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第9「温故知新」・・・フランツ・コンヴィチュニー

年末も後3日を残すだけとなった。小生の第9の「トリ」はなんと言っても「コンヴィチュニー」の演奏でなくてはならない。
「コンヴィチュニー」の第9は「ライプチッヒ放送管弦楽団」のものと、「ライプチッヒゲヴァントハウス管弦楽団」のものとの2種類の演奏があり、小生は都合5種類のCDを所有しているのだが、その中でとりわけ優れたリマスターのCDを取り上げることにした。

d0063263_11265765.jpg最初にCD復刻した「ベルリン・クラシックス」の全集の1枚。初期の「エテルナ」LP盤には到底及ばないまでも、国内で発売されたどのLPよりも音がよみがえっている。かなり腕の良い音楽的センスのあるエンジニアのリマスターだと思われるような、素晴らしい音が再現されている。


d0063263_110869.jpgコンヴィチュニー生誕100年、没後40年を記念して「EDEL}から発売された2巻に渡る全集の一つ。「ベルリンクラシック盤」と同じようなはずであるが、出てくる音が微妙に異なる。このCDは広域にやや偏ったように聞こえる。リマスターはされてないようなので、CDの物理的、特性によるものなのかもしれないが。小生は「ベルリンクラシックス盤」がより好みである。

d0063263_11123439.jpgこのCDに収録された演奏は「ライプチッヒ放送管弦楽団」と1960年の演奏・・・「ゲヴァントハウス管弦楽団」との録音と、ほぼ同じ時期であるがこちらは「ライヴ」で「モノラル」録音である。
しかし演奏は全集盤に勝る「熱い演奏」であり、小生はこちらをの評価を高くしているのだが「テーネ」を「F-F]と歌わせているのと、ライヴであるが故なのかすさまじいほどの「音のユレ」や「アゴーギグ」があるので、こちらもそうやすやすと気楽には聴けない演奏であるから、ここに詳細にあげるのをかなり遠慮した。音楽の作り方はかなり異なるものの、出てくる音は、かの「フルベン」「バイロイト」を髣髴させるものがある。

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この見慣れないCDが小生の一押しのCD。ポーランドの「ポルスキー・ナグラニア」というマイナーなところからの発売による。先日オークションに出品されていたのを見かけたのだが、一般のCDショップでは多分入手できないから、輸入専門のショップに問い合わせると入手の可能性があるとだろう。
其れほどまでして「コンヴィチュニー」の第9を聞きたい方はおられないとは思うが・・・・
あえて紹介したくなるほどに「リマスター」の成果が出たのがこのCDである。

このCDのジャケット裏の解説には誇らしげに2人のエンジニアの名前が記されているから、よほどの自信があったのだろう。

しかしわが国ではこのCDは・・・というかそもそも「コンヴィチュニー」などは余り見向きもされない、少人数の特殊なマニアの愛好する指揮者だと思われていたのが、1970年代から2000年まで、それ以前は来日してベートーヴェン・チクルスを行ったこともあって、「ドイツ伝統」のお墨付きをぶら下げて、こと「ベートーヴェン」には必ず登場したが、それ以来2001年に生誕100年没後40年を記念して安価なCD全集が登場するまでは、ほとんど聴かれなかった指揮者であった。小生が利用している「掲示板」でも時々好きな方を見かけることがあるようになったことは、やはり喜ばしく思えるのである。

「コンヴィチュニー」の作り出す音楽のよさは、なんといってもその「テンポ」にある。
赤ん坊が母親の胎内で、母親の心臓の音や、外界の・・・音楽の音などを聴くというが、その母親の心臓の鼓動を聴いて、すっかり安心して胎内で過ごしている赤ん坊の居心地のよさを思わせるようなものを、小生はいつも味わうのである。

1楽章の第2ヴァイオリンが刻む「漣」のような弦の音は、「混沌」の中のただ一つの「光明」を表現しているかのように、程よいアクセントと、絶妙のリズムそしてノンヴィヴラートで奏されるファンダメンタルなヴァイオリンの音が、集まって異次元の新しい音を作り出す。
この「漣感」の全く無い演奏がかなりあるが、これは小生は受け付けない。このリマスターされた「ナグラニア」のCDはこのあたり空気を良く表現している。
そしてまた低弦の箱(胴)鳴りをも表現しているかのような錯覚さえ覚える。倍音成分をとてもよく拾っているから、弦にヴィヴラートが乗っているように一瞬思うほど。この辺りは「ベルリンクラシックス盤」では表現できないことである。

2楽章は「コンヴィチュニー」のテンポルバートが絶妙に散りばめられる、コンヴィチュニー独特の「コンヴィチュニー・パウゼ」も見られるし、「コンヴィチュニー・アクセント」など、彼の日向の部分の力が大いに発揮されるこの楽章の「繰り返し」は下手すれば必ず飽きをよぶのであるが、「コンヴィチュニー」のそれはもう一度聴きたいという欲望さえ湧いてくる。これはいつも思うことなのだが、「繰り返し」をやって、手ごたえの有る指揮者は「コンヴィチュニー」を除いてはそういない。

3楽章「フルベン」でも途中でダレる3楽章を「インテンポ」で遣り通した「コンヴィチュニー」フルベンは明らかに3楽章<4楽章という感じがどうしてもぬぐいきれないのであるが、「コンヴィチュニー」の場合は1.2.3楽章=4楽章という感じの組み立てをしているように思えてくる。
どちらもそれなりに認めるところではあり、「ノイエ・ザッハリッヒカイト」一点張りの演奏でも小生は困るところがあるので、この点はすなわち「オーソドックス」という表現があたっているのかもしれない。以外に3楽章はやや早めのテンポ運びである。
一つだけ残念なのは「下降するホルン」の音がハッキリしないまま進んでしまうこと、それだけである。「あくまで冷静な・・・感情表出を抑えた美しさ」の3楽章ということが出来ると思う。

