映画の中の伏線で考えた
「マディソン郡の橋」では音楽が巧妙に使われているが、それとともに、さらなる面白い伏線が仕掛けられている。
物語冒頭で、主人公フランチェスカの子供達が、母親の遺産を整理するシーンで、フランチェスカが愛した写真家キンケイドの遺産を受け継いだ箱の中から出てくるペンダントがこの写真である。
このことから、写真家キンケイドはアイルランド人あるいはアイルランドからの移民の末裔であることが分かる。
一方先のブログに書いたように、フランチェスカは、ベッリーニの歌劇「ノルマ」を好んで聞くことから、イタリア人であることを想像させ、歌劇のストーリーを知っている人は、これからの物語の展開を予想させる伏線になっている。
原作など読んでもいないし、小生はこの映画のストーリー展開が好きではないが、この映画のこのような仕掛けについては興味を抱き、そこにクリントイーストウッドの監督としての才能を見るのである。
しかしそこは観る対象を固定しない映画のこと、万人向けに製作するためには、伏線だけに終ると、観る人の全てに理解を得られないから、途中でアイルランドの詩人「イエーツ」の詩まで読ませるにもかかわらず、キンケイドは自らアイルランド出身であること、そしてフランチェスカは、自らイタリア人であり、しかも南イタリアのバリの出身であることを口にして観客に分からせてしまう。
さて物語の最初の伏線と、途中で明らかになる2人の出身地・・・
小生はこのこと、すなわち両者ともに異邦人、いわば異教徒の人間であったことはかなり重要なことだったのではないかと想像する。
歌劇「ノルマ」は異邦人、異教徒同士の恋愛の話で、これから始まるフランチェスカとキンケイドの恋愛も、異邦人同士そして、物語中間でエピソード的に挿入される、カフェでの光景で、そのことの重要性と結末の理由の伏線が張られている。
それは、ある町のカフェでキンケイドがカウンターに座ってお茶を飲んでいると、有る女性が入ってくる。
すると店にいた全員がいぶかしそうにその女性を見る。
キンケイドは事情を知らないから、躊躇無く隣の空いている席に、その女性を座らせる。
ウエイトレスは、乱暴に水のコップを置き、ぶっきらぼうに注文を取る。
まるで、「お前なんかこの店に来るな」・・・周囲の客はみな、「お前なんかこの町から出て行け」・・という雰囲気だ。
どこからか小声で誰かが言う、「不倫したのがバレタのよ」と・・・。
このことは2つの意味を持っていて、小生が強調したいのは、村社会における「差別意識」である。
「不倫」による差別的な視線は、直接キンケイドとフランチェスカにかかわってくると予想されるが、もう一つの重要な視点は、「異邦人」あるいは「異教徒」という隠された差別である。
フランチェスカはイタリア人そして南イタリアのバリ出身というから、連合軍の南部イタリア防衛戦で上陸したアメリカ兵の夫と知り合って恋に落ち、結婚してアメリカはアイオワの田舎町にやってきたことを思わせる。
1945年前後のことだろうから、その時代はアメリカでさえ人種差別は田舎ほど激しかったと予想される。
黒人が対象とばかりはいえず、異邦人・・特に敵国であったイタリア人そしてカトリックといういわば異教徒のアイリッシュも、目に見えない差別を受けたことは推測可能だ。(日本人は宗教煮ついては無関心だが、当時はまだプロテスタントとカトリックの反目はユダヤ教徒ほどではないにしろ有ったであろう)
小生は、ヒョットしたらイーストウッドはアイリッシュではないのだろうかと推測して、調べてみると、以下の記述があった。
クリント・イーストウッドは父クリント・イーストウッド・シニアと母モーガン・イーストウッドの間に生まれる。スコットランド、アイルランド、ドイツ、イングランドの4ヶ国の血をひいている。家系はメイフラワー号の乗員で港町プリマスを統治したウィリアム・ブラッドフォードを祖とする名家であるが、幼い頃は世界恐慌の煽りを受け生活は苦しかった。
なるほど矢張りイーストウッドの底辺には、アイリッシュのルサンチマン的感性があったのだろうことは、想像を拒むものではないようだ。
by noanoa1970 | 2007-10-27 10:19 | 動画・ムーヴィー・映画 | Comments(0)