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昔の味

今は無き昔の味というと、小生が忘れられないものに、もう40年前になろうか、京都で過した日々に、食したものがそれである。

以前からブログに書いている洋食屋「のらくろ」もその中に、勿論入るが、「のらくろ」は、嬉しいことにいまだ健在である。

それら食の名店の中、今はもう無くなってしまい、従ってもう姿かたちがなくなってしまい、味の思い出しか残ってない食の名店についての思い出を書いておくことにする。

一つは、木屋町三条の路地を奥に入ったところにあった、中国料理の名店「飛雲」。
今ひとつは、下鴨芝本町にあったグリル「富永」。
最後は、本日取り上げることにした、左京区樋ノ口町のグリル「フルヤ」である。

「フルヤ」に初めて行ったのは、結婚前の家内と一緒だったから、1972年のことだったと思う。
その頃小生は、立ち上げたNOANOAでの・・・ピザとスパゲッティの腕前は相当なものがあったと自負するのだが、所詮は基礎を学んでいないところの、独学だったから、応用が利かないことに、ソロソロ限界を感じ始めていて、今後どうするか思案中のときであった。

それでも食に対する貪欲なまでの興味、何しろ食べることが無類の喜びだったから、少ない情報の中、貴重な美味しい情報が耳に入ると、早速出かけて賞味することにしていた。

昔の味_d0063263_2021923.jpg「フルヤ」もその中の一つだったが、フルヤがある細い路地のような小道は、小生の好きな道でもあったから、何度と無くそばを通っていて、いかにも古くて、「一見さんお断り」の雰囲気を持つような、しかしなんとなく家庭的な雰囲気が有りそうな佇まいに、「グラタン、ビーフシチュー」と書かれた看板があるのを見てはいた。

しかし、まだ学生の身であったせいか、なんとなく入りづらくて、躊躇し続けて、NOANOAに限界を感じ始めた1972年、ようやく「フルヤ」のドアを開けることになった。

店に入ると、右側に5人ほど並べるカウンターが、他に3つのテーブルがあるという、こじんまりした店で、カウンターの中には60歳を少し越した感じの、初老の親父が一人、そして白い割烹着の、奥さんと思しき女性が一人居た。

店には他に客が4.5人いただろうか、2人がすでに座っているカウンターに、われわれも座った。

食べるものはすでに、決めていて、ビーフシチューを2人前、そしてマカロニグラタンを1人前注文した。

シチューというと、小生はNOANOAで、陶芸家の小山富士夫さんが白沙村荘に来られたとき、お年でもあることだし、ピザとスパゲッツティ以外のもので、何か作ってと、橋本関雪の長男のお嫁さんであり、「お菜ところ」を切り盛りしていた田鶴子おばさんから依頼され、好みを聞いてそれならばと、メニューには無い、「カブと牛の煮込み」・・・シチューをNOANOAで作って出したことがあった。

小山先生は痛く感激され、高額なチップと、その頃では高嶺の花、決して飲むことが出来なかったウイスキー「オールドパー」を下さったことがあった。

マカロニグラタンは、小生が始めて口にしたのが「のらくろ」のもの、その味をナントカ踏襲して、NOANOAで一時メニューに加えたのだったが、ベシャメルソースの保存という基礎を知らないため、注文が入ると、いちいちベシャメルから作る始末で、これでは時間がかかりすぎ、結局メニューから外すこととなった。

プロと呼ばれる食の職人達は、これらのことを、どのようにしているのだろうかということにも、興味があって仕事がよく見えるカウンターに座ったのだった。

驚いたのはカウンター内の厨房の清潔さ。
ストーブ周りも、タイルの壁に下げられている手鍋などの調理器具も、すべてがピカピカと輝くほどだったこと。

通常なら黒くすすけて当然の鍋類が、ピカピカしているのだ。

小生はそれを見た瞬間、「この職人の作る料理が不味いはずがない」そう直感した。

料理をする人であれば、お分かりだろうが、最近では家庭でも、プロの使うアルミ製の鍋類を使う人が増えてきたが、毎日のように使えばすぐに、油等で鍋の周りが汚れる。
そしてそれをきれいにするには、使い終えたらすぐに、きれいに掃除しないと、汚れがこびりついて取れなくなってしまう。

鉄製のフライパンはプロにとっては、無くてはならないものだが、これも同様。
きれいにするためには、汚れがこびりついてくると、ストーブ(ガスコンロ)で、フライパンを燃やして汚れを燃やしきり、低い温度でフライパンに入れた油を長時間熱することで、フライパンに油を馴染ませるほど手間をかけるのである。よく手入れされた鉄製のフライパンで無いと、本格的なオムレツは決して巻けない。

