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遠い記憶・・・2

昨日は、前職のことを書くつもりだったが、前々職についての記述で終わってしまった。

前々職をやめた理由を、今風に平たく言えば、「コック服よりもスーツが着たくなった」と言ってしまっても良いだろう。

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行く当ても無くホテルを退社して、しばらく就職浪人生活を送った後、たまたま新聞広告求人欄にあった、頭に日本一の山の名前がつき、うしろにはカタカナ文字が連なる・・・サッカーの世界大会では必ずスポンサーとなり、石油会社の、女の子・・小川ローザのスカートがまくれ上がる「おおーモウレツ」という一斉を風靡したコマーシャルのすぐ後に、「モーレツからビューティフルへ」というキャッチコピーと、加藤和彦がBEAUTIFULと書かれた紙と花を持って、ヒッピー風の集団と一緒に町をフラフラと、行進するコマーシャルが話題となり、ビジネスにビューティフル革命旋風を巻き起こしたあの会社に入ることになった。

なぜこの会社に中途採用になったかを、後に々職場で働くこととなった、そのときの面接担当者に聞いたところ、会社の体質を少しでも変化させるため、一風変わった人材を求めていたらしく、面接時に白い靴を履いてきた人間や、前職がサラリーマンらしからぬ、例えば餃子専門チェーン店で、街頭に立って大声で「いらっしゃいませ、有難うございました」などという研修をさせることで有名な会社出身者。

イタリアのタイプライターのセールスマン、ブリタニカのセールスマン、証券マン、元郵便局員、教育関係者、そして小生はその中でも特異といってよいだろう・・元コック。

この会社は、外資系ではあったが、アメリカの経営手法のいいところを日本的にアレンジした経営手法を取っていたから、純日本企業より日本的で、しかも超近代的、会社発足からまだ10年と経ってない若い会社で、面接官になっていた人物も、中途採用で入社し、営業経験者であったから、所謂人事担当者とは、全く違う価値判断能力を持っており、それを生かすことができる社内風潮、気風があったようだった。

その頃ビジネス界の成長は激しく、それまでは超大手を中心にしたマーケッティングをやって、この会社の生命線である複写機ビジネスを成功させてきた。

少し前までコピー料金は@50円もする時代で有ったが、超大手企業はそれでも、カーボンコピーや青焼きと呼ばれるジアゾコピーから、PPC:plain paper cpyと呼ばれる普通紙コピーにドンドン切り替わっていった時代だった。

CVというcopy volumeが多く獲得できるのは従業員規模が大きい会社であったから、そのマーケッティング戦略は功を奏し、日本の一流企業の殆どが、その会社の製品を使い、それらのトータルコピーヴォリュームは、物凄い数字となっていた。

機械を売る→コピーヴォリュームを獲得する戦略で、空前の利益を上げていたのだった。

しかしそれも、特許が切れ競合他社の進出によって、今までの戦略が取りづらくなってきた。

というのは、競合他社は、文房具屋など代理店政策によって底辺市場の開拓に力を入れ、市場に機械を多く出荷するという戦略をとり、出荷台数シェアーでは、優位を保てないこととなり、しかも競合代理店のダンピング販売の波が徐々に押し寄せる時代に突入し、コピー単価も30円→20円→10円となっていく現状では、新規ユーザー開拓・・すなわち中底辺市場へのアプローチを必用としたから、そのための要員として中途採用者を募集していたのだった。

恐らくこの時期の中途採用者は、全国で数百人は居たであろう。

ほぼひと月ごとに、中途採用者が入ってきていた。

小生は1977年9.21の採用で、同期は約35名だった。

採用が決まると、すぐに千葉県の大きな研修センターに入り、そこですべて営業に必要な知識やスキルを、半年かけて教え込まれることとなった。

研修センターの設備は、ホテル並で、勿論3食無料で食べることが出来た。

トレーナーは、すべて実戦経験者だから、学校の授業とは全く違うトレーニングで、小生は世の中にこれほど凄い社員教育をする会社があるなんて、夢にも思わなく、そのシステマティックな体制に感動すら覚えたものだった。

しかし研修はかなりハードで、朝9時から夜は早くても23時、中には徹夜に近い日もあったが、何もかもが新鮮で、これからフィールドに出て実践をするためには、基礎を徹底的に身に付ける必要性を実感していたし、ホテル時代は、夜23時まで仕事し、朝は4時に起きて宿泊者の朝食の準備をしていた経験が役に立ち、総つらいとは思わなかった。

聞いた話では、特に新卒の研修生の中には、研修が辛くて途中で逃げ出す人間が何人か居るそうである。

研修はヴァラエティに富んでいて、中でもロールプレーイング実習では、営業マンとお客になって、やり取りをしているところをVTRに収録し、それを見ながら、改善ポイントを話し合い、また実践するといった手法が取られ、ホテルの「教えてもらうな、技を盗め」という前近代的な手法とは全く違う世界に、またも感動したのであった。

研修では、なにごとに対しても、評価システムが適用され、研修生の能力を点数にして、タイミングを見計らって、積算したものを発表するということが行われたが、これはわれわれの中学生時代に、すべての生徒の期末試験や、実力試験の点数を模造紙に名前入りで書き出し、廊下に張り出した悪夢のようなあのときと同じであったから、さして苦も無く、ビジネス社会だから当たり前かと思うくらいのことであった。

研修生全員の目が輝いたのが、インセンティヴ制度で、この先配属と成営業職となったときに、与えられたターゲット目標を達成すると、車が1台帰るぐらいの報奨金が給料の他にいただけ、それが1年に2回あるということだった。

この会社の給与体系は、他の営業主体の会社と異なり、歩合制ではなく、完全固定給であった。

製造販売会社だから、工場で働く人もいるから、給与体系は万人が同じで、営業職は特別にインセンティブがあるというわけだ。

完全固定給・・・これは非常にありがたかったし、メーカー直販スタイル(代理店を一切使わない)は、製造現場と営業部隊のコミニュケーションという意味でも、いいスタイルであった。

数年前の話し、新卒で入った若い営業が、ターゲットを達成し、インセンティブの賞金で、銀座の一流クラブで、札びらを切って遊んだ・・・そんなまことしやかな話も聞こえてくるほどであった。

社員バッジは、普通は金色のメッキのものだが、通産100台、200台と売るに従ってハンドレッドクラブといって、バッジも銀の無垢、そして18金の者が与えられ、それを付けている人は尊敬のまなざしで見られるのだった。

着ているスーツは、サイドベンツがこの会社のTOPセールスの証であるように、売れているセールスは、吊るしではなく、仕立てのサイドベンツのスーツを着ていた。

こうして6ヶ月の研修期間を経て、配属が決定したときの、思っても見なかった仰天の話は次回にする。

by noanoa1970 | 2008-04-09 11:43 | 歴史 | Comments(0)