終楽章の出だしの低弦の響きのリマスター効果はものすごい。オリジナル音源にこのような音が潜んでいようとは・・・・今まで聞いたことの無い驚きの音である。
「恐怖のファンファーレ」も非常にうまい、ゲヴァントハウスの金管の力はいまいち良く分からなかったが、相当な実力があることがこれで分かるというもの。
バスの「テオ・アダム」は「テーネ」は「G-F]と歌う。この歌い手は音色も歌い方も堂に入っており、安定感があるし、上出来だ。合唱の歌う「フォーゴット」のフォーとゴットの間で息継ぎをさせる。
なぜかというと「コンヴィチュニー」は「ゴット」に特別な「敬意」を払ったのかこの「ゴット」の「フェルマータ」を10拍以上引っ張る。多分今まで聞いてきた中で一番長いと思う。1962年の「カラヤン」も長かったが「コンヴィチュニー」はそれ以上。然るにフォーの後、(ゴットとの間)に息継ぎが必要なのだ。
曲想を壊すと思われる方もあろうが、小生は(ベートーヴェンがそう思ったであろう)とコンヴィチュニーが感じた「シラー」の詩の解釈を実現したものとして大きな評価をしたい。

4人の独唱者のバランスも合唱団のも総じてクッキリとした、そして統制間有るそしてハーモニーバランスがある声を聞かせている。ベストメンバーの第9の4楽章が必ずしも成功しないのには、いろいろな原因があろうかと思うが、大きいのは合唱指揮者と総指揮者の信頼と意思疎通なのであろう。いかに「巨匠」といわれようが第9を振るとボロが出る一つの原因がそこにあるように小生は思う。
先にあげた「ペーター・マーク」などは素晴らしい音楽を作っている。
そして「コンヴィチュニー盤」にはその際たるものの存在が感じられるのである。

「コンヴィチュニー」の音楽は「とても大きくて懐が深い」・・・・・・
「フルベン」は躯体は「巨大」ではあるが、耐震強度は基準値どおり、一方「コンヴィチュニー」は躯体は「大」であリ、その耐震強度は・・・中身がぎっしりと詰まっていて、これ以上はオーバースペックとなるくらいの強度を持った・・・安心して長年付き合えるものとなっている。
・・・・というのが小生の第9の感想である。

by noanoa1970 | 2005-12-29 15:00 | 第9を聴く | Comments(0)

第9「温故知新」・・・ウイルヘルム・フルトベングラー

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この有名な「バイロイト」の第9はLPでもCDでも何回と無くマスターやプレスを変えて発売されてきて、今も直其れが続いている。ツイ最近非常に状態の良いLPから版を起こしたという「OTAKEN盤」が発売され人気だそうだ。小生は熱烈な「フルベン」の愛好者ではないので、多分3回目の発売の「足音入りで、ジャケットが飾り文字」だらけのLPと、CDの初期盤しか所有していなかった。しかしそのCDは余りにもLPが持っている音の深みに欠けていたため、長い間聞くことは無く、そうしている間に「フルベン」「バイロイト」の第9・・・・2枚組みLPを取り出してまで聴くことは無いということで、専ら「コンヴィチュニー」「LGO」へと手が伸び、いつの間にか小生の「リファーレンス的」存在となって今に至った。

とはいっても、「第9温故知新」に「フルベン」を書かないわけには到底行かないので、CD初期盤を数回聞いたのだが、手ごたえが無いところ、この「平林直哉」氏製作によるCD発売のニュースを見つけ注文し、雪で遅れたのだが漸く到着したCDで有る。

1951年の「ライヴ」であるからどのように復刻してもその限界はある・・・とやや低めにそのレベルを予想していたのであるが、これには驚いた。初期のCDなど問題にならない・・・そしてLPも凌駕する音が出てきたからだ。

リマスターなどによる印象の違いから演奏の評価なるものが大いに変わった例として、小生の場合、「リパッティ」と「カラヤン」の「シューマンのPコン」を経験しているが、今回は其れと同等の結果が得られたという気持ちになっている。

昔のLPにこのような素晴らしい音と、情報量があることをつくづく思い知らされてしまったという心境なのである。

「フルベン」のバイロイトの第9への賛辞はあらゆる人が述べているのだが、小生には今ひとつピンと来るものが今まで無かったのだが、今回の経験では、弦楽器の音色の、木管楽器・・特にフルートとオーボエのすばらしさ、すべるホルンをカバーして余りある金管の輝き、「シュワルツコップ」「エーデルマン」の特上の声と、なによりも「フルベン」の棒から生まれる音のうねりが十分伝わってきた。

「フルベン」の音作りは・・・さまざまな大きさの岩石を積み上げて建物を作っていき、その過程で誰にも相談することなく自分のその場の瞬間的感性で、他人が見て必要だと思うところでも、不必要と思ったとたんにその部分を大幅に削り、逆にこれはいらないと思われるところを多少の崩れはかえって風流・・・とばかりに残していく。

決してディテールから音楽を見ないで、先ず大きな音楽の流れを作り、その中で的確に「目玉商品」なるポイントをちりばめる。
毛筆の達人が筆を次に進める瞬間に、あたかも2度書きするようにする筆捌きのように、、音楽をためることを、それとなくこなすことにより、音楽に「音魂」が出てくるのである。

このCDは長い間忘れていた「フルベン」を復活させてくれた・・・その意味では貴重なCDである。ただ・・これはやれるはずのことであるから一言言っておきたいのだが、最後の観客の「拍手」・・・ずいぶんはしょってしまい、おまけに音量を急に上げ下げするものだから、せっかくの演奏が少ししらけてしまう。
オリジナルのLPがそうなっていたのか製作者の意図なのか派不明であるが、せっかくここまで出来たのだからさいごのの「手抜き」はして欲しくなかったと思うのである。

by noanoa1970 | 2005-12-28 11:42 | 第9を聴く | Comments(1)

第9「温故知新」・・・カール・シューリヒト

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「シューリヒト」と小生の出会いは意外なところにある。中学1年生の「図工」の時間に、当時としてはシャレた先生の計らいで、装飾・デザイン的なものを作成することになった。
生まれて初めての試みであったのでアレコレ迷いに迷い、仲間と相談するとあるものは「包み紙」またあるものは「箱のデザイン」だという。それでも小生はなかなか思い当たるものが無く、どうしようと途方にくれる時が続いたのであった。

そんな中、小生の家では「コンサート・ホール・ソサエティ」という会員制のレコード販売の会社からレコードを入手したことがあって、・・・・断らなければ自動的にレコードを送ってくるという、非日本的な販売方法であった・・・その案内のパンフレットが届いていて、中を見ると宣伝用の「レコードジャケット」が沢山印刷してあった。