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この親父・・失礼、初老のシェフは、きっとどこかのホテルで相当長い間修行をしたに違いない。

最近はマスコミの悪影響で、シェフと呼ばれる人たち・・・洋食をやる人全てをシェフと呼ぶ傾向があり、呼ばれるほうもそれで満足しきっているのが散見されてイヤになる。

それに、一昔前であれば、「どこで修行されたのですか」という問いに、「どこどこのホテルです」と明快に答えられる人が、本格的料理人であったが、最近では、例えば、海外・・フランス、イタリアなどに1年間、ただ食べ歩いて帰って来ただけでも、フランスで修行などと、平気で言っている。

学歴詐称は、どの世界にもあるから気をつけないといけない。

大体日本から何のツテも無く海外に行って、料理の修業など出来るわけが無いのだ。
せいぜい皿洗いぐらいが関の山。
ホテル同士が交流関係にあるところで、留学に近い形で行って初めて、厨房での本格的仕事が出来ることを知っておくべきであろう。

イタリアで3年間修行したなんていうだけのやつは、ほとんど大したことは無く、イタリアの、あるいはフランスの〇〇レストラン、〇〇ホテルのストーブ前、ブッチャー、など担当した部署を、正確に言わないやつは、殆ど学歴・・経歴詐称であるといっても過言ではない。

「吉兆」事件じゃないが、表面的な見栄えや、味の模倣に終始する昨今、ファストフードが蔓延する中、味覚も鈍感に慣らされてしまっているからなのか、味が本当に分かる人がだんだん少なくなったのではないだろうか。

話はだいぶ横にそれたが、そういうわけで、とにかく「フルヤ」のカウンターに座ることが出来た。

注文が終わって、老シェフが、先ず何をするのか興味を持って見守っていると、やおら、カウンターの下から、ジャガイモとにんじんを取り出し、ユックリとした所作で、それらをカットし、皮を剥き、角を取り始めるのだった。

それは、シチューに入れる野菜をシャトウに剥くという、野菜料理の基本の一つ。
しかし当時の小生は、シャトウ剥きなど知らなかったから、おもむろにやりだしたその光景と、ユックリした動作だが流暢な包丁裁きに、呆気に取られてしまった。

剥き終わった野菜は、恐らくブイヨンで煮込んでやわらかくするのだろう、鍋に入れ火に掛けられた。
そして剥かれた皮や余りの部材は、ストーブの一番奥の大きな寸胴の中に入れられた。
(この中に、デミグラスソースが入っていることは、そのときは分からなかった)

次にシェフは、鍋に湯を沸かし、そこにマカロニを入れて茹で始め、同時に、冷蔵庫から蓋付きのバットを取り出した。
バットには表面がバターで塗られたせいで、黄色い色をした、ベシャメルソースが入っていて、それをしゃもじでそぎ取り、手鍋に入れ火にかけて、途中少しミルクを加えてから暖めて伸ばしにかかった。

なるほど、蓋つきバットに入れ、表面にオイルを塗っておけば、冷蔵庫に入れても、バリバリにならないのだな、そういうことが分かり、チョット感激した。

フライパンには、いつの間にか、シュリンプと、たまねぎのスライス、そして立てに割ったマッシュルームが入っていて、軽く炒められている。

別の手鍋には、まだシチューの野菜が煮えているが、シェフは、先ほど伸ばしたベシャメルソースに、炒めたシュリンプ入りの野菜を入れて、そのジュースも入れて、最後にマカロニを入れ、味を調え(卵の黄身を入れたように思ったが、定かな記憶は無い)グラタン皿に盛り付け、上からパン粉とパルメザンチ-ズをタップリと振りかけてから、オーブンに入れた。

すかザず次に、冷蔵庫から、あらかじめ煮込んでおいたであろう、二口ほどの大きさの肉を鍋に入れ、何かは分からなかったが、酒の類を入れて蓋をした鍋を火にかけた。(小生がいたホテルでは、マデラ酒を使っていた)
煮込んでおいた肉を、冷蔵庫に入れて保存したものを、酒で「戻す」という動作である。

