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カテゴリ:新世界を聴く( 13 )

聴き続けて48年

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予約しておいたCDが夕方届いて、先ほどその中の1枚を聴き終えた。

1962年小生はこの人の指揮による「新世界より」で、初めて全曲を聴いたのだった。

今まで同じ演奏のLPを5枚も集めることになり、最近ではETERNA盤の録音年代…1961年の割には、瑞々しい音に満足していたが、昨年秋、ひょんなことから、今年CD復刻されるらしいとの噂を聞いて、それが実現することになり、今まで約3カ月待っていたのだった。

予定では24日発売であったが、珍しく本日22日に既に到着した。

こういうものは早いほうがいい、いつもの通り、少しでも遅れると、ものすごく悔しく嫌な思いをしなくてはならないからだ。

聴いた感想は後日とするが、この復刻CDのリマスターリングはとても素晴らしい。
とても1961年録音とは思えないほど新鮮な音。

さすがのETERNAオリジナル盤も真っ青になるほど。

よい状態のLPの音を凌駕するCD復刻は珍しいが、これはその珍しい、そして素晴らしい特例だ。

このCDが目にとまり、どれだけ購買されるかは、マイナス要素が強いと思うが、小生のようなコンヴィチュニーファンでなくても聴くべき演奏であると小生は思う。
まして「新世界より」が好きな人は、絶対に聴くべきだ。

多分今までの「新世界より」そしてどういうわけか、長い歴史の中で出来上がってしまった「コンヴィチュニー」の概念は、相当崩れることだろう。

古色蒼然などというレッテルをつけられてしまったコンヴィチュニーは、最近ではやや見直されつつあるが、それでも「ベートーヴェン交響曲全集」を聴いただけでその演奏スタイルが固定されてしまったが拭えない。

バンベルク交響楽団のこのころの実力は、政変でチェコフィルのメンバーがドイツに逃れて出来ただけあって、その実力は素晴らしい。

2楽章のコールアングレのソロは、この曲のベストに位置付けてもよいと思う。

質実剛健なドイツ人コンヴィチュニーだけではなく、スラブ系モラヴィア人の血を色濃くするコンヴィチュニーが、この曲に現れるような気配が色濃く漂う。

取り急ぎの報告である

by noanoa1970 | 2009-06-23 19:52 | 新世界を聴く | Comments(0)

ドヴォルザークの「シンメトリーの美学」

「新世界」のいろいろな演奏を聴いているうちにあることに気づいた。「版」の問題にしろ、指揮者の「解釈」にしろ、聞こえてくる音楽の「フレージング」や「アーティキュレーション」がそれぞれの指揮者で程度の大小は有れ異なることは、一楽章の冒頭の「ホルンの応答」、「第2主題のフルート」果てまた2楽章の「家路のメロディ」のイングリッシュホルンの、演奏の仕方が様々であることで分かる。

有名な、そして皆さんも恐らく何度も聞いている「新世界」だから、「口ずさむ」ことが容易に思われるので、ためしに、一楽章の第2主題、そして2楽章の「家路」のメロディを頭で演奏してみていただきたい。
そのフレーズこそが自分が今まで刷り込まれてきた「新世界」の「フレーズ」に違いなく、異なる演奏家の「新世界」を聞いてみると、多少の違和感を持つことになるのだと思う。
しかしそこにさまざまな演奏の録音を聞く楽しみも発見できるので、「新世界」など聞き飽きたという方には良い刺激となるはずで、小生もその意味ではずいぶん楽しめた。

d0063263_9591821.gifドヴォルザークは・・・例えば一楽章「第2主題のフルートのフレーズ」と、その後に続く弦パートのフレーズを、意識して変化させようとしたのか否かは意見が分かれ、演奏家の中でも異なるフレーズを演奏するもの、同一にするもの、其れも「最初」と「リピート」で同じにするもの、それぞれに違えるものなど、さまざまなようだから、ドヴォルザークオリジナルはどうであったか・・・すなわち「楽譜か解釈」かあるいはそのミクスか、良く分からないところがある。

しかし小生が思い当たるのは、小生が最も好きな「ドヴォルザークのレクイエム」において、「合唱とソロ」の関係で「シンメトリーの美学」といえるような展開がそこにある。
女性コーラスの前後には男性のソロが男性コーラスの前後には女性ソロを必ず規則正しく、対称に歌わせており、恐らく配置も対照的配置がオリジナルであろう。聞こえる音の塊にも左右対象の動きがそして奥行きが感じられて思わずゾクッとしてしまうほどである。
「主題」とその「リピート」時で対称的に表情を変化させる・・・・小生はドヴォウザークが細かいところにまで大いに意識して作っていたものと考える。

ドヴォルザークの趣味は「鉄道・・・機関車」・・「鉄道マニア」と呼ばれるほどであったというから、あの機関車の「機能美」そして「シンメトリーの美しさ」にも惹かれるものがドヴォルザークの底辺に合ったのかもしれない・・・などと想像してしまう。

「ドヴォルザークの音楽」に、「シンメトリーの美の追求」という新たな付加的要素を加えることは出来ないだろうか。

by noanoa1970 | 2006-01-14 10:30 | 新世界を聴く | Comments(0)

「新世界」の愛聴盤・・「ロジェストヴィンスキー」と「スメターチェク」

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39分05秒
ソビエト国立放送交響楽団
ゲンナジー・ロジェストヴィンスキー
1973年 イエダンクラシックス
「疾風怒濤」とは正にこのことをさすのだろう。ティンパニーの打音も、弦も、管も・・・オケ全体が同じ方向にまっすぐ急速前進している。旧ロシア及びソ連の「南下政策」のように、東欧やアメリカなど未知の国への大いなる憧れにあふれて、そして太陽の下での新しい暮らしを求めて、懸命に雪の中を突き進むようなものを感じてしまうほどの「’新世界」。
カップリングの「ムラヴィンスキー」の「未完成」は、そこには美しい、やさしくて優雅な「シューベルト」など存在しておらず、隠れていた「魔王」が姿を現すような「不気味な」「未完成」
2人の旧ソ連の演奏家の作り出す音楽はかくも欧米諸国のものと違うのか。とても考えさせてくれる録音である。



