四つの最後の歌

昨夜のN響アワーは、ソリストを共にする昨年の定期公演から、視聴者が選ぶベスト特集だった。

なかで印象的だったのが、アンナ・トモア=シントウのリヒャルトストラウスの名作「四つの最後の歌」から「眠りにつくとき」 Beim Schlafengehen と「夕映えの中で」 Im Abendrot を歌ったもの。

さすがにお年を召したのか、ところどころ地声が出てはいたが、往年の声はいささかも衰えてはいなかった。

NHKを信用しての話だが、この歌曲がベスト5以内に入るとは、この歌曲集が好きな方は矢張り大勢おられるのだろうと、わが国のクラシック音楽事情も、だいぶ変わってきたことに驚いたが、これは喜ばしいことでも有った。

N響のバックも、「眠りにつくとき」でのバイオリンソロがビブラートを掛けすぎなのを除けば、曲想が持つバックのスタイルをよく表現していたと思う。

ソプラノの声も、ややお年を召されたシントウの、落ち着きのあるトーンが大変良くマッチングしていて、相乗効果が出ていたように見受けられ、真剣に聞き入ってしまった。

アンナ・トモア=シントウは、カラヤンお気に入りの歌手の一人だが、カアラヤンお気に入りの美人ソプラノ歌手に「グンドラ・ヤノヴィッツ」がいて、小生は彼女のこの作品を最も好んでいる。

晩年、黄昏、諦観などという言葉の表現には、ヤノヴィッツは若すぎるし、声も色気と艶が有りすぎるし、広域の音にも、何の屈託の無い表現を見せる彼女の歌い方と声を評価しない人もいるとは思うが、「死と変容」「メタモルフォーゼン」に続いて収録されたれた音盤を聞くと、カラヤンの凄さの一面が良く表出されているように感じられる。

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60年代、ベルリンフィルと演奏したモーツァルトのレクイエムの、そしてベートーヴェンの第9でも特徴的なのだが、どうもカラヤンは、人間の「声」を、楽器の一種として扱うようなところを、多分に見せるのはないかと、常々感じるところが多かったのだ。

合唱にその特徴はより多く見受けられ、例えば、両曲のフェルマータを、息が切れるかと思うようなところまで極端に引っ張るところがある。

独唱者では、その傾向は薄まるものの、ヤノヴィッツのシュトラウスは、詩と音楽が持っていると一般的に思われている人生の終焉、死を前にした諦観、今までの人生の喜びと感謝などの感情移入を極端に抑えた・・・・昔から言い古された芸術上の言葉を敢えて使うなら、「ザッハリッヒ」な演奏であり、ヤノヴィッツの歌い方は、彼女の本質とも思える、よい意味での女性らしさを、極端に抑えようとして歌ったものであるように思う。

でもしかし、そんな努力の後も見受けられるのだが、矢張り彼女の本性は到底隠せない。

随所に、隠そうとしても隠し切れない溌剌とした美声が出てくる。

四つの歌それぞれに微妙に変化する歌唱法は、その努力の跡が良く現れていて、カラヤンの伴奏と大きな矛盾をはらむのだが、しかしそれこそがリヒャルト・シュトラウスの晩年に至るまでの・・・人生そのものを、そしてヘッセ、アイヒェンドルフの詩にもこめられた「後期ロマン派の矛盾」そのものであるように思うことが多くなってきたこのごろである。

そういった意味でも、小生はこのカラヤンとヤノヴィッツの「四つの最後の歌」をお気に入りとしている。

黄昏に空高く舞い上がって鳴いているヒバリは、何を見たのだろうか

追伸
今気がついたこと
「四つの最後の歌」から、ブルックナー7番、偲ワーグナーのメロディとドヴォルザークの2楽章の一部が聞こえてきた。

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by noanoa1970 | 2008-03-17 11:13 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)