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子供の不思議な角笛から

「角笛」といえば、マーラーのオーケストラ付歌曲が有名だが、その中に収められた民謡の数々は、19世紀極初頭にドイツのロマン主義運動の流れ「シュトルムウンドドランク」源流の、ドイツロマン主義・民族的運動の中、ルートヴィヒ・アヒム・フォン・アルニムとクレメンス・ブレンターノが収集した、ドイツの民衆歌謡の詩集である。

その話の時代背景は、察するに多分まちまちで、その出自も、ドイツの民謡ばかりであるとは思えないものもあるようだ。

例えば、魚に説教する「聖アントニウス」などは、もともとがドイツの民話とするには少々ひっかるところがある。

この話とは、イタリアのパドヴァの聖アントニウスが、ある日教会で説教会を開いたが、誰も聴衆はやってこなかった。
それで川辺に立って、説教をしていると、なんと川魚たちが沢山集ってきて、熱心に説教に聴きいった。

それからというもの、人々は聖アントニウスの奇跡を信じ、熱心に説教を聞くようになった。

・・・恐らくは、そのような聖人賛歌がベースの、カトリック教会でのお話であったのだろうと思うが、(原本は知らないが)マーラーで使われた内容は、聖人賛歌ではなく、説教する聖アントニウスの言葉を、熱心に聞いていた川魚・・・鯉、ナマズ、ウナギ、蟹、カワカマスだったが、話が終わると、その瞬間、説教で語られたことなどお構いなし、なにも改心することが無く、結局元の魚達のままであったという話である。

わが国の諺で「馬の耳に念仏」と同じであろうか。

オリジナルは、カトリック教会の聖人賛歌であったものが、いつの間にか変貌し、自己満足を象徴するような似非聖人話へと変化するのである。

これはどうしたことであろうか。

マーラーの使用した詩の魚達は、勿論本当の魚ではなく、推測するに、非キリスト教徒、あるいは非カトリック教徒、すなわち異教徒の民、それも下層階級:農民を始とする民衆達などを表現したものであるのだろう。

そのような人々を教会に集めて、言葉の分からないラテン語で説教をしても、その意味するところは当然文字もろくに読めない下層の民衆には伝わらない。

支配層のカトリック教徒の貴族連中は、相変わらず無理難題を押し付けるし、カトリック教会そのものも、権力闘争の巣窟となった時代、フランスではユグノーが、ドイツではルターが宗教改革・・・プロテスタント新教の運動を起こし、それが飛び火していった。

魚への説教が聖者の奇跡から、愚考話へと転化したのも、反カトリックあるいは反キリスト教の力が働いた、社会的風土の中からではなかろうか。

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また、子供の不思議な角笛には「この世の営み」という曲(小生が好んで聴くテンシュテット盤では、2曲目にルチアポップが歌う)があり、おなかを空かせた子供が、お母さんにパンを焼いてとせがむので、お母さんは麦の借り入れ、小麦か、そして最後にパンをやっと焼き上げて子供に与えようとするが、そのときすでに件の子供は、棺桶の中に横たわって、息絶えていた・・・という話。

現世のご利益を与えてくれない宗教、母親が自分の子供さえ守ってやれないような社会、そんな不条理で悲しい社会風刺が歌われる。

宗教改革のパワーは、このように虐げられた民百姓の支えによっても、推進されてきたのであろう。

マーラーは、ユダヤ教からカトリック教徒に改宗した。
理由はいろいろな説があるようだが、今現在と違い、19世紀の改宗は、恐らくわが国の共産主義者の転向以上に、後ろめたさで溢れた精神構造を秘めた、人生の大きな反革命的要素の一つなのだろう。

宗教は民族の文化であり、生活そのものであった。
出自さえも、理論的には否定することになる。
祖国が無いデラシネというわけだ。

そんな・・・心情的にはユダヤ人、理論的にはキリスト者。
このような絶対矛盾的自己同一を、マーラーは、持ち続けたのでは無いだろうか。

マーラーに見られるシニカルな表現は、そのことを良く物語るようだ。

by noanoa1970 | 2017-03-11 10:53 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)