定は覆すことが出来ませんでしたが、御下賜金という形で解決をみることができました。

高祖父の名前が登場しない不満はあるが、その名前は「農地開墾の士」として、他の資料ににて記されている。また高祖父の本願地は「日義村」で、「福島町」とは行政が別であったことにも起因するのであろう。
(現在は長野県木曽郡木曽町としてどちらも併合されたから、ゆくゆくは統合され町史に記載されることであろう)
    
昭和57年木曽福島町史 第2巻 現代編Ⅰより参考  
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by noanoa1970 | 2007-02-28 16:15 | 家族の肖像 | Comments(0)

祖先の肖像・・・3

少し長くなるが、「夜明け前」下巻から問題の箇所を抜書きすることにする。
「夜明け前」の主な登場人物は、平田派の国学思想に基づく「王政復古」思想を強く持った庄屋・本陣の職である「青山半蔵」。
「宗太」は 「半蔵」の長男、18代目島崎家を継ぐ島崎秀雄であり、「正巳」が下に引用した文章にある・・・半蔵の次男で、3才の時妻篭の本陣「青山寿平治」へ養 子に出 て、妻篭島崎家を継いだ人である。「島崎広助」である。
藤村は「夜明け前」で、実際の「島崎家」をほぼ忠実に書いたとされている。
下記引用箇所は、「藤村」の次兄「正巳」=「島崎広助」について語った箇所で、父「半蔵」、兄「宗太」との性格、心情、思想の違いを強く出しているところでもある。
そして、彼については「木曽御用林事件」の顛末に触れることにより描かれる。

文中黄色文字で示したところが、小生の4代前の高祖父のことである。勿論姓名は変えての登場であるが、ある研究者によれば、・・小説では24歳と設定されているが、実際は20歳の若き「島崎広助」を補佐する立場で、あるいは木曾谷の村々の代表として、陳情書に「広助」と連名で署名し、提出したという事実が残されているというから、間違いない。
このとき高祖父・・・小説での名前「河合定義」は54歳であった。
小説では「広助」が自由党びいき・・・すなわち時の政界に関心があったことを思わせる記述がある。

文中、戸長≒村長の立場には無いものが、村々の「総代」として立ったことに対する半蔵の懸念が語られ、「若気の至り」風に語るが、実際はそうでなく、木曾谷の村民上げての依頼であったとする、文中「河合定義」(かわいさだよし)の研究があり、豊富な資料を基にした、彼の詳細なプロフィールを語っている。彼はそのときすでに50台の半ばであり、庄屋職を辞し、女房子供と離縁してまで、(尾張徳川の指令による、公武合体の情報収集活動の蜜命を帯びたのか、江戸の推進派の公家のもとに赴き、時を経て木曽に戻るとその経緯を語る)・・・・つまり、かなり危険な立場の仕事をしたとされる。
木曽に戻ってから「木曽御用林事件」に関与するのは、太閤検地から徳川まで連綿として続いてきた木曽林の入会地入植権利が、新政府の「地租改正」により、没収され「官林」となったのを期に、それまでは米、野菜などの主要農作物に乏しい荒地を、全財産を投じて、開拓する最中のことであった。

上の写真は、その功をたたえ記念してその地の住民によって立てられた石碑である。
開拓地は、木曽駒ケ岳山麓からの冷水で、米作は失敗の連続、肥料に乏しく開拓は途中で行き詰ったが、後年化学肥料や溜池設備によって水温が上昇し、土壌が豊かになった時代になって、彼の開拓した土地は、木曾谷でも有数の稲作地となった。彼が中心となって開拓した土地は、借金と地租改正によりそのほとんどを手放さざるを得なく、代々続いた庄屋の地位も、維新と借金で土地建物を全て手放すこととなった。

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現在残されているのは、高祖父が開拓した土地に「皆可亭」と名付け、開拓の傍ら花鳥風月月に親しんだと身ゆる、付近に残されたわずか100坪足らずの小さな土地、そこには彼が植えたのであろうか、枝垂れ山桜の老木が1本長い風雪にも負けないで、今も4月の末から5月初めには、薄墨色の小さな花を見せてくれる。
周囲の自然は変わったが、しかしまだところどころに、高祖父が実験的に植えた「アスパラガス」「ホップ」「ハッカ」「クワ」を見ることが出来る。