肉はバラの部位とモモの2種類だったと思う。


数分たった頃に、肉を取り出して、先ほどシャトウに剥き、やわらかくした野菜と一緒にして、そこにデミグラスソースを注ぎ込んで、しばらく煮込んだ。

NOANOAで小生が作ったかぶと牛肉のシチューは、肉を煮込むことから始めたから数時間かかったが、このような方法なら、およそ15分あれば煮込み料理が出来上がる。
要点は、あらかじめ牛肉を煮込んでおくことだ。(肉を煮込むのに、何が必要なのか、このときは、知る由も無かったが)

熱くした陶器の鍋に盛られたビーフシチューには、青味の絹さやが乗せられ、シチューの上からサワークリームがかかっていた。

驚きは、注文した料理が、殆ど同時に出来上がって、カウンターに並んだときであった。

他の客の注文もあったはずなのに、それも同時にたった一人でこなした、その手際の良さにもかかわらず、どこにもあくせくした様子が無く、落ち着いて、ユッタリと・・・小生には流暢にさえ感じられたほど。

これは並大抵の料理人ではない、そう感じて提供された料理を、かみ締めながら、一口ずつ味わうようにように堪能した。

昔の味_d0063263_19591663.jpg「フルヤ」についての情報が無いものかと、検索すると、なんとあの「池波正太郎」が、「むかしの味」(ブログタイトル「昔の味」はそのパクリ)という本の中で「パルメ・ステーキとチキンチャプスイなど」京都〔フルヤ〕と題し、書いているということが分かったので、先ほど本屋を3件探し、ようやく入手した。

池波がこのことを書いたのが、いつかは分からないが、新国劇の脚本をまだ書いていた頃のことで、そのため大阪、京都に来ていた頃だという。

池波 正太郎は1923年(大正12年)1月25日 - 1990年(平成2年)というから、生きていれば85歳になる、「フルヤ」に行った時のことは、今から23.4年ほど前のことと、書いているから、亡くなる直前にかかれたものだとすると、小生とほぼ同時代のことになるのであるが、ウィキによると、「1963年に新国劇のために子母沢寛原作『おとこ鷹』の脚色を行ったのち、しばらく演劇界・新国劇との関係を断ち、小説に専念するようになる。」と有るから、恐らく1960年代の始めごろのことだと予想される。

そうであるならば、池波はまだ40歳余りの年齢となる。
池波は、今ではもう殆ど情報の無い「フルヤ」について、少ないながらも貴重な情報を残している。

池波は、脚本仲間のWが、題名まで決まっているのに、脚本がかけないことを、どうにか慰める意味もあって、彼らはその日、京都大学の北の御影通り、(小生は京大農学部裏のといっていた)を歩いていて(この通りは、とても素敵な通りだから池波たちも、歩くことにしたのだろうが、観光客はメッタに通らない)グリル「フルヤ」の看板を見つけて入ったと書いてある。

「フルヤ」のあった、樋ノ口町御影通りは、東西の横の通りで、南北を走る北大路通りをさらに北に進んだところには、「高田幸吉」の店があって、高田は「フルヤ」の常連でもあったというから、池波は偶然歩いていて見つけたように書いているが、高田からこの店のことを聞いていたに違いない。

御影通りなどは決して観光客が、偶然通るようなところでは無いからだ。


そのことはさておき、池波は「フルヤ」で「パルメ・ステーキ」、「エビのコキール」、そして「チキン・チャプスイ」を食したと書いている。

そういえば、小生が座った横には「先生」と呼ばれた人が座っていて、「先生、今日は何グラムにしますか」などと老シェフが聞いていた。

恐らくは、京大の先生なのだろうと、小生が思っていたその先生が「180グラムで・・・」などといい、見ているとシェフは、冷蔵庫から大きなロースの塊を出してきて、ナイフを入れてカットし出した。

ミディアムレアだからシッポを使いますと、労シェフが言うのが聞こえたが、そのことが何を物語っているのか、当時の小生に分かるはずも無かったが、今思えば、答えは簡単で、ロースは頭とシッポとプロが呼ぶ方向があって、面積の大きいほう、すなわち牛の頭のほうにある部位を「頭」、逆に面積の小さいほう、尻尾に近い部位を「シッポ」と呼ぶ。

一般的には「あたま」の方の部位のほうが高級とされるが、Aランク・・・今では知る人も多い、A3やA5とよばれるものは、シッポでも相当すばらしい。

180グラムだと、頭のほうをカットした場合、かなり肉薄となるから、ミディアムはOKでも、ミディアムレアは相当難しく、どんなに優れた料理人でも、焼くことが困難である。