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ヴァーツラフ・スメターチェク
プラハ放送交響楽団1974年ライヴ

ご当地指揮者の演奏の中でも一二を争うほどその中身が濃い演奏。しかし決して土俗的演奏ではなく「モダン」な演奏。「ターリッヒ」、「アンチェル」のように垢抜けしたところがある。この演奏で特徴的の筆頭はティンパニーの強烈な音で、強烈なティンパニーを求めるなら、この演奏しかない、といっても差し支えない。
アクセントのつけ方に独特の物があるのだが、其れがご当地の伝統なのか、指揮者の個性なのかは判断が難しいところ。民族性土俗性などをほとんど表出しない「ドヴォルザーク」をご当地指揮者がご当地でやる・・・しかもライヴで・・・とても勇気がいることなのではなかろうか。
しかしスメターチェクの音楽は程よい緊張感と、わずかだが、心地よい音の揺らしを配した演奏で、輪郭がハッキリしていて、スッキリしている。これは小生好みの演奏の一つだ。
「スメターチェク」は一ボヘミアの民族色の強い指揮者などではなく、コスモポリタリズム有る指揮者なのではなかろうか。

そういえば「オルフ」の「カルミーナ・ブラーナ」も、よくある土俗的でプリミティヴなところを廃した演奏で、小生は名高い「ヨッフム盤」より好きであった。

カップリングされている「ドヴォルザークのピアノ協奏曲」。

これは「カルロス・クライバーとリヒテル」の演奏が有名ではあるが、有名な割にはこの曲のよさが出きってないから、つまらない演奏に聞こえる。
其れと比較して、「スメターチェクとリヒテル」の1966年ライヴは、ドヴォルザークのピアノ協奏曲かくあるべしと言うかのような、またリヒテルのよさが随所に出ていて、聴いていてこの曲の素晴らしさがスッキリ分かる演奏。小生は「クライバー」とののものよりよい出来だと思う。ドヴォのピアノ協奏曲がつまらないと感じる人はこの演奏をお聞きになるといいと思う。

録音は余りよくは無い、ピアノの音が少しこもるが、この時代の「リヒテル」は彼が最も輝いていたときでもあり、その熱い雰囲気はとてもよく出ている。
「スメターチェク」は「リヒテル」のピアノを立てるようでいながら、キッチリ自分のドヴォルザークの音楽を作っており、其れが「クライバー」とのように「競合」していないのは流石である。
「クライバー」「リヒテル」の演奏は、巨匠同士の共演の悪い例のように思えてくる。

by noanoa1970 | 2006-01-13 09:00 | 新世界を聴く | Comments(0)

「新世界」の愛聴盤・・・「フランツ・コンヴィチュニー」


「コンヴィチュニー」が「新世界」の録音を残していることなど恐らくほとんどの皆さんは、ご存じないと思う。「ドイツ音楽」の伝道師的なレッテルをずいぶん貼られていたのであるが、漸く最近になり、未発掘の録音が世に出るにつれ、それだけでは語れない「コンヴィチュニー」の側面が見えてきたような気がしている。

「ショスタコーヴィッチ」の10・11番は初演直後に、素晴らしい演奏をしているし、「チャイコフスキー」も4・5・交響曲の録音を、「ブルックナー」においても、4・5・7・8・9番の優れた演奏の成果を残しているし、「R・シュトラウス」はもちろん、「マーラー」をも録音したと言われる。ブラームスも1番以外に4番があるし来日時には2番も演奏した。
60歳という短命では余りにももったいない。もう少し命を永らえることが出来たなら、「指輪」全曲をステレオで残しているだろうとことを思うと、非常に残念だ。

そして「ドヴォルザーク」であるが・・・「コンヴィチュニー」は「モラヴィア」出身であるから、チェコ・スラブ系の人間であるし、晩年にはモッパラ、「チェコフィル」と演奏会や録音活動をした。「コンヴィチュニー」が客死したのも、「チェコフィル」との演奏のスケジュール期間であったという。生粋の「ドイツ音楽」の名手といわれた「コンヴィチュニー」は元来ボヘミア地方の出であったわけだから、「ドヴォルザーク」を演奏することには「ベーム」のような躊躇などは皆無であったといえよう。

もう少し長生きをしていたら、かなり高い確率で「チェコフィル」とのドヴォルザークなど聞かせてくれたと想像する。

しかし残されたのは「バンベルク交響楽団」との演奏である。「エテルナ」レーベルのステレオ録音だから恐らく1960年から1962年の間の録音である。「コンヴィチュニー」と「バンベルク響」との録音は多分唯一この「新世界」しか残されていないし、この頃の録音データには誤謬が大変多いから、ひょっとしたら、「バンベルク響」でなく「チェコフィル」との演奏であるということも考えられるが、聴いてオケの特色が分かろうはずも無いので、一応表記どおり、「バンベルク響」であると信じることにする。

しかし・・・こんなことを言っては失礼なのだが、小生の知る「バンベルク響」にしては大変上手すぎるることを、あえて付け加えておく。しかし全体に漂う「乾いた、渋め」の音色はやはり「バンベルク響」なのだろう。
イングリッシュホルンの音色は「痺れる」ほどの哀愁を漂わせる。これはとても「うまい」。

ここでも「コンヴィチュニー」は、かたくなに自分のテンポを守り通して・・「いい塩梅」・・で音楽を進めてゆく。
この「新世界」を「ドイツ的」演奏、とする諸氏が居るのを承知しているが、一体そういう人は本当にこの演奏を聴いたのか・・と小生などは不思議に思ってしまう。
最も・・・「ドイツ的」という言葉で何を表現したいのか良く分からないので無視しても良いのだが・・・

ドヴォルザークの有名な弦楽四重奏に「アメリカ」があり、数々の演奏があるが、その中でも最も高名なのが「スメタナ・カルテット」の新旧の両演奏で、いずれも小生が好きな演奏ではあるのだが、さらに好きな演奏に、「ヤナーチェク・カルテット」の演奏(旧盤)がある。

