「ほっ」と。キャンペーン

心の風景

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1970年当時は白沙村荘の池のふちから、上の写真のように、如意が嶽の「大」の字がハッキリ見えた。
8月16日は、店はお客で満杯となるのだが、こっそり抜け出し庭に出て「大」の字を盃に受けて飲んだ思い出がある。

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庭園の真ん中にある池、当時はもう少し水が澄んでいた。
巨大なマゴイが遊泳し、手をたたくといつも寄ってきた。体格の良かった故橋本帰一氏と似ていたのでその鯉を「帰一」と呼んでいた。鷺などの鳥によって鯉が全滅したので巨大な鯉はいなくなってしまった。
この池で鯉釣りをしたのは多分小生ぐらいだろう。

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現在はここで食事もできるようになったが、当時は住居であった。
関雪の「玄猿」のレプリカ軸がかかっている。

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小生が好きな構図。
問魚亭から倚翠亭を見たところ。
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こちらは問魚亭から憩寂庵を見た構図。
現在お茶会が開催され、利用されているのは倚翠亭だけとなってしまった。

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われわれは「大画室」オオガシツと呼んでいた「存古楼」。
約50畳ほどの天井が高い2階建ての日本建築。大作を完成するための画室としてつくられ硝子の扉で囲まれた明るい部屋だ。
池をはさみ、如意が嶽を借景としているから、その昔はこの部屋から大文字の送り火が見えたのであろう。われわれの時代には部屋の外に出ないと全部は見えなくなっていた。
2階は現在は立ち入り禁止となっているが、当時小生たちはバイトが終わると、そこに炬燵を持ち込んで、マージャンを」したものだ。その時のメンバーが40年ぶりに集まった。
なおその時使用したマージャン牌は、関雪時代から残された「象牙製のゲタ牌」であった。

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大正時代のオイルランプと照明。
さりげなく置いてある所が、この屋敷の歴史と風格をしのばせる。

by noanoa1970 | 2008-10-08 10:03 | 白沙村荘随想 | Comments(1)

40年ぶりの顔合わせ

一昨日昨日と京都銀閣寺畔の白沙村荘時代のバイト仲間が40年ぶりに集まった。
中には京都来訪自体が40年ぶりという不届き者もいて驚いたのはともかく、とても楽しい思い出話のひと時を過ごすこととなった。

白沙村荘の菩提寺であり、吉兆の湯木貞一が手ほどきを受けたカリスマ的村瀬禅尼が作る「ゴマ豆腐」が有名となった精進料理の「ほんまもん」の元祖、「月心寺」ヘ行く予定であったが、手違いで行けなくなったのは残念だったが、白沙村荘(現橋本関節記念館)橋本妙館長が我々のためにテークアウトで、月心寺の料理を運んでくれた。

庭園を眺めながら、料理を味わいながら、うまい日本酒を飲みながら8時間も滞在して昔の思い出話に花を咲かせたのだった。

勝手知ったる他人の家だから、酒が無くなると誰かが台所に行って酒を持ってくるし、
同時代を過ごした女性たちもやってきて、一緒に楽しい時を過ごすことができた。

庭は白洲正子がその昔いっていたように「適度に荒れた感じがいい」。
往々にして京都の庭園は、寸分の隙もないほど手入れされていて、眺めるのはよいのだは人を拒むようなところが多いものだが、白沙村荘の庭園は人を暖かく迎え入れるそんな懐の深いものだ。

やはり自然と一体となる・・・そんな関節の心象なのだろうと強く思うものだ。

われわれのバイト時代には見通すことができた「如意が岳」=大文字の山の「大」の字は、木立に塞がれて長い間見えなくなっていたが、庭園中央の大きな鯉が遊泳する池も手入れされ、昔の面影を残すことができたようだが、やはり年月には勝てずところどころ損傷もある。

