人気ブログランキング | 話題のタグを見る

祭りの後

オリンピックが終わって、マスコミや知識人と呼ばれる人たちの関心事は、開会式での様々な虚構についてだ。

実は小生、今話題になっている美少女の「口パク」は、あの開会式の映像と音声を、真剣に見聞きして、いっぺんに見破っていたのである。’これはウソ偽りではありません)

しかし、いくら訓練したとはいえ、あの世界規模の大観衆の面前で、あどけない少女が、ミスなしで歌えるなどということは、到底考えられないから、「これはいたしかたなく、それでよいのだ」と思っていたのだった。

しかしながら、実際に歌ったのが別の少女であったと聞いて、その考え方を改めなくてはならないと思うようになったのである。

小生はあの美少女が別録音したものを、当日万が一のことを考えて「口パク」にしたと、てっきり思っていて、それなら日本のマスコミやTVでも、過去から現在まで、同じことをやってきたのだから、批判などする資格はない・・・そのように思っていたのだった。

でも、歌った少女と、口パクの少女が別物である事実を知った時、やっぱり中国なのだということを再認識させられたのだった。

全体主義国家からまだまだ抜け出すことができず…というか抜け出す気は毛頭ないような、そんな気さえしたのである。

1900年のちょうどオリンピック開催と重なる時期のこと。
中国(清国)では、義和団事変という歴史的事件が起こり、そして終結した。

「北京の55日」、原題 : 55 Day at PEKINGという映画が1964年に日本で封切となって、小生も映画館でそれを見ることになった。

youtubeに映画の一部があったのでリンクする。
冒頭のシーン各国列強がそれぞれの国のマーチの演奏で紹介されるといったもの。


チャールトン・ヘストンが出演し、日本人の軍人として映画の中で準主役的に活躍したのが、伊丹十三であった。

映画は、まさにアメリカハリウッド映画で、義和団・西太后側を「悪」、アメリカ、ドイツ、ロシア、フランス、日本など列強を「善」とするような、まるで「アラモ」のような様相のものであったが、今考えれば、西欧列強の東アジア植民地化という視点が全く欠如する、映画で、当時のアメリカの、中国を低く見る目の象徴的映画でもあった。

おそらくは今でもこの映画は、中国では上映されないであろうと推測される。

この事件、実はかなり複雑らしく、清朝の内紛に西欧列強の中国植民地支配権の争いが絡み、西欧文化侵略拒絶運動として、「扶清滅洋」をスローガンとして、民衆の間に広がった、反キリスト教、反欧米運動を、清朝が内紛を隠すために利用し、列強に宣戦布告したのが、真相のようである。

ウイキによる以下のような説明がある。
「清朝の宣戦布告は、清朝内に在住する外国人及び中国人クリスチャンの孤立を意味するも同然であった。特に北京にいた外国公使たちと中国人クリスチャンにとっては切迫した事態を招来した。当時紫禁城東南にある東交民巷というエリアに設けられていた公使館区域には、およそ外国人925名、中国人クリスチャンが3000名ほどの老若男女が逃げ込んでいた。しかし各国公使館の護衛兵と義勇兵は合わせても481名に過ぎなかったという。」

そこで籠城を強いられることになり、援軍が来るまで各国の総力を合わせて守った、それが映画「北京の55日」となったのである。

1900年
1月27日列強の公使団、清国に義和団鎮圧を強硬に求める。
3月14日毓賢を更迭し、袁世凱を山東巡撫とする。
4月袁世凱に弾圧された義和団、直隷省になだれ込む。
5月義和団、北京へ到達。
6月9日各国公使、自国軍の北京への援軍を要請。
6月19日西太后、義和団を支持し西欧列強に宣戦布告することを決定。
6月20日義和団、紫禁城の一郭にあった北京各国公使館を包囲(~8月14日)
6月21日清国、欧米及び日本の八ヶ国に宣戦布告。
7月14日天津、八ヶ国連合軍に占領される。
8月14日八ヶ国連合軍、北京に到達し総攻撃を開始する。
8月15日西太后と光緒帝、北京から逃亡。珍妃、紫禁城内の井戸にて死亡。

