エレクトラ

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R・シュトラウスのオペラ「エレクトラ」を見た。
ギリシャ神話を題材に、ホーフマンスタールが戯曲化したものだ。
彼は世紀末ウイーン芸術の演劇の分野で活躍した人物で、あのザルツブルグ音楽祭を始めた重要な一人でもある。

ザルツブルグ音楽祭と呼ばれてはいるが当初は演劇でスタートし、祖霊音楽が入り、次にオペラが加わることになった本来は芸術祭である。

百花繚乱の芸術家、芸術スタイルが湧いて出るように現れた文化芸術にとっては、まさによき時代でもある。

そのような時代の中、フロイトの影響を受けたせい「エレクトラコンプレックス」なのかどうかはわからないが、ホーフマンスタールがソフォクレスのギリシャ悲劇エレクトラを戯曲化した。

ところがソフォクレスのオリジナルとホーフマンスタールの戯曲には相当の隔たりがあることがわかり、どうも「エレクトラコンプレックス」とは少し異なるところが見え隠れする。

小生はこのオペラで、いかに「エレクトラコンプレックス」が描かれているかということをひそかに期待してみたのだが、もちろん演出の力もあるのだろうが、フロイトとは異なる世界を、あえてホーフマンスタールは描こうとしたように思われた。

親族殺しという陰鬱なファンダメンタルの中、娘を殺された母親と、その母親と愛人の手にかかって殺された父を持つ娘エレクトラは、見えない運命の力によって、やがて自分もまた自分の妹・弟も、やがてはもうこの世には生きられないことを知ることになっていく。

それは今の自分の置かれた非人間的環境と、実の息子でさえも死客を放って殺させようとする母親とその愛人の姿を見ることになったからで、自分の一族の血筋はけがわらしい血が流れていて、それは自分にも流れていることを認識し始めている。

そんなエレクトラは、自殺することも許されなく、みじめな生き恥をさらすことになり、その反動で激しくすべてに拒否反応をしてしまう毎日を送る。

そのうち彼女は、父親を殺害した母親とその愛人を殺害すること、それこそが自分のレーゾンデートルであると錯覚するようになる。
すなわち現状から脱出するためには、自ら死を選ぶかそうなった原因を排除するしかなく、彼女は後者を選んだわけだ。

しかし所詮は女であるから自ら手を下す力はない、そこで密かに不本意ながらも弟の登場を待つのだが、弟が死んだという知らせが入り、それならば自分でとばかり、隠し持っていた父親殺害に使用された斧を取り出そうとする。

いつからエレクトラが憎悪から殺害の意思を、持つようになったかは難しいが、「弟が帰ってきたら、あなたは殺されるだろう」と母親に言うところを見ると、これは非現実的な願望でしかないし、そうかといって自分で殺してやるとは言ってないから、この場面では単なる反抗でしかないと、小生は思っている。

父親が殺された武器を使って、その犯人である母親とその愛人を殺害することは、恨みの増幅作用となり、エレクトラにはすごく意味があることなのであるが、彼女には実行するまでの決心はまだ付いてない。

言い換えれば「いつか殺してやる」という観念が支配する世界にエレクトラは生きていたことになるし、そういう仮説的目的を設定しなければ、生きる意味そのものがないのだ。

しかし実は弟は生きていて、密かに帰郷していて、母親とその愛人を殺害しに戻っていることが判明する。

ここが問題のシーンだと小生は思うのだ。

なぜかというと、当初エレクトラは母親とその愛人に反攻こそすれ、自らでの殺害の意思はそれほど固まってはいなかった、自ら殺害の意思を固めたのは、弟の死の知らせがあったときで、妹にも拒否されたことで他には頼るものが全く無くなった時だ。

このように自分の意思を決定的にしたときに、死んだはずの弟が突然現れたことに、喜びを感ずるのと同時に、彼女は自分のレーゾンデートルが失われていくのを感じたのではなかろうか。

やっと母親とその愛人を、あの因縁の「斧」を使って殺害しようと決心したにも関わらず、その決心を覆す存在が突然現れるという、苦悩の末強い決心をして選んだものが無駄になってしまうことの虚しさ。

弟にあの「斧」を手渡さなかったエレクトラに、自分で成し遂げたいという、強い欲求と信念を強く感じる。(観念的に頼っていた弟だが、実際に出現する弟の存在は、エレクトラの固まった意思を壊す存在となってしまった・・・男社会に敗北した不本意なエレクトラの姿が見えるようだ)

エレクトラのレーゾンデートルは、ここですっかり無に帰してしまうのである。

弟が仇を取ってくれたことに、感謝と狂喜して踊っているように思える最後のシーンも、小生には、自分の力が全く及ばない展開、もうこの世にいる理由がなくなってしまったことの、自らの死に至る踊りのように見えてしまう。

そしてさらに意味深長なことは、姉エレクトラの死を見ることになった妹が、門外で城内にいる弟に呼びかけ、おそらく門を開けて出てきてほしいということを訴えようとしたにもかかわらず、弟はその声に耳を貸さないのか、門をあける気配が全くないまま物語が終わることだ。

旨くお話しできないが、父権社会と母権社会の葛藤なるものが、そこに見え隠れするようで、その背景としては国王の死に伴う跡目相続のゴタゴタがあるようにも思えるが、その話はいずれまたの機会にしよう。

ベームによる最後の録音とされる演奏に、映像をつけたとされるものだが、恐らくアフレといっていいのだろうか、録音された音楽にあわせ歌と芝居をあとから入れたものだろうが、全く違和感がないばかりか、トーンも相まって映像がとてもリアルで、劇場版とは趣を新たにしている。
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by noanoa1970 | 2008-12-16 18:57 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)