大がかりな修復も時が来れば必要になると思うのだが、この先どうなる事やら大変心配なことである。

3000坪の庭園と家屋、関節の残した美術品の維持管理は想像を遥かに越えた苦労があることだろう。


NOANOAで待ち合わせ、オープンテラスでワインとピザでランチ
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橋本妙館長と白沙村荘庭園にて
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庭園南側から大画室を望む
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茶室「問魚亭」から鎌倉時代の七重の石塔を見る
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ずいぶん数が減ってしまった、竹林の中の石仏
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1970小生がギャラリー目的で作られた古い洋館を改装して始めたNOANOA
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当時と同じ蔦が、いい具合に絡まっていて趣を出している
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NOANOAの入口の大きな扉、中の戸をあけると店に入ることができる
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5年ほど前にできたNOANOA新館
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表通りからみたNOANOA。奥が旧館右手に新館
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白沙村荘母屋から庭園を見る
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月心寺村瀬安寿の手になる精進料理
写真を撮るのを忘れたが、ゴマ豆腐は安寿さん自らの手になるものだそうだ
朝4時から起きて作ったという
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白沙村荘に会した一同の写真
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by noanoa1970 | 2008-10-06 15:48 | 白沙村荘随想 | Comments(0)

谷崎潤一郎と白沙村荘

d0063263_11274824.jpg以前少し触れたことがあるが、谷崎潤一郎と往復書簡を取り交わし、小説「瘋癲老人日記 」の颯子のモデルになったとされる嫁「渡辺千萬子」は、橋本関雪の孫娘である。






d0063263_117710.jpg白沙村荘の庭でくつろぐ橋本関雪と千萬子と愛犬


「千萬子」という名前は関雪によって付けられたという。

千萬子は関雪の長女が、医者の高折家に嫁ついで出来た娘で、関雪は事あるごとに可愛がったという。

千萬子が渡辺に嫁いだ経緯は、資料が何も残ってないようだから、ハッキリとは分からないが、「江戸川乱歩」の日記に以下のような記述があることから、「乱歩」と関雪の長男「節哉」氏とは旧知の仲で、乱歩は「節哉」に頼んで谷崎の多分下鴨の「潺湲亭」を訪問したと書いている。

千萬子は昭和5年生まれであるから、下の記述の、乱歩が谷崎亭を訪問したのが、「千萬子」がこのとき17歳、同志社大学英文科を卒業したのが昭和27年だから、どう考えても結婚前のことと思われる。

乱歩の記述の「節哉」と「谷崎」の交際が、関雪を介在して行われたのだろうか、そして「節哉」の妹であり、「関雪」の娘でもある「高折」さんの娘=関雪の孫を、谷崎の家の「渡辺」に嫁がせたのも、なんとなく分かろうというものだ。


昭和22・1947年「江戸川乱歩日記」より

午前、橋本関雪邸の庭園と美術品を見る。谷崎潤一郎と交際のある節哉に仲介を依頼し、二人で谷崎の新居潺湲亭を訪ねる。《谷崎さんとは十年も前に一度文通したことがあるだけで、お会いするのは今度がはじめて、奥さんも同席され丁重な食事のおもてなしに預かり、お酒も出ていろいろ話をしたが、谷崎さんは文学談など好まれぬ様子なので、こちらも差し控え、結局文学以外の話の方が多かった》。二時間あまりで辞去、節哉と嵐山をドライブし、苔寺の庭を見る。夜は京大の小南又一郎の来訪を乞い、法医学の話を聞く。橋本亭に宿泊。・関西旅行日誌(昭和22・1947年)/探偵小説四十年(昭和32・1957年)


さて、「千萬子」が嫁いだ、「渡辺家」とはどういう家系なのであろうか。

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昭和38年頃,7月の谷崎の誕生祝いの集まりで,熱海梅園ホテルにて 左より惠美子,松子,潤一郎,重子,たをり,清治,千萬子,桂男(熱海 今井写真館所蔵)


かなり複雑で、調べるのに相当時間を要したが、やっと分かった。

谷崎の妻、(一度離婚したが、復縁することになった)谷崎松子と根津清太郎(大阪の豪商、松子は根津清太郎の前夫人)の子供の清治(従って松子の連れ子とということになる)を、松子の妹(渡辺重子)の養子にした(谷崎が自分と養子縁組をしなかったのは解せないが)後、「高折千萬子」と結婚、

