カラヤンのワルキューレの演出は

ワーグナーの楽劇をCD(音だけで)で聴くことは、その情報量は絶対的に不足するものだ。
単にオペラではなく、楽劇という名称で呼ばれることは、そのことをも多分に意味するもの里、小生は思っている。

しかし、以前からほんのり気づいていたことがあり、それは小生だけのことかもしれないのだが、映像が音楽を超えてしまうこと、つまり平たく言えば、演出効果が音楽そのものを阻害しているようなところが散見されるということだ。

このことは演奏会にも当てはまることがあって、あのライブ感・・・演奏者や指揮者のパフォーマンスが音楽そのものを違うベクトルに導くことがある。

小生はこのことを「行列してまで食べるラーメン」と揶揄するのだが、視覚と聴覚が混在するライブでは、演奏そのものの正当な評価がしにくくなりやすいものだとも思うことがある。

その意味では、音盤に録音された演奏を、何度となく聴くうちにおける自身の評価のほうに、小生は軍配を上げたいのである。

もちろん、このことでライブを否定するつもりもないし、すごいライブもあるのは事実だが、ほとんどの場合においては、そのような極上のライブでの音楽は、時とともに、輝きを失い、ぼんやりと淡い思い出・・・・妙な表現だが、一期一会的感慨のみが支配するものになってしまうことが多い。

それでもライブがよいのは、一種の選民思想のような優越感、音楽をたった1000人程の会場で占有しているという独占意識、何も通さないで見聞きしているという透明感、そしてコンサートホールの優れた音響空間による音響、加えて自身の音楽愛好の歴史上の足跡的記録・・・など理由は多い。

話がそれてきたが、ライブ至上主義者の音楽愛好家でも、オペラとなるとその機会も極端に少なくなるし、何しろチケットはバカ高いから、ライブだけに頼ることは難しい。

だからバイロイトで「指輪」4部作を全曲観賞することを夢にしているものが結構多いことも事実であるようだ。

小生などはそれとは違い、DVDやLDで・・・しかし視覚効果と音響効果を少し考慮し、家の中にしつらえた液晶プロジェクターで、100インチスクリーンに投影して見ることが精一杯。

時にはライブを観たいという気持ちになるものの、バカ高いチケット代に使うよりは、手軽にいつなん時にも楽しめる、ソフトに当てるほうを選択してしまうという軟弱な愛好家だ。

「指輪」に関して言えば、LDやDVD、あるいはVTRで数種類は観てきて、それはそれでそれぞれよかったといえるが、何しろ映像化されるものは、比較的新しいものばかりで、往年の演奏は本日話題の「カラヤン盤」でさえないのである。

カラヤンの「ワルキューレ」をここ数日聞き及んでいて、わかったことは、カラヤン以前の「指輪」との大きな変貌の痕跡を垣間見たこと。

大胆にいえば、すなわち「神話」の世界からの音楽的脱却が、初めてカラヤンによってなされたのではないか、という仮説が成り立ちそうな気配を感じたことであった。

このことは、視覚のない音楽だけで楽劇を聴いていたから感じ得たことで、視覚聴覚すなわち映像化されたものでは気が付き得なかったことではないだろうか。

クナッパーツブッシュのような劇的神話の世界を表現した「指輪」と比較すると、いかにカラヤンが反神話の世界へと挑戦したのかがよくわかる。

ショルティの「指輪」は、クナッパーブッシュの延長線上にあるといっても過言ではない・・・そう小生は思うところが多い。

さてそのようなカラヤンのワルキューレ、もし演出が可能とするならば、はたしてどのようなものが相応しいか。

ここ数日考えてみたが、あいにくというか当たり前のことだが、このような大それたことなど到底出来っこないことを思い知った。

いろいろな考えは錯綜したが、結局のところいまでもその残像が残っていることがある。

ワルキューレは「父と娘」の、愛情がありながら、そしてそれをお互いが理解しながらも、現実という過酷な運命が、それを許さなかったという悲劇の物語・・・そのようにとらえても間違いではない。

ラインの黄金を手に入れようと世界支配を企んだヴォータンが、人間界に子孫を残すこと、そのことで英雄を作り上げ、自分の思いを遂げさせようとした。という解釈は、ワルキューレであるブリュンヒルデを脇役へと追いやってしまうが、小生はブリュンヒルデこそがワルキューレのみならず、4部作を通じての、主役ともいえる重要なキャストであると思うのである。

継母フリッカとの間の確執。
父親ヴォータンに寄せるブリュンヒルデのエレクトラコンプレックス。
ヴォータンの最愛の娘であり、彼の一番の理解者としてのブリュンヒルデ。

この物語はつまり、父と娘の愛情の物語なのである。
このことをカラヤンは敏感にキャチしていたのではなかろうか。

さまざまに揺れ動く、親娘の愛情の心理状態を、カラヤンはキャストの歌唱と、それを補完しつくすようなオケの微細なそして丁寧な表情づくりで、完成させようとした。

小生がズーット想起していたものは・・・・
小津安二郎の映画「晩春」であった。

便利に自分の女房のように使ってしまってきた娘。
その娘の結婚を考える父親は、女房をなくした父親を心配して結婚に踏み切らない娘を案じて、父親自ら結婚すると言って嘘をつく。
娘は再婚するという父親を、汚いと思うが、それが自分を結婚させるためだと知る。
父と娘は離ればなれになる前に、京都へ旅行し、旅館での夜、娘は父親に対する思いを吐露する。

ワルキューレの物語の筋とは違うが、岩山でのシーンに「私は貴方の望むものをやったにすぎいません」・・・
というところがある。

ヴォータンは、ジークリンデを助けようとフンディングと戦うジークムントとを、本当は生かしておきたかったのだが、自らが明示したルーネ文字の契約(フリッカが言う結婚の契約)違反を見逃すわけにいかず、ジークムントを殺すことになる。

その命を受けたブリュンヒルデは、そんなヴォータンの胸の内を察し、ジークムントを助けようとするが、命令にそむいた罰でヴォータンに追われ、火の岩山に眠らされることとなる。

岩山でのブリュンヒルデの言動は、ヴォータンの本意通りにした行為であるという、ブリュンヒルデのヴォータンに対する愛情の吐露でもある。

小津もワーグナーも、「父と娘の分かれ」というテーマで片方は映画、片方は楽劇と分野こそ違え、その中心軸に置いたことは、2人の天才の共通項としてとらえると非常に面白いことである。

神話的劇的演出から近代社会・・・たとえばシェローに見られるような、産業革命前後の世界を彷彿させるような演出、そして最近のクプファーのややオーソドックスなもの、ペーターコンヴィチュニーに見られる突拍子もないような演出、さらにごく最近の新国での、ワルハラが病院(最近のTV、医者のドラマで、外科病棟をワルハラと言っているものがあって、かぶっていたのには笑ってしまった)という演出まで、さまざまな演出が今まであったが、今まで述べてきたことから考えれば、何れも物足りない。

カラヤンの「指輪」・・・特に「ワルキューレ」は、並大抵の演出では多分その意図するところが十分に発揮できないのかもしれない。

もし有能なカラヤンの「指輪」解釈のできる演出者がいるとして、カラヤンの音楽に映像をつけ映画にしてくれたら・・・と思うところもあるが、いや、やはりそれは改悪となる可能性が非常に高いから、望まないほうがよいのだろう。

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by noanoa1970 | 2009-05-26 11:39 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)