関雪桜・・・誰も知らない命名の経緯

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今はなき掲示板「クラシック招き猫」で議論を戦わせた論客「てつわんこ」氏のブログ「神戸阪神地域芸術文化情報」中の
京都洛東の紅葉(4)哲学の道 に白沙村荘:現橋本関雪記念館のことが書かれていて、中に「関節桜」が紹介されていた。

「この桜は、長い間関節が植えたものとされていたが、事実はそうではなく、関節の妻ヨネが苗木を購入し、哲学の小道の疎水沿いに植林したものである。」と、知ったかぶりのコメントしたら早速訂正していただいた。

さらに関雪桜の命名は・・・関雪の孫に当たる・・・当時白沙村荘の当主で局長であった「帰一」氏なき今日、こんなことを知る人はもうそうはいないと思うのだが、それは何を隠そう、当時アルバイトで入って後にNOANOAを立ち上げることになった小生とと大学サークルも一緒だった友人K田と、そして帰一氏によって考えられ、つけられたものである。

話は1969年ごろ、それまで橋本関節個人の住居で、その家族が住んでいた「白沙村荘」というニックネームで呼ばれていた約3000坪の敷地に有る池泉回遊式庭園を持つ家屋を一般公開するに当たり、小生は庭園管理の先輩達に続いて、屋敷内に新しく設けられることになった、総檜造りの「お菜ところ」という食事とお酒を提供する店のバイトに入った。

切欠はK田と下宿を同じくするS倉という男の誘いがあって、たまたま遊びに行った小生がK田を巻き込んでそれに同調したのだった。
そのとき白沙村荘は、一般公開をして間もない頃だったから、2人とも白沙村荘の存在も、橋本関雪という日本画の巨匠のことも知らなかったが、S倉の説明を聞き興味がわいたのだった。

白沙村荘でのバイト生活は快適そのもので、バイトの仕事は勿論だが、何よりも「文化芸術」の中に身を浸す快楽とチョットした優越感は、得も言われない魅力があった。

全てにわたってが、およそ京都人らしくない豪快さに溢れていて、夜ともなると関雪や、その息子である故雪哉、そしてその奥さんである田鶴子さん

(この人は大昔の東京都知事鹿児島県知事の娘・・・お嬢さんであるにもかかわらず、お菜ところをやることになった。
そして
このとき主に料理の手ほどきをしたのが、関節の墓がある精進料理で有名な山科の月心寺の安寿さんである)

の知り合い縁者などでいつも賑わっていて、青二才の学生の身分では絶対にお目にかかれないような高名の方々とも屈託無く酒を酌み交わしたり出来るそんな魅力があった。

いく月かが過ぎ、NOANOAというイタリアンレストランを開くことになって、小生とK田は開設主担当となって準備を始めていたが、あるときミニコミ誌の記者がやってきて、京都のタウンマップを作るからNOANOAを掲載しないかという。

聞けば昨今流行のタウン誌の走りのようなものを作るということで、銀閣寺周辺を1ブロックにするという。

当時小生たちはミニコミにも興味があったので、どんな感じに仕上がるのか興味もあって、あれこれ話すうちに、咲き始めた白川沿いに植えられた桜の話題になった。

白沙村荘当主で局長の「帰一」氏によると、関節の嫁が植えたもので、周辺の人は関雪はんが植えはったといっているらしいという。

この桜並木をNOANOAそして白沙村荘とむすびつけない理由は無い。
今までは個人の住居にしか過ぎなかったが今は違う。

そこでごく自然に、誰からともないように「関雪桜」とするのがいいのではないかという雰囲気になり、ミニコミ誌にそのように明記してもらうために党首であり局長の意見を仰ぐと「帰一」氏は、さも大発見したように大きく頷きながら「関節桜か、これはいい、当たり前すぎて今まで気がつかなかった」といいながら手放しで喜んだ。

「関節桜」が世に初めて出ることになったのは、このときの京都のタウンマップの雑誌によってで、それから長い年月の間に世間に浸透してようやく定着したのである。

名前の由来や名付け親そして命名者の存在などは、時とともに忘れ去られるのが宿命であるが、そういったものに関わったという事実が存在し、そしてそれが今日まで引き継がれてきているということに、何か特別なものを感じることがある。

現在の白沙村荘:橋本関雪記念館の運営は「帰一」氏が亡くなった後、奥さんの「妙さん」と次男の手になるが、まだ若き関節のひ孫は、そのあたりの経緯を多分知らないであろう。

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by noanoa1970 | 2007-12-04 11:21 | 京都 | Comments(1)

Commented by kawazukiyoshi at 2007-12-04 12:38
面白い話に出会いました。
関節桜が関雪桜でしたか。
今度歩くときはこの話を思い出しましょう。
今日もスマイル