「千萬子」と「清治」の子供が「たをり」というわけである。
「たをり」は、従って法律上は義理の妹になるが、実際は孫と同じであることになる。

d0063263_11225638.jpg「千萬子」は後に、銀閣寺疎水べりの一角で「アトリエ・ド・カフェ」という喫茶店を開くことになるが、小生は残念なことに一度も訪問した事がないうちに、閉じられててしまった。

また「千萬子」が、小生が白沙村荘にいた時代に、橋本家にやって来たという話は聞いたことは無かったが、節哉氏が無くなって久しかったし、いまや関雪の長男の子供「帰一」氏が、白沙村荘を一般公開に踏み切って、守る時代になったから、最早自分の実家という気持ちこそあれ、足を遠ざけていたのだろう。

関雪の娘、高折さん(旧名橋本妙子)のことは、名前は耳にしたが、顔の認識がないほど、白沙村荘とは疎遠となっていたようだった。


1946(昭和21)年の谷崎潤一郎詳細年譜(昭和22年まで)に以下の記述がある。
これによると、谷崎と「関雪」の息子橋本「節哉」の関係、そして渡辺「千萬子」の母親高折妙子:旧姓橋本妙子の関係が少し垣間見れる。

江戸川乱歩も小津安次郎も潺湲亭を訪問していた事。
「千萬子」の母親、高折妙子を三条木屋町にあった広東料理の「飛雲」に招待していたことも明らかになって、小生が好きであった店とオーバーラップするのが、何かの縁を感じることとなった。

11月2日、故橋本関雪白沙邨荘で銭に会い揮毫をしてもらう。これ以前か、朝日新聞支局の紹介で関雪の息節哉に紹介され、ついでその妹妙子、その夫高折隆一を知る。

5月12日、春日豊(とよ、小唄演奏家、67)来訪、春琴抄の小唄聴く、磯田又一郎来るので豊に紹介、橋本節哉、宇佐美佐藤を紹介、銭の使いなり、西田秀生来訪、来客多く静養どころでない。

7月4日、井上金太郎、小津安二郎(45)来訪

10月17日、江戸川乱歩(55)が訪ねてくる。

1947年3月21日、国井夫人(市田やえ、38)、高折妙子を飛雲へ招待、四条木屋町の萩原正吟宅で繁太夫の鳥辺山など聴く。


谷崎潤一郎を巡っていくと、思わぬところで「縁」を感じるところがある。

2月26日は、橋本関雪の記念日で、恐らく現在も、月心寺で記念行事が開催されていると思われるが、月心寺の村瀬尼により、その昔、2月26日の関雪記に、谷崎潤一郎が、渡辺「千萬子」を伴って、月心寺を来訪したことが書かれている。

by noanoa1970 | 2008-05-20 11:10 | 白沙村荘随想 | Comments(0)

京都岩倉のアパート下宿・・「谷崎」と「はつ子」を巡って

1969年のこと、小生は上賀茂の下宿から、岩倉のアパート下宿に移ることにした。
白沙村荘のバイト仲間、S倉の誘いもあり、銀閣寺までバイトに通うのが何かと便利だったからである。

初めての鍵付の部屋だったことも、引越しの充分な理由であったし、何しろ出来立ての新築であったから魅力だった。

上賀茂では、当初便利な賄い付だったが、バイト先で晩御飯を食べることが多くなってから、かなり無駄にしていたから、経済的でもあったのだ。

S倉は半年ほど前に、銀閣寺に近い下宿先から、岩倉に引っ越していて、静かで快適な環境がよいとも言っていた。

その頃の岩倉は、京都市内ではあったが、「ど」という言葉がつくほど田舎で、叡電が修学院を過ぎると、あたりは急に京都らしくなくなり、周囲は畑ばかりの、長閑な風景が広がるところであった。

S倉が岩倉のアパート下宿に引っ越すことにしたのは、他にも理由があって、それは「奥山はつ子」という、その昔は、祇園の名妓と評判の高かった人が、白沙村荘の橋本「関雪」か息子「節哉」あたりと旧知の中だったのだろう、時々白沙村荘を訪れていて、小生のバイト中にも、幾度と無く顔を見せていた。