小生も小生の父親も直系の長男・・・いわば跡継ぎの立場であるのだが、一度も本籍地である木曽で住まいしたことが無いのに、小生の祖父の妹と娘=小生の父親の従兄弟は、一生涯木曽に住んでおり、冠婚葬祭や墓のお守りなどを積極的にやってくれた人であり、曽祖父、高祖父の話を伝え聞く人であったが、その人たちもすでに亡くなってしまった。

しかし小生の手元には、小生が直系ということもあって、10年ほど前に木曽に行った時に預けられた高祖父の和歌・・・・紙にも事欠いたのか、薄い和紙の両面にかなり多くの和歌が達筆でしたためられたものと、漆塗りの小さな「膳」・・・聞く所では、娘の結婚に際して、何も持たせるものが無かったのか、高祖父自ら作成した物だという。親戚の家に保管されていたものを探して収集したものだそうだ。

先祖の遺産は、わずかな土地と桜の古木、そして和歌と手作りの「膳」にしか過ぎないが、木曾谷に何らかのメリットを創造した人物であったことは確かである。小生はこの話を残しておく義務があるyのではないかと、最近強く思うようになってきている。
もう少し整理して、ブログに残しておきたいと思っているのである。

以下「夜明け前」より引用    
『次男正己は妻籠の養家先から訪(たず)ねて来て、木曾谷山林事件の大長咄(おおながばなし)を半蔵のもとに置いて行ったことがある。正己の政治熱はお粂の夫(おっと)弓夫とおッつ、かッつで、弓夫が改進党びいきならこれは自由党びいきであり、二十四歳の身空(みそら)で正己が日義村(ひよしむら)の河合定義(かわいさだよし)と語らい合わせ山林事件なぞを買って出たのも、その志士もどきの熱情にもとづく。もとよりこの事件は半蔵が生涯の中のある一時期を画したほどであるから、その素志を継続してくれる子があるなら、彼とても心からよろこばないはずはなかった。ただ正己らが地方人民を代表する戸長の位置にあるでもないのに、木曾谷十六か村(旧三十三か村)の総代として起(た)ったことには、まずすくなからぬ懸念(けねん)を誘われた。 長男の宗太も次男の正己も共に若い男ざかりで、気を負うところは似ていた、公共の事業に尽力しようとするところも似ていた。宗太の方は、もしその性格の弱さを除いたら、すなわち温和勤勉であるが、それに比べると正己は何事にも手強く手強くと出る方で、争い戦う心にみち、てきぱきしたことをよろこび、長兄のやり方なぞはとかく手ぬるいとした。この正己が山林事件に関係し始めたのは、第二回目の人民の請願も「書面の趣、聞き届けがたく候事」として、山林局木曾出張所から却下されたと聞いた明治十四年七月のころからである。そこで正己は日義村の河合定義と共に、当時の農商務卿西郷従道(さいごうつぐみち)あてに今一度この事件を提出することを思い立ち「木曾谷山地官民有区別の儀につき嘆願書」なるものを懐(ふところ)にして、最初に上京したのは明治十五年の九月であった。
 正己らが用意して行ったその第三回目の嘆願書も、趣意は以前と大同小異で、要するに木曾谷山地の大部分を官有地と改められては人民の生活も立ち行きかねるから従来明山(あきやま)の分は人民に下げ渡されたいとの意味にほかならない。もっとも第二回目に十六か村の戸長らが連署してこの事件を持ち出した時は、あだかも全国に沸騰する自由民権の議論の最高潮に達したころであるから、したがって木曾谷人民の総代らも「民有の権」ということを強調したものであったが、今度はそれを言い立てずに、わざわざ「権利のいかんにかかわらず」と書き添えた言葉も目立った。なお、いったん官有地として処分済みの山林も古来の証跡に鑑(かんが)み、人民の声にもきいて、さらに民有地に引き直された場合は他地方にも聞き及ぶ旨(むね)を申し立て、その例として飛騨国、大野、吉城(よしき)、益田(ましだ)の三郡共有地、および美濃国は恵那(えな)郡、付知(つけち)、川上、加子母(かしも)の三か村が山地の方のことをも引き合いに出したものであった。農商務省まで持ち出して見た今度の嘆願も、結局は聞き届けられなかった。正己らは当局者の説諭を受けてむなしく引き下がって来た。その理由とするところは、以前の筑摩(ちくま)県時代に権中属(ごんちゅうぞく)としての本山盛徳が行なった失政は政府当局者もそれを認めないではないが、なにぶんにも旧尾州領時代からの長い紛争の続いた木曾山であり、全山三十八万町歩にもわたる名高い大森林地帯をいかに処分すべきかについては、実は政府においてもその方針を定めかねているところであるという。
 正己は言葉を改めて心機の一転を半蔵の前に語り出したのもその時であった。彼はこれまで人民が執り来たった請願の方法のむだであることを知って来たという。木曾山林支局を主管する官吏は衷心においてはあの本山盛徳が定めたような山林規則の過酷なのを知り、人民の盗伐にも苦しみ、前途百年の計を立てたいと欲しているが、ただ自分らを一平民に過ぎないとし、不平の徒として軽んじているのである。これは不信にもとづくことであろうから、よろしく適当な縁故を求めて彼らと友誼(ゆうぎ)を結び、それと親通するのが第一である。彼はそう考えて来たが、当時朝鮮方面に大いに風雲の動きつつあることを聞いて、有志のものと共にかの地に渡ることを約束し、遠からず郷里を辞するはずであるという。この朝鮮行きには彼はどれほどの年月を費やすとも言いがたいが、いずれ帰国の上はまた山林事件を取りあげて、新規な方針で素志を貫きたいとの願いであるとか。
 半蔵には正己の言うことが一層気にかかって来た。
「まあ、こういう事はとかく横道へそれたがりがちだ。これから先、どういう方針になって行こうと、山林事件の出発を忘れないようにしてくれ。おれがお前に言って置くことは、ただそれだけだ。」
 それぎり半蔵は山林事件について口をつぐんでしまった。彼が王滝の戸長遠山五平らと共に出発した最初の単純な心から言えば、水と魚との深い関係にある木曾谷の山林と住民の生活は決して引き放しては考えられないものであった。郡県政治の始まった際に、新しい木曾谷の統治者として来た本山盛徳は深くこの山地に注目することもなく、地方発達のあとを尋ねることもなく、容易に一本の筆先で数百年にもわたる慣習を破り去り、ただただ旧尾州領の山地を官有にする功名の一方にのみ心を向けて、山林と住民の生活とを切り離してしまった。まことの林政と申すものは、この二つを結びつけて行くところにあろうとの半蔵の意見からも、よりよい世の中を約束する明治維新の改革の趣意が徹底したものとは言いがたく、谷の前途はまだまだ暗かった。』

