カラヤンの「浄夜」ライブ

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カラヤン最後のロンドン公演というキャッチフレーズでTESTAMENTから発売されたCDを聴いた。
ブラームス1番交響曲とカップリングされたものである。

小生この曲はマールボロ音楽祭時に弦楽6重奏で演奏されたもの、そして評価の高いブーレーズの室内楽版と弦楽合奏版を好んで聴いているので、カラヤンの演奏が何を語るのか、とても興味を持って聴いた。

シェ-エンベルクのこの曲は、リヒャルト・デーメルの詩に基づき作曲されたものだ。

以下の新田先生の優れた訳詩のように、5つのパートにわかれる・・・つまり5つの標題音楽ともとれるように小生は思っている。

法政大学 新田研究室ブログに訳が掲載してあったのでお借りすることにした。

浄夜 (リヒャルト・デーメル/新田訳)

二人が冬枯れの森を歩いている
月は共に動き,二人は互いを見つめ合う
月は,高い樫の木の上にあり
月夜をさえぎる雲一つない
夜空に木々の黒い棘が突き出ている
女の声がする

お腹の子は,あなたの子ではないの
あなたにも迷惑をかけようとしている
私は,取り返しのつかない過ちを犯してしまった
幸せというものがあるとは思えなかった
それでも生きがいを見つけ,母親の喜びや務めを
味わってみたかった。身の程知らずにも
知らない男に自分の性を抱いてもらった
今思うとゾッとする。
私は身ごもり,人生の報いを受けた
そうして,あなたに,あなたに出会った

女の足取りは重い
見上げると,月は一緒についてくる
暗い眼差しは、月明かりに呑まれる
男の声がする

できた子どもを
心の重荷にするな
ほら、夜空がこんなに輝いている
何もかも包みこむ輝きだ
君は僕と冷たい海にいる
でも、君の温もりを僕は感じ
僕の温もりを君も感じている
この温もりがお腹の子を祝福する
どうか僕の子として産んでほしい
君は僕の心を照らしてくれた
僕自身を子どもにしてくれた

男は両手を腰に回して抱きしめる
女の吐く息が寒空に交錯する
二人は澄みきった月明かりの夜を歩む

(訳は、2007/08/30に改訂)

カラヤンの解釈は、「浄夜」を5つのパートからなる表題音楽として捉えているかのように、そして後期ロマン主義の香りを色濃く出すような演奏スタイルで、表現の幅、揺れ具合がとても広く激しい。

表現主義的な音楽づくりとはこのようなことだろうか。

2つ目の区切りでの女の告白の場面では、女の心の中の、わだかまり、苦悩、救いを求めるような心境などなどが弦のボウイングによって、波がざわめきながら引いていき、またすぐに押し寄せるように情感込めてかなり強調して奏される。

この物語の最後はハッピーエンドと解釈するのが通常であるが、カラヤンの演奏は、リヤルトシュトラウスの『エレクトラ』のように終始重たい。

まるで二人のこの先の行方が、あまり良くない方向に行くのを象徴するようである。

森閑とした冬の森の中、月だけがこうこうと輝いている。
月の光は「狂気」の象徴ともされるから、二人の将来は決して明るくはないのかもしれない。

本来ならば、男が女の過ちをゆるし、未来に向かって二人で支えあって生きていこうとするのを象徴する「足取りの軽やかさ」が、微塵も聞こえてこない。

重く重く感じる演奏である。

カラヤンが亡くなる1年前の演奏だから、ひょっとして彼は自分の死の予感を何らか得てていたのだろうか。

表現力の凄まじさを感じるところは大いにあるが、カラヤンはデ-メルの詩に存在するものに、「時代の不安」をかぎ取ったのか、あるいはそんな事とは関係なしに、独立した楽曲として、いかに表現豊かに聴かせるかだけを念頭に置いたのか、この演奏からはどちらでも解釈できそうだ。

終始心がかき乱れるようなカラヤンの演奏表現は、今まで聞いた「浄夜」には無かったもの。

ブーレーズ盤などはこれに比べれば、非常に冷めた演奏であるといえる。

「浄夜」の新しい解釈として、この演奏はカラヤン晩年の評価すべき演奏であるように思う。
仮にこの演奏を、新表現主義的演奏だとしておこう。
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by noanoa1970 | 2009-03-15 12:40 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)