映画「晩春」の巧妙かつマニアックな仕掛けを発見!

昨日のブログ「知られざる作曲家」で「ヨアヒム・ラフ」という作曲家のことを書いた時にと思ったのだが、あまりにも長くなるし、別の日のブログネタにと、取って置いたことを今日は書いてみることにする。

もともとこの「ラフ」に言及したのは、小津安二郎監督作品の中でも、特に有名な「晩春」のあるシーンのバック・・・劇伴音楽として使われたことから来ている。

そしてその前のシーンでは、鎌倉から東京の大学に通う教授と娘の家に、研究の手伝いに来た若い助手が、経済学者の「リスト」のスペルを確認するために、調べた結果フリードリッヒ・リスト(Friedrich List)が正しく、Lisztは作曲家のフランツ・リスト(Franz Liszt)であることを教授に報告するシーンがある。

ここはいつもの小津らしく、まるでボケと突っ込みの会話のようで面白いのだが、おそらく若い助手は少しばかり音楽好きであったことは、後の音楽界のシーンでもわかることである。

たぶん「リスト」のスペルを確認してくれ、と言われた時、彼は音楽家の「Liszt」のスペルを告げたが、教授から「そんな綴りじゃなかったはずだから、もう一度調べろ」などと言われたその時の会話であったことは容易に推測可能だ。

なんのことはない学者とその弟子の会話で、すんなり聞き流しても良いのだが、音楽家「リスト」が出てきたことで、小生は非常な興味を覚えたのだった。

発音が同じだが、分野とスペルが違う「二人のリスト」を持ち出した背景には、きっと何かが仕掛けられているのでは?と推理したのだった。

小津映画には見える見えないにかかわらず、さまざまな仕掛けが施されていることが多い。
小生は、このような仕掛けを発見するのも、小津映画を観るときの楽しみの一つだから、したがって同じ映画を何度となく観ることになる。

はたして巧妙に仕組まれた仕掛けとは一体何であったのだろうか。

教授とその助手・・いわば恩師と弟子の会話から音楽家「リスト」が浮かび出たことは上記のことで明らかである。
小生は「リスト」の名前を出したのは、単に経済学者と同じ発音だったからと言う以上の、巧妙かつマニアックな仕掛けを感じるのだ。

そしてその答えは後の音楽会のシーンで明らかになる。

教授の娘と良い関係だった助手の男は、見合いでほかの女性と婚約をしてしまうが、そのあとで何を思ったか娘をコンサートに誘う。

そのコンサートが「巌本真里のバイオリン独奏会」である。
娘はチケットを受け取りながら、演奏会にはいかない。

推測すれば、たぶん娘は、男が婚約といういわば安全パイを手に入れた上で、婚約者ではなく、娘を誘ったことに「汚らしい・・・不潔さ」を感じたこと、そして婚約者に対して失礼にあたるというその両方から演奏会をキャンセルしたのだと考えられる。

これには伏線があって、かつて娘と助手は仲良く二人で湘南の海へサイクリングをするほどであった。

海辺で腰をおろしながらの会話で以下のようなシーンがある。

娘「じゃあ あたしはどっちだとお思いになる?」

助手「そうだな・・・あなたはヤキモチなんか焼く人じゃないな」

娘「ところが あたしヤキモチヤキよ」

助手「そうかな」

娘「だって あたしがお沢庵切ると いつもつながっているんですもの」

男「そりゃしかし 庖丁と俎板(まないた)の相対的な関係で 沢庵とヤキモチの間には 何ら有機的な関連はないんじゃないですか?」

娘「それじゃあ お好き? つながった沢庵」

このシーンの娘の会話は、助手に対する愛情表現であることは、論をまたない。
にもかかわらず助手は、有機的関連は無い・・などと言いながら「お好き?」という問いには答えなかった。

娘にほのかな恋心を持っていたと思われる男の態度は、まるで与謝野晶子の「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」のようである。

そんな助手を、娘はそれでもいくばくかの期待を持って接していたし、父親の教授も、娘の相手としてふさわしいと思っていた、そんな人物が、見合いで婚約するのは仕方ないとしても、そのことを知っている娘を、当時デートの花形である音楽界に誘うという行為に対し、「不潔さ」を感じたのは、後の教授の疑似結婚話のシーンでの、娘の態度でも推察できる。

助手は隣が空席のままの演奏会で一人身を置くのだが、おそらくは音楽は何一つ耳に残らないことだったろう。

その時に流れるのが「ラフのカヴァチーナ」であったことは、先のブログに書いた通り。

そして面白いのは前段の、ボケと突っ込みから導き出された音楽家「リスト」は、カヴァチーニの作者「ヨアヒム・ラフ」の恩師に当たる人、
逆にいえば「ラフ」の先生が「リスト」だったのである。

小生はここに、巧みかつマニアックな仕掛けが挿入されていると思うのだ。

前段で恩師と弟子が会話をし、リストを導入キーワードとし、音楽界で流れる音楽にリストの弟子のラフの作品を持ってくる。

こんな仕掛けができるのは一体だれかが気になるが、それは後にして、小生は当日の演奏会品目がとても気になるのだ。

これは大胆な推測でしかないが、「巌本真里(女性)のバイオリン独奏会」の演目は「愛」というコンセプトでプログラムされていて、したがって「リストの愛の夢」「フォーレのペレアスとメリザンドからシシリエンヌ」「エルガーの愛のあいさつ」「クライスラーの愛の喜び、愛の悲しみ」そしてラフのカヴァチーナ」などなどが入っていたのではないかと・・・

いずれも小品だが美しくそして悲しくもあり、さまざまな愛の形の曲であるし、何よりもバイオリン独奏曲としても、十分に通用する曲ばかりである。

ここに娘と助手の「愛の終焉」を感じ取ることができるのである。

このような仕掛けができる人物は
小津自身か、それとも脚本の野田高梧か、原作の広津和郎であろうか。
いやそうではあるまい

リストとラフについて当時情報を知りえる人物とは、やはりプロの音楽家だろう。
しかも台本を読める立場にある音楽家でなければならないから、劇伴音楽作曲家だ。

そうなるとその人物はただ一人「伊藤宣二」ということになる。

伊藤宣二は1935年「東京の宿」から1960年「大虐殺」まで小津をはじめ数々の映画の劇伴音楽を担当した作曲家であり、小津作品では7作品も担当する、いわば小津組の一員といっても過言ではない存在の人。

彼が脚本を読んだ時、恩師と弟子→リストからリストを恩師とする弟子のラフの作品を使うことを思いつき、小津に提言をして採用されたのではないかと推理しているのである。

おそらく小津は手放しでそのリンクを喜び、採用したものと大いに推測されるのである。
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by noanoa1970 | 2009-02-25 14:53 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(1)

Commented by k_hankichi at 2009-11-08 20:28
リストとラフという関係が伏流水になっている。ものすごく深い解析で頭がただただ下がります。今日、初めてnoanoaさんのブログを読むことになりましたが、非常に感銘受けました。