そこで小生はレコードジャケットを作成することを思いついたのであった。
その中で最も簡単そうに見えたのが「シューリヒト」と「シュツットガルド管弦楽団」の「シューベルト」の「グレイト」であった。
当時は今のように「グレイト交響曲」は「9番」ではなく「7番」とされていたように記憶する。
ともかく其れを真似ることにしたのであるがその理由は「シューリヒト」が好きなのではなく、そのジャケットは全面がデザイン文字で書かれていて、何とか真似できそうだったからであった。

モスグリーンの台紙に銀色で書かれた割と見やすくハッキリしたデザイン文字。これならいけると思ったのだろう・・・しかしレタリングは思うほど簡単ではなかった。

そうして何週間かにわたり製作が続くことになったのであるが、ある日担当の図工の先生が休みのときに代わりに来た社会の先生が、小生の作りかけの「カール・シューリヒト」「シュツットガルド管弦楽団」「GREAT]のイラスト文字を見て「君はクラシックが好きか?」と質問してきたことがあった。
後にそのN先生は有名なクラシック好きであると分かった。
そのときの小生の返事は自信なさそうな「ハイ」であったとも記憶する。

「シューリヒト」はそんなに有名な指揮者なのか・・・初めてトスカニーニ、ワルター、フルトベングラー以外に興味を持った指揮者であった。
その前後にわたり「コンサートホール」からはいくつかの「シューリヒト」の録音が発売されたのだが、1962年にコロムビアから発売された50枚組みの大全集を購入して以来「コンサートホール」とは縁が切れてしまい、お金の無い中学生の小生は「シューリヒト」の存在すらも忘れかけていたのであった。

この第9は当初「モノラル」で発売されていたが、当時から「実験的ステレオ録音」の存在がうわさされていて、実は昨日手元に届いたものである。
本来は「平林直哉氏」がリマスターした「フルトベングラーの1951年バイロイトの第9」、そしてずいぶん長い間復刻を待った・・多分CD初出の「ヨッフム」と「バイエルン放送交響楽団」との「シューベルト」の「ザ・グレイト」と一緒に24日に届くはずであったが、雪のためか到着が今日となって、たった今「シューリヒト」を2回聞き終えたところである。

フルトベングラー的な第9の表現を支持する方は圧倒的であるが、そのフルトベングラーの演奏とはおおよそ正反対と思える演奏の筆頭がこの「シューリヒト」の演奏であることは間違いないと思う。
次回リマスターされたフルトベングラーの演奏をジックリと聴く予定であるが、以前からのLPやCD初期盤を聞く限りでは、小生にとっては重要な位置づけの演奏ではない。
其れがどのように変化するか楽しみである。
ともかく「シューリヒト」の演奏は数ある中第9のでも好きな演奏の部類に入ることは間違いないことである。

「何も足さない、何も引かない・・・・」どこかの「ウイスキー」のキャッチフレーズのように、この演奏はまさしくそういう印象である。
しかし細部にわたり、微妙・・ほとんど微妙なな音の「伸び」や「ユレ」を感じることが出来、其れが音楽を躍動させることにつながっている。
一見地味な演奏に聞こえてしまうのであるが、「シューリヒト」美学であろうか、自然なティンパニの1音追加、あるいはホルンの重ね、録音のせいとは決していえないような木管の押し出しが見られ、時々ハッとすることがある。

4楽章も劇的には決して進まなく、お祭り騒ぎも無い。ただ淡々と音楽をしているというような雰囲気があり、独唱陣おのおのも重唱も秀逸、決して重々しく歌っていなく、軽妙にさえ感じることがある。この辺りは「フランス的」といっていいものだろうか?「ドイツ的」という表現があるから許されることだろう。
合唱は「クリュイタンスとのフォーレのレクイエム」ではアラが目立つと言われ、あまり評判がよくない合唱団ではあるが、この曲に合う合わないはさておき、「透明感、ある種の爽やかさ」を感じるもので小生は好感が持てる演奏であった。

このステレオによるリマスターはモノラル盤と比べて、繊細な表現力が良く出ているから、成功だといってもいいのだと思う。

by noanoa1970 | 2005-12-27 15:51 | 第9を聴く | Comments(0)

第9「温故知新」・・・ブルーノ・ワルター

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「ワルター」を聴かなくなってからもうずいぶんと月日が経つ。このLPが発売された当時は「ステレオ盤」での第9の録音は多分唯一であったであろうから、第9といえばこの録音しか聞かなかったというくらい良く聴いたものだった。「トスカニーニ」「フルトベングラー」は友達の家のレコードを借りたりして聞いたに過ぎなく、印象として残っているものは、あくまでこの録音であった。
しばらくして入手したのが「トスカニーニ」「フルトベングラー」そして「コンヴィチュニー」・・最もこれらは親のお金で入手したもので、自分で購入したものは先にあげた「カラヤン」BPOの1963年録音である。

「ワルター」は第9以前に「田園」とモーツァルトの「愛ね暗いね・・・」=変換ミス「アイネ・クライネ・・・・」「36番・40番の交響曲」そして「未完成」とカップリングされた「運命」があり、少年時の小生はこの「運命」を、生意気にも友達の家にあるものとを「比較試菊」するなどしていた。

「ワルター」の独特の・・・・「ワルター・パウゼ」ということが出来るような一瞬の「間」は少年にも分かったから、「アイネクライネ・・・」を筆頭とする「一呼吸してから物事に取り掛かるような)不思議な音楽に」感性を刺激された思いがあった。

小生が「ワルター」に求めていたのは彼を評して言われることが多い・・・やさしい、暖かい、人間的な、心を包み込む、・・・などなどの形容はもちろんあるのだが、其れに加えてこの「ワルター・パウゼ」の持つ音楽進行の橋渡し的な躍動感であった。

実は第9にこの期待を掛けて聞いたのであるがその期待は見事に裏切られて、そこから聞こえてきた音は、一切の「ワルター・パウゼ」などは無く、もう一つ期待したところ、「ワルター」ならば「Brüder! überm SternenzeltMuß ein lieber Vater wohnen.
兄弟たちよ、星の輝く天幕の彼方に愛に満ちた父がいるに違いない」のところ、合唱が終わった後に奏される「弦パート」の音色・・・暖かさと慈愛に満ち溢れたつややかで美しい音色を響かせるに違いない・・・と期待して聞いたのであるが、ここもテンポを落とすぐらいで意外にあっさりと流してしまっていた。