だから老シェフは、肉厚の取れる(火がすぐに通ってしまわない)シッポをチョイスした。

見ると取り出したロースは、程よいサシが入った、相当立派なもの。
今で言うA3クラスぐらいだろうか。

池波によると、近江牛を使用していると書かれている。


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さらに驚いたのは、小生が大好きな脂身を、かなりそぎ落としたことで、これはその先生の好みで、特別注文なのだろう、かなりの常連に違いないと解釈したが、ロースを頼んで、脂身をカットするのは、本来なら、ルール違反のようにも思えたのだった。

しかしこれも、ミディアムレアで肉を焼くための工夫であったかもしれない。

このような「有ずが利く」事も、今の洋食屋ではもう余りお目にかかれないことだ。


池波が食したビーフシチューの味の印象と、小生の味の印象がかなり違っていることが驚きで、池波は、「フルヤ」のビーフシチューを「今まで食べたどこよりも全く違った味わいに目を見張った」美味しい、「味はポトフのよう」・・・つまりアッサリしていると書いているのだ。

またポトフを表すのに、「洋風おでん」とも書いている。

おい待ってくれ、池波さん
「フルヤ」のビーフシチューこそ、本格的なシチューの作り方なのだ。
食品メーカーのおかげで、野菜と肉を煮込んだものをシチューとするようなところがあるが、ビーフシチューは牛肉の煮込みで、ポトフのような野菜中心の「ごった煮」ではないのだ。

確かに「フルヤ」のデミグラスは、小生の記憶では、サラッとした感じで、色もブラウンソースの色ではなく、トマトソースに近いが、味はデミグラスそのもの、本格的デミの味だったはず。

鳶色のものがデミグラスだと思っていると、それは勘違いというもの。
小麦粉の色の付け加減や、後の色素の元の加減、(カラメルでワザト色をつけるところさえある)、小生のような作り方・・・小麦粉は一切使用せずに、トマトソースとフォンでデミグラスをつくるもの・・・いろいろ方法がある。

恐らく「フルヤ」は、肉の味そのものも追いかけたかったのだろう、デミグラスにも工夫を凝らし、くどさを追いやったシチューにして、提供したのだと思われる。

池波がこれを「ポトフ」のようだと勘違いしたのは多分そのソースの色にあるのだろう。

とにかく池波と小生では、作り方を変えてないという前提での話だが、食した印象がかなり違ってはいるが、美味しいというところでは一致している。

池波の話では、まるで、小生がNOANOAで小山富士夫先生にお出しした時の味である。

味覚の問題は難しいからこのあたりにするが、「パルメ・ステーキ」とは一体なんであろうか。

池波によると、京都在住のスエーデン人、「アイナー・パルメ」という人の意見を取り入れたステーキだということだ。
しかし池波は、その味について、「いわれてみると、北欧の味がせぬわけでもない」などと書くに留めている。

これではサッパリ分からない。
スエーデンといえば、スモーガスボードに代表される、バイキング料理、そしてステーキならトナカイと相場が決まっている。

しかしそうではないから、スエーデン人のアイデアといって思い付くのは、「ジャガイモ」・・・ベークドポテトを付け合せにしたのか、ステーキ自体が・・・例えばシャリアピンステーキのように風変わりなのか、全く分からない。

「アイナー・パルメ」という人物も検索に引っかかってこずで、シャトウの名前か、かつての「オロフ・パルメ」スエーデン首相ガ有るだけで、肝心の「アイナー・パルメ」さんについては、何も分からずじまいに終わった。

アイナーもパルメも北欧系の名前であることは確かのようだから、池波の聞き間違いはなさそうだが、他のビーフステーキとの違いを味わってみたかったと悔やまれる。

最後の「チキンチャプスイ」であるが、小生にとってチャプスイとは戦後間もない頃の響きがする。

語源は中国語だそうで、何でもアメリカで、アメリカ人が中国料理を真似て、また発音まで似せて開発した料理で、これこそ「洋風ごった煮」というものだろう。

元は広東料理だが、チャプスイとしてメニューに載せているところは稀であるし、洋食でチャプスイがあるところは、今では殆どないであろう。

広東語 で「雜碎」、英語 で「chop suey」とほぼ同じ発音というところから、米国の中華街から派生し、米国料理となったものと思われる。

「フルヤ」が、何故チャプスイをメニューに加えたかは、想像も出来ないが、昭和の一時期はやったのかもしれない。

味は豚肉と野菜の甘酢あんかけといったところだそうだ。

池波によると、老シェフは、「古谷美義」といい、明治45年生まれ。
新大阪ホテル、銀座資生堂、都ホテル、京都ホテル、と修行をして腕を磨き、ガダルカナルに出兵という、悲惨な戦争体験をしたという。

