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カテゴリ:骨董で遊ぶ( 83 )

古伊万里酒次

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江戸時代の古伊万里染付の「酒次」だが、使い道がない。
熱燗のデカンタにするためのものとは思うが、一人で飲むには大きすぎるのだ。
松茸の土瓶蒸し・・・少し大きいがたっぷり入りそう。
来年こそは、それに決めた。

by noanoa1970 | 2012-12-09 17:14 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

お気に入りの器

シーズンには山菜を盛り付けた浅い鉢・・・あるいは伊万里隅切り四方皿。

花瓶に菊が生けられている。
いかにも中国風の絵付けであるし、「大化年製」とあるから、大陸のものの写しであると思われるが、画才はあまり無いが、いかにも職人らしく、細かい作業がしてある。
あまりデフォルメされてないところや、絵付けが緻密なところから、江戸時代中期以前の伊万里のように思う。
30センチ四方の皿だ。

残念なことに、少し変形してしまったので、いびつであるが、見ようによってそれもまた一つの味である。
以前この皿に小さなケーキを10個ほど並べて見たことがあったが、ジャストマッチであった。
和洋なんにでも似合う不思議なデザインの皿で、特にお気に入りの一つである。
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by noanoa1970 | 2011-11-13 15:01 | 骨董で遊ぶ | Comments(6)

魯山人没後50年

昨夜、見るあてもなくTVのリモコンを操作していると、「魯山人」という声がしたので、そのチャンネルにして、しばらくすると思いがけなく、「北大路 魯山人」没後50年の記念番組だというので見ることにした。

有名なパティシエが、魯山人の作陶に惚れこみ、魯山人ゆかりの地を訪ね、最後に魯山人の器に創作したケーキを盛り込むという番組であった。

自然・・・雪をテーマにしたというその作品は、「魯山人」と名付けられた。

かなりベタだと思ったが、わかりやすいといえば、そうなのかもしれない。

番組はNHKが制作したものだったが、魯山人を・・・名前は別として、その全貌を知る人は、多くはないと思われる。

番組では、彼の篆刻、彫刻、書、絵画、そして作陶をざっと紹介し、小生が初めて見ることになった魯山人初作品として、細野 燕台の窯で焼いた椀が紹介された。

また金沢の懐石料亭「山の尾」、名古屋の「八勝館」、足立美術館所蔵の主要作品を紹介した。

放映時間が50分余りと短かったため、この放送の真意が汲み取れないまま終わってしまったが、「魯山人の器は、あらゆる料理を包み込む」、そしてこれからも料理と手を結びながら、末長く残っていく・・・そんな風なことを言いたかったのか。

一見ミスマッチに見えそうな、洋菓子と魯山人の器だが、「どうだベストマッチングだろう」と言いたいのだろうが、小生にはベストマッチングには見えなかった。

どういう工夫を凝らしても、洋菓子と魯山人の器では、距離がありすぎる。

そんなわけで、先日伊吹山麓のふもとで栽培されている、「丹波種の黒豆」の粒が大きいものが手に入ったので、じっくり煮たものを、魯山人風の器に盛り付けてみた。

TVでパティシエが洋菓子を盛り付けた器によく似た雰囲気の、それを少し小さくしたものだ。
やはり魯山人には、こういう素朴な料理が最も似合う。

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by noanoa1970 | 2010-02-06 17:22 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

山田無文老師の軸

前にその中の1棹だけブログに掲載したが、今回は京都の義父が残したものを全て掲載することにした。

山田無文老師に関しては、ウイキを参照されたし。

義父は生前、京都市美術館で毎年「墨彩美展」という名前の水墨画の生徒たちが出展する美術展を開催していた。

義父はその頃、臨済宗妙心寺派管長であった無門老師と懇意となり、そのせいで展覧会の特別出展を依頼していて、毎年そのために老師には軸を出展していただいた。

妙心寺にもかなり頻繁に出向いたようで、小生の息子が3歳ぐらいの折、息子を連れて老師を訪ねたことがあった。

その時の写真がこれである
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人見知りもしないで息子が老師の膝に座っている。

