行列待ちで食べるラーメン(のような)


(美味しいラーメンの話だと思われた方は勘弁してください)

およそ、人間の持つ感覚というものは、非常に不安定極まりないものである・・・
そう小生は思うのである。

このことは生活の中で様々な形で体験できる。

何時だったか、そのことを実験するのに、京都の一流の料亭に、主婦達数人を招いて、吸い物を提供して味の評価を聞くというものがあった。

この料亭は教徒でも屈指の名料亭で、主婦がおいそれと行ける様な所ではないから、恐らく彼女達はその前から期待と想像力で、心の中を一杯に満たして参加したのであろう。

建物の、調度品の、照明の、庭が配されたエントランスのしつらえ、そして料理の器。
それらの相乗効果が相俟って、提供された「吸い物」の感想は、全員がパーフェクト・・・さすが料亭〇〇さんだけのことはある・・と手放しの評価であった。

しかし・・・なんとその吸い物を作ったのは小学校5年生の女の子であった。

彼女の腕がたまたま、通常の人間よりも良かったことは推測可能であるが、一流料亭の板前と比べれば、ダシのとり方も、塩梅も知れているから、極普通のシチュエーションであれば、いかに味覚神経に乏しかったとはいえ、何人かがその味に気がつくはずだ。

このように人間の味覚を含む感覚には限界(絶対感覚がない)があることは明白な事実のようだ。

30分以上並んで、やっとのことで食べることが出来るラーメンなども、そういう・・・他の付加価値要素が働いて、味そのものに対する感覚が鈍ることも多いのだろう。
そして、これらのことは一種の「ブランド志向」「ブランド信仰」ということも出来そうだ。

さて、「音楽」に関しても似たような経験がある。

例えば、クラシックファンでなくてもその名を知っている「ヘルベルトフォンカラヤン」というカリスマ的指揮者がいて、古くから彼の演奏振りは評価されてきた。

しかしコアなクラシックファンの間では、まるでブームのように、ここ20年ほど前あたりから「アンチカラヤン」という声が声高に叫ばれるようになったと記憶する。

「アンチカラヤン」=クラシック通である・・・このような図式がいつの間にか定着しかかったような様相を呈した。

一方「アンチ巨人」というのも有って、これもほぼ「アンチカラヤン」と似たような傾向であるように思われる。

「強いものへの反抗」・・判官びいき、あるいは「ネームヴァリューの大衆化」に反目するというマイナス加速は確かにあると思うのだが、大抵はその向こう側に対抗軸としての擬似ブランド志向がある。

つまりいずれもが同じ土俵上に立っているのだが、当の本人達は、そのことに気がついていないということだ。

例えばカラヤンの対抗軸として引っ張り出されたのがSergiu Celibidache「チェリビダッケ」で、彼がカラヤンとベルリンフィルをめぐった権力闘争に敗北していったことを受けて、またその音楽性が大いに異なることから、また人種的なことも含めて、一時期アンチカラヤンサイドから担ぎ上げられていて、いまもその影響は大きいものがある。

残された音盤を聞くと、ザハリッヒで、豪華きらびやかな音楽のカラヤンと、表現主義的、瞑想的、ユッタリしたテンポ設定を多く取るところから来る、神秘性、伝説のように語られる毒舌で、カールベームをこき下ろしたり、ベルリンフィルに難癖を付けたりしたというから、アンチカラヤンの旗頭としてもてはやされたのは事実である。

しかし実は、これらのことは彼らの音楽性とは余り関係が無いことで、昨今特徴的なことの一つ・・・少し前までは録音されたものをLPやCDとして発売する前には、必ず演奏者のチェックと了解が原則であったのが、彼らが亡くなってしばらくたった今日では、その頃の了解事項が見事に破られ、何でもかんでも音源として残されているものをチェックも、勿論本人の了解など取るはずも無く、「商品」・・・しかもヴァーゲンセールの・・体をなして来ているようになってきてしまった。

その昔なら到底演奏に瑕疵があるような録音は、世の中に出ることに歯止めがかかったのだが、今ではその歯止めが機能していないから、そしておまけに非常に安価に発売されるから、「情報開示」がごとく、洗いざらい彼らの残した演奏が耳にさらされる今日である。

音源における情報の量・質は、過去とは到底比較にならないのである。

したがってその気になれば、彼らの残した演奏を殆ど聞けるから、ようやく今彼らの正当な評価も可能になってきているように思うのだ。

一昔前は一種の情報操作・・・瑕疵を上塗りして訂正したり、出来がよくないものは市場に出さない・・・いろいろな立場でフィルターが掛けられていたが、いまではそのような手間暇がかかることはしなくなって、何でもかんでも売れそうなものは市場に出してくるようになった。

こうして一昔の「神話」は崩れていき、ネームバリューの高い演奏家達にも、失敗があり、全くつまらない演奏をしていることがあるということが分かるようになってきて、コアであればあるほど、その価値観を新たにせざるを得ない状況となってきたようである。