いや、こんなはずではない小生の「ワルター」の演奏イメージは!!
しかしいくら荘思っても現実は小生のイメージを覆すものであった。そしてここに40年以上にわたって作ってきた小生の「ワルターイメージ」がもろくも崩れ去ったのであった。

今一度手持ちの「ワルター」の音盤を全て聴きなおさなければいけないと思いつつ、今だに着手できないでいる。

第9は果たして「ワルター」の失敗作であろうか?はたまた「ワルター」とは「田園」で作られた昔のイメージの人ではなく、別の面の強い人なのであろうか?そういえば「マーラー」では何か違う一面が見られるようにも思われる。
イメージの逆転が怖くてしばらくは手を出せないままでいる指揮者なのである。

「ワルター」は以外にも「ザハリッヒ」な指揮者であるのかもしれない・・・とふと思ってしまった。

by noanoa1970 | 2005-12-21 09:40 | 第9を聴く | Comments(0)

第9「温故知新」・・・アルトゥーロ・トスカニーニ

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今までほぼ棚にある音盤を順番に聞いていったのだが、どうも小生の並べ方がまずかったのかあるいは功を奏したのか、往年の指揮者たちによる録音を手に取ることが無かった。
気になって見ていったら、どうやら往年の名指揮者たちの録音は一塊になっていて棚の右隅の方にあることが分かった。
そこで当初決めたの「アトランダム」を一旦放棄して、本日からは過去の第9演奏を聞くこととした。トップは「トスカニーニ」最初にトスカニーニの代表盤として評価が高い、彼の85歳の誕生日を記念してのカーネギーホールでの録音を聞いた。

この演奏を当時の「ザ・ニューヨークタイムス」の音楽評論家「リチャード・オールドリッチ」は「演奏における全てのニュアンスを表現する際に、その旋律宣は壊されることは無く、柔軟に歌いだされた全てのフレーズに有機的な全体像における均整の取れた調和を、常に見失うことは無い。演奏のリズミカルなさまは類稀な生命力の現れである・・・・」と述べている。
非常に抽象的であり、かってわが国の評論家諸氏もこのような口調を良く使ったのと同様、「評論」としては今ひとつシックリ来るものが無い。

そしてこの言葉が本当にこのトスカニーニの演奏を言いえているのであろうか・・となると小生は「NO」だといわざるを得ない。
トスカニーニは第9演奏の功労者とも言われ、かなりの数の第9演奏を行った。録音も相当数残していると聞く。そしてNBC交響楽団とのものだけでも少なくは無いと聞く。

小生はこの有名な1952年の録音を何回と無く聞いてきたが、どうも世間の評判ほどの感想を今ひとつ持つことが出来ないいでいるのだ。
それは
「一見歌っていないようで、良く聴くと歌っているようだが、ジックリ何回も聴いてみるとやはり歌っていない」、何を褪せる必要があるのか「棒」にあせりを感じ」、したがって「オケが其れを微妙に反映」し、「アチコチで滑っている」。「ガチガチに硬くなったオケ」の姿を感じてしまうところが随所に見られるからである。

そこで取り出したのが
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NBCとの最初の録音を聞いて見ることにした。トスカニーニが70歳NBC交響楽団創立1ヵ月半後の演奏である。
エッジの効いたクッキリとした演奏には変りは無いが、明らかに1952年の演奏とは異なる。柔軟なフレージング、気の利いたルバート、オケも規律のなかでよく歌っている。
トランペットなどに楽譜をいじった跡らしき音が聞こえるし、「テーネ」を「G-F]と歌わせるなど・・・恐らくトスカニーニ自身の第9研究の成果だろう・・・が現れているように思われる。
SP復刻で雑音がいたるところであるが、驚くのは
1楽章で「運命の動機」がかなり強調されていて、実はそのことにこの演奏で初めて気づいたのであった。「混沌」とはよく言われているが「運命」が潜んでいるとは・・・面白い発見をさせてくれた演奏であった。

トスカニーニのイメージを小生はどうやら固定してしまっていたようだ。其れは今まで彼の録音を「評価盤」だけを聞いてきたからであり、彼の偉大な業績の割には彼の残したものを余り聞いてこなかったことによるところが大きい。
我が家に「一体型ステレオ」が出現してこの方気をつけていたはずなのにも拘らず、昔のクセとは恐ろしいもので、何時しかチョイスする音盤は「ステレオ」中心となってしまった時期があって、この時代の演奏家たちの録音は、「有名どこ」の範疇から一歩もp出ていないことが現実なのであった。

「トスカニーニ」は昔FMで「トスカニーニアワー」としてかなりの録音を放送し、家庭用テレコで気の向くままに録音したことが会ったくらいで、不幸にしてその後いくつかのレコードや復刻CDを入手するだけにとどまってしまった指揮者であった。

そういう意味で、これからまとめて聞くことが残されている・・・逆に言えば楽しみが残される偉大な指揮者の一人である。

by noanoa1970 | 2005-12-20 12:00 | 第9を聴く | Comments(0)

第9いろいろ・・・ペーター・マーク

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いろいろな第9演奏を聴いてきて、その演奏スタイルは、大雑把ではあるが次のように分けることが出来るということに気がついた。
ほぼ1990年を境にして
それ以前の演奏録音は
「ブライトコップフ版」を使用したモダン楽器による演奏が主流を占める。
しかし中にはモダン楽器を使用しているが、古楽器の奏法である「ピリオド奏法」≒「ノンヴィヴラート奏法」に近いとお見受けする演奏が存在する。
また指揮者個人が研究した幾種類もの古い楽譜による、あるいは指揮者自身が感じる楽譜の弱点を補足するような若干の「改定演奏」がかなり多く認められる。

1990年以降は、その初期に見られるように「デル・マール」の研究をいち早く採用した演奏=「ベーレンライター版」の正式出版前の「版」を採用した演奏がいくつか存在する。しかしほとんどの場合が「ベーレンライター版」の楽譜どおりの演奏を実施していない。このことは「ベーレンライター版」が未完成であることを意味していると思っていたが、正式版を使用した演奏の中にも楽譜どおりの演奏をしてなくて、「ブライトコップフ版」のものを一部採用しているものがあることに気づいたので、別の理由を意味することとなりそうである。
その結果「ベーレンライター版」の弱点を補う必要があることを示唆することになる。

1990年の後半~2000年代には「ベーレンライター正式版」使用とする演奏が出現する。しかしこれらも100%の使用はごくごく少なく、「ブライトコップフ」の良いところ・・・逆に言えば「ベーレンライター版」の奇異なところを避けるようにして一部ではあるが「ブライトコップフ版」を取り上げている演奏が見られる。

この流れは1990年代初期のデル・マールの研究版(非正式版)を使用した時のやり方と余り変化が無いことである。一つの楽譜に拘泥せずに、自分の感性に即した音楽を作っていこうとする指揮者の「良心や気質」が感じられ、うれしくなってくる。

古楽器、ピリオド奏法そして新しい版による楽譜の使用・・・と進んできた特にベートーヴェンの交響曲の演奏は今後どのように変化していくのだろうか?