その「奥山はつ子」さんから、お菜ところの田鶴子おばさんが、「今度岩倉に自分の家を新築し、同時に学生向けのアパートを隣接する」、という話を聞き、恐らく学生さんを紹介して欲しいなどといわれ、小生より半年ほど前に、白沙村荘のバイトに入ったS蔵に、白羽の矢が立ったというわけだった。

それからしばらくして、S倉の誘いで、まだ空きの有る部屋に小生が入ることになったというわけで、最終的には、DRACのメンバーが都合3人入ることとなった。

「はつ子」さんは当時いくつだったのか、実際の年より随分若く見える感じがあったから、それでも65歳ぐらい(お菜ところの田鶴子おばさんと同じぐらいの)だろうか。

いつも元気で、着物の上に上っ張りを着て、玄関周りを掃除している光景を思い出す。

ただ、同じアパートの住人の中で、アパートの持ち主、「はつ子」さんの、かつての素性を知るものは、われわれを除いて殆ど居なかったであろう。

谷崎潤一郎と往復書簡を交わした、「渡辺 千萬子」は、白沙村荘「橋本関雪」の娘の子供つまり孫で、谷崎の妻「松子」の連れ子と結婚し、谷崎が愛したといわれる女性だが、奥山はつ子も芸子時代、谷崎とその妻両方から好かれたといわれる、祇園の名妓であった。

谷崎の「京羽二重」の中に「奥山はつ子」のことについて、書かれている件があるので掲載する。

抜粋だが、谷崎は随所に、「はつ子」の踊りのこと、そして顔立ちと黒髪の美しさ、等を絶賛している。

音楽評論家の「野村光一」が、「はつ子」を見に、ワザワザ訪れたというエピソードも添えられていて、少なからず驚いた。


(ある人との会合先について谷崎は・・・・)
『私は又躊躇するところなく「奥山」を希望した。
 会場の奥山と云ふのは、昔祇園で名を売つた奥山はつ子が八九年前から左京区岡崎の平安神宮の東の方の、法勝寺町の閑静な一廓に開業してゐる料亭の名である。はつ子が祇園第一の美妓、従つて又京都を代表する典型的な美人であることは、既に数々の機会に繰り返して述べたことがあるから、諄(くど)くは書くまい。嘗(かつ)て彼女が祇園を去つて料理屋兼旅館の女将となつたと聞いた時、私はこの上もなくそのことを惜しんだ一人であるが、今日の会場を私がこゝに択(えら)んだのは、ひよつとしたら毎日新聞や山口君の顔で、こゝの座敷でなら彼女が得意の地唄舞を舞ふのを見ることが出来ようかと思つたからである。』

『他にどんな名人がゐるにしても、はつ子の「黒髪」ばかりは絶品であると私の妻は云ふのであるが、私もそれに異議は称(とな)へない。、祇園花柳界のあの正式の服装、––はつ子が「黒髪」を舞ふ時はいつもこの服装である。そして誰よりもこの服装が似合ふのもはつ子である。舞は舞そのものゝ技巧ばかりが凡(す)べてゞはない。何と云つても美貌がそれに加はることが条件である。はつ子の場合は正にそれである。あゝ云ふ顔は単に祇園の花柳界のみを代表する顔ではなく、京都全体の美を象徴するものと云へる。あの顔を見てゐると、京都の持つ幽艶、気品、哀切、風雅、怨情、春夏秋冬のさまざまの変化、さう云ふものゝすべてがそこにあるやうな気がする。』


『はつ子はと見ると、頭を普通の引つかづけにして、飾り気のない質素な女将の身なりをしてゐる。あ、この頭ではあの「黒髪」は見るよしもない、今日は舞はない気なのか知らんと、少しがつかりする。』



『今日は先笄の頭と白襟黒紋附の姿は遂に見ることが出来ないけれども、兎も角も舞つてくれると云ふのは特別のサービスである。訪問着は濃い納戸色(なんどいろ)で、それにアイボリー色の紙衣(かみこ)の帯を締めてゐる。帯には濃い茶の花兎の模様がある。髪は地髪を自分で器用に髷(まげ)に作つて載せてゐる。』