ところで「カラヤン」であるが、小生は今まで聞きえた彼の新旧の音源から、「カラヤンに駄作は無い」と断言できそうな確信を持っている。
このことは好き嫌いとは少し違う意味で、好きな演奏スタイルの演奏家は他にもいるが、カラヤンが残した録音の殆どは、そこそこの水準を保っていて雑味は殆ど感じられない。

しかし対抗軸のチェリビダッケの音楽は、出来不出来がとても激しく、素晴らしいものはカラヤンを凌駕することさえあるが、送でないものもあり、その落差は大きい指揮者である。

鋼鉄の羽物と、ステンレスの羽物の差のようでもある。(例が帰って分かりにくいかも)

このことは簡単なようでそんなに簡単ではないことで、才能あるプロでも、時には気が入らないことはあるし、生の演奏会ではかなりそのことを経験したことがあるから、コンサートライブは、(これを絶対視する人が多いのにも困ることがあるのだが)ある種のギャンブルのようなところがあり、ネームヴァリューがある演奏者が必ずしもすばらしい演奏をするという保障は何も無い。

ましてオーケストラにおいては100人に近い人が集っているわけだから、中には体調、気分がマイナーなままで参加している人もいて当たり前。

そのような人が10%もいれば、他がどんなにがんばっても緊張感ある演奏にはなりようが無い。
そんな物凄い者には、めったにお目にかかれない・・・現実はそんなものだろうと思っておくほうが良く、これは一種の「運」でもある。
当たったときには幸運だ。

ところが、中にはこういうことを理解しようとしない輩もいて、「高いお金を出して、名のある演奏者のコンサートに参加したのだから、絵も言われないような音楽を聞かせて当たり前だ」と端から思い込んでいる人がいて、そのような人たちの感覚をさらに鈍らせるものが、以下のように・・・・

・・・・「30分行列して、やっと食べるラーメン」の例のように、「並んでまで食べるという付加価値」によって本質の味=音楽・演奏を見失ってしまうようなところがあるから注意が必要で、よく「良かった」「感動した」などなど自身の感性をこのような言葉で表現して満足してしまうことが、往々にしてあるが、(そういう感性の大切さを十分わかった上で、敢えて)それはどうしてなのか、どういうところから来たのか、なにに対する感情なのか・・・など自問自答することも必要だと思うこのごろである。

確かにコンサートライブは素晴らしいが、純粋に演奏・音楽そのものを聞くという観点から見ると、紛らわしい付加価値が多すぎるのも事実だから、音楽の享受の仕方も、そこから得られる感性も、いろいろな場面で確かめてみることが必要なのだろう。

コンサートライブ評というものが散見されるが、小生はそれらは全く信用しないことにしている。
それによる演奏者の評価のような論評は、かなりの疑いを持って、軽く受け流すか、殆ど参考にもしない。

たった1回にしか過ぎないものを、しかも時間ととともに瞬時に過ぎ去っていく(繰り返し聞くことが不可能な)音楽の演奏評価が出来るほど、人間の耳や感性は強固ではなく、可能なことは個別の楽曲についての演奏の一瞬の印象、あるいはコンサート全体についての個人的感想の領域にとどまるに過ぎない事でしかありえないと思うからである。

一回性のライブコンサート評は、たとえ無責任に何を書いても許されると思う風潮があるから、(その場に参加していない人にはわからないから)褒めようが貶そうが、あまり性質がいいものではない。

そういう意味では、誰もが追体験可能な音盤評であれば、その評価の違いの理由を自ら探ることが出来るから、「評論」「評価」における眼力も訓練のシナジーが図れるというものだ。

しかし音盤とて、それを聞く環境は千差万別(ある人はPCで、ミニコンポで、またある人は専用のオーディオルームで巨額のオーディオシステムで、という具合に)であるから、一筋縄では行かないものがあることも事実。

音響装置によって録音された演奏が異なって(音のみではなくその質感までもが)聞こえることは実際に経験することだから、「音楽と対峙」するのは非常に厄介なことでもある。

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by noanoa1970 | 2007-10-25 10:43 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(1)

Commented by こぶちゃん at 2007-10-25 12:12 x
いや~、A4換算で3枚にも及ぶ力作、思わず唸ってしまいました。
私にも思い当たることが沢山あり、かなり考えさせられる良いテーマ
だったと思います。

カラヤン対チェリビダッケ…
フルトヴェングラー亡き後、フリッチャイも早世した後の混乱ですよね。
要はベルリンPhの楽員にとって、どちらが収入をアップさせてくれるか?
ではないでしょうか。結果はカラヤンで正解だったのでしょう。
レコーディングの本数、レコードの売上から間違いなく増収に繋がった
はずですから…。
チェリビダッケは有名な録音嫌いだから、彼が就任していたら、
ベルリンPhは今ほどメジャーにはなっていなかったのかもしれません。
私は80年頃からカラヤンの奏でる音楽性はキライでしたが、音楽産業に
与えた功績を否定するつもりはありません。

それにしても人間は、その店の雰囲気で味覚まで左右される。
周りの聴衆の盛り上がりで自分の音楽評価まで変わってしまうという
のは、バカな話であると思いつつも、妙に納得してしまいます。
続きは又。