未完成交響曲は無間地獄の音楽か

1楽章を、小生は地の底から這い上がるような序奏の後、シューベルトの心象を支配する大きな要素でもある「さすらい」のような、あるいは「冬の旅」で見せたような、絶望的な放浪のようなものを感じ、困難な歩行を表現するかのようだと言った。

古今東西、行進や歩行は2拍子かその倍数で表現されるから、そんなことはあり得ないという反論をいただきそうだが、しかしそのことは健常者が普通に歩いたうえでのことだ。
例えば身体障害者の歩行や老人が杖を頼りにしての歩行は、2拍子やその倍数で表現できるとは言えない。

小生はシューベルトが、3拍子を使用して「歩行」しかも困難なそれを、表現したのだと、強く思うのである。

歩き疲れた果てに、1つの「光明」を見出し、それが第2主題となって表現されるのだが、それはすぐに強いフレーズによって打ち消されてしまう。
つまり、放浪者が見たものは、つかの間の夢であったのだ。

そして再び放浪が、これからも、・・・(序奏のモチーフが現れ、第1主題が再び現れる)それは「無間地獄」へと続いていく長く険しい道のりなのである。

そうなると、2楽章は「安らぎ」ではなく「諦観:あきらめ」の境地だと言っても差し支えなくなってくる。

2楽章も1楽章と同じように、3拍子で作られていることを考えると、1楽章の境地を多分に引きずるものだと思わざるを得ないのである。


「未完成交響曲」がなぜ未完成に終わったかについては、諸説がある。

代表的なものは、「忘却説」そして「3拍子説」・・3拍子が続いてしまったことで、後の楽章が続かないと判断した・・などがあげられるようだ。

しかし、小生にはそのいずれもが説得力に欠けている感じがしてならない。

もし、この曲の隠れたテーマを、「無間地獄」であるとし、2楽章を「諦観」であると仮定すると、
はたしてシューベルトは、この上さらに何を付け加えて表現しえたのだろうか。

そのように考えると、シューベルトが2楽章で断筆をした意味がボンヤリ見えてきそうだ。
そして両楽章が3拍子の理由も理解しやすい。

シューベルトに、もしベートーヴェンのようなエネルギーがあったとすれば、3楽章は「希望」4楽章は「復活」といったものになっていたかもしれぬが、シューベルトは、この世の地獄(自身の死に至る病によるものか)を見てしまったものだから、どうしてもこれ以上筆を進めることができなかった。

・・・そんな妄想を喚起させるのが、「未完成交響曲」で、ムラヴィンスキーの演奏は、それを助長するものだ。
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by noanoa1970 | 2009-06-30 10:04 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

Commented by こぶちゃん at 2009-06-30 12:15 x
「未完成」に無限地獄を感じる…すごい表現ですね。シューベルトの諦観は、ベートーヴェンのそれとは異なり、絶望に近い感じはあります。
ただ、死を受け入れてからの作品の中には、涅槃を超え、極楽浄土を感じさせるようなフレーズが感じられるのは私だけでしょうか?
何か全て仏教用語になってしまいましたけど、作品960は、とんでもないピアノ・ソナタだと思いました。
Commented by noanoa1970 at 2009-08-10 12:23
こぶちゃんさん
コメ返し大変遅くなって申し訳ありませんでした。
コメントが承認制のままになっており、その間チェックし忘れており、卿になって気がつきました。
シューベルトのPソナタもなかなか奥が深いと思います。
最近ツエヒリンでそろえて、ぼちぼち聞いています。
未完成の演奏にはさまざまな解釈があるようですから、ワルターのように彼岸を感じるような演奏もありですね。