この「ヤナーチェク」の演奏する「アメリカ弦楽四重奏」(1960年代旧録音)一楽章の第2主題の表現の仕方、アーティキュレーションを聞いたことがおありだろうか。
「シンコペーション」気味に音を刻んで、わざと速めに弾きくことで後のほうで時間が余ってしまうのを「微妙なパウゼ」を入れ調整するやり方は、「ウインナーワルツ」の「拍」にも似て、小生には「プリミティヴ」であり「土俗的」「民族固有の伝統」であるように感じられる。
その部分を含めてなのかは分からないのだが、当時から「ヤナーチェク四重奏団」の「アメリカ」は、「スメタナ四重奏団」と比較すると、より「民族的」「土俗的」と、その評価は高いものがあった。

「コンヴィチュニー」は「新世界」で他の誰もいままでやったことの無い前人未到のことをやってのけているのである。
(ロジェストヴィンスキーとソヴィエト国立放送交響楽団1973年がそれに近いものがある)
一楽章の第2主題・・・フルートが旋律を奏でで、その後に弦楽器がほぼ同じ旋律を、追想するように奏でるのであるが、そのフルートと後の弦楽器が同じ旋律を奏でる「つなぎ」の弦楽器の装飾的に音が上昇していくとこオところで、なんと・なんと「ヤナーチェク四重奏団がいみじくも「アメリカの一楽章第2主題で行ったのと同様の「シンコペーション的アーティキュレーション」をやっているのである。

この部分を最初に聞いたときに小生はものすごく驚き、そして其れがこの「新世界」に「特別な思い入れ」を持つ大きなポイントとなったのであった。この部分だけを取り上げても、「コンヴィチュニー」の「新世界」が「ドイツ的」などという形式的見解は崩れ去ると思うのだ。
いつ何時聴いても「スラブ」あるいは「ボヘミア」の「血」のような表現のように聞こえてしょうがない。

この曲が「擬似循環形式」といってもいいように、前の楽章の主題が登場し印象付けるし、最終楽章にはほとんど全ての楽章の主要メロディが登場するから、「くどさ」が残ることを百も承知で、「コンヴィチュニー」は丁寧に「繰り返し」を行っているのだが、細かいところで繰り返しのニュアンスをいつも変化させるし、クレッシェンド、デクレシェンドを柔軟に駆使して音楽的躍動を与えるから、「繰り返し」をやっても・・・繰り返し部が決して邪魔にならないどころか、やってくれてよかったと思える演奏をする、数少ない指揮者の一人なのである。

並み居る「巨匠」と呼ばれる指揮者たちが、何を思ってのことなのか、「繰り返し」を避ける傾向に有るにも拘らず、立派にやって音楽が生きている・・・こういう点が「ベートーヴェン」の交響曲においても然りだが、「コンヴィチュニー」の実力である。「コンヴィチュニー」の「繰り返し」は積極的に聞きたいといつも思うのである。

残念なことにこの演奏は昔CD復刻されたが、すぐに廃盤となりいまだに日の目を見ない。2002年相次いで発売された「コンヴィチュニーの芸術」BOXにも入っていなかったし、中古ショップでもお目にかかることが無い。全く売れなかったのか、手放さないのかは分からないが、復刻再発が待ち遠しい録音である。
このように素晴らしい「新世界」を聴くことのチャンスさえない状態にしておくことは、大いに問題がある。少しでも速く発売されるのを期待する。

by noanoa1970 | 2006-01-12 10:00 | 新世界を聴く | Comments(3)

「新世界」同一指揮者の2つの演奏を聴く・・・「イシュトヴァン・ケルテス」

  「イシュトヴァン・ケルテス」指揮
ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団 1960年録音
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 「イシュトヴァン・ケルテス」指揮・ロンドン交響楽団・
  1965年録音
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「ケルテス」と今では表記されるが、小生が始めて「ケルテス」を知ったときは、「イーストヴァン・ケルテッシュ」と表記されていた。
確か1962年コロムビアから発売されたクラシック音楽の入門の、50枚組みLP全集のなかの、「アルテュール・ローター」指揮のベートーヴェンの代9の余白に、「ケルテス」が「バンベルク響」と演奏した。「レオノーレ3番」、」「エグモント」の序曲が収録されていて、その圧倒的力強さに聞きほれ、「ケルテス」の情報などほとんど無いときであったが、勝手に「素晴らしい指揮者」だと思っていた。「ケルテス」は1929年生まれというから、ベートーヴェンの「序曲」も、この2つの「新世界」の録音いずれも彼が30台前半から後半の時のものである。

VPOとの録音はケルテスがウイーンフィルと録音したLPの、いわば「デビュー盤」とも言うべき記念碑的録音で、発売当初からかなり話題になった覚えがある。日本での発売は録音から数年たった時だった記憶があるが、「ベーム」がそうであったように、ここでの「ケルテス」は、VPOを手中に収めて引っ張っていくことを避け、恐らくほんのポイント・・・これだけは譲れないところだけを入念に指示したのだろうと思えるような音楽作りをしている。

VPOは隅々まで自分たちの持ち味を出し切っているようで、各パートは伸びやかに歌い、優雅に音を美しくk響かせる。管楽器はまるで自分がソロになったように流麗だ。
当時は今のようにそんなに評価も定まってはいなかったと思われるが、それでも若き天才指揮者に良くVPOがこれだけの演奏を聞かせてくれたものだと、不思議に思う気持ちと、オケの「信頼」を勝ち得た「ケルテス」の非凡さがしのばれる。

いまもこの録音が人気度ナンバー1の座、お薦めの音盤のトップの位置を占めるのは、一期一会の指揮者とVPOの丁々発止が本当にうまく機能したからに他ならないのだと思う。

この録音プロデューサーは「カルーショウ」なのかは不明であるが、彼の「DECCA」の録音を思わせるような音作りも人気の要因であるのかもしれない。
「ケルテス」はすぐ後に「ブラームスの2番」の交響曲をそしてそれから10年後に、1・3・4を録音するのだが、4番の終楽章を待たずに、「イスラエル」の海岸で、不幸にも溺死してしまったという。

