ドイツ系指揮者によるチャイコフスキー・・・3


1952年録音UraNiaレコード
フランツ・コンヴィチュニー指揮、ベルリン放送管弦楽団
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両者ともに、モラビア出身だから同郷で、ほぼ同じ時代を旧東ドイツを中心に過ごし活躍した2人の…どちらかにあえて分類すれば「ドイツ系統の指揮者」ということができる「フランツ・コンヴィチュニー」と「レオポルド・ルートビッヒ」両者の演奏で、チャイコフスキーの5番の交響曲を聞いてみることにした。

両者に共通して言えるのは「インテンポ」であるということだが、全く違うのがそのスピード。

コンヴィチュニーはかなりユッタリとしたテンポで、これは彼の常套句の一つでもあるが、それまでインテンポを守ってきた音楽が、終盤になるとかなり極端にアゴーギグを入れる。
まるでブルックナーのように、大伽藍建築を組上げるようなその音楽には、珍毛な人間味などは、どこかにすっかり消し飛んでいて、「神の存在さえ垣間見る」錯覚に陥ってしまうところがある。
普段のチャイコフスキーからは、想像がつかないほど音楽がとてつもなく大きいのだ。

それに対しルートビッヒは、かなりハイスピードであるが、徹頭徹尾インテンポを守っていて、切れ味の鋭さを見せてくれる。
ベト9では表現主義的なところと、ザッハリッヒな側面を併せ持ったように音楽が聞こえてきたが、ここでは表現主義的要素は完全に姿を潜め、まるでトスカニーニばりのドライさで、グイグイとオケを引っ張っていき、オケがそれに応え全神経を集中しているかのような、緊張感のある音楽を作る。

両者の音楽は、あのチャイコフスキーの、甘く切ない、哀しい、大袈裟な感情表出の音楽ではなく、ことさら音楽に表情を与えず、音楽そのものから、受け手が抱くであろう情念を大切にした演奏だといえる。

逆にいえば、「この曲を私はこのように解釈しているから、それを聞いてほしい」などと、演奏者が聴き手に訴えかけるものとは対局にある演奏といえる。

そういうスタイルがドイツ流であるとは決して言えないが、少なくとも同郷で同じ時代を旧東ドイツを中心に活動したであろう演奏家が、聞こえてくる表面の音楽こそ違え、底辺にあるのは、共通して「インテンポ」そして「ザッハリッヒ」で、余分な感情移入を極端に抑えた演奏であったことは、何を物語るのだろう。

チャイコフスキーの音楽を、お国柄を超越した素晴らしいもの・・・すなわち普遍性があるということは、認めざるを得ないが、それにしてもこの時代に、ドイツ・オーストリアで音楽を学んだであろう両者が、チャイコフスキーをこのようなスタイルで演奏する意味合い(しかも相当グレードの高いレベルで)は大きな興味点であることは間違いない。

また両者のチャイコフスキーの演奏自体の存在が、長い間埋もれていたことは、(コンヴィチュニーの4番は5年前ようやくCD復刻、その演奏は凄まじいものがある。また6番の存在も確認されている。5番は素晴らしい演奏にもかかわらず、長いことCD復刻されてないから、その存在さえ知られていない。ルートビッヒの演奏は昨年ようやくCD復刻されたばかりである。)いったい何を物語るものであろう。

個人的体験でいえば、チャイコフスキーに潜む「運命の動機」を具体的に浮き彫りにしてくれたのが、コンヴィチュニーの演奏で、ルートビッヒの演奏を聞いて、そこでも徹底的に「運命の動機」が浮き彫りにされていることがわかり、両者の音楽構築技術に構成の巧を感じ入ったた次第である。

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by noanoa1970 | 2008-11-04 11:14 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)