つまり、以上の年表の、6月20日~8月14日までのことが、「北京の55日」ということになる。

北京陥落後の清朝は、多額の賠償金を支払うことになり、そのつけが民衆から摂取する多額な税金となった。
また一方、それまで親和的であった義和団を「団匪」と呼び、反乱軍と認定したから、義和団は清朝に見切りをつけ、「扶清滅洋」→「掃清滅洋」というスローガンに変えて、清に変わる政権を求めたが、列強の植民地化の導火線となって、やがて連合軍により壊滅させられた。

昨夜あるTVの番組で、1党独裁国家では、政府も人民も、絶対に謝ることはしない。
混ぜならば、過ちを認めた瞬間、その人はみな死ななければならないから・・・などと誰かが言っていて、餃子事件で、毒は中国で入ったものではないといった人だったか、食品会社の幹部だったかが自殺したと報じた。(殺されたという推測もあったようだ)

首謀者はすでに死んだから、この事件はもう幕が下りた。
これ以上追及しないでほしい・・・というのが中国の長い歴史の幕引きの仕方であると述べていたが、これはあの北朝鮮でも、同じことを見た経験があるから、強ちはずれてはいないだろう。

しかしわが国でも、ことの真相を隠ぺいしたまま自殺、あるいは他殺かもしれないが、死んでいった人は数多いから、政治、国際政治、あるいは国際経済のダイナミズムというものは、人の命などをはるかに超えたところにあるのだろう。

社会主義も資本主義も、新自由主義も、いずれも人類の総合的な幸福の価値を生み出さないとすれば、いったい何を信じ、求めるべきなのだろうか。

危険極まりないのだが、「超人」の出現を、今ほど期待されるときはないような気がしてくる。

祭りの後の中国は、この先どのようになるのか、世界が注目するところであるが、1党独裁国家である限り、多くは望めそうもないだろう。

ソ連からロシアになっても、結局南オセチア、グルジアでは、過去のチェコのようなことをまたやっているのだから、長い歴史において培われた体質は、そう簡単には変わらないのだろう。

話を「北京の55日」に戻すが、映画の主題曲は、ディミトリー・ティオムキンが作り、ブラザーズフォーが歌ってヒットした。
日本では「克美しげる」が歌った。
ブラザーズフォーのものと若干アレンジは似ているが・・・・やはり
youtubeの克美の「エイトマンと北京の55日」


映画の内容は、偏った見方のものだったが、音楽は今でも覚えているほど、印象的で素晴らしい。

by noanoa1970 | 2008-08-26 10:45 | 歴史 | Comments(3)

Commented by 774 at 2008-09-10 06:22 x
>社会主義も資本主義も、新自由主義も、いずれも人類の総合的な
>幸福の価値を生み出さないとすれば、いったい何を信じ、求める
>べきなのだろうか。
国家社会主義なんて如何?
まぁアドルフ曰く『ボルシェビズムから多くを學んだ』って逝ってます…。
まぁ、溺れる者は藁をも掴む…、
信ずる者は骨迄しゃぶられる…なんつって…
Commented by 774 at 2008-09-10 06:32 x
>アドルフ曰く『ボルシェビズムから多くを學んだ』
出典は↓っす…。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ナチズム
「わが闘争」でヒトラー自身が「私はボルシェヴィズムから最も多く学んだ。」と言っているように左翼からの影響も多く見られる。
Commented by noanoa1970 at 2008-09-10 08:51
「超人」がこの世に存在するのなら、そのような考え方もできますが、ヒトラーはそうではなかったですね。「民族社会主義」へと変化したのは、なぜなのか興味あるところでもあります。