明治45年は、1912年だから、池波より一回り上で、ちょうど小生の義理の父と同じ年だ。
小生がお邪魔した1972年は、古谷さんが60歳・・・今の小生と同じ年齢のときであったということになる。

何時「フルヤ」が無くなったのかは、ハッキリした情報が無いが、夫婦で厳しい洋食屋をやれるのはどう考えても70歳までだと思うから、1980年あたりまでであっただろう。
(2008.07.12フルヤさんのお孫さんからコメントが寄せられ、1986年までお店は営業していたということであった。80歳近くまで頑張って料理の道を進まれたことに、改めて尊敬の念を抱いた。出来ればもう一度訪問し、ステーキとグラタン、ビーフシチューを賞味したかったものだ。)

この頃小生は、東京でOA機器製造販売会社に入って働いていたので、京都には年に数回、家内の実家の修学院に行って帰るのがやっとで、なかでも年1回開催していた義理の父の主催する展覧会の打ち上げに、次回書くことにする、中国料理の「飛雲」の料理を食べに出席したことがあるぐらいで、あの「フルヤ」のことも、情報もその後はサッパリ不明となったままであった。

池波正太郎がまさか「フルヤ」について書いていたとは夢にも思っていなかったが、彼が書いてくれたことは、小生にとっても、非常に嬉しいことであった。

これで「フルヤ」のことは、何らかの形で人の記憶に残っていくからだ。

by noanoa1970 | 2008-05-12 17:14 | 「食」についてのエッセイ | Comments(6)

Commented by 古家 勝正 at 2008-07-13 03:32 x
グリルフルヤが休店したのは昭和61年、僕がまだ3歳の頃でした。

祖父も祖母も亡くなった今もう祖父の味を味わう事は出来ませんが、20年以上経った今でもこうして味を覚えていてくださる方がいらっしゃる事は家族一同うれしく思っています。

ありがとうございました。
Commented by noanoa1970 at 2008-07-13 09:01
古家 勝正様はじめまして
フルヤさんのお孫さんとは、驚きです。そしてワザワザのコメント有難うございます。61年というと1986年ですね。その頃まだお店は営業していらしたのですね。小生はその頃東京から名古屋に転勤しましたが、家内の実家が修学院でしたので、月に一度以上は京都に行っていました。グラタンを食べにもう一度行って置けばよかったと悔やまれます。世の中に「フルヤ」さんのようなお店がごく少なくなってきてしまい、寂しい限りです。家族の皆様も、おじいさんの隠れファンが多くいることを誇りに思ってください。本当によいお店でした。
Commented by 本田 駅堂 at 2008-11-03 21:09 x
店内にはカナリヤのさえずりが奥から聞こえ、ビーフシチュウとビールを注文すると、じゃがいもにんじんの面取りをしながら、ご自分もビールをお飲みになっていました。1985年熱海から職場の仲間と窺った時、あこがれのビフテキを食べました。雰囲気のいい店でした。壁に赤玉ポートワインの小瓶が何本も飾られていてまさに昭和の洋食屋という感じでした。あの看板がすばらしかったです。そして、御影通りは今も好きです。
Commented by noanoa1970 at 2008-11-04 09:27
本田 駅堂さんコメント恐縮です。
おっしゃる通り、昭和の香りのする洋食屋でしたね。今ではあのようなお店が、だんだんなくなってしまっているのが残念です。フルヤさんの家族の方の話では閉店は1986年といいますから、ちょうどその1年前にいらしたということになりますね。閉店直前においしい料理を味わえたこと、幸せに思います。
Commented by 本田 駅堂 at 2008-11-04 16:28 x
京都で学生時代を過ごし、NOANOAさんのお近くの銀福さんでアルバイトをしていました。帰り道、京大馬術部の横を通りながら、御影通りを自転車で走るのが大好きでした。フルヤの看板を見ながら、いつか入ってみたいなあと思っていたのでした。実は昨日池波正太郎氏の本を読み、フルヤの名前を思い出したのです。また、ネット検索したところ、このホームページに行き当たりました。京極にあった「むい」にもよく行きました。四条の琥珀も。ながながとすみません。
Commented by noanoa1970 at 2008-11-05 09:04
本田 駅堂さんも学生時代を京都で過ごされたのですね。
四条の琥珀は小生も行ったことがあります。銀福という店は小生の時代には銀閣寺付近にはなかったように思います。地図で見ると「お面」の近所のようですへ。付近には昔ZIGZAGというブティック兼カフェがありました。