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名前の由来

小生の名前は「治憲」という。

名前は祖父が付けたと、小さいときから聞かされてきて、父親からは、名前の由来を、昭和22年(1947)5月3日、日本国憲法が発布されたからと聞いていた。

小生は23年生まれだから、こじ付けだろうと思って、しらべると、以下のようなことが分かったから、まんざらこじ付けでもなかったようだ。

「日本国憲法が発布記念して昭和23年7月の「 国民の祝日に関する法律」で、この日が祝日と定められた」・・・この日とは5月3日の「憲法記念日」のことである。

1948年5月3日は確かに憲法記念日であるが、小生は1948年3月に生まれたのだから、
それよりも2ヶ月早い。
はたしてこれも正しいかどうか、良く分からないが、命名が何時のことかが分かればハッキリするのだが・・・・(生まれてから2ヶ月もたってから命名したのだろうか?)

団塊の世代の一部の人は、「憲」という漢字を当てた名前が多いという話もある。

小生は長い間、この名前の由来をそのように信じてきたのだが、あるときこれはどうも胡散臭いと思うようになったのである。

小生の父親は大正生まれ、法律を学んできた事から、一次は法曹関係に進みたかったのだが、事情があって民間の鉄鋼製造メーカーの労務畑に就職した。

朝鮮特需の最中で、会社は忙しく、さらには朝鮮特需によって引き起こされた労働者へのしわ寄せから、労働運動が活発となり、左派色を強めた労働組合が、組合をしきって会社と決裂するのを抑えることに奔走したそうだ。

今でも「〇産党」に、激しい嫌悪感を抱いているのは、そのときの心身の苦労からであろう。

小生は昭和23年3月、愛知郡鳴海町、現在の名古屋市緑区鳴海町という、東海道の宿場町の古い閑静な住宅地で生まれた。

父親は鳴海から、文化的には遠いが、距離的には近い知多半島の付け根の、聚楽園という小さな海沿いの町に出来た、〇〇製鋼という会社に就職し通っていた。

ここは海を埋め立てた土地に、近くに名古屋港があったせいか、大きな製鉄会社が3つも参入して現在に至っているところ。

小生が生まれると直ぐに、実家の鳴海の家を出て、聚楽園の荒尾という集落で、会社の近くの農家の離れを借りて移り住んだ。

荒尾の「加家」というところで、風呂は知り合いの家に、もらい風呂をしに行くという生活で、垢で汚れたような湯船に漬かるのを、「今日は湯船に入るな」といわれた覚えがあるという悲惨なときもあった。

名前の由来_d0063263_10471272.jpg「平州保育園」から「平州小学校」へと進むことになったのだが、この学校は郷土の学問の師「細井平州」に因んでその名が付けられた学校で、先生やPTAの役員が、有りとあらゆる場で、ことごとく「平州」の業績の偉大さを話すのを聞かされてきた。

記憶には、「細井平州」は尾張藩校・明倫堂(現在の愛知県立明和高等学校、小生の頃は旭丘と並び、愛知県下の優秀校だった)の初代督学(今の校長)となったという。
そして「明倫堂」という言葉が今でも耳に残っている。

鳴海から、父親が勤める鉄鋼関係の会社のある聚楽園に、小生が生まれて間も無く引っ越すことになったのだが、この聚楽園という町の引越し先「荒尾」という集落こそ、「細井平州」を排出したところであった。

小生の祖父の祖父・・・すなわち小生の高祖父は、長野県の木曽谷の「原野」という集落の庄屋をやっていたが、あるとき次男に家督を譲って、自ら江戸に赴き学んで帰ってくるや、全財産を投じて木曽駒高原の山間地を農作物が栽培できるように開墾し、努力が実ることなく挙句に破綻した人である。

「細井平州」は「農民にも学問を」といい「塾」を開いたが、高祖父「三羽」という人も、「開化亭」という、農民達とのサロンを開いたという。

そして儒学を学び、自ら多くの和歌を詠んだ人でもある。(小生の手元には、高祖父「三羽」が、紙にも事欠いていたのだろう、紙の両面を使って和歌が書き留められているものが残っている)

祖父から見れば、祖父の祖父「三羽」と「細井平州」は、イメージがダブルものがあったのだろう。

名前の由来_d0063263_10483085.jpg「上杉鷹山」という人は、誰でもその名を聞いたことがあると思うが、実は、「鷹山」は、十六歳で元服のとき、将軍徳川家治より諱の一字をもらって「治憲」と名乗り、「鷹山」という名を用いるのは総髪した五十二歳の時から・・・と有るように、正式には「上杉治憲」という元服名:諱(いみな)なのだ。

この「上杉治憲」に質素倹約を説いたのが「細井平州」。
「細井平州」の勧めに、藩の経済再建を目標に積極的な殖産興業政策を実施し、田畑の開墾、桑・楮・漆などの栽培、養蚕・製糸・織物・製塩・製陶など新産業の開発に力を入れ 自ら先頭に立って奨励につとめた「上杉治憲」と高祖父「三羽」は、祖父の中で恐らくダブって見えたのだろうと思われるのである。

「三羽」は、規模は小さかったろうが、製塩・製陶以外は「上杉治憲」の取り組みに詫匹敵することを手がけていたのだった。

祖父は林野庁の役人だったこともあって、アチコチ転勤したと聞く、恐らくこのあたり旧米沢藩の「開墾事業」についても調べていた形跡があるし、祖父は父親から高祖父のことも聞いていたのだろう。

失敗したが、その基礎は作られ、今では立派に米さえ作れる農地にもなっている木曽駒高原開拓の先祖の偉業を、藩の復興のために生涯を捧げた「上杉治憲」の偉業にダブらせることは、かなり高い確率で考えられることである。

祖父、高祖父、聚楽園荒尾、「細井平州」、「上杉治憲」、そして憲法発布の記念の祝日の制定日23年7月。

祖父は、このあたりの事象の複合体から、小生に「治憲」という名を命名した・・・

小生は、「憲法発布」を記念してというしか、父親からは聞かされて来なかった、自分の名の由来について、このようなことが隠されていたのではないかと、大いに推測している。

そして何故父親ではなく祖父が命名したか・・・それについても不思議に思うことがあるが、それは永遠の謎である。

by noanoa1970 | 2008-07-23 10:48 | 家族の肖像 | Comments(0)