40歳の前半であったから、惜しい才能をなくしたものである。VPOが指揮者無しで4番の残されたところと、「ハイドンヴァリエーション」を録音したことは有名な話であう。
したがって2番だけが少し古い録音だが、小生はこの1963年に録音した「ブラームスの2番」を最も好きな演奏の一つとしている。

演奏時間で特徴を探ることは、ほんの一つの手段にしか過ぎないのだが、一応やってみることにした。

    1楽章   2楽章    3楽章   4楽章 
旧盤 9分49秒 11分49秒 7分42秒 11分42秒
                     トータル40分32秒新盤12分29秒 12分26秒 7分34秒 11分14秒 
                     トータル43分33秒 
結果は上記の通りで、 新盤の方がトータルタイムは3分長く、これはほぼ一楽章の長さの違いが大きい。

これは「新盤」では、繰り返しを丁寧に行っていることによるものと、「旧盤」に比べて、スラーやフェルマータにかなり「息の長い音」をさせていることによるものだ。
非常に楽しい・・・まるでスキップをしながら歩き行くような「旧盤」に比べると、「新盤」はややジックリ音を溜め込んでから放つような演奏に変化している。

オケは「ケルテス」の棒にに忠実に演奏しているかのようで、「旧盤」に比べれば少し溌剌感にかけるが、かなりシッカリした輪郭を形成している。
「新盤」の録音は、ドヴォルザークの交響曲全集の中の重要な位置づけであったはずだから、「旧盤」のように、オケにゆだねるところが大きかったVPOとの録音にはない特徴があり、その一つが「繰り返し」。

今ひとつは、恐らく「ケルテス」は全集として録音するときに、楽譜を入念に調査し見直したのだろう、「旧盤」では「旧版」の楽譜をメインに加筆したように思われるのだが、「新盤」では「新版」の楽譜をメインにそれにアレンジを加えたようなころがある。

一楽章冒頭の「ホルン」の応答も其れによって、2拍目の入りへと変えているし、若干ではあるが「戦闘的」鳴らし方のように聞こえる。第2主題のフルートも趣が違う。

恐らく「ケルテス」としては「旧盤」の評価が高かっただけに、満を持した、「DECCA」 の期待を一身に背負って録音する全集の・・・特に「新世界」の「旧盤」との差別化を意識したのではないかと推測される。

この2つの「新世界」における世間の評価はまちまちだが、其れはどちらも悪い評価ではなく、どちらを寄り好むか・・・ということに終始する。
小生が学生時代所属した「DRAC」においても評価、人気は二分されたと記憶する。

VPO絶対主義者・・・今でこそあまり多くなくなってきたが、当時は両カリスマオケ、BPO VS VPOの図式が合ったように記憶するし、「モントゥー」の熱烈なファンでもない限り、「LSO」びいきの人間はそんなには多くなかった。

両方の録音をキチンと聞いた人は、「開放感があり、オケに自由度が高く、牧歌的で大らかな旧盤=VPO盤をより評価するのに対し、オケの統率力があり、音楽の構成とメリハリをよりクッキリと出し切った、そして細かいところのニュアンスをキッチリと出し切る、トータルバランスとしては新盤=LSOを評価するという人も少なからず存在した。

実際この評価は、LSOとの「8番=イギリス交響曲」に最も当てはまるもので、この「ドヴォ8」はまことに見事な演奏である。

「新世界」に何を求めるか、其れによって分かれるのであろうと思うのだが、指揮者が自分の意図なるものを良い形で反映でき、音楽的にも、録音にも優れ、楽譜にも気を使い、オケを十分鍛錬した結果がより現れているLSO=「新盤」をより評価するとともに、好きな演奏の一つとしておきたい。

オケの音色は、やはりVPO独特の「たおやかさ」に軍配が上がるが、技術的には「互角」である。
どういうわけか世間での評価は今一歩の・・・指揮者の個性がより出ている「LSO」との「新盤」を小生はより好む。

by noanoa1970 | 2006-01-11 10:01 | 新世界を聴く | Comments(2)

「新世界」同一指揮者の2つの演奏を聴く・・・「コンスタンティン・シルヴェストリ」

  1957年7月9・12モノラル録音
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  1959年10月20・23ステレオ録音
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「シルヴェストリ」は「怪演」「爆演」指揮者と一部で言われているが、小生はそのようには思っていない。1960年代初め頃、来日してN響を指揮したことを思えておられる方もいらっしゃると思うが感情の起伏が激しい音楽作りのせいなのか、彼の評価は二分される。
小生はある録音を聞いて彼に対する見方が、大きくプラスに変わった。

それというのは「ドヴォルザーク」の8番「イギリス」を聴いていたときのこと、4楽章金管楽器のファンファーレの直後、・・・
(1960年代の後半にNHK・FMの日曜日だったか、うろ覚えなので、違っているかもしれないが、「門馬直美」氏の解説で、クラシック番組をやっていたことがあって、その「テーマ音楽」として使用されていたのが、ワルターが演奏するこの美しいドヴォ8終楽章のメロディだった。)

・・・そんな懐かしいそしてこの交響曲で一番の美しいメロディが、低弦で奏されるのであるが、そのリピート時に他の指揮者・・・このメロディの部分の最も美しい「ワルター」の演奏、あるいはベルベットのような「カラヤンとVPO」、才気あふれる「ケルテス」においても、お家芸の「ノイマン」も決してやっていないようなこと・・・すなわち、その美しいメロディがよどみなく流れるところの大切な1音を「半音上げ」ている」のである。これによって其れまで美しく聞こえてていたメロディラインがとたんにその「色気を失ってしまう」ほどなのだ。

後に「アーノンクール」も同じように演奏していて、この演奏をして「楽譜のミスプリントを平気で演奏した」もの・・・と酷評する諸氏も居たと記憶するのだが、其れは違っていて、「アーノンクール」よりも30年も前に「シルヴェストリ」はこのことを実践していたのであった。