通算約40回、すなわち40年にわたり展覧会は開催され、その都度特別出展された老師の書は、その後義父に渡され軸となった。

だから正真正銘の本物であることは間違いない。

しかし京都の家に残っていたのは約17本と、半分以上が行方不明となってしまった。

小生の結婚式のために、老師に頼んで書を軸にしたものが2棹あるし、そのほかにも数点あるのだが、今残っているものは約20棹余りとなってしまった。

写真は以前京都修学院の、家内の実家を整理したときに、出てきたもの。
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常時掛けるわけにもいかないので、多くはしまいっぱなしとなっているが、時折出して掛けて上げねばならない。

老師の書は懐が深く、とても力強く安心感があって、いつ見ても心が和むし、すぐに老師の書だとわかる特徴を持っている。

マニアでもなければ、多分このように多くの軸を所有している人は少ないと思うが、義父が残してくれた貴重な品の1つである。

京都の家の居間であれば、全て掛けて眺めることが可能だが、現在の我が家では、沿いいうわけにもいかないので、機械があれば、全ての軸を掛けて一同に眺めてみたいものだ。

そしてその時候に似合ったものをチョイスして、月替わりに掛けてみるのも一興だろう。

by noanoa1970 | 2010-01-06 12:08 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

西日が作る美

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ステンドグラスを和風仕立てにした窓枠に、西日が差しこんでいるのを写真に撮ってみた。

よい写真を撮るのは難しいものだ。
部屋をもっと暗くしてからとればよかったかもしれない。
そうすれば木立の葉っぱの光の反射がくっきりと出たであろう。

by noanoa1970 | 2008-12-06 17:13 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

光琳「飛梅天神の図」真贋のほどは・・・

マイミクさんの日記に、「琳派」の展覧会のことが書かれていたので思い出した。

本物であれば我が家の家宝的存在となるのだが・・・

父方の祖母から伝わった軸。
祖母の母親の実家に代々伝わったとされ、それを長女である祖母が受け継いだものらしい。

小生の父親は「本物」であると信じている。

それは軸に添えられた由緒書きと、箱の裏に書かれたことからである。

意味が少ししか判明しないが、それによると、祖母の実家は「新見」と言ったらしい。
軸に書かれた「飛梅天神」の図は「菅原道真」であろうことは予想がつく。


箱はすでに古くなって壊れていて、現在はその蓋しか残っていない。
新しい箱をいつの時にか新調し、箱の蓋が同時に入れられていた。

絵を見た感じでは、小生には何とも分からないので、日本画をやっていた京都の義父に生前見せると、直感的で「違う」といった。

作者の名前を書くのを忘れていたが作者は「尾形光琳」である。
義父によると、光琳の人物は、もっとユーモラスであるとのこと。

確かに軸の絵は、そこからは少し遠い位置のようである。

しかし「菅原道真」を、誰かの依頼によって書いたとするならば、いつものようにはユーモラス仕上げとはしないのではないかという考え方もある。

デジカメに撮影し細部を改めてチェックするが、小生の知識と審美眼では、真贋の区別は困難である。

15年ほど前のこと、近くの大手量販店の新年のイベントで、「何でも鑑定団」の鑑定士2人を招いて、桑名のお宝鑑定大会を催したことがあった。

息子がどうしても出て鑑定してもらうというので、この軸を出品すると、鑑定士は息子に、「君のお父さんは何をやっている人?」と聞き、息子がサラリーマンと答えると、何か2人でゴソゴソとしばらくしゃべった結果「25万円」という鑑定結果を出したことがあった。

しかしその時、軸の真贋には一切触れなかったことを、妙に引っかかったことがあった。

偽物ならば25万という評価額がつくはずもなく、本物であれば、たぶんそのような評価額ではないはず。

そのことが今も気になって仕方がないが、本日久しぶりに押し入れから出してきて、しばらく眺めてみることにした。

光琳の人物画は「大黒天図、「布袋図」が有名だが、実物を見たことはない。
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線がシャープなこと。
墨の濃淡を使い分けること。

以上がよくあげられるが、道真公の烏帽子の黒と直垂の濃淡は、よく見ると墨を違えて書かれているようにも思える。

画像ではわかりにくいと思うが、デジカメの画像を貼り付けておくことにする。

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謹画「尾形光琳」と書かれていて、巡り巡って譲り受けた「新見」某=祖祖母の父親に当たる、の裏書きがある。

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軸の全景。

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人物部分の拡大。

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大覚寺大徳寺の和尚が読んだ歌が記載される。達筆過ぎて内容はわからない。

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この図の由来書きのようだが、なにが書かれているか読めない。