『さう云ふ藝者臭くないところ、銀座臭い感じのところが、徳七翁のお眼がねに叶ふ所以(ゆゑん)であつたかも知れない。
 はつ子は云ふ、自分は美容院などへも行つたことがない、自分もパーマネントをかけたいと思ふけれども、ドライヤーに頭を入れるとムカムカして気分が悪くなり、吐き気を催して来るので、あの中へ這人ることが出来ない、髪を結ふにも、髢(かもじ)は使ふことがあるけれども、鬘は殆ど使つたことがない、
「あたしの髪はいつも地髪で結ふのどつせ」』



また、歌人である田中保子さんの「京のうんちく」の京女編の中にも、奥山はつ子のことが書かれている。
奥山はつ子、本名奥山初は明治、大正、昭和の三代にわたって
磨きぬかれた京女として生きた。
はつ子は数え年十三歳で舞子になった。
(註、はつ子曰く、祇園町では舞妓やのうて舞子、芸妓も芸子いわんといかんのどっせ)
普通は十歳、 身体が弱かったはつ子は遅れたことに持ち前の負けん気の拍車をかけた。
京大内科の松尾部長(俳人いはほ)は
~初髪やはつ子はつ子とうたはれて~と詠む。
妓籍の女だけではない、京の女はよう気張る。


かつて、祇園の芸子集の中でも、ひときわ異彩を放って、各界の著名人から、贔屓にされたという「はつ子」さんが、後に岩倉に引越し、学生アパートを経営するというなんていうことは、谷崎は、よもや思いもしなかったことだろうが、これも時代の流れというものなのか。

その当時「はつ子」おばさんは、どのような気持ちで、毎日暮らしていたのだろうか。

知っている彼女の自慢は、息子が京都大学卒の優秀な人であるということだ。
そういえば、アパートには、京大生が数人居て、夜な夜な騒ぐ小生たちを、白い眼で見ていたことがあった。

by noanoa1970 | 2008-05-19 16:08 | 白沙村荘随想 | Comments(0)

NOANOA回想録・・その4

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NOANOAでの小生が考えたスパゲッティ「まかない食」で好評だったものをご紹介すると。市販の壜詰めの「なめ茸」を、お湯にくぐらせたスパゲッティにオリーヴオイルかバターを加え、和えたもの、もう一つが、「お茶漬け海苔のもと」を同じように和えたもので、これはトマト味ばかりの料理の中では、「日本食」を感じる瞬間というわけで、大変な好評であった。このアイディアは後の
「壁の穴」・・・1980年代・・・の「ナットウ」「タラコ」「明太子」など和風スパゲッティの元祖となったと自負ている。和風スパゲッティブームが起こる遥か10年前・・・1970年のことであった。

さらに小生がふとした拍子に考え出したものに、後に「オーロラソース」と呼ばれ、今では誰でも知っている、たまねぎの微塵とマヨネーズ、そしてケチャップをあわせ、少し甘めで色がきれい、サラダなどに良く会うソースであるが・・・ある日これを偶然発見した。「妙」さんに作ったサラダを試食してもらうと、彼女は目を丸くして驚き、作り方を教えて欲しいといった。種明かしをすると、さらにその簡単さに驚いたものである。考案した少子も、今一度ベースのマヨネーズの底力に驚いたのだった。料理のレシピに特許権があるのなら、きっと今頃良い目が見れたかもしれない。(笑)
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by noanoa1970 | 2005-06-27 10:00 | 白沙村荘随想 | Comments(0)

NOANOA回想録・・その3

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ブラインドテストを終了し、これならお客さんに出しても満足していただける・・・・と、いくつかのバリエーションを追加した日に、哲学の道を下がったところにある、楽焼体験の店に行き、お皿にメニューを書き込み、それを焼き物にしてもらった。

