「イーゴリ公」は英雄だったのか

ボロディンのオペラでは、英雄として語られるこの「イーゴリ公」実はその頃台頭してきた遊牧民族「ポロヴェッツ」征伐に遠征し、囚われの身になり、ようやく故郷に帰ってきたという人物。

だから歴戦の強者、あるいは勇士といった人物ではないということが分かる。

オペラ「イーゴリ公」は作者不明の『イーゴリ遠征物語』という散文をもとに書かれたもので、イーゴリの遠征は1185年というから、日本では鎌倉幕府成立の前、源平の合戦があったのと同じ年代に当たる。

イーゴリ遠征物語の成立は12世紀とされるが、原本は紛失され、その後何回も写本が繰り返されてきて、19世紀初めに写本も焼失したことから、現在のものはオリジナルと内容が同じか否かは疑わしいとされる。

ボロディンがなぜそのようなものをオペラにしたかは、多分ロシア国民楽派が象徴するように、パン=スラヴ主義の影響下にあったボロディンが、東スラブ人とされるイーゴリの歴史的書物(そのころこの物語が脚光を浴びていた可能性もある)に行きつき、オペラの材料として面白いから、待ってましたとばかりに飛びついたのだと推測される。

小生は世界史を勉強したが、どうしてだろうか、こと「ロシア」についてはロシア革命あたりをかじっただけで、ロシアの成立過程などはさっぱり知らないまま今日にいたてしまった。

それで少し「ロシア史」なるものを紐解いて見たことがあって、その中での最大の興味は「ロシア」成立前の群雄割拠時代の時代であった。

そしてロシアがキリスト教化されていった過程にも興味があり、中央アジアの遊牧民たちとのかかわりからみると、面白いものが見えてくるのだった。

オペラの中「韃靼人の踊り」という有名な曲があるが、韃靼とはタタールのことであると、つい最近まで思っていたが、実はそうではなく、正しくは「ポロヴェッツ人」Polovtsyであることがわかり、「Pol」トはあのポーランドPolska/Polandの「Pol」と同じで、野原や草原を意味する「ポーレ (pole)」 が語源と言われていることがわかり、中央アジアの遊牧民族たちの予想をはるかに超えたヨーロッパ進出を認識できた。

ロシア中世史以前を少し垣間見ると、さらに興味深いことがあって、それはロシア建国のもとになった「ルーシ」あるいは「キエフルーシ公国」を作った民族、ノルマン人・・・すなわちヴァイキングだという説があり、ヴァイキングのリューリックという人がノブゴロドという町を作り、それが発展し、、現在のロシア北西部、ウクライナ、ベラルーシなどの東スラブ地方をも手中に収めて行って、それが「ルーシ」と呼ばれることになり、やがてモスクワ公国が優位に立つと、モスクワ公国は我こそがリューリックが建国して発展させた「ルーシ」の正当な後継者であるといい、「ルーシ」=「ロシア」と名乗ることになったという。

ヴァイキングの「ルス族」が進出しやがてルーシができ、それがロシアになって行ったという(ロシアノルマン人説)が有力だが、しかしボロディンの時代すなわち「汎スラブ主義」の時代には、それは通用しないことであるから、ロシアはスラブ人が建国したもの(ロシアスラブ説)であるとされたのである。

この2つの説は、政治的背景も絡み、未だにどちらが正しいのか決着を見ないでいるという。

ともあれこうした背景下で「イーゴリ公」が作られたということで、面白いことにオペラでは、まだ成立してないはずの「ロシア」という言葉が随所に登場するから、イーゴリ公の時代に「ロシア」があったと誤解する人もいるかもしれない。

しかしイーゴリ公の時代は、日本でいう戦国時代と同じ、群雄割拠の時代で、それぞれ力のある領主が競って、奴隷を確保し、領土を広げ、周りの領主がくっつき離れ覇権を競い合っていた時代であったのだ。

日本の戦国時代と同じように、東スラブ地方には多数の「公」がいて公国を形成し、また、ポロヴェッツにも多数の「汗」が存在し自分の一族を束ねていた。
お互い他国、他公国、他民族の地域に侵入し、勢力を強めてはいたが、同時に政略結婚など縁戚関係を結ぶことによって、領土保全を図るものもいて、日本と違うのは他民族間でもこの関係で、お互いの力を借り合うといったことがみられることである。

宗教も文化も生活習慣も異なるものが、共同歩調をとり、たとえば公国の群雄割拠を抜けるために、ある公国はポロヴェッツと協定を結んでまでも、他の公国をけん制したりしたという。