このチェロのパート譜はキチンと存在しており、其れに従ったと、「アーノンクール」は語っているから、音楽学者としても高名な「アーノンクール」以前に、そのことに着眼した「シルヴェストリ」はただの「怪演」「爆演」指揮者などではなく、使用する楽譜を彼なりに研究していたから、其れはそれで立派なことだと思うのである。
ただ小生は「アーノンクール」や「シルヴェストリ」のこの部分の演奏は正直好きではない。

「新世界」も「シルヴェストリ」の独特の味付けが随所に盛られる演奏である。
ある時クラシック音楽の「掲示板」で同じ「フランス国立放送管弦楽団」との「シルヴェストリ」の「新世界」のモノラル録音とステレオ録音で、演奏がどうも異なるようだ・・・という投稿があった。
小生は、てっきりよくあるステレオ録音を政策的に、モノラルにして発売したものか、あるいは、モノラルの「擬似ステレオ」ではないかと思ったが、事実は違っていて、オークションでモノラルのLPを入手して聞いてみると、其れは明らかに別の演奏であった。

にも拘らず「モノラル盤」「ステレオ盤」ともに、「フランスディスク大賞」を与えられたというから不思議である。しかし、この時代のレコード・・録音などに関するものはかなり誤謬があることをしばし経験しているから、これもその範疇なのだろう。

モノラル=旧盤、ステレオ=新盤として話を進めることにする。新旧両演奏の時間を計測した。旧盤はLPなので、正確ではないかもs知れないが大幅な狂いは無いだろう。
時間を計測したのは、実際の時間と、音楽的時間の流れに差異があるのでは?と、この2つの演奏を聴いていて思ったからである。

結果は以下のようになった。
旧盤1957年録音(モノラル)  新盤1959年録音(ステレオ)       
1楽章   8分35秒       1楽章   8分50秒
2楽章  11分30秒       2楽章  13分33秒
3楽章   7分25秒       3楽章   8分04秒
4楽章  10分18秒       4楽章  10分49秒 
トータル 37分46秒      トータル 41分16秒

「シルヴェストリ」の「新世界」には恐らく「プラハ・スプラフォン版」すなわち「新版」の楽譜が使われたのだろう。一楽章出だしの「ホルン」の応答は2泊目のいり、そしてどちらかといえば「やさしい」鳴り方で「協調的」に吹いている。これはも新旧両方で、有る資料によると、新版楽譜の発表が1955年というから、「シルヴェストリ」は発表と同時に、いや恐らくその前からこの「版」の存在を知っていたと推測することはできないだろうか。

冒頭に、「8番の4楽章の例」を挙げたように、この点からも「シルヴェストリ」がただの「怪演」「爆演」指揮者でなく、楽譜の研究にも精通していたことが推察される。
そういう意味から「アーノンクール」の先生といっていいのだろう。

2楽章を除けばほとんど同じような時間で演奏しており、実際2楽章は明らかにユッタリと、美しく演奏しようと勤めている新盤に比べて、旧盤では怒涛のような一楽章の余波を買って、ヤヤはやめのテンポで飛ばす前半と極端にテンポを落とす後半に分かれ、結果11分にとどまったが、前半のペースなら10分を切ったかも知れない。

そこ・・・楽章内の大幅で急なテンポの変化、歌いたい場面では極端にテンポを落としてタップリと聞かせどころを作ること・・・その変わり身の迅速さが、「シルヴェストリ」が「シルヴェストリ」たるゆえんであろうか。このスタイルは新旧両盤で顕著に見られる特徴でもある。

気がついたのは、ところどころに「ポルタメント」を薄く掛けていること、この辺り例えば「クーベリック」のように極端にかけるのは、いかがなものかと思うことがあるが、この程度なら非土俗的でアクセサリーとしても程よく聞こえる。

このように新旧の演奏に大差は無いのであるが、この曲の構成など無視して楽章単位で音楽を捉えたようなところがある「やりたい放題の「旧盤」
其れに対して
4つの楽章全体を見据えて、方向性を保ちつつ、その中で美しく響かせるところは寄り美しく、激しいところは寄り激しく、急激な「ルバート」「シンコペーション」を少し押さえ気味にして、ハーモニーを重視した演奏。

新盤の方がステレオ録音の効果もあって細かなニュアンスまで良く出ていて、特に、「裏の音」が良く響くので、「ハーモニー」感がより顕著に出ていて美しく響く。

by noanoa1970 | 2006-01-10 09:31 | 新世界を聴く | Comments(0)

「新世界」同一指揮者の2つの演奏を聴く・・・「フェレンツ・フリッチャイ」その2

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思わず息を止めて聴くような「RIAS響」との演奏に比べ、BPOとの演奏は随所で「深いため息」を何回もしてしまいそうになる演奏である。
前のBLOGで「RIAS響」と今回の「BPO」のものは「全く異なる演奏」と書いたのだが、繰り返し聴いてみると、そうとばかりいえないところがあるので、少し訂正する必要が出てきた。
それというのは、
「フリッチャイ」の「新世界」という「音楽のつかみ」という面では、そして各部の表情の変化は、細かいところにおいても大きく変わることは無いということである。どうも余りにもテンポが違うので、そのイメージが強すぎたのか、重要な視点を見過ごすところであった。

たしかに「RIAS響」との演奏=「旧盤」ということにする・・は「BPO」との演奏=「新盤」と比べると圧倒的なスピード感があり、息もつけないほどの熱い演奏であることは間違いないのだが、恐らく基本的な「新世界の演奏に対しての考え方や姿勢」・・・これを「解釈」といえないことも無いだろうが・・・フリッチャイの底辺に有る音楽姿勢は、ほとんど変わっていないように思われ「る。それぞれの楽章の主題やメロディの聞かせどころでは、その絶対テンポこそ違いはあるが、テンポを落としてたっぷりと聞かせるところなどは、新・旧瓦に「フリッチャイ」の音楽的素養であり特徴である。