器類は、「たまねぎ」をデザインした伝統ある焼き物・・・「ブルー・オニオン」がピッタリと思ったのだが、目が飛び出るほど高価だったので、国産の「ブルーダニューブ」にした。これはこれで料理には良くマッチした。ソースの「赤」と良く合う「染付け」の磁器である。
すぐ下の写真が有名な、マイセンの「ブルー・オニオン」、その下が国産(有田)の「ブルー・ダニューブ」、質感は異なるものの、「ブルーダニューブ」も決して引けを取らないものであった。
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自学習だけでは限界を感じたので、接客と料理の基本を学ぶために、山科の「さざなみ」というレストラン・・・古くから橋本家が利用していたベテランの職人がやっている店だった・・・。そこでソースのストックの方法、コーヒーのレストランでの入れ方、仕込みのために必要なこと、安全管理、衛生・品質管理、そして実際に接客をしたりし、て2人で2ヶ月ほど毎日通い、教えてもらった。

by noanoa1970 | 2005-06-24 08:00 | 白沙村荘随想 | Comments(0)

NOANOA回想録-その2

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NOANOAでの料理をピザとスパゲッティに決めたのはよいとしても、この先膨大な準備の試練が待っている。小生は同じバイトの2人とともに、3人で開設主担当となった。帰一氏はすぐに名刺を作ってくれて3人に渡した。「白沙村荘・NOANOA開設準備担当」という肩書きである。KとSの二人は、この春卒業したのだが、事情があって京都にとどまっていたのを、小生が無理やり引きずり込んだ形となり、3人で、白沙村荘の従業員として働くことになったのであった。
小生と違い、料理そのものにあまり興味はなさそうな2人だったが、それぞれ「経済学部」「商学部」を卒業していたから、店の経理関係を彼らに、そしてKはセンスがよかったので、広報宣伝、調度関係をやってもらおうと内心思っていた。しかしその理想は早くも敗れ、数ヶ月後かれらはそれぞれ違う道を選択し、京都から去ってしまった。

一人残された小生は、ギブアップするわけにも行かず、かといって頼れる専門的な誰かがいるわけでなく、結局一人で準備をはじめることとなった。帰一氏は心配だったのだろう、事情を察して、庭園担当で入社した女性・・・美人であった・・・を一人回してくれた。

こうして2人だけでの準備が始まったのであるが、大変だったのは、メニュー作成とその調理技術の獲得で、スパゲッティはともかく、ピザにいたっては、作ったことも全くない状態であった。
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四条川原町の「明治屋」に行って、あれこれヒントを探していると、老齢の店長と思しき人が、アドバイスをくれて、レシピが載っている本、そして今一番おいしいスパゲッティを2・3教えてくれたのである。・・・・続く

by noanoa1970 | 2005-06-22 08:31 | 白沙村荘随想 | Comments(0)

NOANOA回想録・・その1

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d0063263_9443883.jpg「ブイトーニ」・・・今ではスーパーなどでもポピュラーな存在であるが、当時は輸入食品を専門に扱っている店でしか入手できなかった。当時のブイトーニのロングパスタは50cmの包装袋に入っており、しかも折り返して半分にしてあったから、そのまま茹でると、なんと1mの長さになって驚いたものである。当時・・・1970年・・・では「茹で上げ」の発想がなく、茹で置きでも「アルデンテ」の触覚を保つことが出来たのは、ブイトーニだけだったのである。今では家庭でも茹で上げを食すが、当時はほとんどの店屋人が、完全ボイルのスパゲッティを油でいため、ケチャップで味付けしていた時代だから、「ブイトーニ」と本格トマトソースのスパゲッティは、衝撃的だったのであった。

明治屋で購入した本のレシピを参考にするのだが、使用する調味料の種類が多く使用法で悩んでいると、ノートルダムのシスターから料理の手ほどきを受けた経験のある「妙」さんが、親切に教えてくれた。

重要なトマトソースは、ベーコンと高級野菜そしてイタリアの「ホールトマトの缶詰」を惜しげな使い、一から仕込み何時間も掛けて作った。材料を贅沢に使って丁寧に作ったから、まずかろうはずがない。これに3種類のスパゲッティをあわせて、「目隠しテスト」を行うと、「ブイトーニ」に票が集まり、NOANOAの使用スパゲッティ麺は、小生の予想通り、「ブイトーニ」に決定した。
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ピザの「ドウ」も全て手作りで、パン作りに似たやり方を採用、今で言う「ナポリ」風である。しかし当時はローマもナポリも分けられていなかった時代で・・・・それどころか、ピザ自体を知っている日本人はごく少数だった時代であった。「イタリアのお好み焼き」などという俗称で人気を得ようとした店もあった。チーズはオランダのナツラルチーズ「ゴーダ」の丸ごとをナイフで切り出すという贅沢なことをやったのである。・・・・続く

by noanoa1970 | 2005-06-19 15:08 | 白沙村荘随想 | Comments(0)

