カラヤンのワルキューレを聴く

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ここ数日でカラヤンとBPOによる「ニーベルングの指輪」から、「ワルキューレ」を聞いた。
購入したのは1971年、価格はべらぼうに高く、1セット50000円であった。
今ではその3分の1でオペラを聴くには便利なCDが入手可能だから、相対的価値は落ちていく一方だ。

流石にLP両面で5枚・・・10面は聴くのに勇気がいるから、その気になった時に一気に聞くしかない。
そう思って重い腰を上げたのだった。

カラヤンの「ニーベルングの指輪」は、あまり評価されてこなかった歴史がある。

その理由はいろいろあろうが、多分その中で最も多いのが「アンチ・カラヤン」という漠として評価にも批判にもなってないような抽象論が、大手を振ってまかり通っていたからだろう。

カラヤンをけなすこと=音楽通である
どういうわけかそんな意識が芽生えていたクラシックファンはものすごく多かったように思う。

「指輪」に関してさらに言えば、そのころ・・・1960年代後半から70年代初期は、ショルティがWPOと有名音楽プロデューサー「カルーショウ」のもとでDECCAに録音したものが、音楽評論家に持ち上げられ、「指輪」一世風靡…黄金時代の幕開けを作りだした時期であった。

声の張りを失ったハンスホッターの「ヴォータン」や、おぞましくも強烈な唄声を聴かせた、ビルギット・ニルソンの「ブリュンヒルデ」を、こぞって絶賛したのもカラヤンの「指輪」の評価を落としめた要因の1つであった。

音楽雑誌などに掲載される音楽評論家の言動が、大きな権威をもっていた時代であったし、今のようにソースが安価になって、その気になれば誰でも容易に入手可能になった時代ではなかったから、愛好家たちは、彼らの言動を頼りに…LPレコードを購入した。

「指輪」はLP20枚弱、価格が約50000円程であったから、クラシック愛好家の中でもごく少数しか入手できない代物であった。
だからいざ買うと決めたら、頼るものはやはり、多くの評論家なるものの意見であったのもいたしかたない。

学生時代の音楽サークルの仲間のうち、「指輪」全曲を所有していたものは、50数名のうち2~3名にしかすぎず、しかも保有のすべてがショルティ盤であった。
当時、ショルティの「指輪」全曲視聴会なるものも開催されて、小生も参加したが、何が何やらさっぱりわからないまま、ハイライトなどで耳にした個所を除くと、ほとんど退屈で苦痛の時間を過ごすことになった思い出がある。

下宿の身の上ではとても入手不可能であった小生が「指輪」全曲盤を入手できたのは、バイトをしだし少し余裕ができた1971年ごろのことであった。

評判のショルティ盤か、購入時期の少し前に発売されたカラヤン盤かどちらを選択するか迷ったが、サークルメンバーが何れもショルティ盤を選択していたから、同じものにするのが嫌、その理由だけでカラヤン盤を選択することにしたのだった。

さてこのカラヤン盤、レコード業界での評判はあまり良くなかったのだが、小生は特に「ワルキューレ」に限っては、カラヤン盤を今でも好んでいるのだ。

その大きな理由は、そのキャストにある。

「ワルキューレ」は、戦争で死んだ英雄をワルハラに連れていく・・・死者を運ぶ女性神である。
そしてその性質というと、まるでジャンヌダルクのように、勇猛果敢な闘争心あふれる勇ましい女性として位置づけられていることが多い。

一方「ジークリンデ」は、略奪され無理やり野蛮な部族長の妻にさせられた悲劇の女性としての位置づけだ。
だからややか細い声のソプラノ歌手が適しているというのが通年で、大まかに言ってしまえば、演奏史的にみると、やはりそのようなキャストが多いと思われる。

「フリッカ」は主神ヴォータンの後妻で、結婚の女神、そしてこの楽劇では唯一ヴオータンにたてつくことができる存在で、ある種ヒステリックな一面が強い女性として位置づけられる。

もちろん今までの話は1980年代後半までぐらいの話で、最近の演出は思いもつかないようなものが多く、多少面食らうことが多い。

最近カラヤンの1958年スカラ座での録音が発売され、その時のキャストは以下のようである。

ヴォータン:ハンス・ホッター→トーマス・ステュアート
ブリュンヒルデ:ビルギット・ニルソン→レジーヌ・クレスパン
ジークムント:ルートヴィヒ・ズートハウス→ジョン・ヴィッカーズ
ジークリンデ:レオニー・リザネク→グンドゥラ・ヤノヴィッツ
フンディング:ゴットロープ・フリック→マルッティ・タルヴェラ
フリッカ:ジーン・マデイラ→ジョゼフィン・ヴィージー