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図向って右下にある落款。

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落款の拡大「青光琳」と読むjことが可能だ。

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実物写いかにも古そうな箱の蓋の裏には、漢文で明治8年8月に、新見家に来たものを表装したとあり、この軸の由来と出自が書いてある。
ここに箱書きをしたのは、華族「大原」氏とされている。

華族大原氏を調べると、永倉新八日記・島田魁日記には、 「文久三亥年六月頃ノ事文久三亥年六月頃の事既二大原左衛門督殿、御勅使トシテ相州小田原迄御下向コレアリ」と記されてある。

「18625月、勅使大原左衛門督の江戸東下」と資料が存在するから実在の人物であろう。
『徳川慶喜公伝』の中の「島津久光公実紀所引大原左衛門督手控書」によると「文久2年6月10日(1862年7月6日)
勅使江戸城登城。将軍より上席に座って勅旨を伝える」とある。

その中で大原は
「外夷の事ありしより、神宮・御代々に対せられて恐多ければ、叡慮御憂苦を絶えさせられず、何とぞ外夷を拒絶せんと思召さるれども、公武一和ならでは成りかぬるにより、和宮を御降配遊ばされて、一和を天下に表したれば、十年内には必掃攘あるべき事と叡慮を安んぜらる。さて当春松平大膳大夫(長州藩主毛利敬親)公武の間に立ち、天下の為に周旋せしに、あにはからんや西国・中国の浪士ども蜂起して、容易ならざる事を唱へ、既に天下の乱にも至るべき形勢なりしを、島津三郎程よく鎮静したれども、原来外夷の事より起りたれば、外夷の事定まらずんば実に治まりたるにはあらず、因りて深く国難の増長せるを歎き思召さる。国難なければ天下幸福なり、天下の幸は徳川家の幸なり、徳川家幸なれば朝廷の御安心は申すに及ばず。故に深く宸衷をめぐらされ、数々御廟算在らせらるる中にも人選登庸を最上と思召さるるが故に、此趣を仰出さる」
と言って沙汰書を将軍に授けたと書かれている。

また島崎藤村 夜明け前 第一部上の中には、「勅使 大原左衛門督 ( おおはらさえもんのかみ ) に随行して来た島津氏の供衆も数多くあって帰りの途中も混雑するであろうから、ことに外国の事情に慣れないものが多くて自然行き違いを生ずべき 懸念 ( けねん ) もあるから、・・・」というくだりもある。

勅使は天皇の代理としての資格を以って宣旨を伝達することから、勅使を迎える者が、たとえ官位において勅使よりも上位であったとしても、天皇への臣礼同様、敬意を払うこととされたから勅使は公家あるいは幕藩主)の身分であったことはほぼ間違いない。

大原は明治期に貴族あるいは幕藩から華族となったらしい。


大徳寺の和尚が歌を詠み、華族大原氏が箱書きし、近江の膳所の幕藩山口家6代目金衛門、京都の豪商上菱屋、そして紆余曲折して新見泰吉へと伝わったことが、何とか読める。
新見泰吉という人物が、小生の祖祖母の母親の夫に当たる。

京都の義父は、「鑑定士のところには絶対に持っていくな」と言い残し、この世を去った。

だから今後絶対に「鑑定」は以来しないつもりである。

by noanoa1970 | 2008-10-25 15:00 | 骨董で遊ぶ | Comments(1)

石黒宗麿の茶碗

先日訪問した白沙村荘で集まった人の中に、小生の直接の後輩になると思われる一人の女性がいた。

Iさんといい、彼女は白沙村荘のバイト仲間ではなく、その友人で、京都生まれの京都育ちということであった。

1970年当時のNOANOAにも来ていたというし、「ZIGZAG」というブティーク兼喫茶店のことも知っていたし、驚いたのは我々がよく連れられて飲みに行った浄土寺の「ヴェニス」というスナックのことや、「蝦夷」という北海道料理の店のこと、そして「夢二」という小料理屋のことまで知っていたのには驚いた。

当然小生の作ったピザを食べた経験があるというから嬉しくなる一方、大学の学部学科そしてなんとゼミまでが同じ先生であることがわかり、世間の狭さとそれを繋ぎ合わせてくれた白沙村荘の偉大さに恐れ入ったのだった。