「フリッチャイ」の凄いところは、旧盤でアッチェレランドやプレストをかけるところでも、その猛烈な速さにも拘らず決して音楽が滑っていないこと、細かい表情をもキチンと出し切っていること。そして新盤では、極度にゆるいテンポのところでも決して音楽が間延びしないこと。「旧盤」がじっと息を殺して聞いていて、曲が終わってから初めて深い深呼吸をするような感じがあるのにに比べ、「新盤」は、曲の途中で思わず漏れる「ため息」。曲が終わるとなぜか「心臓の鼓動がしばらくの間波打つ」ような・・そんな演奏の感覚的違いがある。

「旧盤」の1楽章が約9分、それに対し「新盤」は約10分、旧盤のトータル約37分
「旧盤」の2楽章は約10分そして「新盤」はなんと約14分、新盤のトータルは約45分
両録音ともに一楽章提示部の繰り返しは無い演奏である。
8分もの時間的な差があることは驚異的で、恐らく同一指揮者で同じ曲を演奏するのに、このような時間の開きがあるのは、「フリッチャイ」の「新世界」のひときわ大きな特徴であろう。

しかしこれだけの時間差が有るにも拘らず、音楽時間的短ささ・長さの感覚は全く無い。この辺りが「音楽」の、「フリッチャイ」の演奏の不思議でもある。
聴き所、聞かせどころの2楽章イングリッシュホルンのソロは、どちらもかなりの腕であるが、音の響きの深さと、レガート、テヌートの表現で、BPO の奏者がその音色とともに一枚上手だろうか。

旧盤と新盤の間には6年ほどの開きがある。DG(ドイツ・グラモフォン)はモノーラル録音であった旧盤の演奏を評価するとともに、普及しつつある「ステレオ」様に、当時DGの「エース」で「ホープ」であった「フリッチャイ」と「ベルリンフィル」という最高のオケで、今一度「新世界」のレコード発売を企画した。恐らくDGは「フリッチャイ」でクラシック音楽の一般家庭への浸透を目したのであろう。しかし残念なことに、この頃から「フリッチャイ」の病気はだんだん回復しなくなってゆく。

そして1962年・・・ちょうどわが国でも「ステレオ装置」が普及し始めた、大切な時期に、帰らぬ人となった。DGは代だとして「ベーム」そして後にDG の「顔」となる「カラヤン」にさまざまなジャンルの・・・入門編から、ツウ好みまで・・・数え切れないほどの録音を「STEREO」録音させた。そういう背景で小生が「フリッチャイ」を知ったのはDGの廉価版「ヘリオドール」というレーベルで、当時はその実力とは関係なく、一段低く扱われてしまっていたのである。

「ベーム」「ヨッフム」までもが一時そのような扱いを受けたことがあったくらい、「カラヤン」を押し立てるDGの戦略は凄まじかったのである。

話はそれてしまったが、「フリッチャイ」の音楽の変化は彼の「病」の影響だという説があり、恐らく其れはそうなのだろうと思われところがある。
晩年にユッタリしたテンポになる指揮者、録音と比べてライヴでユッタリと音楽を聞かせる識者はかなり多い。
「フリッチャイ」のかかった病は不治の病とされる「白血病」である。恐らく当時では助かる見込みはほとんど無く、多分フリッチャイ自信がそのことを知っていたとすれば、おのずから音楽との係わり合いに対する変化があるのは否めないことである。

この辺りは「推測」の域を出ないのであるが、発病前の「フリッチャイ」にはDGとの契約や、音楽監督、など「ばら色の将来と人生」が見えていたのだろう。「新世界」の演奏にはそのような強い意志と将来への、前向きな展望が表出されているようである。

発病後入退院を繰り返すようになると、どうだろう、そこに見え隠れするものは、ただひたむきに音楽に没頭しようとする姿勢から来る、残された時間を許される限り、自分の最高の音楽を残したい・・というようなある種の強い願望があるのではないか、そこには枯淡諦念などというような、「悟り」のようなものより、むしろ自分の音楽的遺産を後世に出来るだけ残しておきたい。
そのような願いや祈りのようなものが聞こえはしないだろうか。ベートーヴェンの演奏の中でも、計測j期間の最も長い法に属するBPOとの「英雄」「運命」をあわせ聴くと、そのことが強く思えてくる。

話は変わるが、昨夜たまたまTVで「岩城宏之」さんのベートーヴェンの交響曲連続10時間演奏のニュースを見たのだが、彼も闘病生活が長い中で、自分の記念碑的な事業として、この前人未到の演奏会を後世に残すべく、肉体疲労をも省みず断行したのではないかと思った、強い情熱と、意思により、人間は創造も出来ないことまでやってしまうものなのだと理解した。

発病前にはほとんど演奏しなかった「ブラームス」の交響曲を1959年代後半から60年代にわたり漸く演奏会で取り上げるようになったのにも、きっと何かしらの「フリッチャイ」の思いが有ってのことだろうと小生は思うのである。
通常ならブラームスの交響曲全集などを残しても湯誘うに思うのだが、「フリッチャイ」が其れまで「ブラームス」の録音をあえてしなかったのはとても不可思議だから、きっと何か理由があったのかもしれない。

by noanoa1970 | 2006-01-09 12:06 | 新世界を聴く | Comments(0)

「新世界」同一指揮者の2つの演奏を聴く・・・「フェレンツ・フリッチャイ」その1

今日から3回にわたり、同一指揮者の2つの「新世界」の演奏を取り上げることにした。最初に取り上げるのは、「フェレンツ・フリッチャイ」・・・ドイツ、アメリカで活躍し、DGの誇るホープ的存在であったが、不幸にも若くして夭折してしまった。
その「フリッチャイ」が西ベルリンのアメリカ占領地区放送局(Radio in American Secter)のオーケストラすなわち「RIAS交響楽団」と1953年(54年?)に録音したもの。そして1959年(60年?)に「ベルリン・フィル」と録音した2つの「新世界」である。

