15時間に渡るニーベルングの指輪

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一昨日から見始めた「ニーヴェルンゲンの指輪」、本日終了を迎えた。
ライブでもし全編を見るとすれば、4夜に分けて観ることになるし、しかも途中で休憩を挟む。

しかし全編通しで公演する機会はほとんどなく、4編のいずれかの単独公演も仕方ないぐらい長大だから、一気に見ることは過去に1度しかなかったが、今回は気を入れて一気に見ることにしたのだった。

かってカラヤンの全曲LP盤を入手したが、全曲通しで聞いたことはもちろんなかったし、4つにわかれた各パートでさえも通しで聞くことはほとんどなかった。

LPレコードの入れ替えがとても面倒だし、レコード面の終わりごろになると、妙に気忙しくなるのが常だったから、という理由もあるが、何しろ何を言っているかさっぱり聞いていてもわからないことにその原因があった。

当初はセリフの日本語訳を目で追いながら音楽を聞いてもいたが、やはりこれは凄くつらいことで、よく我慢できることだとばかり、途中からストーリーだけを頭に入れて聞くようにしたから、セリフと音楽の微妙なバランスがほとんどわからずじまいになっていたのだった。

バイロイト100周年記念で、TV放送用に初めて映像化されたという、シェロー演出ブーレーズ指揮による映像がLD化されたものを不要になったという友人からもらったものと、しばらくしてBSで放送された
1989年、レーンホフ演出/サバリッシュ&バイエルン国立歌劇場
1990年、シェンク演出/レヴァイン&メトロポリタン歌劇場
以上をVTR録画したものを観ることとなり、小生はこの大作の面白さが分かるようになった気がする。

演出の重要性と演出家の戯曲解釈がいかにこれら楽劇の資格を変化させ、観る者の視覚を喚起するかという、純音楽やオペラの録音からは味わえない面白さと興味をひかれることとなった。

情報の量と質、はCDやLPで聞くオペラとはまるで違う・・・いわば別物のようで新しい世界が広がって行くのを大いに感じることとなった。

ワーグナーの「指輪」は、もともとは北方ゲルマン民族の神話であるかが、その演出はというと、ここ最近の傾向としては「奇抜」なものが多く、その意味ではシェロー演出はその先駆けだともいえる。

小生が所有するものではシェンク演出/レヴァインのものが比較的神話色を出しているよぷだが、レーンホフ演出/サバリッシュになると金属的無機的な背景や少々奇をてらった衣装などで、少しも古代神話を想起させるものはない。

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さて、3日続けて5時間以上も、ろくな休憩も挟まず、ぶっ通しで見ることとなったシェロー/ブーレーズではどうかというと、メイキングでも語られているように、産業革命時代を背景とする近代社会の入口にその背景をおくようだ。

シェロー自身は産業革命を「良し」としない立場をとると言っているが、それはおそらくこの物語の根幹の、神話の世界すなわち武力による民族闘争の世界が、経済力によってその価値観を奪われていく、つまり古代宗教、鉄、農業によって形成されていた社会が黄金という経済優先社会へ変貌する過程で、資本の論理、金銀財宝およびその証の黄金の指輪を持つことにより、世界征服をたくらむ欲望が生まれ、やがてはそのせいで世界が滅ぶという解釈によるところのもののようで、まさしく市場原理主義社会への批判とも取れる・・・というか今の世界情勢を見透かすような解釈となっているのが、非常に面白い。

シェロー演出の「指輪」は、今では評価が多く与えられるものだが、ジークリンデ・ワーグナー(ワーグナーの孫娘)は、放映前の挨拶で「この演出は、批判も受けるだろうが、決して退屈することはないだろう」などと、あまりももろ手を挙げた賛同をしてないようだ。

ワーグナー一族による過去のバイロイトでの演出からは、ものすごく遠いことを示唆しているようだが、この若き当時まだ40歳前のシェローの演出が当時さまざまな物議をかもしたことが大いに予想される。

しかし、改めて今ジックリ観てみると、時代の移り変わりなのか、感性が変化したのか、そんなに奇抜でも斬新でもなく素直にしかも通しで切れるほどよくできていると思うのである。

ただしブーレーズの音楽はというと、あまりにもこじんまりし過ぎていて、あの大業なワーグナー~はかなり遠い位置にあるようだ。

ここでクレッシェンドと思うような場面でも、管弦楽は抑え気味であるが、これはあくまで主体は舞台の上にあるというところからなのかもしれない。

管弦楽だけのワーグナーを聞いてきた耳には、かなり異質のワーグナーである。

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by noanoa1970 | 2008-12-14 15:57 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)