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DRAC興亡史・・・1967~72その28「最終章」


≪前口上≫

時系列が入れ替わったりして、かなり読みづらいところがあるのを承知で、40年以上のことを思い出しながら、やっとここまで書いてきた。
願わくばDRACの諸氏による補足や異なる観点からの記述を待ちたいところである。
現在飲み会やOB会が開催されてはいるが、だれもこの時代のことに触れようとはしてこなく、ある種タブーのような感じもあった。

しかし、この激動の60年代後半から70年代初めのことは、その時代のOB諸氏の残照として、消そうにも消し去れないことである。

40年以上前のことを蒸し返すのはよくないという意見も有るとは思うが、やはり一度整理しておかねばならないと常に思っていたことだから、思いつくままに書き連ねたが、ところどころで記憶が途切れることもあり、まとまりのつかない物となってしまったバカリでなく、およそ「DRAC興亡史」というタイトルに相応しくないような、いわば自伝的なものになってしまったことは意に反することである。
しかし今思えば、たぶんこのような書き方しか不可能であったように思っている。


71年を持って小生のDRACの記憶は途切れはするが、72,73,74年卒業のOB諸氏の記述が望まれるところである。

幸いブログを通じてめぐり合うことができた75年入学のHN:drac-ob氏によって、75年以降を引き継いでいただけるというから、80年代までのDRACの状況はいずれ明らかになるはずである。

氏の記述を待ちたいところであるから、よろしくお願いいたします。


≪コーダ≫

70年の夏まで小生は同志社学生新聞局で新聞局復活を手伝い、復刻第一版の発行を終えたことから、その後はもっぱら銀閣寺畔にある橋本関雪の屋敷、白沙村荘「お菜ところ」でのバイト、そして後に立ち上げることになる「NOANOA」での日々を過すことになる。

70年後半70年安保も通過し、大学紛争も一次終焉を迎えたが、執行部役員連中は、すでにDRACに寄り付かなくなっていて、彼らの動向はサッパリ不明となっていたが、その頃岩倉で同じアパート下宿にいたK田、F原と小生の元に、後に幹事長をやることになるA田、そしてS井達が入れ替わりやってきては、不思議な集団を形成していた。

71年にはN谷という男が幹事長をやっているという話を聞いたが、彼らの代は殆ど付き合いが無い状態であったし、何かやっているらしいというDRACの現状が伝わるだけであったある日、バイト先にやってきたのが2回生になったばかりのF田だった。

話を聞くとF田は、どうもバイト先を探しているらしいので、NOANOAに引き入れるようになって、ようやくDRACの現状がハッキリと伝わるようになって来たのだった。

71年の春にはすでにDRACのクラシックグループは、有名無実となっていて、N谷も幹事長とは名ばかりの、いわばノーカン状態であること。
JAZZグループが、細々とグループ活動を続けていること。
リーダーが、女性でH田であるということ。
新入生の女性のサークル員が数名入部したということ。
JAZZグループはやってはいるが、「ウエザーリポート」はJAZZか?などというくだらない議論をしていて、およそ研究とは呼べないことなどが断片的に伝えられるのだった。

このままではクラシック音楽研究会としてのDRACが滅亡し、変わりにタイトウしつつあるロックの連中にサークルが乗っ取られそうであるという危機感から、先のブログでの「BOXの扉に模造紙で書いた檄文」となるのである。
71年、われわれの世代は殆どが卒業し、京都を去っていったが、小生とK田は京都にまだ居た。
小生とK田が相談して行ったことであった。

しかし、それもむなしくF田はDRACを去り、小生とDRACの接点は、ここに終焉を遂げることになった。


71年、小生は下宿を岩倉から松ヶ崎の安アパートに移し、NOANOAをやりながら、F田や他のバイトの連中、そして白沙村荘の庭園の関係に従事する女学生達と交流を続けていた。

この頃庭園でバイトをしていた女子大生の友人が今の家内である。
また白沙村荘で事務員として働いていて、小生とは姉と弟のような関係で交流のあった女性が後にK田の奥さんとなる。

それまでの場所「お菜ところ」は、総ヒノキ作りで関雪の日本画のギャラリーとし建てられたものを、お晩材と酒を提供するシャレた店に改造したもの。
関雪の息子節哉のお嫁さん「田鶴子」さんがやることになったのを手伝っていた。

田鶴子さんは京都府知事で後に都ホテル取締役m会長だった
池松 時和の娘という、由緒正しい人であったが、非常に気さくで仕事が終わると大抵一緒に近所の店に飲みに行ったことがかなり多かった。
樺山 愛輔の次女白洲正子とは顔見知りの中であった。