この2つの全く異質な演奏を聞かせる背景・・・この6年間の間にそのような変化点があったのか。そして「フリッチャイ」が作り出した音楽の違いはなにか?その余りにも凄まじい音楽の変貌振りとそれぞれの音楽の特徴を見ることにしよう。
d0063263_17482969.jpg1953年RIAS交響楽団
フリッチャイは後年その演奏スタイルの大きな変化から、トスカニーニ型そしてフルトベングラー型の両面があることを指摘されている。このRIAS響との1953年の録音は、「トスカニーニ的演奏」の代表格とされており、


d0063263_190338.jpgBPOとの1959年録音は「フルベン型演奏」であるとされているようである。しかし実際には「フルベン」は「新世界」の録音を残していない。昔発売された「フルベン」の「新世界」として世間を騒がせたものは「カバスタ」の演奏だったという。
               小生もスッカリだまされた口で
               あった。

しかし考えてみると「フリッチャイ」のように優れた指揮者を表するのに、いくら偉大とはいえ同じ指揮者の楽才をもってすることに、小生は大きな違和感を持つ。
件の大指揮者のイメージをもって片付けてしまうには、「フリッチャイ」の音楽は余りにも「素晴らしく」余りにも「凄すぎる」からである。

「フリッチャイ」は「ハンガリー人だといわれているが、彼の一家はもともとは「モラヴィア」=「チェコ」に住んでいたという。「フリッチャイ」の祖父は「チェコ」人であっただろうから、彼にはもともと「チェコ」の血が流れていたのかもしれない。
けれど残された「ドヴォルザーク」の録音は、これも不思議なのだが、「ブラームス」同様余り多くない。最も彼が短命であったせいもあろうが、この2人の作曲家の音楽のライヴ及び録音は、他の作曲家のものに比べ、余りにも少なすぎる。「ハンガリー人」として育ったせいか、コダーイ、バルトーク少なからず残されている。

このことはさておいて、この「新世界」は「阿修羅」か「八面大王」か、緩急自在に操り、クレシェンド、アチェレランド、プレスト、マルカート、などの音楽用語では表現不可能なくらい、変幻自在な音楽を作る。前面に力が漲り、オケをグイグイ引っ張るが聞かせどころではルバートして、高雅に、そして表情豊かに歌わせる。

それら変化点が非常に多いので、ドキドキしながらも、興味と興奮を持って思わずのめりこんで聞いてしまう。・・・そんな演奏である。繰り返しの陰影の漬け方は「流石」というほか言葉が無い。各楽章のコーダ付近の「フリッチャイ・プレスト」は特に聞きものである。

この「新世界」がト「トスカニーニ」的とはとんでもない誤解であることは、すぐに分かりそうなことであると思うのだが、世間ではどういうわけか・・・その方がわかりやすいのだろうか?それともフリッチャイの知名度を上げようとする戦略なのか?
「新世界」に関して強いて比べて言えば、表情の変化点の範囲が狭い「トスカニーニ」よりは、表情豊かな音楽作りの面でかなりの差で優位に立つ演奏だと断言できる。
そして「トスカニーニ」的とは、「演奏のスピード感以外には全く似て非なるもの」だということをわかって欲しいものである。

全てのアインザッツに音の魂が乗っていて、アクセントを1泊目において進めていくかのような音楽作りに、「新世界」演奏の極致を見ることになる。
素晴らしい演奏だ!!BPOとの演奏は次回に

by noanoa1970 | 2006-01-08 08:40 | 新世界を聴く | Comments(0)

「新世界」を聴く・・2人のドイツ人指揮者その2「オトマール・スイットナー」

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「ベルリン国立歌劇場管弦楽団」との演奏。
①楽章の「ホルン」の入りは2泊目、しかも「ポ・ポーッ」と戦闘的に鳴らす。小生のお気に入りのスタイルである。ガッシリとした非常に重心の低いオケなのだが、微細な音を良く表出する。録音もすこぶる良好で、余り聞こえてこないような弦楽器の小刻みなボウイング、埋もれてしまう木管楽器の音まで良くわかる。「ベーム」盤の思いっきりのヴィヴラート、低弦のこれでもかと歌いこむ演奏ほどには及ばないが、それでも情感を程よく表出する。

音的にはブラームスあるいはシューマンのようなところがあって、これもまた東欧系の演奏家の「新世界」は一味番った作り方といえそうだ。オケも上手であり、聴いていて新鮮に聞こえるのは「新版」の楽譜によるところなのだろうか?

聴いていてオヤ何か違うぞ・・と思ったことの最大のポイントは
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イングリッシュホルンが活躍する2楽章の「家路」としても有名な「ラルゴ」3小節目のところ
「ファ・ラ・ラ・ファ・ミ・レ」と、ほぼ楽譜のようにイングリッシュホルンが奏でるところ。
普通は、「ファ--・ミ・レ-」と聞こえるのに対し、スイットナー指揮のイングリッシュホルン奏者は「ファ-・ミ-・レ-」と吹いているではないか。
チョット待ってくれ、そんな風に吹いたら、雰囲気が台無しになるではないかと、手持ちの演奏を片っ端から聴いてみたのだが、スイットナー盤のようなイングリッシュホルンの吹き方をしているものは、発見することが出来なかった。

この主題部分の繰り返しではスイットナー盤のような吹き方をしているものも多いが、最小のメロディからやっているものは・・・・??最初のものと繰り返しを同じにするのなら、最初に統一すべきだろう・・・と、ここだけが妙に鼻につき、大変に後味悪く印象に残ってしまった。
この部分は「スラー」で「レガート」タップリのアーティキュレーションで、そしてやはり情感込めて吹いて欲しいと強く思ってしまうのであった。

1楽章の第2主題の演奏で、フルートとその後の弦パート、そして最初と繰り返しで、それぞれリズムを変える演奏が多いので、スイットナーは其れを嫌ったのだろうか?確認したが、微妙な差なのでハッキリしなかったが、どうやら「提示」ではフルートと弦パートは同じリズム、しkし「繰り返し」ではリズムを変化させているようだ。

結局、スイットナーの解釈なのか、楽譜の「版」に起因するのか良く分からなかった。

スイットナーとソロ奏者との間に葛藤は無かったのだろうかと気になるところである。
その1点を除けばこれは文句のつけようの無い、民族色のほとんど無い演奏のトップに上げてしかるべき演奏であると思う。