「イーゴリ公」では遠征に行ったイーゴリが、息子ともどもポロヴェッツに捕えられて虚しい日々を過ごすが、やがてポロヴェッツ人の中のキリスト教徒の協力によって脱出に成功し、故郷に帰るところで終わるが、その中で興味深いのは、イーゴリの息子とポロヴェッツの汗の娘が恋に落ちて結婚するというくだりである。

イーゴリは、敵の娘と結婚した息子を、ポロヴェッツ陣営に残したままで、帰国するのだが、どうもこの話はおかしなところがある。

ポロヴェッツの汗は捕虜であるイーゴリたちに対しものすごく寛容で、娘と敵の・・・イーボリの息子の結婚に前向きなのだ。

いかにポロヴェッツの汗が寛容な人物でも、何かがなければこのようなことにはならないと思うのだ。

それで小生は、この話すなわちイーゴリのポロヴェッツ遠征の話を以下のように推理してみた。
イーゴリはルーシ諸侯の内紛を収め、勢力拡大を狙って、本来は敵であるはずのポロヴェッツの武力を頼るため、息子とポロヴェッツの汗の娘を政略結婚をさせに赴いたのではないかということ。

そのような仮説を立てると、ポロヴェッツでの持て成され方(宴会での韃靼人の女の踊りに見られるような)そしてポロヴェッツの汗のあまりにも積極的すぎる娘とイーゴリの息子の結婚、ポロヴェッツ人による脱出の手助け・・・などなどが、お互いにうま味のある取引、そしてその証である息子と娘の結婚にあるとすれば、すっきりわかる話になるのである。

イーゴリは(ルーシの諸公国が同じ民族か否かはさておき)ルーシの派遣を優位に保つために、全く別民族・・・遊牧民族であるポロヴェッツと手を組んだ、汎スラブ主義からすれば、噴飯物の行為に出たということになり、とても英雄どころではないだろう。

オペラは未完とされ、リムスキーコルサコフやグラズノフが補筆したとされるが、イーゴリの帰還の続きは本来予定されていたのだろうか。

オペラではイーゴリの帰還で物語が終わるが、イーゴリ遠征物語では、敗北したイーゴリのところで、過去の回想になぜか入っていき、ルーシの諸侯の内乱と キエフ大侯スヴャトスラーフのポーロヴェツ戦での勝利を語り、注目すべきは、スヴャトスラーフは出陣したイーゴリの功名心を非難していることである。

小生は上記の事から、小生のたてた推理があながち的を得ていないことはないのではないかと確信したのだが、はたしてどうだろう。

いずれにしてもこの時代の・・・ロシア成立以前のルーシあるいはキエフルーシ諸公国の時代が我が国の戦国時代と同様の内乱状態であったことは間違いのないことである。

またロシアの成立はその時代から2・3世紀ほど遅れてようやく到達するのだが、それは巨大遊牧民族「モンゴル」による支配が続き、俗に「タタールのくびき」(ここでも韃靼=タタールが出てくるが)時代を経て後のことになる。

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オペラはベルナルド・ハイティンク/コヴェントガーデンロイルオペラ管のもの。
ハイティンクは凡庸だという評価もあるが、小生が初めて聞いた「展覧会の絵」はハイティンクとコンゼルトヘボウとのものだったが、これは素晴らしい演奏だったから何故凡庸などといわれるのかがさっぱりわからない。

恐らく何でもこなす、しかしその反面これが得意というようなレパートーリーに固執しなかったことが、そのような評価のもとになったのでなかろうか。

この豪勢な、最初から登場人物が100人を超えそうな、盛大なオペラのバックの音楽に、ハイティンクの棒は冴えていて、華やかなオケの音を響かせてくれる。

ポロヴェッツの陣営での饗宴の時の音楽は、何といってもハイティンクの真骨頂。
このような派手な、金管が活躍する音楽はハイティンクが得意とするところだ。

3時間余りある長大なオペラであるが、ロシア正教の祈りの歌のようなものあり、異民族の旋法あり、小さい時から耳にしている「中央アジアの草原にて」の一部のメロディも聞こえて、飽きの来ないオペラである。

ライブだけにアリアの後の拍手や、幕間の管総曲のオケ、指揮者の姿も見えて、こういう点もなかなかよい。

オペラというものに接した時の驚きは、TVで見た実際の象が登場したという記憶がある「アイーダ」とマタチッチの「イーゴリ公」の公演であった。
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by noanoa1970 | 2008-12-18 12:22 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)