お菜ところは、昼は観光客が多かったが、夜になると白沙村荘縁故の人たちが集う、ある種文化芸術のサロン的雰囲気が漂うような装いを呈した。

小生の文化芸術に対する興味がより深まったのは、この白沙村荘における日々によって培われたところが大きい。

陶芸家、詩人、作家、脚本家、画家、蔵元、有名な漬物屋、有名な寺の館主、美術館、博物館の館長、大学教授、劇団俳優などなど、あらゆる文化芸術関連の顔がいつも見える毎日で、時には話しに引きずり込まれたり、お酒の相手をしたことも数え切れない。

白洲正子さんと会ったのも、小山富士夫さん、女優のI・Nと知り合いになれたのもこの白沙村荘時代であった。

関雪のコレクションギャラリーとして作られた洋館を改造し、NOANOAをやったのは71年春のこと、京都で最初の「ピザとスパゲッティ」・・・イタリアンレストランとして好評であった。

もともと料理は好きで、中学生時代から大抵のものは自分で作っていたが、店で料理を提供するとなると話は全く違ってくる。
しかし自分の思うとおり店を任せてくれたから、張り合いが出て積極的に勉強した結果、本科的トマトソースと、ブイトーニそして完全手作りのピザ生地と、オランダ産ゴーダチーズのピザは、今でもその味を凌駕するものにはお目にかかれないほど美味しかった。

イタリアには行った事も無かったが、後にアルバイトに来ていた浄土寺の老舗のケーキ屋の息子O前が、新婚旅行でイタリアに行き、ナポリとローマでピザを食べたところ、NOANOAのピザの味にソックリだったのに驚いたという話をしたことがあるから、まんざらでもなかったのだろう。

利益製を気にせずに、ただ美味しいものを提供するという、殆ど素人同然のやり方であったから、今のピザのように、バリエーションはあっても、中身のウスッペラなものとは違い、満足度は高かったと自負しているが、利益は薄かったことだろう。
それでもそこが白沙村荘らしいところで、白沙村荘の庭園や美術品を鑑賞に来たお客に食事を提供するという、コンセプトがあったから、そのようなことが可能であった。

トマトケチャップと炒めた麺の「ナポリタン」が殆どの時代に、イタリアントマトを使用した本格的トマトソースとブイトーニの茹で上げスパゲティが不味いわけは無く、誰もが感激して食して行った。

小生が洋館の改装デザインを手がけ、初代チーフとして開発したNOANOAの料理が、時代とともにモディファイされたとはいえ、40年以上たった今も、京都銀閣寺畔の白沙村荘の中で、立派にその伝統の味を保ちつつあることはうれしいことである。

白沙村荘でのいろいろな体験のことは、一部先のブログに記載したが、いずれ改めて詳しく書いて置くことにしたい。
ここでの体験は、小生にとっては随一の大きな人生経験であり、文化芸術の中にドップリと漬かった日々であったから、今までの人生の中に占めるその影響は計り知れないものであった。

1972年の春、小生は京都から名古屋に帰って、お城の見えるホテルNCで働くことになる。

by noanoa1970 | 2007-09-22 10:03 | DRAC | Comments(2)

Commented by drac-ob at 2007-09-23 16:18 x
お疲れ様でした。激動の時代の文連傘下の1サークルとしてのDRACと、そこに参加した人たちの息吹が伝わって来ました。個別D大学の1サークルの話ではなく、60年代末の「山をも動かす」時代と「シラケと無気力」の70年代に学生時代を送った人たちには、恐らく共通する体験があるのではないでしょうか。

>75年入学のHN:drac-ob氏によって、75年以降を引き継いでいただける

読んだ瞬間しまった、軽く引き受けたがどうする、ゲルニを決め込むか、などと卑劣な考えが一瞬浮かんだことを告白します。今までに書いてきたエントリーと重ならないよう整理して、ナントカ75年から80年までのDRACの動きを書いて見ます。あまりご期待に添えないとは思いますが…。
Commented by sawyer at 2007-09-23 19:14 x
ご拝読感謝です。以降はよろしくお願いします。
なお学館闘争によるBOX確保は、恐らく1960年代初期の話であると思います。小生の頃は第2次学館闘争らしきこともありましたが、「物取り闘争」とされ、大きな学園紛争の波に吸収され、この運動は独立した形では、余り発展しなかったように思いました。