白沙村荘-「お菜ところ」→「NOANOA」

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「お菜ところ」のバイトをしていた間には、いろいろなことがあった。高名な大学の先生、博物館長、劇作家、詩人、お坊さん、酒造メーカーの社長、織物の権威、陶芸家、女優、男優等が入れ替わりあるいは一緒に夜な夜な集まった。その全ては、関雪→節哉→田鶴子おばさん・帰一氏・おばさんの娘さん・・・という流れの中の交友関係からである。
そのころ・・・・というより京都の特性なのか、「白沙村荘」の気風なのか、橋本家の家風なのか・・・恐らく全てがあいまって、そうさせていたのだろうが、本当の身内のように学生を扱ってくれた。

常連のお客さんには、われわれはバイトの学生というより、「橋本家を手伝うもの」として映っていたようだ。小生などは「君は関雪さんのお孫さんだろう?」と何度となく言われたことがある。パンフレットの関雪の写真に割りと良く似ていたからだろう。

結果、成り行きのように、一緒にお酒を飲んでお話が始まる。小生たちが20歳前後、常連のお客様はほとんど50を越えていた。昔の話、今の話、芸術・文化論、話を聞いているといると、人脈関係がどんどん膨らんできて、・・・・凄いことになってくるのであった。

ある夜店に入ると、どこかで見たような女性が、配膳台の前でおばさんと話している。気がつくとその女性は、有名な女優の「I」さんであった。おばさんの娘さんが東京で劇団に入っており、その関係で、何でも京都での仕事の途中に立ち寄ったというのだ。彼女はしばらく店を手伝い、リザーブしたホテルには帰らないで、白沙村荘に泊まっていった。

あるときは、非常に有名な・・・・ホームドラマなどでは、良妻賢母的な奥さんの役をいまだにやっている「N」が実は相当の酒乱であることや、有名なお寺の管主が大変な女好きであること・・・などなどの、下世話なニュースも目に耳に入ってくる。

そんな体験は、思いがけないことだったが、芸術・文化に囲まれた環境で日々を送ることが出来たことが、とりわけ何よりも小生の精神構造を決定付ける源となったようである。

あるとき、中年の品のよさそうなご婦人がこられた。母屋に行ったのだが、「お菜ところ」にいると聞いたとかで、おばさんを訪ねてきたのだ。そのときシラスさんご無沙汰してます、お元気でしたか」・・・・とおばさんがいったのを記憶している。その婦人は「大変ですねお疲れのないように」などといい、食事をされて、「炒り豆腐」の作り方をおばさんに熱心に聞いていた。小生はてっきり料理関係の取材と思ったが、帰られた後、「シラスさんてどういう方・・・と聞くと、おばさんは、東京の方で随筆などを書いている人、昔からの知り合い・・・と教えてくれた。
その品の良いご婦人が「白州正子」だと分かったのは、後に彼女の著作の中の、「かくれ里(近江を中心にして)」を読んだとき、この年「かくれ里」取材のために、近江地方訪れていて、取材の間に京都に立ち寄ったものだと分かった。その白州さんも、すでにこの世からいなくなってしまった。d0063263_9231743.jpg「武相荘」=ぶあいそう・・・なんと皮肉ったネーミングなんだろう・・・という住居が町田市の郊外にある。

2年ほどたった時、当時の館長=局長と自ら宣言していた・・・帰一氏と話すうちに、、関雪のコレクションの保管陳列目的で、昭和初期に建てられた、蔦の絡まる古い洋館で、何かをやろうという話が持ち上がった。「ステーキハウスがいい」と帰一氏、「ステーキは若い客向きでないし、肉屋任せの調達では不安だし、調理技術も鍛錬がいるのでは」?と小生。

