カテゴリ:DRAC( 50 )

DRACのルーツ

小生も初めて知ったことで驚いたが、大大先輩がDRACのルーツを簡潔にお纏めいただいた文章を掲載する。DRACの誕生が昭和25年とは・・・・・・
昭和25年6月1日、今出川幼稚園にて30数名の参加で発足したと書かれてある。
戦後間もない混乱期、よくぞこれだけのことをやっていただいたものだと恐れ入った次第。
音楽に飢えていた学生もさぞ多かったことだろう。
音盤も高価で買うことはかなわない状態にもかかわらず、レコードコンサートのみならず、交響楽団の演奏の録音まで実施している。
すごい資料である。
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by noanoa1970 | 2013-06-17 21:14 | DRAC | Comments(0)

DRAC興亡史番外編

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OB会の席で、ある1年後輩のs村君が小生に手渡した本があった。
この本の編集の仕事をしたという。
本業は表具師で、著名な神社仏閣のお宝を補修しているという。
彼は1968年から1971年ごろまで、DRACの上部団体、文化団体連盟本部で活躍していた男だ。
彼とは音楽以外の事でも共通するようなところがあり、それでこの本を小生に手渡したのだろう。

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前書きを読み、本文の最初を見た時、我ながら驚いた。
何をかいわんや、同志社大学学生新聞を復刊したのは小生と2年先輩(留年)、そしていずれもがDRAC出身で、新聞発行不慣れのため、京都大学の新聞にかかわっていた人間にアシストしてもらい、つぶれた新聞局立て直し、第1号を発刊したからだ。

大阪の福島区の印刷会社だった。
新聞を印刷してもらうために原稿をもって通い、ゲラ刷り待ちして校正手直し、長時間かかってようやく完成した新聞を車に積んで帰ってきた覚えがある。

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バリケードストライキの中でサークル活動を実施していたものの、1971年は事実上DRACが解散をした年でもあった。
そんな時に現在行方知れずの先輩のO田氏から新聞局再興の手伝いをしないかと誘われてやったのが、この本の冒頭に書かれてある復刊第1号だった。前自治会委員長の、矢谷氏の置き土産の文章を主として掲載、小生は中でカンジンスキーの「青騎士」と一緒にあった「DAS WORT」=「言葉」を引用してのコラムを担当し、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画「ザブリンスキー」の映画評を書いた記憶がある。
ピンクフロイドはその時に知ったロックバンドであった。

復刻第1号の学生新聞は小生も所有してないが、「同支社の栞」という書物中にあるはずだと思うので、何とか探してみるつもりだ。途中で去って行った人間も学生運動の渦中にあった人間も、サークル解体後自己の活路を違う方向に求めた人間も、OB会で一堂に会して音楽談義をするのもよいが、あの激動の大学時代のことは誰も黙して語らない。

そんな中で、懐かしさを思い出す出来事がこの1冊の本を手渡された時から始まった。
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by noanoa1970 | 2013-06-16 19:20 | DRAC | Comments(0)

DRAC興亡史番外編1950年3月1日

小生も初めて知ったことで驚いたが、大先輩がDRACのルーツを簡潔にお纏めいただいた文章を掲載する。
DRACの誕生が昭和25年とは・・・・・・
昭和25年6月1日、今出川幼稚園にて30数名の参加で発足したと書かれてある。
以下のことからもわかるように、すでにこのころから「レコードコンサート」はもちろん、「交響楽団の演奏自主録音もおやりになられていたことに驚く。
伊福部 昭はやはり「ゴジラ」映画の影響なのかと思ったが。
いや交響譚詩は1947年、ゴジラは1954年だから、ゴジラとは関係無く、其れよりも早い時期に取り上げていただいたことになる。

追記
伊福部の「交響譚詩」はコープランドが演奏したいと言ってきた作品でもあったので、両者を並べてのコンサートは特別な意味を持つものでsる。
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by noanoa1970 | 2013-06-16 19:13 | DRAC | Comments(0)

OB会開催前のキャンパスツアー待ち合わせ風景。

DRAC: Doshisha University Recorded Mujic Appreciation Clubの第19回OB会が開催された。
fbを通じて知り合った後輩のお二人もその前に行われたキャンパスツアーに参加していただいた。
今TVでおなじみの「八重の桜」の影響で、館内の一部は会津から持ってきたという八重ゆかりの品々や写真屏風、書などが展覧してあり、一般の人でにぎわっていました。
八重が使ったとされる本物のゲベール銃が意外に長いので驚きました。
最後の写真は、記念の同志社Goods、同志社カラー紫紺色のトートバッグを手にした初参加されたDRAC80年代の後輩、TさんとSさんそれに小生、同期のH氏。
待ち合わせ場所、A明徳館1Fチャオプレッソにて。
集まった人たちの写真とともに。
懇親会の写真は誰かがUPしてくれることを願う。
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by noanoa1970 | 2013-06-16 19:06 | DRAC | Comments(0)

