ドイツ系指揮者によるチャイコフスキー・・・2

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チャイコフスキー交響曲5番
レオポルド・ルートヴィヒ(指)ハンブルク国立フィルハーモニー管弦楽団
録音:1960年3月28-30日 ハンブルク・クルトゥアラウム(ステレオ)
コロムビアCOCQ-84442

復刻された上記CDを聞いて、この演奏はすごい!
昔から聞いてきたLPでは到底味わえないようなその音楽に、度肝を抜かれたのが正直な気持ちである。

なにが凄いのかというと、ほかの演奏を数多く聞いてきたわけではないのだが、それを差し引いて、オーケストラからこのような音を引き出せることの意味において、このあまり有名ではない指揮者の音楽から聞こえるものは、まぎれもなく「音魂」もしくは「音霊」という小生の造語で語ることができよう。

「音魂」「音霊」とは言うまでもなく、「言霊」から小生が勝手に作った言葉であるが、指揮者とオーケストラが織りなす音の姿を、精神的な意味で表現するのに割と適していると自負するから、ここでもそれを使っているのだが、特別な緊張感を強いられる状況下のある物の力によって、音楽行為が成立することは、数々の名演と呼ばれるものに寄って、すでに経験したことである。

しかしそのような音楽行為がそこらにあるわけではなく、超一流のオケと超一流の指揮者だからと言って、必ずしもそのような音楽となるわけではない。

時には弱小のオケと中堅の指揮者のコンビネーションによってなされた音楽行為が、とてつもない音楽を作っていることだってあるのだ。

この録音における演奏は、数少ないそういう「化け」の演奏であるのである。
この時代、ハンブルク国立フィルハーモニー管弦楽団という存在は、残念なことに、世界の並みいる有名ブランドオケの陰に隠れ、その名を聞いただけで2流の、いや3流のオケだと思われる節があり、「レオポルド・ルートビッヒ」という指揮者に至っては、その名前さえも、存在さえも知られてなかったのだ。

国内ではマイナーな廉価版を少しにぎわす程度で、巨匠というブランド戦略絶対時代の始まりでもあったから、並みいる音楽評論家やその頃華々しくなりつつあったレコード音楽評論家たちのだれ一人として、このような音楽家を正当に評価するものはいなかった。

しかし彼らマイナーな存在の演奏家たちの録音がなかったのではなく、レコード販売業者やそれに多くは依存する、いわゆる評論家たちのフィルターにかかって、評価の対象にもならなかったことが多かったのだった。

小生は偶然のように、親の力によって初めて大量に入手できたクラシックレコードの全集が、後に廉価版に出てくるような演奏家たちの録音の集大成全としたものだったから、少年時代からそのような演奏家の録音を聴くことができた。

逆いえば、巨匠といわれるような演奏家の録音は、しばらく入手することが出来なかったのであったが・・・・

世間ではチャイコフスキーの演奏は、どうもロシアの演奏家の評判がよいのだけれど、小生はチャイコフスキーはザッハリッヒ(即物的)な演奏のほうに好感をもつ。

ロシア流のねっとりした情感表出の演奏は、当初は素晴らしいと聞こえても、全楽章を通しで聞くにはなかなか荷が重いことが多い。

しかも5番の交響曲は、精神分裂的なところがあるように見受けられるから、アチコチでねっちりとやられると、もうどうにもしようがない。

落ち着きがなく、ソワソワしてしまうのが落ちである、あるいは派手な吹奏楽を聞いた時の高揚感が残るだけというチープな結果に終わることが多かった。

そんなこともあって、小生の比較的好きな演奏として、これは知る人は極端に少ないと思うのだが、フランツ・コンヴィチュニーがベルリン放送管弦楽団と1952年に録音した「URANIA」のLPをかなり聞いてきた。

CDが世界で初めて発売となってからすぐに入手したウラジミール・フェドセーエフ指揮/モスクワ放送交響楽団の比較的非ロシア的といえる演奏でさえ、濃厚でネッチリした演奏に思えて、今はほとんど取り出されないままとなってしまっている。

・・・続く

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by noanoa1970 | 2008-11-03 11:51 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)