とにかくこの帰一氏は「食」に関して貪欲で、その体格もさることながら、人の2倍は食べる男であった。小生がビックリしたのは、仕事が終わって毎晩のように皆で食事、そしてミニ宴会となることがほとんどだったおり、彼の食事風景を見ると、なんと彼のご飯茶碗は優に普通の2倍の大きさがあった。これには新婚早々の奥さんも、さぞびっくりしたことだろうと思う。その奥さん「妙」さんが今の関雪記念館館長である。

アレコレ問答するうちに帰一氏の好きな「食」の中から、当時京都では提供する店が1軒しかなかった「ピザ」と、そして「スパゲッティ」の店にすることに決まりかけた。洋館は良く見ると、「イベリア風」に見えて、イタリア料理にはもってこいだとも思えこと、帰一氏が「ピザ」を好んで食していたことが決め手となった。しかし小生が実践を任されるという話で進んでいたから、困ったぞと内心思っていたのであった。
                                           ・・・・・・・・続く

by noanoa1970 | 2005-06-19 09:09 | 白沙村荘随想 | Comments(0)

文化芸術源体験(白沙村荘)のこと-Ⅰ

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1969年小生は友人の紹介で、京都銀閣寺畔の「白沙村荘」にてアルバイトをすることになった。

その少し前まで、「白沙村荘」は橋本関雪の住居として、ひっそりと、そこにあったのだが、彼の長男節哉氏の死去に伴い、その息子である故帰一氏によって一般公開された。
およそ3000坪の敷地には「池泉回遊式」の見事な庭園と、巨大な画廊の建物、持仏堂、中国大陸から運び入れた石造物の数々、鎌倉時代の石塔、五百羅漢などなどが、これも巧みに配置されている素晴らしい庭があった。

茶室は[憩寂庵]、[問魚亭]、[倚翠亭]と3つあり、関雪自らの設計の茶室で、庭を眺めての「茶」は、訪れた文人たちに至福のときを与えたに違いない。
小生が好きなのは「問魚亭」・・・中ほどの写真・・・である。
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小生は、帰一氏の母君・・・・橋本関雪の長男、節哉氏の奥さん・・・・が開くことになった「お菜ところ」という京都の「お晩材料理」の店を手伝うことになった。

驚いたことに、アトリエとしての目的で建てられたその建物は、総ヒノキ作りで、天井には太い栗の梁、床はヒノキの一枚板が張り合わせてあった。建てられてかなりの時を経たにも拘らず、いま建ったばかりのような輝きとツヤを保っていた。

d0063263_10175743.gifテーブルは庭園内に育った檜の大木を、厚い1枚板にして、出入りの大工「熊さん」が造作したもの。

小生はそこで夜のバイトを引き受けることになったのである。また庭園ではお茶の接待にと、何人かの女学生が交代でバイトに来ていた。

夜になるとお酒の席が多くなり、白沙村荘で昔から気に入って使っていたという濁り酒に「月の桂」、清酒には「藤千歳」、それを塗りのお酒を注ぐ器である「片口」d0063263_1335149.jpg・・・今風に言えばデカンタ・・・で提供することになっていて、お客さんは先ず竹篭の中から好みの酒器を選ぶようになっていた。

ある夜のこと「田鶴子」さん・・・小生たちは「おばさん」といっていた・・・が、「今夜は暇やし、いっぱい飲もうか・・・」といって「あんたも飲みよし」と、沢山あるぐい飲みを指して「好きなので飲んだらええ」といってくれた。

すでにおばさんは、手にぐい飲みを持っている、そのぐい飲みがいたく気になったので・・・いいですねそれ・・・というと、おばさんは、「小山先生が創らはったものや」と「この前くれはったった」といとも簡単に、さりげなく言った。

そして、小生が選んだぐい飲みを指して、「あ、それ魯山人や」というではないか。小山さんを知らなくても魯山人は知っていた小生、これはいけないと内心思い、他のぐい飲みに代えて飲んだことがあった。
とんでもなくすごいところにバイトに来たことを、身に凍みて感じた1コマである。
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程なく、古い洋館を改装したピザとスパゲッティの店、
NOANOAをオープンすることになった。

by noanoa1970 | 2005-06-17 08:48 | 白沙村荘随想 | Comments(0)