邦人作曲家、音大生、音楽愛好家に対するアンケート実施結果1967年

いま読み返すと何ともまあといっても仕方ないアンケートの問いであったが、当時としてはこれが最善と判断した。
集計のことやそれから必要な分析のことをあまり考慮せず、しかも問いが抽象的なので、回答された音楽家や音大生、そしてクラシック喫茶に集まる人たちはさぞ困ったであろう。
しかし合計300ほどが回収でき、主対象の音楽家の中には熱心にお答えいただいた人もいた。

このアンケート収集結果と若干の分析、というか読み取れることは、小生とK君が深夜まで3日間かかって纏めたものだ。

1967年は小生がDRACに入部した年で、その時のリーダーはF先輩であった。
この人がいなかったら、このような…今考えると大胆不敵ではあるが、いまだかつて何処の誰もなし得なかったこと、そして生の声という貴重な情報を収集できたと自負するものである。
よってここに、その活動報告の一部としてDRAC機関誌16号に掲載したものを抜粋した。
機関誌DRACは16.17・19号がすなわち1967.1968.1970と発行されたが、1969年度は大学闘争の影響で発行されなかった。1972年以降は恐らく研究活動すら実施してないと思われる。


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by noanoa1970 | 2013-05-18 18:26 | DRAC | Comments(4)

DRAC興亡史番外編2

HABABIさん、少し修正してみましたが、元原稿がよくないのでこれが限度かもしれません。
今思うと恥ずかしい文章です。
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by noanoa1970 | 2013-05-14 22:10 | DRAC | Comments(1)

最後のDRAC興亡史

「DRAC興亡史」という名称で、小生の学生時代を、所属した音楽サークルの5年間に焦点をあてて書いてきた。

40年ほど前のことだから記憶違いはあるとは思うが、記憶のなくなるまでにと思いつつ、いっきに書いたのが、2007年8月のことだった。
9月までに全28話書いたのだから、よくやったと今では思うほどの力の入れようだ。

DRACで検索すると、当時はまだコンピューター関連の記事はWEBにはなかったように、検索に筆禍りやすかったのか、我々の時代の後の世代の諸氏からアクセスがあり、近々まで所属したという人からもアクセスがあった。

お読みになった方はお分かりだと思うが、実はDRACは1971年で空中分解し、73年で完全に崩壊した。したがってその後のDRACが存在するのか否か、もし存在するとしたらどんなサークルになりなにをやっているのいかが気になった。

75年入部というある人と連絡をしあうようになり、75年以降彼の滞在した期間までの様子はなんとなくわかった。

DRACは会則にもある通り、クラシック音楽を研究するサークルで、音楽鑑賞サークルではないが、70年に「現代音楽」との関連からから「ジャズ」をも対象とした。

しかし75年以降はそのジャズも細々、ロックが中心のサークルに変貌したという。
研究らしきものはどうもやられてないようで、自分好みのバンドのアルバムを持ち込んで、うんちくを述べるという状態となっていた。

我々のサークルが所属した文化団体連盟は、文化創造を旗印にしたから、我々の諸活動はそれに縛られていたから、単なる鑑賞サークルではテーゾンデートルをなくすことになる。

対外的には水コンと言って水曜日の2講時が、チャペルアワーとなっていて全学部の講義がない日。
それを利用して大阪のレコード会社から借りてきた新譜見本版を紹介したり、テーマを持たせたプログラムでレコードコンサートを開いた。

音楽を聞くチャンスに恵まれない田舎の小学校で、コンサートを開いたこともあった。
機関紙はキチンと出したし、各グループの個人の研究成果を書き記すこともあった。
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by noanoa1970 | 2012-07-04 13:16 | DRAC | Comments(0)

母校へ・・・3

変貌の後は随所に見られた。

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西門から入ると、昔は手書きの独特の文字を使った、学友会や学術団、文連の立て看板が、並んでいたが、今ではすべてPCで作成大型カラー機でプリントしたもの、しかもその手の内容の看板が1つもなかった。