話が彼女の交友録になって、興味があったのは、陶芸家「石黒宗麿」の唯一の弟子だった人物が大変な女好きであったということであった。

誤解を招くといけないが、小生の興味はそんな弟子の話ではなく、「石黒宗麿」という陶芸家のことである。

かなり前のこと、ブログ「NOANOA回想録」、「贋作」で、「小山富士夫」について書いたことがあったが、NOANOAで小生が彼のために作った「カブと牛肉のスチュー」を気に入っていただいて、お礼にと言って彼が愛飲するウイスキー「オールド・パー」と多額のチップを頂いたことがあった。

小山先生は白沙村荘と昔からの縁で、京都に来ると必ず立ち寄っていかれ、小生は数回お目にかかったことがあった。

「お菜どころ」には、小山先生のぐい飲みがお客用として使われていたのだった。

「石黒宗麿」を一番理解した人物、それが「小山富士夫」であるといわれている。

その接触の原点がいかなるところにあったのかは知る由もないが、小山略歴によると、「昭和2年 石黒宗麿と出会い親交がはじまる。」とあり、石黒略歴によると、「1927(昭和2年)34歳、京都市東山区今熊野に移住。隣家に住む、小山富士夫の裏庭に窯を築く。均窯・唐三彩・絵高麗などの中国陶磁器の研究を行う。」とある。

すなわち、この時期石黒は小山の隣宅に住まいし、小山の土地を借りて初めて自分の窯を持ち作陶をしたということになる。

その2年前、金沢で隣家の窯を借りて、作陶活動を始めたのは、石黒が故郷富山県射水から住まいを移した32歳のころだった。

石黒は1893年医者の長男として生まれ、20歳を過ぎたころから作陶をはじめ、父親の窯で楽焼を焼いたというし、轆轤技術を身につけたというから、陶芸の道に進むことを志したのは、陶芸家の中でも、かなり低年齢の時だった。

その後1936、43歳で石黒は京都左京区八瀬の地に窯を築くことになるのだが、恐らくこの石黒がまだ40代の終わりか50代はじめころ、石黒が住まいした八瀬から程近い修学院に小生の義父「無老」が住むことになった。

「無老」が30代後半の時期である。

「無老」は石黒と同県富山の福野という町の寺の次男として1906年に生まれ、日本画を志し、京都にでてきて方々流転の末修学院に住まいした。
木屋町の広東料理の名店、今は亡き「飛雲」にいわば食客として逗留、居候したのはその前のことだった。


「岡本」という好事家が修学院の鷺の森神社近くの閑静なところに、ギャラリーとして建てたものを譲り受け、住居兼アトリエとしたのだった。

「石黒」と「無老」の交友関係は直接はなかったようだが、どうも富山県人は、特に京都においては、横のつながりが強いと見え、富山出身ということで「無老」の日本画や水墨画の同郷の弟子が多く集まったから、石黒のことは耳にしていたのだろうと思われる。

「無老」から実際に聞いた話によると、石黒は自作の陶芸作品をリアカーに積んで、行商人のようにして、八瀬から京都市内に近いところ・・・すなわち修学院や一条寺、あるいは銀閣寺界隈にも足を伸ばしたのだろうか、生活のために作品を売りに歩いたことがあったそうだ。

「石黒宗麿」といえば、今では陶芸界の重鎮としてその名を知らない人はいない、人間国宝であるが、若い時はやはり相当苦労したのであろう。

そんな話とともに、小生に渡してくれたのが、この「茶碗」である。

世の愛好家のように「箱書き」などはなく、適当な箱に入れてあったのを貰い受けたのだから、鑑定価値はどうかとは思うのだが、そんなことよりも、とにかくこの茶碗、持ってみるとすぐにわかることなのだが、手になじむとはこういうことかと思うほどなのだ。

実際に使ってみて「無老」がこの作品を選んだ理由が、わかるような気がする。

「用の美」という言葉があって、石黒もやがて柳、河井寛次郎、濱田庄司 などとともに「民芸」の仲間入りをすることになった時期もあったようだが、「石黒宗麿」の作品は、小山富士夫のぐい飲みのように、実際に使ってこそ、その意味があるのだと思う。

小生の家の「茶」は流派はなく、「右千家」と小生が言っている自己流だが、この茶碗で立てるお茶は至福の味がするのである。

以前にも写真をUPしたが、デジカメの性能がよろしくなかったので、再度UPすることにした。

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「宗」の刻印があるのがわかると思う。

by noanoa1970 | 2008-10-12 13:49 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

