さすらい人幻想交響曲

こんな名前の交響曲などは「ない」・・・そう思われる人がいて当然である。

このネーミングは、シューベルトの大ハ長調交響曲:「ザ・グレイト」に、小生が勝手につけた名前であるからだ。

ここ数日、HOBO関連の音楽記事をブログに書いてきたが、実は小生、ここ数日シューベルトの「ザ・グレイト」を、ギュンター・ヴァント、コリン・デイビス、オイゲン・ヨッフム、イストバン・ケルテス、フランツ・コンヴィチュニー、ワルターなどで聞き続けていたのだった。

そしてその中のある演奏で、小生が発見したものが、この交響曲の隠れたモチーフが、「さすらい」あるいは「放浪の旅」・・・つまり何かを求めて、さまよい歩く姿を描いたものではなかろうかということであった。

「さすらい」とシューベルトはもともと大いなる関連性を持っていて、それは歌曲集「冬の旅」においても、「美しき水車小屋の娘」でも、「さすらい人幻想曲」においても、周知の事実である。

「さすらい」は、粉屋の楽しみというように、明るく振舞っているようにみえるものと、そして、「冬の旅」で見られる、悲惨で死を覚悟したような放浪の旅・・・そんな2面性をシューベルトは持っている。

これらに共通する音楽的要素として、小生は、2拍子・・・つまり歩行の拍子があることを知ることとなった。

それは「さすらいの動機」として、シューベルトが、数多く使用してきたリズムパターンで、それがシューベルトの音楽的特徴の1つになっているものと、小生は思っている。

長短短・・・・「ターン・タ・タ」のリズムパターンを、シューベルトはかなりの頻度で使用していることに気がつくこととなったのは、エリー・ナイのピアノで聞いた「さすらい人幻想曲」と、オイゲン・ヨッフムが指揮をしたバイエルン放送管弦楽団の「ザ・グレイト」のホルンの序奏部分を聞いた時からであったが、今回いくつかの「ザ・グレイト」を聞いていて、この交響曲のモチーフが、ひょっとすると「放浪の旅」あるいは「さまよい歩くこと」にあったのではないかと思うようになったのだ。

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そのように感じさせた2つの演奏がある。

1つはイシュトバン・ケルテスがウイーンフィルと録音したもの。
さすがにVPO、弦も管も素晴らしい腕前だ。

もう一つ・・・(この演奏は特別な思いを想起させてくれたのだが)、写真下のジャケットは、フランツ・コンヴィチュニーがチェコフィルと最晩年、亡くなる年の1962年に録音したもの、コロムビアからのリマスター復刻盤で音質は素晴らしく甦っている。

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こちらはスプラフォンのオリジナルコンヴィチュニー盤。
従来9番とされていたが、8番に修正されている。

多くの指揮者が差1楽章のテンポを4拍子でゆったりと演奏しているのに比べ、両者の演奏は2拍子に聞こえ、従って冒頭のホルンの序奏もほかの演奏に比べ歯切れがよい。

ほかの演奏と大きく異なる部分としては、1楽章最終部の終わり方がある。
ほかのいずれもの演奏が、1楽章だけで帰結するように、最終部分の終わり方を歌舞伎役者のおお見栄のように、大業に終えることが多いが、特にコンヴィチュニー盤では、今までの歩調のリズムの延長の余韻を、次の場面に更なる境地で引き継ぐように、早足で終わるのだ。

小生は長くヨッフム盤を愛聴してきたから、このホルンの朗々とレガートで奏されるのが当然であるし、それが美しく、1楽章の終結部の、ゆったりとした処理も、まさにシューベルト的である、そう思い込んでいた。(この演奏、一般的シューベルトの純音楽的な意味からは素晴らしい、おそらく最高の演奏であろう)

しかしある時、ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の「未完成交響曲」を聞いて、シューベルトの中に潜む、ダークサイドというかデモーニッシュというか、負の暗い影の部分を見せられ、それまでのシューベルトに対する概念を大きく変えられることとなった。