学友会や各学部の自治組織の活動はどうなっているのだろう。
今出川キャンパスでなく、学生会館が移り建て替えられたという新町キャンパス奈良違うのだろうか。

そう思いつつも、何か寂しい気持ちがした。

建物は建て増しされたものはあったようだったが、当時とはほとんど変化はなく、外観の美しさとは逆で、内部は相当くたびれてきたようだ。

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正門から入ると正面にある弘風館。
正門と西門を良く混同した。

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右手には神学館

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キャンパス沿い右には至誠館で、ここは文連がバリケード封鎖をした校舎。
EVEでは2階でDRAC主催オーディオフェアーを開催した。
前の緑地では、炬燵のマージャン卓を持ち込み、余興でマージャンをした。

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講演会のあった明徳館。
ここの1階では、DRACの水曜コンサートが毎週開催された。

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同志社チャペル。
普段は入ったことがないが、ここでモーツァルトのレクイエムのライブコンサートがあって、生涯で初めてチャペルの中に入った。

西門から今出川キャンパスを望む。
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小生が主に世話になっ
た学舎は以上だが、最も世話になったのはやはり、今は無き学生会館であり、裏の別館と呼ばれた4FBOXだった。

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by noanoa1970 | 2010-01-16 11:48 | DRAC | Comments(4)

母校へ・・・2

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商学部出身というより、DRAC出身といったほうが妥当な福田氏は、現在「ポイント」という、主に女性向けのファッションカジュアルの店舗展開で、今やユニクロと並んでアパレル業界の勝ち組と称されるまでに成長した会社である。

福田氏はその創設者ともいえ、取締役会長の役職をしている人だ。

彼はDRACでは会計の人をやっていて、その一方それまで当たり前だった、音楽史的なグループ配置からいち早く脱却する必要性から、国民楽派グループを廃し、日本音楽グループを創設した人で、小生の直接の先輩に当たる人だ。

小生の実家に来ていただいたり、実家にお邪魔する先輩は、4人ほど存在したが、その中の一人でもあった。
彼は水戸が実家で、当時は父上が福田屋洋服店という紳士服の店を水戸駅前の商店街で経営していた。

サークルは、その特殊性から、当時は・・・小生はサラリーマン家庭だからそうではなかったが、商家の子息が多く、執行役員3役は全て商学部に在籍していた。

ステレオ装置を持ち、音盤をそこそこ持ち、優雅にクラシック音楽を、日常聴くことのできる人間は当時限られていたのである。

小生はこのサークルならば、音楽を日常聴くことが可能だ・・・そう思って入部した。
だから1回生の時は下宿にステレオ装置を置くことができなかったのである。

福田氏は出町柳の駅のすぐ北にある、大きな家の2階に下宿していたが、そこは驚くような和様折衷の10畳ほどもある・・・多分昔は応接室だろうと思うが、そんな裕福なところにいて、当時では高値の花のLUXのSQ5Bというプリメインアンプで、ナショナルの「げんこつ」をBOXに入れたものを鳴らしていた。

福田氏は当時から、いろいろな仕掛けをすることが性分のようで、中でも記憶にあるのは、その当時の全ての日本の作曲家対し、「伝統」と「日本」をどのように曲づkるりに反映させているか・・・等かなり詳細なアンケートを実施し、およそ100件ほど回答が寄せられたことだ。

アンケートの項目、そして宛名書き投函をやらされた当時は、その意図が組めずに、面白くないと思いながらも一生懸命やった記憶がある。

レコ芸や音友などの音楽雑誌以上のことを先駆けて実施したわけである。

彼は「水戸っぽ」という伝統気風を内面に秘めていて、負けず嫌いで粋に感ずるところがあり、思いっきりの良さでは人一倍だったし、後輩の面倒見も非常に良く、特に小生をはじめとするグループ員の後輩は、相当彼の世話になっているはずである。

小生は彼の家の別荘がある「軽井沢」それも「旧軽」に初めておじゃまして、数日過ごさせてもらったり、水戸に実家で去年お亡くなりになってしまわれた、ご母堂が漬けた梅酒・・・30年物から1年物まであったと記憶するが、その美味しさについ飲みすぎて完全に酔っぱらったことがあった。

梅酒で酔ったのは、ただ1度その時だけだった。

学生時代は「理念」とか「思想」とか「目標」とかそういう類を大切にしており、そして「日本」とか「伝統」という・・・我が国古来の文化や思想や考え方を大切にしていたようだった。

40年間順風満帆に道が開けたとは思えないから、何度か失敗や挫折に近いものを味わったと思うのだが、そこに幼くして培われた「水戸っぽ」の魂でのいきってきて、結果今の栄光があるものと、小小生は推測する。