もう一つの特徴としては1楽章「提示部の繰り返し」をキチンとやっていることである。多くの指揮者が「繰り返し」を避ける傾向がある様に思うが、そして「新世界」の繰り返しはややもすれば、せっかくの「ノリ」が失われそうな気がしないでもないのであるが、やはり「繰り返し」をキッチリとやって、なおかつ曲の進行を妨げない・・・其ればかりか、たっぷりと聞かせてくれる演奏が望まれる。
スイットナーは「表情の変化点」がハッキリとしていて、くどさが微塵も無い」文句無く合格である。
ティンパニの強力打音が好きな人にも、もってこいで「スメターチェク盤」に劣らず、すごい音を出している。

郷土料理も美味しいものはたくさんあるが、いつもそればかりではどうしても飽きてしまう。そういうときには純音楽指向の強いこの演奏などお薦めである。
「おせち料理に飽きたら、カレーもいいね」・・・なんていう宣伝が昔あったことを思い出した。

by noanoa1970 | 2006-01-06 10:00 | 新世界を聴く | Comments(0)

「新世界」を聴く・・2人のドイツ人指揮者その1「カール・ベーム」

ドヴォルザークの「楽譜の版」の問題についてはまだ見確認・未確定の要素が強いので、これ以上は言及するのをやめて、あくまでも聞く側の立場で、・・・・(其れしか出来ないのであるが)・・・進めていくことにする。
ただ聞こえてくる音楽の大きな違いがが解釈の違いなのか、また楽譜の版による違いなのかは、聞く側にとっても非常に気になるところではある。

そこで、何かヒントとなるものはと、調べていたら、参考になりそうなサイトが見つかったので、興味ある方はどうぞ。

今までのことを頭に少し入れ込んで、聞いていくことにする。今日は予告では「ベーム」だったが、少し趣向を変えてドイツ音楽が得意な2人の指揮者・・・すなわち「ドヴォルザーク」には余り似つかわしくないと思われる指揮者として「ベーム」と「スイットナー」を挙げることにした。なぜかといえば、この2人の演奏は、小生の予測を遥かに超える演奏を聞かせてくれたからである。

どういうわけなのか、小生はドイツ系の指揮者による「新世界」の演奏が好きで、もちろん生まれは違うので生粋のドイツオーストリア人=ゲルマン系ではないが、長年その地で活躍し続けた指揮者、「フェレンツ・フリッチャイ」、あるいは「フランツ・コンヴィチュニー」、毛色の変わったところでは、フランスで活躍した「コンスタンティン・シルヴェストリ」、イギリスで活躍した「イシュトヴァン・ケルテス」などが好きである。・・・でも考えてみれば、いずれも東欧諸国の出身者ばかりだから、広い意味では、「チェコ」の「ターリッヒ」、「アンチェル」と同族の血脈があるのかもしれない。「セル」もそういえば非ゲルマン系の一であるから、「ベーム」「スイットナー」はその中でも特異な存在であるといえる。

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ドヴォルザーク:交響曲 第9番 ホ短調《新世界より》
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、
指揮:カール・ベーム録音:1978年5月 ウィーン


「ベーム盤」は当初LPで購入した。しかし余りにも印象が緊張感が無かったので・・・・当時の小生はこの曲に対してのイメージは「躍動感に満ちた、激しいもの」・・・という者が強かったので数回聴いたきりで長いことそれっっきりとなっていた。
あるとき固めて「新世界」を聴こうと思って取り出し聴いてみると、初期の悪い印象など消し飛んでしまうくらいの、ある種「すごい演奏」であった。
初回のCD復刻を見逃がして何回かの後に入手したのが上CDである。

d0063263_13551586.jpg<LPのジャケットはNY辺りの風景を切り取ったもの、太陽のように見えるのは、カメラのフラッシュ、ジャケットには無いものです>

「ベーム」が84歳の録音である。多分「ベーム」はドヴォルザークの「新世界」を録音したくは無かったことだろう。DGの販売戦略にのっとって企画されたに違いないと思われる。同じオケとのライヴを除けば恐らくは唯一のドヴォルザークであると思う。

しかしながら、そこは流石「ベーム」である。引き受けたからには得意も不得意も無い。
数々の優れた演奏が目白押しのこの曲に老体に鞭打って、真っ向から勝負を挑んだ・・・聴いているとそんな気がしてくる。

ここでの「ベーム」はいつもの「ベーム」と「VPO」の組み合わせで聞こえてくるような音楽を作っていない。一言で言えば、「ベーム」がかなりの程度VPOの自立性を認めた・・・かなり自由に演奏させているように思える。そのせいだろうか、ものすごくオケが歌う、フレージングも多様で、どのような場面でも美しい響きを重視する。テンポの動かし方にも自由度が高い。VPOがノビノイ演奏していて、聴いていてとても気持ちが良い。

「ウイーンのドヴォルザーク」とでも言おうか?①・②楽章には随所に「弦の重奏」・・・(最低2人からごく少人数の)・・・が登場するのだが、そのアンサンブルの比類ない美しさは差宇賀VPO他ではなかなか聴くことは出来ないもの。

驚くのは①楽章に象徴されるユッタリしたテンポで、こんなに遅いものは他にはあるまいと思っていたら、進むにつれてリニアに加速して行き、終わってみれば9分代後半と、ごく普通の演奏時間であった。リニアな加速リニアな減速・・・わざとらしくない自然体のテンポ・ルバートなどこの辺りが決して恣意的でないこと。この辺りが「’ベーム」の音楽性の一旦であろうか?

そしてやってくる「ベーム・エンディング」・・・・最初と最後の大きな変化、中間楽章の表情付けが聴き所である「民族色」等一切無い、いわば非ドヴォルザーク的演奏で、まるで「シューベルト」を聞いているような錯覚さえ覚えるような「新世界」であった。

このような「新世界」は他には見当たらず、そしていわゆる「ベーム」に対して小生が昔から持っていたイメージからは最も遠い演奏スタイルであった。

「最も美しい新世界の演奏」・・・ベームの「新世界」はそんな形容詞がピッタリだ!

by noanoa1970 | 2006-01-06 09:00 | 新世界を聴く | Comments(0)