以上の藤村の小説や先祖の話などから読み取れることは・・・・・
・木曾谷の民衆や地方の大衆にとって、「維新」とは必ずしも手放しで歓迎されるような喜ばしいことではなかった。

・僻地や中山間の村の民衆のことなど、新政府は考えなかった。
明治維新とは権力、支配構造の変化に過ぎなく、大義名分を信じ、期待したものの多くを裏切ることとなった。

・政治家や官僚達は、現場を知らないまま、西洋の模倣を主に近代化、合理化を推し進めた結果、17・8世紀から改善されつつ続けられてきた、「運用の美学」ともいえる伝統的、慣習的手法が覆されることから起こった、生活圧迫。

・旧来の一揆とは違う形での「反乱」そして「樹木伐採」=「盗伐と世に言われる」(近年見直しがある)を引き起こすことになった。

・御用林とは名ばかりで、その実は木曽の森林の権利を国有化するための方便に過ぎず、林業を生業としてきた民の「職」と「収入」そして「生活」を奪うものとなったのである。

つまり一方的な農林政策を押し付けた結果、現地の民が犠牲になったということである。
以上のようなことが、断片的ではあるが、藤村の「夜明け前」殻読み取ることが出来る。

藤村は史実や地方資料を綿密に調査取材して、この小説を書いたことは明らかであるが、この小説を歴史的にも価値あるものとする一方、近年では小説としての脚色がかなり見られ、事実と異なる面も多いことが指摘されているらしい。

高祖父の取材にと、高祖父の娘の嫁ぎ先である奈良井の宿を藤村が訪問し逗留。
当主からアレコレ取材したときの写真が存在するという話を聞いたことがあるから、高祖父小説では「河合定義」の取材は、そのときに行われたものであろう。
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by noanoa1970 | 2007-02-27 12:39 | 家族の肖像 | Comments(0)

祖先の肖像・・・2

「木曾路(きそじ)はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道(かいどう)はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠(じっきょくとうげ)まで、木曾十一宿(しゅく)はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷(けいこく)の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間(やまあい)に埋(うず)もれた。」