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売り上げでは161位の地位だが、利益では12位という素晴らしい行政、それもここ10年間ずーっと右肩上がりだという。

今の世の中のデフレの中、アパレル業界が軒並み下降傾向の中、このような高業績が続いているのは、まさに「経営」そのものの結果で、運がよいとかたまたまとかではない。

「ユニクロ」と並び称される「ポイント」は、今や学生の間でも人気の会社になったという。

全国に560店舗560億円の売り上げを誇リ、利益率

ここの紹介時期を見ても業績の好調さがお分かりかと思う。ポイント、2月月次数字は好調、ユニクロと並びアパレルの勝ち組がすごく良いTOP企業へと発展した。

ユニクロを超える利益率 「ポイント」というアパレル企業
以上の記事のようにポイントを扱うものもある。

アパレルビジネスを、生鮮食料品ビジネスと同じ感覚で展開してきた・・・これこそが強みなのだとは、福田氏自身も語っていたことである。

商品設計から店舗にそれを並べるまでのサイクルは、通常のアパレルメーカー販売店の約4分の1というから、販売の現場での顧客動向がすぐに商品戦略に生かせるというわけだ。

競合他社も黙っているはずはないから、今後のビジネス展開は、険しいとは思うが、それでも「考えた通りに、良いと思うことはすぐ実行する」これができる企業体質は、まねだけでは苦しいから、相当のアドヴァンテージ派あるものと思われる。

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by noanoa1970 | 2010-01-16 11:16 | DRAC | Comments(0)

母校へ

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昨日は、久しぶり、といってもすでに40年になるのだが、我が母校の同志社大学今出川キャンパスに赴いた。

京都にはよく行くのだが、7年ほど前に、学生会館が取り壊された後に「寒梅館」という建物が建てられた直後、DRAC-OB会がそこで開催されたおり出向いたが、キャンンパスには入らなかった。

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昨日は今出川キャンパス内の明徳館・・・この建物は法学部だった小生にとっては一番お世話になった建物であるのだが、そのM21番で教室商学部設立60周年記念講演が開催されることとなったのだ。

この教室は当時最も収容人数の大きい教室で、ざっと500人は入れるような大教室だ。
当時は学生数28000人を数えた大学だから、そのような大教室が必要であったろうが、それでも全員出席したならば、とても全ての受講生は収容できないと思われた。

多分2から3割・・・いやもっと多数の学生は講義に出なかったものと推測される。

明徳館の入り口では、毎日のように学友会の執行部役員のアジ演説が行われ、講義の前5分から10分の間には必ずオルグの学生がビラを配りながら説明を実施していた。

地下は食堂と本屋そして日常品を売る売店があって、小生の場合はもっぱら学生会館にある食堂をp利用していたから、滅多に明徳館地下では食べなかったが、それでも何回か食べた記憶がある。
暗くて薄汚い雰囲気があったから、あまり好きになれなかったのだ。

久しぶりに地下に行ってみると、昔とあまり変わりはなかったが、衝動は綺麗になっていて、なんと学生会館にあった「エリカ」という、少し高級な喫茶軽食の店が移り開業していた。

かつては、学生会館の2階ラウンジに通じる扉の右横にその「エリカ」はあって、お金があってサークルの先輩女性と一緒のときには「エリカ」を選択することが多かった。

しかし「エリカ」は、当時の高級感は全くなく、食券制のセルフとなり下がっていて、紙コップ入りのコーヒーが120円であった。

記憶では「エリカ」は、学生会館の食堂のカレーが70円のとき、110円か130円ほどだったから、大学の先生や大学院生たちがもっぱら利用していたと思う。

「エリカ」で飲食することは、非日常的なことだったのだ。

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明徳館地下の食堂のショーウインドウで、今の値段を見てみると、ウドン、蕎麦が150円、カレーが270円で、当時の約4倍から5倍となっていたが、それでも相当安い。

メニュー数は3倍以上に増えていて、15時近くだったが、少なくなったとはいえ、かなり多くの学生たちで満席状態であった。

懐かしくなって、つい明徳館の話ばかりしたが、なぜ明徳館に行ったかといえば、先ほど少しふれたように、そこで商学部設立60周年記念講演会が開催されるにあたり、後援者としてDRACの2年先輩の福田氏がその任に当たるからだ。

・・・続く

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by noanoa1970 | 2010-01-16 10:06 | DRAC | Comments(4)