今日取り上げたものは「聞く側から見える新しい演奏」の一つだと、小生が考えるものである。
「ターナー」の水彩画・・・いや薄い色がついた水墨画のように自然を人間界に取り込んだような、湧いて出る透明感、音の隅々が見渡せるような清々しい音、エッジに濃淡が顕著で、陰影の表現力に優れた・・・そしてそれらと決して矛盾しない音の粒立ちが引き立つ音楽であると感じ入った。
2楽章までのマークのリズム感あふれる音楽の流れの上に、各楽器の澄んだ音が乗っかってている。
ヴィヴラートのほとんど無い弦楽器の倍音成分が反作用的に豊かに聞こえて、しかもハーモニーに独特の色彩を与えている。
出てくる音は繊細でしかもデューナミクスに富む。
一体この指揮者はどのようにしてこのオーケストラからこのような音を出させるのであろうか?
この演奏ではイタリアの田舎の無名で少人数のオケから見事な粒立ちの音と見事なハーモニーを出現させている。

若干早めテンポで、小躍りするかのような特徴有る「マークリズム」にのって進む1・2楽章から3楽章にいたると、其れまで控えていた弦楽器のヴィヴラートをたっぷりと掛けて表情豊かに歌わせる・・なんと素敵な仕掛けだろうか。
他のほとんどの演奏家が途中でだれてしまう傾向のある3楽章後半に掛けて長く続く弦の「ピチカートパッセージ」は、ストーリーが決して途切れることが無い絶妙の音楽の流れで前後の関係がとてもよく分かる。途中でかぶさるように下降して入ってくる「ホルン」は、評価の大変高い指揮者でもリズムとテンポのバランスが崩れオケの足並みが狂うから、ホルンがつじつまを合わせるために苦労することが多いにも拘らず、「マーク」の演奏では音楽の流れが非常にスムーズである。

こういうところに細かい差異が出てくるのだと思うが、恐らく「マーク」はこのオケをジックリと時間を掛けて「鍛錬」したのであろう。
マークの表現したいものを的確にしかもうまく(オケの技量としては決して高くは無いのだけれど)・・・表現力豊かに演奏している。

終楽章の「テーネ」は「G-F]で小生の好み。独唱は無名の歌い手ばかりであるが、4人全員大変にバランスが取れており、息が良くあっていてかなり上手だと思う。
合唱も問題などは全く無い、上出来だと思う。

これが「ライヴ」なのだからさらに驚くことになるわけである。第9は「ライヴ」でよい演奏が多いが、「マーク盤」はその中でもベストに入ることは間違いないだろう。
小生は機会を見てアチコチでこの演奏を紹介しているのだが、いまだに手放しで高い評価や感想をいっている人にほとんどお目にかからない。
日フィルを振りに1964年に来日した「マーク」、メンデルスゾーンでは評価がありながら、レコード会社に恵まれなかったのか70年80年代と中抜けした感じがある。

しかし最近「ARTS]レーヴェルから一連のマークの演奏が発売されており、しかも安価であるから入手しやすくなったのは大変うれしいことである。

追記
このCDには本当に驚いた。2000年の12月の暮れのこと、小生の友人の息子がCDを持ってやってきた。
自分の家では大きな音で第9が聞けないので聞かせて欲しいと・・・・受け取ったCDには見慣れないレーヴェルで「MAGG」とあったが小生は其れが「マーク」と知らずに、一緒に聞いたのであった。
凄すぎる!!このときほど感動したことは、このところついぞ無かったことを今でも思い出すのである。

そのCDを借り受け何回となく聞いた、そして聞けば聞くほどすばらしいのであった。
程なくその演奏が「ペーター・マーク」であることを知ることとなったのである。
年が明けてすぐにショップに走ったが、その大手ショップには「田園」しかなく、しばらく入荷しないというから田園を入手したのであるが、これもまたビックリするほどの演奏なのであった。

数ヶ月が経ったある日、京都の十字屋で入手したのが「ベト全集」である。この全集入手はここ数年のお手柄となった。

録音されたものでも大いなる「感動」があることの事実を「マーク」の第9は物語っているのである。
この演奏の中には「切磋琢磨」から湧き出る楽団員と合唱指揮者そして総合指揮者「ペーター・マーク」の間の「全幅の相互信頼」が潜んでいるような気さえするのである。

余りほめすぎても・・・と思うので唯一指摘しておかねばならないことをあえて。
其れは1~3楽章と4楽章の録音の差異である。3楽章までは録音の都合か、特に低弦部、ティンパニが聞こえる位置がほぼ真ん中からやや右であるが、4楽章ではヤヤ音量が上がるのと同時にティンパニの音がこれまでと違って左右に極端に広がる。
単に録音技術やマイクセッティングのズレ等の影響なら良いのであるが、4楽章だけ別テイクであるとすれば、少し残念なことになってしまう。ライヴ録音としては瑕疵が全く無さすぎるから、可能性としてはありえる話である。

「ARTS]は恐らくメジャーレーヴェルではないから、そのような細工はしないと思う気持ちが強いのと、このことで演奏内容に問題が出るわけではないので、「たわ言」と思っていただければありがたい。

by noanoa1970 | 2005-12-17 20:15 | 第9を聴く | Comments(0)

第9いろいろ・・・ヘルベルトフォン・カラヤン1962

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「ラトル盤」の前がこの「カラヤン盤」であったのだが、「ベーレンライター版」の演奏をどうしても聴く必要があって、次にまわした。
カラヤンの存命中に「ベーレンライター版」が出版されていたとすれば、「カラヤン」は採用しただろうか?・・・・非常に興味が湧くことであるが、小生はNOだと思う。
この楽譜の音楽・・・ガーディナー、ラトル、ジンマン他の音楽から聞こえるものは「カラヤン」の美学からは遠いところにあるように思えるからである。