・・・・・に始まる、島崎藤村の大作「夜明け前」の「木曽」の風景は、長い年月を経てもその景色はあまり変わってないように思われる。
国道19号線が木曽川沿いに1本あるだけで、迂回路はほとんど無いに等しく、大雨が降れば通行止めになり、事故でもあればとたんに交通が麻痺してしまう。

小生も幾度か通行止めの経験があり、長いときには1時間近く足止めを食った経験がある。
それでも木曽に向かうには中央高速道ではあまりにも遠回りで、最近は伊那市~木曽郡日義村に通じる権兵衛峠が開通したが、それでも関西中京圏から木曽に向かうには中津川まで中央高速道で行き、それから19号線で向かうのが常道である。

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19号線からの風景は、高速道路から大きく外れたことが幸いして、小生の記憶のある40年前と、トラックの行き来は格段に激しくなったが、ほとんど変わることが無い。
相変わらずつつましく、自然があふれる木曽川沿いの谷筋である。

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「藤村」は木曽路の岐阜県に近い「馬籠宿」(現在は岐阜県に編入)に生まれた。
生家は代々、本陣や庄屋、問屋をつとめる地方名家で、父の正樹は17代当主で国学者だった。正樹は『夜明け前』の主人公青山半蔵のモデルで、藤村に与えた文学的影響は多大とされる。

「松岡正剛」によると、彼はこの小説を
『ひたすら木曽路の馬籠の周辺にひそむ人々の生きた場面だけを扱っているくせに、幕末維新の約30年の時代の流れとその問題点を、ほぼ全面的に、かつ細部にいたるまで執拗に扱った。』と述べている。

また
『日本人のすべてに「或るおおもと」を問うたのである。その「或るおおもと」がはたして日本が必要とした「歴史の本質」だったのかどうか、そこを描いたのだ。
それを一言でいえば、いったい「王政復古」とは何なのかということだ。』とも言っている。

つまり、単なる歴史小説ではなく、そこに表現されているものは、「日本の近代化」・・・・すなわち「勤皇さ幕」、「尊皇攘夷」、「大政奉還」、「新政府設立」になる「明治維新」とは民衆にとって、あるいは木曽谷の人々にとって、どういう意味を持ったのか?、ということのように思える。
実際読み始めてみると、この話にはかなり詳細な地方史実を取材し、それを藤村の文体で綿密かつ、ダイナミックに書き下ろしている。

木曾谷の田舎といっても、それは中仙道という江戸と京都を結ぶ交通の要所。その中の宿場にも、明治維新前後の激動の波動の波が押し寄せてきたのである。尾張藩の名古屋から馬籠は総遠くない距離にあるから、往来を行き来する人たちからの情報も入ってきたことであろう。

かくして、小生の4代前・・・高祖父は島崎藤村の「夜明け前」に登場することになるのである。
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by noanoa1970 | 2007-02-26 14:16 | 家族の肖像 | Comments(0)

祖先の肖像

一度自分の祖先のことなどに、思いをめぐらそうと考えた。

何とか整理して、残しておかないと、恐らくその記憶は徐々に無くなり、子供や孫の代には先祖の記憶はものすごく遠いことになってしまうと思ったからだ。
小生にしたって、たまに祖先の墓参りには行くものの、祖父の記憶は何とかあっても、曽祖父やそのまた先となると、風のうわさ程度の情報しか持ち合わせていないことに気づいた。

先祖代々の墓や「碑」には江戸後期から明治期の・・・小生から4代前の名前が刻まれている。
小生の父親の父親のまた父親だから、高祖父/高祖母というらしく、生まれは江戸時代である。同じ墓には曽祖父母・祖父母も眠っており、祖父母は小生には記憶に新しい・・・といっても祖父は小生が小学校4年生、祖母は社会人になってすぐに亡くなったから、祖父のほうの記憶はほんの少ししかない。

小生の父親は健在ではあるが、もう齢80の半ばを超えつつあり、先祖の記憶があるのかどうか、今までに詳しい話を小生に語ったことは無い。

祖父は明治生まれでの林野庁の役人であったという。そのせいで転勤が多く、北海道で過したこともあるらしい。関東方面から晩年を今は名古屋市に編入されて久しい、東海道の「鳴海宿」
に移った。小生はその地で生まれた。何しろ「頑固」で、毎朝誰より早起きで、茶の間のラジオを大きな音でかけるのと、裏庭の畑で自ら作った野菜、果物を採取して、食卓に出したり、朝ごはんには、小さな蓋つきのの容器に入った珍品を10種類近く並べて、ご飯を食べるのが日課だった。おかげで小生も、「浜納豆」「アミの佃煮」「オクラ」などを幼児期から食べさせられた。

