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DRAC興亡史・・・1967~71その27「1969夏から1970」

≪1969夏以降≫

合宿終了後、小生は実家には数日しか戻らなく、すぐに京都に帰った。
BOXは当然誰もいなくて、文連がロックアウトを手伝った至誠館に入ると、そこにはM、S村、そして先輩のO田がいるではないか。

小生は彼らから、「情勢」を聞き、一方合宿での話をした。
彼らはロックアウトを監視しつつ、至誠館に寝泊りしており、大学側から水道やガスを止められていて、トイレの悪臭がどこからか匂ってくる中にいて、O田はなぜか至誠館の全てのマスターキーを持っていて、教授連中の使っている個室の研究室のドアが、全てそれによって開くことを見せてくれた。

小生は名前を良く知る経済学部の教授の部屋に入ったことがあるが、分厚い百科事典のような背表紙のマルクスの「資本論」がすべて揃っていたことを覚えている。

そのような状況下、BOXの鍵をもらいに受け付けのいつものおじさんのところに行き、鍵をもらおうとすると、鍵はもう渡してあるという。
しかし先ほどBOXに行っても、BOXは鍵がかかったまま誰もいなかったから、誰かがBOXの鍵を持ったまま外出しているのだろうと思っていたのだが、何時までたっても鍵は戻らなかった。

BOXのある別館と呼ばれた建物の管理は、以前からかなり杜撰で、大学から拠出されるサークル運用資金の中から管理費を出して、人を雇っていたのだと思われるが、鍵を渡すのにサークル証、学生証などは有名無実となっていて、小生などは顔パスで鍵を受け取ったことが何回もあったから、押して知るべしであった。

新学期が始まったとはいえ、相変わらずロックアウト状態は続き、キャンバスもガランとしている状態は変わらなかったし、DRACのメンバーも、日本音楽Gの5人ほどが顔を出したに過ぎなかった。

夏休みの間にBOXの鍵が誰かに持っていかれたままになったことと、殆ど誰も来なくなったBOXにあるオーディオ機材をそのまま置いておくことのリスクを考えて、、すぐに持っていけそうな金目の「アンプ」を一次預かることにし、その代わりにBOXではなく少なからずDRACのサークルメンバー達がいる至誠館に、自分のオーディオ装置を下宿から運び、そこで研究会を実施することに決めた。

その一室は、DRAC所属のメンバーが、立てこもって常駐する場所でもあったから、BOXよりは逆に何かと安全だし、彼らとも話ができるから、日本音楽グループの研究活動はロックアウト下にあっても続ける・・・というコンセプトで再開したのだった。

そのような小生の勝手な思いだったにもかかわらず、昔のメンバーに新規メンバーが数人加わってグループ活動は続いていった。

小生自身も、あるときはグループリーダー、あるときはデモをし、あるときは学生運動活動家達と話す機会を得るために、至誠館に泊まっていくこともあり、晩秋までそのような毎日が続いていった。

その頃小生は中村雄二郎の「現代情念論」という本を読み、非常にに感銘を受け、同時に当時文連の諸氏の間で流行っていた、橋川文三の「日本浪漫派批判序説」、磯田光一の「比較転向論序説」、桶谷秀明の「土着と情況、そしてルカーチ、ゼーガース、ブロッホの「表現主義論争」から得るところが多く、特に中村雄二郎の「情念」そして「美と政治との間に」という著述は、吉本隆明以上に影響を与えてくれ、それらから日本の国際主義とナショナリズムと文学、芸術のかかわりと、日本人が持っているであろう「日本的なるもの」と非日本的なもの、それらが示す音楽上の諸相について興味があったので、それを研究会の主眼においていた。

それ以外では、北壮夫の欝時のエッセイや小説と、福永武彦の小説はすべて読んだ。
そして、これらのことが、研究会を進めていく原動力となっていたのは、ほぼ間違いないことであった。

「日本的なる物をめぐって」という大きな課題は、橋川の「日本浪漫派批判序説」から保田與重郎へと、小生を向かわせ「日本の橋」「現代奇人伝」をも読むようになり、日本の伝統への回帰・・ナショナリズムについて考えるようにもなっていた。