ミケランジェリのシューマンと硝子人形

このところシューマンばかり聴いている。
きっかけは「ポニョ」。

「崖の上のポニョ」の主題歌はシューマンの「楽しい農夫」にあまりにも似ているので、「ポニョ」が聞こえてくるたびに、シューマンを思ってしまうのだった。

シューマンの「楽しき農夫」の出だし、最初の4つの音は「ソドミソ」だ。
これを逆さまにすると「ソミドソ」ソソ…つまり「ポニョポニョポニョ」の出だしの音と同一だ。

さらにそれに続く「青い海からやってきた」の部分はシューマンの音とほとんど同じだから、作者はシューマンの「子供のためのアルバム」、「子供の情景」「カーニバル」あたりからの音型がインプットされていて、知らずと反映されたのであろう。

さてそのことはともかく、おかげでシューマンを「ケンプ」の全集でタップリ聴いた後、さらに「謝肉祭」をミケランジェリで聞いていて、彼のピアノの音がまるで硝子細工細工のようであることを再認識することとなった。

硝子細工といえば、押入れにしまいっぱなしになっているものがあることを思い出し、取り出して見ると、それはまさに謝肉祭の14曲、「Valse noble. 高貴なワルツ」そのものの様相であった。

この硝子細工の踊り子は、義母がまだ若き時代に東京の「和光」で買い求めたものという。義母は大正時代の東京生まれで、2・26事件の朝をハッキリ覚えていると言っていた。

この人形が、どのくらいの時代のものなのかは、はっきりしないが、70年~80年ほど前のものだと思う。

右手の先が欠けているの 残念だが、壊れものだからいたしかたないだろう。
しかしわずか10センチ足らずの今にも壊れそうに繊細で、小さい硝子細工が、今でも残っていることを喜びたい。

義母はこの硝子細工の人形、とても大切にしていたのだと思う。

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by noanoa1970 | 2008-10-02 18:52 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

近所で見つけた「アールデコ」風

我が家のすぐ近所にある、小さなショッピングモール。
このところ入れ替えが激しく、当初からあった店は2件だけとなった。

前から気になっていたその店の店舗デザインは、アールデコのような感じ。
エントランスを斜め方向から見ると、20世紀初めのモダン建築の様相を呈しているのに気が付いた。

チョットばかし「アールデコ」。

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何をやっている店かというと、それがビックリ。
なんと焼き肉屋なのである。

小生は1度行って、ビールと「ハラミ」を食べたにすぎないが、いつも購入する肉屋のものに比べても、肉質は大したことはない印象を持ったのだが、それでもそこそこの人気があるようだ。

焼き肉屋とアールデコ・・・どう考えてもつり合いはよくないが、斬新だ。

by noanoa1970 | 2008-09-17 09:31 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

岩手水沢・南部鉄器角型すき焼き鍋・・・50年前の

調整してきたレコードプレーヤーが、何とか最上の状態となったので、棚から出した物を整理していると、「民芸」という雑誌があり、何気なくパラパラとページをめくっていると、思いがけないものを発見した。

d0063263_12274812.jpgこの雑誌は昭和29年3月31日の出版で、手に取ったものは、昭和32年1月1日発行となってる。

毎月1日に発行すると表記されていて、今から50年以上も前の古い雑誌である。

定価は50円である。

大正末期、柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎 、富本憲吉 、バーナード・リーチ などによる民芸運動のリバイバルなのか、戦後ようやく庶民の生活が楽になってきたせいなのか、このような雑誌が刊行されたことは、ある種驚きでもある。

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雑誌の終わりのほうに、今で言うところの「通信販売」コーナーがあり、「たくみ案内」頒布会という名前が付けられた、それには第1回頒布会出品の「浜田庄司」の湯飲みが大盛況であったこと、そして予定をはるかに上回る応募があって、品物が品物だけに、到底増産は不可能で迷惑をかけたことのお詫びと、今回頒布が出来なかった方のため、「芹沢鮭介」作の四季カレンダーを、第1回頒布会の延長作品として提供することが書かれていた。

頒布品で「浜田庄司」、「芹沢鮭介」を出品するなど、今では到底考えられない、贅沢なことであるが、当時はそのようなことがお互いに許されたいい時代であったのだろう。

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さらに、第2回頒布会のお知らせとして、今回の話題の品の宣伝がついていて、それは我が家に2個伝わっていて、少人数のスキヤキには必ず登場するものであった。