それがひと世代たってからBPOと録音した「指輪」全曲盤の「ワルキューレ」では→の右にあるように、大胆なキャストによって、とても大きく楽想が変化した。

これには処々の事情があることを加味しなくてはならないが、小生が着目するのは、やはり女性陣のキャストだ。

ブリュンヒルデ役に定番と言っても過言ではないビルギット・ニルソン、このころは声の張りもあり抜群のヴォータンのはまり役、ハンス・ホッター、ジークリンデ役には声のよく通るレオニー・リザネク。
ワーグナーの楽劇ではフルトベングラーもコンヴィチュニーも起用した、ズートハウスといった、劇場型と言うと言い過ぎかもしれないが、大向こうをうならせるような歌手陣を起用している。

それがそれが・・・ここが大きなこの楽劇の表情を大きく変える原動力となっていると、小生は思うのだが

ブリュンヒルデをレジーヌ・クレスパン
ジークリンデに(カラヤン好みであるという理由はさておき)グンドゥラ・ヤノヴィッツ
フリッカにはまるでソプラノであるかのような声の持ち主ジョゼフィン・ヴィージー

・・・これまでの指輪演奏史からは少し距離のあるキャストを起用した。

そのようなキャストを起用したカラヤンの意図は知る由もないが、推して知るところはこうだ。

1つ例をあげるとブリュンヒルデ役。
ビルギット・ニルソンというジャンヌダルク的性格の位置づけの歌い手から、レジーヌ・クレスパンという柔らかな声の美しいがどこか影を感じさせることができる歌い手の起用。
付け加え、悲劇の女性ジークリンデには高域の声のふるわせ方が非常に美しく、それでいて芯のとお他歌い方を披露してくれる、小生が好きな、グンドラ・ヤノヴィッツ。

この2人の女性とフリッカ役の、とてもあのヒステリックなところなどが見られなく、ジークリンデ役としてさえ通用するようなジョゼフィン・ヴィージー。
この3人の起用こそがまさしくカラヤンの意図したところだろう。

カラヤンは、ワルキューレの解釈を従来の古典的神話の世界から、人間性溢れる・・・価値観を人間の内面性に置いた物語としてとらえようとしたのではないか。

言い換えれば、従来のドラマティックな劇場型オペラとしての「ワルキューレ」でなく、近代あるいは現代社会における人間の葛藤・・・家族・親子・兄弟・嫁・舅・姑・他人家族・・・の日常生活の中に興きえるさまざまな心の内面的葛藤を表現したかったのではないだろうか。

さすれば劇的な声の表現は不要で、オケというとキャストの情念的背景を補完する・・・細かい表情までを見事に出し切る必要がある。

カラヤンの「指輪」を、きらびやか、派手であると論評したものも多かった記憶があるが、それはワルキューレの騎航とかジークフリートの葬送とかノートンを研つ音とか、そんなごく1部しか聞いてないことを意味するものといえる。

また一部でカラヤンの「指輪」は室内楽的だともいわれるが、一方で派手できらびやか、他方で室内楽的などという正反対とも思えるような言動が出ることの原因は、やはり音楽そのものを、ジックリ聞いてないで物事を語っているという一つの証拠であるといえるだろう。

室内楽的であるということを、前向きに解釈するなら、オケの表情付けが細やかであるということに他ならない。
つまり・・・場面の、キャストの声と一体となった心理的背景の表現にすぐれているということだ。

最近ではDVDによる映像化されたものを見聞きすることが多くなってきてしまっているが、音だけの「ワルキューレ」・・特にカラヤンのそれを聴くと、そのことが顕著にわかる。

映像によるオケの埋没・・・・小生がそのように感じるだけかもしれないが、映像で見る「指輪」は、どのような演出においても、それはそれでよくわかるし面白いのだけれど、オケが遊離しているように感じてしまう。

久しぶりに、しかもLPでカラヤンの「ワルキューレ」を聞いて、そのこと・・・オケの表情の豊かさすなわちカラヤンの棒さばきが、どれほどすごいのか、そして多分カラヤンが選出したであろうキャストたちによる相乗効果が、これほど発揮されていることを、改めて認識させてくれた。

さてそうなるとこれが映像化されていたと仮定すると、一体どのような演出がふさわしかったのか・・・
とても気になるところであるが、その話は後日妄想的に書くことにしたい。
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by noanoa1970 | 2009-05-24 16:08 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)