「カラヤン美学」によるこの録音は、意識的手抜き工事=録音時間の制約によるものかあるいは音楽性に基づくものなのかは分からないが・・繰り返しの省略)はあるものの、そのようなことを超越する音楽があり、安定感があるから安心感があり、文句無く音楽に没頭することが可能な録音の一つである。

そしてこれは小生にとってはとても懐かしい思い出の有る音盤でもある。
ハッキリ覚えていないが、1965年か6年ごろ、自分のお金で購入した初めての第9のレコードである。其れまでは第9というとほとんど2枚組の販売であり、その結果非常に高額で、当時5000円も6000円も出しては到底買えなかったからである。
このレコードはドイツグラモフォンから直輸入して発売されたもので、しかも1枚に収録されていて、確か2600円という画期的な価格であったと記憶する。

輸入版がこのように安価で、しかも「カラヤン」BPOの「新譜」・・・飛びつかないわけが無い。慶び勇んで購入したものであった。
流石にドイツグラモフォンの直輸入・・・レコードのエッジは通常カミソリの刃のようにとがっているものであったが、このレコードはエッジに加工がしてあり、レコードを手で持ったときにも、手が切れそうになるような感覚を味わうことの無いように、エッジをきちんと落としてあった。

流石「ドイツ」・・・といたく感動した覚えがある。今ではいつの間にかこの記念碑的なレコードは紛失してしまったが、初期CDに加えてDGから「OIBP」によるCD復刻となったのを入手した。ジャケットの中にレコードと同じオリジナルジャケットの画像があったので其れをBLOGに持ってきた。

「カラヤン」というと近年の、特にディープなクラシックファンの評判は余り芳しくない傾向にある。多くの「カラヤン」の音楽を、オペラをも含めて多くの録音を聞いて低い評価をしているのかどうだか分からないのだが、「クラシックの掲示板」の問い合わせ回答などでも、ここ最近「カラヤン」の名前が挙がることはほとんど無い。

「アンチカラヤン」のクラシックファンはよく「アンチ巨人」と同じように言及されることがあるが、小生は全く似て非なるものであると思っている。
其れは「カラヤン」をけなすことで、「自分はディープで経験も長い、良く知っているクラシックファンである」と他人に認知されようとする「クラシックファン」ある種独特ののいやらしさがが見え隠れするように思うからである。
その点「強きをくじく」ということがメインのように思える「アンチ巨人」のほうが程度がずっとましである。・・・と思うことが多い。

「カラヤン」の録音の中には「失敗作」は無いというのが小生が常々思っていることであり、そういう意味で、平凡でつまらない音楽は決してないと断言できる。
特にカラヤンのように膨大な録音を残している人の音楽は、・・・他の演奏者の最上のものと比較すると少々よくないものもある・・・しかしこれは当たり前の話である。

カラヤンのように音楽から離れて語られ、評価されてしまうさ指揮者も珍しいし、ましてそのような言動が巷に満ち溢れているから、正当に彼の音楽を聴こうとする人には、大いに注意が必要で、(自分自身も含めて)
どうやら今の時期、彼の死後何年かがやっと経って、彼の音楽を純粋に聴くべき時が来ているように思うこのごろである。

数えてみたことは無いが、カラヤンは第9を5度以上の録音を残しているのではないだろうか?
全てを聞いてはいないが、フィルハーオニア、BPO、VPOとの演奏、・・・中でもBPOとは数回録音していると思うが、中でも小生はこの1963年録音がとても気に入っている。

今となっては比較対照する相手が余りにも多いから、決してベストとは言わないまでも、40年の歳月にわたって刷り込まれた第9は、誰がなんと言おうともはや理屈ではなく、「コンヴィチュニーとLGO」との趣の全く異なる第9演奏とともに小生の中では決して色褪せることが無いのである。

カラヤンのこの第9の録音の詳細について、いちいち述べる「野暮」はやめておこう。
合唱が素人っぽくて何が悪い!!そんな批判を遥かに超越して余りある音楽が、ここには列記として存在している。

そして彼の残した音盤の中には比較的少なくは無い数の「良しとする演奏」があるということは、間違いの無い事実であるということなのだ。

「楽器を合唱のように、合唱を楽器のように」・・・「カラヤンレガート」と称される音作りにはこのような彼の考え方があったのではないかと感じることが多い。「モツレク」や「第9」はその典型である。

by noanoa1970 | 2005-12-16 09:50 | 第9を聴く | Comments(0)

第9いろいろ・・・サイモン・ラトル

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実は「ガーディナー」の隣には1963年「カラヤン」BPOが並んでいたのだが、「ガーディナー」を聞いていたら、どうしても「ラトル」を聞いてみたくなった。
よって「アトランダム」ではなくある意図を持ってこの音盤を取り出したのであった。
それは
ガーディナーと同様「ベーレンライター版」を使用していること。しかし「ラトル」は1996年に発表された「正式版」を採用しているので、「ガーディナー」の演奏との違いが顕著かどうか。

モダン楽器による「ピリオド奏法」しかも伝統的なVPOがそれにどう対応しているのか。

そしてこのVPOのオーケストラ配置が「古典的配置」=両翼配置」すなわち第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを左右に分け、低弦部を第1ヴァイオリンの後方に配置するという、1800年代に見られたという配置により、聞こえる音の動きの変化を再確認したかったことに有る。

古くは「モントウ」「クーベリック」が実施しているのだが「モントウ」は録音が古く、「クーベリック」は所有していない。また「コンヴィチュニー」の旧盤がそうであるらしいのだが、残念なことに「モノラル」である。したがって録音も新しい「ラトル盤」に期待がかかるのであった。

正直この録音は最初に聞いた印象がよくなかったので、長い間「お蔵入り」となっており、今回「ガーディナー」を改めて聴いたことに触発されて、久々に聞いてみることにした。

1楽章の第2主題前まではオーソドックスなので「ベーレンライター」使用とは気づかない。
しかし弦のヴィヴラートがほとんど聞こえてこなく直接響いてくるし、倍音成分も余り無く、そっけなく聞こえるがシンプルで好感が持てる・・・ピリオド奏法の成果が伺える。