岩手県水沢製の「スキヤキ鍋」と銘打たれたその頒布品、角型で取っ手がついていて、肉厚の南部鉄器で出来た、見た目も美しい鍋である。

取っ手はスライドさせ、取り外し可能、角型であるが内部にはRがやんわりと付けられ、いかにも手工芸作品の風格がある。
これでスキヤキをすると、これがとんでもなく美味しいのだ。

小生の好きなスキヤキのスタイルは、魯山人」風。
長ネギを3センチほどに切り、肉の入る余地を残し、鍋に立てにぎっしり並べる。
砂糖は使わずに、醤油と酒だけで味を調えるもの。

学生時代のスキヤキコンパ・・・京都の「いろは」というスキヤキ専門店でやるのだが、それぞれの出身地でスキヤキのやり方が大きく違い、同じテーブルに着こうものなら、もう少しでけんかになりそうな場面をいくつか見てきたこともあった。

スキヤキも地方やその家庭で、やり方が大幅に違うのは面白い現象である。

またスキヤキ専門店でもやり方は千差万別。
このあたり詳細に調べると面白いであろうが、今後の課題としよう。

魯山人風のスキヤキなどは当時は誰も知らないことで、こんなやり方を強行したら、きっと総すかんを食ったことであろうが、小生がこのやり方を学んだのは、かなり後の話し、白沙村荘でのこと。

それまでは本当に適当に、醤油、砂糖、水を使い、せいぜいヘッドで最初に肉を焼くのであるが、その肉がなくなって追加するときには、そのまま生肉を入れるのはなぜかと少しだけ疑問を呈しながらも、食欲が勝っていた年代だったから、さほど深く追及することなく過ぎてきたのだった。

魯山人風すき焼きをやるのにテーブルに並ぶのは、一升瓶と醤油。
砂糖がないようだから台所に取りに行きます・・というと、ここでは砂糖は使わないといわれ驚いたものだった。

このやり方が一番おいしいから・・・といわれ、見ていると、ダイナミックに肉、ネギ、しらたき、豆腐(焼きではない)、春菊を大量に入れた、大きな鉄鍋の上から一升瓶の酒を大胆に注ぐ。

酒が煮詰まってきて、少しテリが出てきた頃、醤油をくわえて一煮たち。

スキヤキきにつき物の卵はナシで、そのまま、薄口で、酒で甘みが出た肉や野菜をたらふく食べるのであった。

味が薄いが材料の味がよく出る、それは美味しい体験で、それ以来小生はこのやり方に、魯山人の伝記で知ったスキヤキのやり方を加え・・というか差し引きして、今日に至るのだ。

d0063263_12302761.jpg雑誌「民芸」の頒布品が、2セットあるのは、京都の義父が、自ら注文したものか、どなたかから頂いたものか、今となっては分からない。

当初ついていた木の蓋は、今はもうないが、錆び一つでずに、今でも立派な現役で、大変重宝している。

結婚を期に、息子にその一つを渡してあるが、どうやらそれを使った形跡は、今のところ無い。

このようなものを愛でるようになるには、後少なくとも10年はかかることだろう。

スキヤキは冬のものと思われているようだが、夏のスキヤキもいいものである。

映画「異邦人との夏」は、地下鉄を上がると浅草の文字が、生まれ育った浅草が懐かしく道をたどると、そこは昔の浅草があって、ある夏の日突然のようにして、亡き両親と再会し、短いひと夏を過す物語。

その映画の中で、両親と一緒にスキヤキを食べるシーンがあって、夏のスキヤキもいいものだと思うようになったものでした。

山田太一・大林宣彦のコンビ作品で、片岡鶴太郎と秋吉久美子 が両親役、風間杜夫が息子役、その恋人役で実は幽霊の名取裕子が出演する、下町の情緒の中の郷愁感が漂う映画でした。

雑誌「民芸」から映画へと、話は発展したが、雑誌「民芸」には内容は勿論、広告宣伝に、目を見張るべき優れたデザインのものが多いので、紹介することにした。

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東京の老舗洋食屋「たいめいけん」、京都の老舗民芸店「やまと民芸」、松本の和菓子「開運堂」、神戸の鰻や「竹葉亭」などなど・・・・すばらしいデザイン広告が掲載されている。

by noanoa1970 | 2008-06-21 12:07 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)