実の色が白いイチジクやもぎたての昔のトマトの味、夏には必ず「ハブ茶」があって、あの薬草のような味は当時は好きではなかったが、今では懐かしく思い出深い味となった。
最晩年の正月には、大きな「凧」を手仕事で作ってくれて、見えなくなるぐらいまで揚げたこと、キリギリスを捕らえるために、キュウリを糸につけて釣りのようにして小薮を時間をかけて探ったこと・・・・かなり長い時間がたってもキリギリスは釣れなかったが、それでも熱心にまだ続けようとする祖父を見た小生は、キリギリスが噛み付いたと思わせたくて、キュウリを少し手でちぎったことなど思い出した。
頑固だったが、孫には優しいところが多かった祖父であった。

さてこれから語ろうとするのは、4代前の先祖・・・・高祖父のことである。
江戸の後期から明治中期までの激動の時代を、長野県木曾谷地方で過した「男の生き様」などに迫れれば良いと思う。

世の中には「先祖」を源平藤橘までさかのぼれる家系の人も多いかと思うが、小生の家系ではせいぜい4代前の資料が、諸所に見られる程度である。

親類の中には、出自を気にする人もいて、小生の先祖を「武士」とするものもいるようだが、資料で分かるのは「木曾谷」の村の一庄屋に過ぎい。
同じ姓(小生の姓は、全国でも100人ほどのかなり珍しい部類で、今までに正しく読んでくれた人は、高校の古典の先生だけであった。何でも古事記に名前のルーツと思しき物があるそうだ。そのほか正しく読んだ人は、その多くが祖先の生活した土地の人がほとんどで、最近九州の方から名前を呼ばれ、出身は九州だろうといわれたと、家内が語っているが、それは征矢野半弥という政治家で鹿児島新聞の社長がいたからであろう。あとは親類縁者関係の人ばかりである。)

一説には、武田に敗れた小笠原氏の家来で、小笠原長時に従い、最後まで流浪のたびの供をする。1569年に三好家に小笠原一族とともに頼る事になる。三好軍として小笠原貞慶が出陣し、敗走する際に、自分が身代わりになり死亡した。 といわれる征矢野宗功、宗澄の兄弟の存在がわかったが、果たしてそれと関係があるのかは定かではない。

木曽の村で庄屋を勤めたという文献があるが、出自が武士であるとするものは無い。
しかし「庄屋」の中には、武士階級のものが戦に敗走し、故郷に帰属して、「郷士」的生活を送る中、時の権力から、支配層・非支配層の中間的存在として、都合よく村社会を経営し、年貢を怠りなく収めるために、あてがわれた「職能」であるとする文献も存在するから、先祖の出自は、武士階級であったのかも知れないが、事実はハッキリしないし、わからぬままだ。

北松本には同じ名前の地名が存在するので、機会があれば郷土史などを当たってみたいと思っている。

父親や、祖父の話し振りでは、先祖を「武士」であるとしてきたようだが、小生には武士だろうが農民だろうが・・・それはどうでも良いことだ。
それよりも、どんな人で、何をやった人なのかが、興味の中心なのである。

ある文献からそのヒントが、かの「島崎藤村」の長大な歴史小説「夜明け前」にあるということがわかったので、ネットの「青空文庫」より、ダウンロードして読んでいる。しかしあまりにも長大かつ、歴史は嫌いではない小生であるが、最も弱点の「日本の近代史」・・・授業のせいにするのもおかしいが、高校時には時間が無くて、幕末から昭和にかけての最も重要なところが欠落し、仕方なく世界史で受験した小生であるから、司馬遼太郎の影響で、「新撰組」には興味が大有りであったが、わが国にとって「明治維新」とは一体なんであったのかなどを考えることは無かったのが正直なところ。

さて今回祖先の話を何とかまとめるに当たり、また「藤村」の「夜明け前」を読むに当たり、避けては通れぬ「日本の近代史」について、勉強してみようと思っているところだ。

断片的な記述になると思うのだが、都度ブログに書き残しておくことにしたい
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by noanoa1970 | 2007-02-25 18:33 | 家族の肖像 | Comments(2)