ムラヴィンスキーの「未完成」やはりすごかった

以前にも少し書いたが、小生の「未完成」交響曲…最近ではシューベルトの、と、いろいろな未完成交響曲の存在が明らかになってきたから、断り書きが必要になった・・は、長い間優雅で優しい音楽の筆頭であった。

LPでは「運命」「未完成」のカップリングで、相当数が発売されたから、運命を聴くと未完成がついてきたのだ。

大昔は「未完成」を求めてLPを探したり、入手したことが無かったのだが、ひょんなことから未完成に狙いを定めるようになった。

そのLPはカールベームがウイーンフィルと演奏したベートーヴェンの8番の交響曲と、8番繋がりというわけではなかろうが、未完成が収録された1950年代のモノラル録音。
「ロンドン不朽の名盤」シリーズの1枚で廉価1000円であった。

ベームの演奏は、開始の低弦パートの音がPPP・・・ようやく聴きとれるぐらいの弱音で始まるもので、それまで聴いたいくつかの未完成では、開始は弱音ではあるが、聴きとれないことは無かったから、これはモノラル録音のなせる技だと思い込んでいたのだった。

後に同じベームとウイーンフィルの、80年代の演奏にセ接した折には、この開始のPPPはPぐらいになっていたから、やはりあの演奏は録音のせいだと再び認識してしまっていた。

ところが・・・である。

1978.5.30録音と解説にあるムラヴィンスキー/レニングラードフィルの演奏(YEDANG盤)を聴いたときに、初めて小生は、シューベルトに暗黒面が強く存在することを知ることになった。
この演奏の開始はPPぐらいだったから、音量的には、今まで聞いてきた演奏とさほど変わりは無かったが、そこから聞こえてくる音楽は、シューベルトの悲痛な叫びとでも言えばいいのだろうか、とにかく今まで聞いた未完成とは、明確に一線を画すもので、実にショッキングな体験であった。

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そのことがあって、最近発売になった、同じレニングラードフィルを率いた、1977年ムラヴィンスキー来日ライブコンサートから、未完成が収録されているCDを入手したのだった。

開始の音が聞こえてこないぐらい・・・そうあのベームとウイーンフィルの古い録音と同じような体験と、シューベルトの持つ暗黒面・・・デモーニッシュな側面が良く表出されるばかりか、静と動、強弱の差が凄まじい、感情の起伏の大きな揺れ、陰陽の表現が加わった見事な演奏に出会うこととなった。

ライブ録音で、あまり音響環境が良くないのか、録音状態はあまり芳しくないので、これもやはり録音のせいと思っていたが、実際に演奏を聴いた人の感想があるのを発見した。

それによると

会場の左端に座って聴いたその人は、ムラヴィンスキーが登場し、拍手がやんでも、なかなか音楽が始らなかった。
しかしムラヴィンスキーはゆっくりと指揮棒を動かしている。
どうしたのだろうと、右のほうを良く見ると、低弦がゆっくりとボウイングしている姿が分かり、もう音楽が始まっていることに、やっと気がついた・・・
以上のような感想を述べているから、やはり生でもムラヴィンスキー葉、かつてベームが総意sたのと同じように、開始の音をPPPで演奏したことが明らかとなり、CDでの復刻は音がいじられてないことを確証する事ができたのであった。

YEDANNG盤でも、シューベルトに潜む暗黒面を、相当強調するようなデモーニッシュな音楽表現は出ていたが、このライブではさらに凄まじい。
そしてそれだけではなく、来日ライブ演奏では、随所に音楽がレガートしているところが見られること、ここがかなり違う点だ。
これは新しい発見であった。

ムラヴィンスキーのシューベルトに対する感情移入・・・・あるいはオマージュが、音楽に強く表れているように聞こえてくる。

まるで胸を深く抉られるように響くティンパニは、シャルパンティエの「メアリー女王の葬送行進曲」以上に、暗く重くそして地の底に深く沈んでいくような錯覚さえ覚えるるものだ。

このライブを実際に見聞きした人は、この未完成を聴いて、一体何を思ったのだろうか・・・とても気になリ、興味があるが、恐らく鳥肌が立った人がいるに違いないと強く思われる。

CDで聞いてもそういった感じは拭えないのだから・・・

こういう演奏・・・しかもライブに出会えるのは、相当少ない確率であろうから、生演奏に接することができた人は、実に幸せな人だと、大いに羨ましくなる。

未完成の終焉における拍手の音がこのCDには入っていない。
それまで収録されたプログラムの終了時には、演奏が終わるや否や(ほとんど瞬間、時には音楽の残響がまだあるにもかかわらず)、いつもの光景だが、すかさず拍手する輩がいて、そんな輩がコンサートをダメにすることがよくあるが、流石にそういう輩がいたのを、この演奏終了の余韻を味わうには、相応しくないと、ワザとカットしたとすれば、それこそ製作者の良心だろう。

そんな不遜な拍手人間が、もし居なかったら、演奏終了後、しばらくしてから、心から湧き上がる拍手・・・しかも当分鳴りやまないと想像できるから、そうであれば拍手を入れて欲しかったし入れるべきであっただろう。

入ってないところを見ると、やはり昔から今でも存在する、似非クラシック愛好の拍手人間が居たことは、容易に推測可能だ。

ライブの唯一の欠点は、演奏者側というより、観客側にあることが多い。

このような凄い演奏を聴いて、終わるや否や待ち構えたように拍手ができるなぞ、到底常人には出来得ないこと。
一体どんな心の状態を持っているのだろうか・・・・
一種の病(やまい)としか思えないことがよくある。

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by noanoa1970 | 2009-06-26 10:48 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)