1楽章しばらく進んでフルートとオーボエが奏でる美しいメロディのの2つ目の音、録音ではフルートが強く出るので分かりやすいが、明らかに従来の演奏の音と異なり、2音ほど高い音を出す。
これが「ベーレンライター版」の特徴であるようで「ガーディナー」も同じように演奏する。

テンポは「ガーディナー」と比較すれば「ラトル」は大変オーソドックスで、従来スタイルの演奏の標準的なテンポと代わりが無い。しかしラトルの演奏は「追体験」を拒否するかのように、細部にまで独自の「アゴーギグ」「テンポルバート」「シンコペーション」のオンパレード。
ピリオド奏法の影響なのか?ボウイングの引手の時音が強く出る。

ほとんどの演奏はヴァーチャルな指揮者体験が可能であるのに対し、「ラトル」の演奏はこういう楽しみを拒否するかのようである。これが「ラトル節」なのかは分からないのだが、このように「猫の目」のように刻々と変化し、予測もつかないような音楽の流れにVPOが我慢?して良くついていっているなという感想を持った。

VPOも従来のVPOでは存続できない環境になってきたということだろうか?
それとも「ラトル」の「カリスマ性」がVPOを抑えたのだろうか?「ピリオド奏法」にしても相当な抵抗にあったと推測されるのである。

1楽章の「ティンパニ」ここは「版」の違いが最も良く分かる箇所でもあるはずであるのだが、「ラトル」の演奏ではハッキリしない。「ガーディナー」は16分音符で8回たたいている。多分これが従来の「ブライトコップフ版」との大きな違いだと思うのであるが、ハッキリはしないが、「ラトル」は従来どおり、8分音符で4回たたいているようだ。

4楽章の「テーネ」は「G-F]と歌わせるがもっと驚くことは、バリトンのレシタチーヴォに。「ジンマン盤」もそうであったが、アドリヴを入れていることである。「マーチ」の後テノール独唱の前のバスーンの「ボ・ボ・ボ・ボ」には不協和音をワザト付加しているようだ。

「ラトル」のこの第9は、従来の演奏スタイルのようにオーソドックスなところと、「ベーレンライターー版」に即したところ、そこにラトル自信のの細かいところに配慮した(しすぎた)アイディアが満載の音楽になった。

そういう意味では1996年の「アバド」BPO盤を、よりいっそう推し進めたものといえなくもないのであるが、・・・音楽は「アバド」より相当心を動かされるものがありながら、何か一味欠けているような感じが付きまとう。十分美味しい料理ではあるが、「こくとキレ」が表面的であるから、合わせるワイン(酒)を限りなく選ぶことに成る。・・・というより、ワイン(酒)と一緒には食せ無いから100%食事を満喫できない。そのような印象を強く持った演奏であった。

「ラトル」にはこの演奏の前に、「ブライトコップフ版」で先に仕上げて欲しかったと思うのは贅沢であろうか。

小生は「ベーレンライター版」を手放しで「良し」とすることが、どうしても出来ないところがあるのだが、皆さんはいかがでしょう?、

by noanoa1970 | 2005-12-15 09:53 | 第9を聴く | Comments(0)

第9いろいろ・・・ジョン・エリオット・ガーディナー

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英国の「庭師」の第9は多くの意味合いで画期的だ。
その一つは、古楽器使用のピリオド奏法で演奏していること。現在はこの演奏スタイルもポピュラーになってきた感はあるが、この当時はまだ珍しかった。バロック音楽にはチラホラと録音があったものの、ベートーヴェンともなると小生の記憶ではこの録音が最初の評価盤であったように思う。音楽雑誌などでもかなりの評判となった。もう一つは従来の「ブライトコップフ」の楽譜ではなく後に出ることになる「ベーレンライター」の楽譜を採用したことである。
しかし正式には「ベーレンライター」の楽譜は1996年に発表されるから、この「ガーディナー」の第9・・・1992年は正式の「ベーレンライター版」を使ったわけでなく、おそらく「デル・マール」の研究中のものを共同して使用したものであろうと思われる。彼らは親交が厚かったとも言われるので、音楽学者と、演奏家のコラボレーションの成果のように思われる。

保守性の強いイギリスの音楽界においては、どいうわけか時々革新的な人たちの出現を見ることが出来る。かの「ビートルズ」も然りである。
そして「ガーディナー」といえば今まで誰もやっていないようなことを模索していたのか、優秀な合唱団とともに、「オルケストル・レヴォルショネル・エ・ロマンティク」を率いて「ロマン派の音楽」特に「ベルリオーズ」の演奏を主眼に再登場した。
「ベルリオーズの「荘厳ミサ曲」は世界初録音として発表され、なかなか良い音盤であった。

ベートーヴェンの交響曲全集はその後古楽器、モダン楽器によるピリオド奏法、そして「ベーレンライター版」使用がキャッチフレーズとなって決して少なくは無い数の演奏家が取り上げ、その評価はよいものが多かった。

「デルマール」による「ベーレンライター版」を使用した第9の特徴は聴けばすぐに分かるところが多いのであるが、ガーディナーの演奏で特徴的なのはそのテンポ
新幹線並の超特急、この速度はピリオド奏法ならでは・・・なのかどうかは分からないが従来のオケでは「破綻」するくらいのスピードである。
金管が多少危なっかしいところもあるが他は全く無難に飛ばしている。

3楽章も相変わらず快速なのでこのまま4楽章のソロや合唱の時に持ちこたえられるか心配していたら、そこは合唱指揮者でも有るガーディナー、4楽章ではかなりシフトダウンしている。
しかしこれまで聞いてきた第9の演奏の中でも早い方に属す演奏である。

これも「ベーレンライター版」の特徴なのであろうかバリトンのレシタチーボ「テーネ」はG-Fと歌わせている。

なぜにこのようなテンポなのかはハッキリとは理解できないのだが、ベートーヴェンのメトロノーム指定の自信の改定によるものという話を聞く。
しかしベートーヴェン自身が其れに従って演奏したものを聴いて余りの速さに驚いたという逸話もあるから、「ベーレンライター版」がいかに其れまでの楽譜の慣習を打ち破るために、あらゆる楽譜資料を検証して出した「原典版」といえども其れが必ずしも正しいとはいえないのかもしれない。

