今朝はスターバト・マーテルとワルキューレ第3幕

今日はハイドンの200回目の命日に当たるだそうだ。
ドラティの交響曲全集から何かを聞こうかと思ったが、やめにしてほんの少しだけ敬意を払い、「スターバト・マーテル」を聴くことにした。

スターバト・マーテルは古今東西に名曲が多い。
しかしなぜかハイドンのそれは、録音も多くなく、演奏の機会にもあまり恵まれてこなかったように思われる。

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小生もたまたまエラートが発売した「スターバト・マーテル」ばかり収録されたCDのセットを入手してこの曲に行き着いたので、この曲が目当てではなかったぐらいであった。

このセットにはシューベルトの「スターバト・マーテル」が収録されていて、すでに所有していたが、何種類あってもよいペルゴレージのそれも含め、安価に入手可能であったから、そしてハイドンもシューベルトもそれぞれが貴重な録音であったので購入したのだった。

普段からあまり聞かないハイドンで、大きな特徴があるわけはないが、何か大きなものに身をゆだねて安心して聴ける音楽で、深夜に聴く宗教音楽とは違って、早朝に聴いても十分耐えうる音楽だ。

しかし聴きながら、午後になったらカラヤンのワルキューレ第3幕の、しかも後半部分を分厚いブックレットに収録されている対訳を見ながら聴こうと決めた。

確認したかったのはただ一つ。

ヴォータンとブリュンヒルデの岩山での別れのシーンのこと。
あれからかなり多くの演奏者でこの部分を聴いたのだが、小生はやはりカラヤンの音楽の表情に軍配を上げたくなっていた。
それがなぜかを再確認するためというのが、その理由である。

第3幕の聴きどころは多いが、中でもその白眉は、ヴォータンがブリュンヒルデの神性を消し去るために、口づけするところ。
この時は両者無言で、音楽だけが流れるが、その時の音楽の表情付け・・・ワーグナーの真骨頂でもあるが、なによりもその時の音楽は、父娘の愛情をどう捉えたかに大きく左右される。

父と娘の、語られない情感・それぞれの思いを、いかに表現するかにかかっているのだ。
ここに「解釈」というものが存在する。

映像付きだとどうしても、視覚に目が移り、指揮者の解釈にまでたどりつかないから、こういうところはCDやLP・・・音だけの楽劇も重要だと小生は思っている。

さてカラヤンは・・・・
木管の弱奏で始まり金管が葬送行進曲あるいは運命の動機を奏で、弦が美しいメロディをやさしく奏でる。

永遠の眠りに就こうとしているブリュンヒルデへの、ヴォータンの深い感謝と愛情そしてブリュンヒルデの、眠りに就く恐怖が今はすっかり消し去って、父ヴォータンの本当の目的・・・いずれジークフリートとブリュンヒルデが結ばれるであろうという予感を抱きながら横たわる。

そんなブリュンヒルデの、来るべき未来のための安息であるという確証は、父ヴォータンの真意、すなわち時分から神性をはく奪した=神族から人間族へと変身させた本当の理由が理解できたからだ。

そしてそれはヴォータンが仕組んだ恣意的「運命」によってではなく、もっと大きな…いわば真の宇宙的「運命」によってなされたものという確信がブリュンヒルデの心に宿った。

ワーフナーは、巧みにそのあたりの心情の変化による未来への希望を、音で表現しようとし、カラヤンは視覚、すなわち演出効果に依存することは全くなしで、見事にそのことを表現しきっている。

ここにカラヤンの偉大さがあるが、逆にいえば演出には、相当の力量の持ち主を必要としたことであろうことが予想される。

恐らくカラヤンの「指輪」あるいは「ワルキューレ」の演出者は、この世では考えられないのかもしれない。

ヴィーラントなどのワーグナー一族でさえ困難なことであったと思われるから、映像が残されなかったことは、一つの幸いであったかもしれない。

2度目があったとしたら、カラヤン自身が演出を担当した可能性が高いと、小生は思っている。

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by noanoa1970 | 2009-05-31 16:21 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)