そんな経験も影響してのことだと思うが、改めて「ザ・グレイト」を聞いた。

3楽章のスケルツォ以外は2拍子と4拍子でできており、テンポは1・2楽章アンダンテと3・4楽章アレグロで構成されている。

それに加えて随所に「さすらいの動機」と、まるで人間のさまざまな歩行のパターンを表現するようなリズム処理が、数多くいろいろな形で表現されていることに気がついた。

やはりこの交響曲は、「旅」しかも「放浪やさすらい」のそれであるといってもいいのだと確信するに至った。

「さすらい人幻想交響曲」

男は今の生活に疲れ果てていた。

男は粉屋で働いていたが、毎日変わることのない、日常性にへきへきしていたのである。

男は、シャイな性格だったので、感情表現に貧しく、愛した恋人にも裏切られ、周囲の人々からは冷たくされていた。

でも、なぜ自分がそのような目に合うのか、男にはわからなかった。

頼りの家族、特に父親からは
兄弟の中で一番うとまれる存在であったから、男はアンヴィヴァレントな感情に支配されるようになっていた。

そして、今の暮らしから、今の環境から逃れようと、夢想する毎日が続いた。

ある早春のこと、ようやく夜が明けかけた朝、男は遠くで聞こえる狩人のラッパの音を合図に、粉屋の小屋を抜け出すことにした。

といっても、あてのない放浪の旅だったが、男には、わずかな夢があった。

それは、この旅が無事に終われば、きっと何か新しいものが見つかる・・・そんなかすかな希望であった。

男は大地を一歩一歩噛みしめるように、ひたすら歩き続けた。

そのうち道はV字露に差しかかった。

男にはその時まだ、夢と希望がわずかながらあったから、ここは試練とばかりに、険しいほうの道をあえて進むことにした。

道は険しかったが、しばらく進むと、そこにはオアシスがあって、しばしの休息を取ることができたから、勇気と力が戻ってきた男は一層強い歩調で突き進むことができた。

それで少し心にゆとりができた男は、好きだった故郷の歌を口ずさみつつ、少し小躍りするようにして、さらに、行先が見えない旅を続けた。

歩き続けたあまりに、足を少し悪くし、今までのようには強い歩調では歩けなくなってしまい、引きづるような歩き方に変えなければならない羽目になってしまう。

でも、男は途中でこの旅を終えることなどは考えなかった。

旅の終わりは、すなわち「死」を意味するものと感じていたからだ。
歯をくいしばって痛みに耐え、何か希望を見出すまで、必死に歩こうと、心に誓うのだった。

途中で何度も休憩し、何度も行ったり戻ったりしながらも、決して諦めることはなかったのである。

痛みに耐え抜いて、歩き続けた末に、男が見出したものは、今までの風景とはまったく違う地上の楽園のような別天地であった。

それはまるで、聖書に出てくる「エデンの園」のようであった。

男は今までで一番の早歩きで、その土地の中心部へと向かった。

するとその途中で、ベートーヴェンが最後の交響曲で、モチーフに使ったとも言われる、あの天上の音楽「喜びと希望の調べ」が幾度となく、まるで天使が歌うコラールのように聞こえてくるではないか。

男は狂喜した。
これこそが、求めていた希望と喜びの地なのだと。

これで新しい自分を見出すことができたと、男が安堵の表情を浮かべた刹那、その喜びと希望を打ち砕くように、天使のコラールの調べが、だんだん遠のいていくのだった。

男は眠りから覚めたのだ。

男は自分が夢を見ていたことに気が付き、また終わらない日常がそこにあることを知ることとなった。

夢の中で行き付いた夢の国だったが、
男の夢と希望は、無残にもかなわぬものだったのである。

そして男は、今度は現実の、あてもなく果てもない長い旅に出なくてはならないことを悟るのだった。


小生がケルテスとコンヴィチュニーの「ザ・グレイト」を聞いて、曲の表題を勝手につけ、また勝手にロマンティークな想像をめぐらすと、以上のようなものになった。

暑さの中にも、時折秋の気配が感じられるこの頃、こんな楽しみ方も悪くはあるまい。
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by noanoa1970 | 2005-08-21 11:38 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

Commented by こぶちゃん at 2008-08-21 15:30 x
稀代の名曲であると同時に難曲中の難曲ですね。

私は古典的でありながら、ゆるぎない骨格の晩年のセル盤、
斬新な解釈で瑞々しいけれど、演奏者の少なさがこの曲には
物足りないマッケラス/エイジ・オブ・エンライトンメント盤、
まだ颯爽としていた頃のレヴァイン盤で聴いています。

しかし、ケルテスが振っていた頃のVPOは実に味わいがあるし、
コンヴィチュニーが懐かしい…(笑)。
Commented by noanoa1970 at 2008-08-22 09:05
>マッケラス/エイジ・オブ・エンライトンメント盤
ピリオドスタイルの指揮者ですね。使っている楽譜がベーレンライター版だとすれば、快速かつ見通しのよい演奏だと思われます。小生はロマン派の音楽についお手はベーレンライターあるいはピリオド系はあまり望むところがありません。面白いのは全編楽譜通り、リピートをやっているコリンデイビス盤。あまりにも冗長度が高すぎて途中で飽きてしまいますが、試みとしては面白い。これをコンヴィチュニーのような愛車区でやったらさぞかしいいと思うのですが(コンヴィチュニーは、的確にリピートをやっています)。さすがにワルター盤はシューベルトの1面しかとらえていないようで、今では少し古めかしすぎです。ミュンヒンガー盤は、隠れた良演ですが、CD復刻されてないようです。巷で評価の高い、フルベンのような時代錯誤的演奏もこの曲には似合いませんね。