同じ「ベーレンライター版」を使用したといわれる・・・ラトル、アバド、ジンマンのそれぞれの演奏にはだいぶ違う点があり、アバドとBPOの1996年盤では聴感上はほとんど「ブライトコップフ版」のように聞こえる。

この楽譜の出現で従来の演奏が「指揮者」による「解釈」にプラスして「音・・楽器のの変更」や「付加」の範囲にとどまっていたのに対し、現代では「指揮者の解釈×楽譜(2大楽譜以上に細かく版が存在する)」とその範囲や出てくる音楽の違いは非常に多岐に渡ることになったのである。
そして幸か不幸かこのことは聞く側にとって見ると、選択肢が増えるのと同時に情報過多となって手間、暇、金が必要になってくる・・・ということなのである。
1970年代以前のような情報コントロールが望ましいのではないが、あの時代の「権威の有る御人の情報を信じる」という世の中が、いまやなくなってしまったことには一抹の寂しさを感じることもある。

いずれにしろ「古楽器」「ピリオド奏法」そして「ベーレンライター版」という一種のクラシック界の「ブーム」は旧来の伝統的な演奏スタイルと新しい融合して、もう一つ次元の異なるものへとなっていくことが必要なのではないか。

「アバド」の演奏に其れらしき萌芽は見られるものの、演奏自体は「つまらない」から、結果としては失敗であると思う。「ガーディナー」の演奏も今となっては「一時のはやり病」的に感じることが無くは無い。

こうして小生は昔のスタイルの演奏に戻ってしまうのである。

by noanoa1970 | 2005-12-14 09:25 | 第9を聴く | Comments(0)

第9いろいろ・・・フェレンツ・フリッチャイ

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昨日は一休み。「チェリビダッケ」の隣から手に取った音盤は「フリッチャイ」のもの。
この録音は小生が今までに聞いた回数の上位にランクされるもの。
ということはお気に入りの録音に属しているということである。

改めて聴いてみても、その音楽~受けるものは、昔といささかも変わることが無い。
この演奏はのっけから「音魂」「音霊」=「おとだま」と小生は「言霊」をもじって表現しているのであるが、出てくる「音」はそのような表現がピッタリのように、響いてくる。

フリッチャイとの出会いはRIAS交響楽団1954年とBPO1960年の2つの「新世界」を聞いたことに始まる。
そして同じ指揮者がたった6年という短い間に、楽想を極端に変化させていることに驚くとともに、それぞれが素晴らしい音楽を作っていることにも驚愕した。

よく言われている例を挙げるならば「トスカニーニ」的な演奏と、「フルトベングラー」的な演奏、この対極的な演奏スタイルをフリッチャイは5年と少々の期間で、大きくそのスタイルを変貌させたということになる。
晩年近くにはテンポ設定が極端に遅くなり、
BPOとの「運命」1960年にいたっては、恐らくは世界で一番遅いテンポ38分・・・だと思えるほどの演奏である。
そしてそういうテンポ設定にも拘らず聞こえる音楽は、ハッキリとした意思を持っているかのような、説得力あふれるもので、最後の最後まで緊張感が持続する小生が最も気に入っている「運命」演奏の一つである。

RIAS交響楽団との「新世界」は1954年録音で、そのときは晩年に見られるような遅いテンポ設定ではなく、むしろテンポを速めに取ってトスカニーニばりの演奏を聞かせる。そしてトスカニーニよりも表情が豊かでダイナミックなところが有り、シルヴェストリの旧盤とともに「新世界」演奏のお気に入りでもある。

このような極端なテンポの変化の要因を、彼が不幸にしてかかってしまった不治の病によるものとする意見が多く、「死期を悟った芸術家」の渾身の演奏・・・などとする意見も多い。
フリッチャイは48歳の若さで夭折した指揮者だが、当時DGがドル箱スター指揮者として扱っていこうとする姿勢は、残された録音の数々から推測される。
長生きしたら「カラヤン」をしのぐ勢いの指揮者になっていたと推測するのは困難ではないだろう。

第9はというと、独唱陣のメンバーを見てお分かりのように、当時のベストメンバーがそろっており、フリッチャイが彼の学生時代から評価し、見出したとされる「ディスカウ」が参加する世界で唯一つの第9なのだ。ディスカウが聴ける唯一の第9というところを評価する人たちも少なからずいることも事実であり、其れもうなずけるところもあるには有る。

フリッチャイは1957.12.30-31のこの録音ではまだ極端に遅いテンポをとっていない。「インテンポ」の演奏である。

文献によれば
翌年1958年早々バイエルン国立オペラの音楽監督を辞任することになうのだが、バイエルン国立オペラの音楽監督を辞任後、大病を患ってて生死をさまようことがあったが、奇跡的に回復し、1959年9月ベルリン放送交響楽団(1956年RIAS交響楽団から改名)の首席指揮者に再度就任、再び指揮台に復帰した。・・・と有る。

1960年辺りから演奏スタイルが変化するから、この第9の録音は「死期を悟る」前というか、まだまだ生きる望みを捨てない自分を見出していたというか、病気とはまだ本格的には縁が無かったときの時期で、フリッチャイにとって大きな未来を予感いてたときの演奏であったのだろう。

ある種の「信念」「自信」「高揚心」「慶び」のようなものがその音楽から聞こえてくるし、フリッチャイに真剣に答えるかのように、BPOも一心に集中した演奏を聞かせてくれている。
上出来のライヴのように思わず興奮を覚えるところが多い。其れが幾度と無く好きなときに聞けるのだから、この録音はとても貴重なのである。

全てにわたって満足度の高い別格演奏ではあるが、何を隠そう、ディスカウの歌い方だけは小生の好みではない。ほかの全員が熱っぽく集中しているのに対してディスカウだけが客観的、有る意味醒めた歌唱を聞かせる。
この部分だけを切りとれば恐らく唯一無二ののレシタチーヴォであるというのには反対しないのであるが、・・・今風に言えば「場の空気を読めない」歌唱といわざるウィ得ないところがどうしても感じれしまうのがとても残念である。

余談であるが、ディスカウはヨッフムとの「カルミナ・ブラーナ」でも、クリュイタンスとの「フォーレのレクイエム」でもどうも雰囲気を崩してしまうところがあるような気がしている。
彼はやはり「リート」の人なのではないかと思うのである。

by noanoa1970 | 2005-12-12 12:45 | 第9を聴く | Comments(0)