ナショナリズムを批判する側の根底に、ナショナリズムがあるのではないかというようなことに、朧気ながら気づいたのも、その頃であった。

(今思うに、当時の学生の中には、反右翼、反権力的なものと同時平行して、反日本共産党があり、それが反民主青年同盟→非日本共産党系のセクト、あるいは全共闘活動に参加し活動したもののパワーのひとつの要因であったと思われる向きもあるようだ。
日本人と共産主義思想は、理屈では理解を示せても、感性や日本人が根本的に持つ情念的意味では、決して相容れない異質の考え方なのだろうという気がしている。)


しかしそんな中、学園闘争は徐々に激化し、同時に同志社では主流のセクト、「ブント」の党派内抗争が勃発していった。

Mから機動隊が導入される可能性があるから、ここでの研究会はやめたほうがいいという助言があったこともあり、さらに始めは7人ほどいたバリケード内の研究会も、だんだん減っていき、4人を数えるほどとなっていたので、ここは潮時と思い研究会を一時中断することにした。
学友会執行部を実質握っていた赤ヘルの社学同:「ブント」の内紛騒動が活発となり、学友会執行部と全学闘執行部はその影響を多分に受けたのではないかと思われる。

学内派閥抗争を危惧した学校側が、今まで聖域とされてきた同志社大学のキャンパスに、機動隊を導入して、バリケード封鎖を解くという行為に出るという話であった。

至誠館には此春寮の活動家や2部の活動家もいて緊張した空気が流れ始めていた。

ここにおいてDRACの研究活動は、すべてが休止状態に陥り、至誠館から退去してしばらくして70年安保闘争の敗北が決定的となり、セクトの親玉と大学側の「ボス交」・・所謂談合が行われ、(噂では、学友会を独占していたあるセクトに、大学側から金がかなり動き、結果ロックアウト解除となったようで、それらのことに対して、今まで真摯に活動をしてきた活動家達がつき上げ、セクトの分裂に発展し社学同は関西派などに四分五烈していき、「赤軍派」へと発展した。

そしてMは「初期赤軍」のメンバーとなった。

Mは、同志社の初期赤軍派にその身をおいた一人であった。
Mと小生はそれでも日常の行き来は頻繁に有って、三里塚へ行くための交通費支援をしようと思い、そのときBOXから小生が安全のために勝手に預かっていた山水のアンプを質屋に持って行き、7000円の質札に換えた。

Mは、そんなことはする必要ないというのだったが、小生はその頃バイトをしていたから、すぐに返す当てがあったので「心配せずに使ってくれ」と、少し格好をつけて渡した。

それからしばらくしたある日、突然小生の下宿にM畑と、A馬がやってきて、「アンプを持って行ったそうだが、どこにある」というのだった。

「しまった、質屋から早く出しておくべきだった」と悔やんだが、その時はまだ質屋に入ったままだったから素直に「今質屋に入っているが、もうすぐ出そうと思っていたところだ」というと、泥棒を見るような目つきをして、小生をなじるのであった。

「お前達役員会をスッポカし、DRACを辞めたような人間に、そんなことを言われる筋合いは無い」、「役員会も、合宿もボイコットしておいて、ほとぼりが冷めたら、何食わぬ顔をしてまたDRACに戻るつもりなのか」と、突っぱねようと思ったが、その理由が何であれ、サークルの財産を勝手に質に入れ、しかもその理由は伏せておかねばならないからここは素直に謝り、すぐに質屋に行ってアンプを出して彼らに渡すことにした。

役員としての責任を取らない彼らが、そして長い間BOXにも寄り付かないで居た彼らが、何故今頃になって、アンプを取り戻しに来たのか・・・よくわからないが、学園紛争も落ち着きを見せ始めた頃、再びBOXに来てアンプが無いことに気が付き、その頃まで周辺に居た連中に聞いて回って、小生にめぼしを付けたのだろう。
確かにS村には盗難の危険があるからアンプを預かっていることを話しておいた覚えがある。

質屋に入れたのはまずかったが、そのアンプもその後何時しかなくなってしまったらしいから、M畑、A馬がその後どのように管理したのかは不明のままである。
正義感からなのか、グループ活動再開という目的があってのことなのか、小生が個人的に流用するとでも思ったのだろうか。

その後彼らがグループ活動を再開したという話は聞いたことが無いから、単にサークル所有のものを個人で預かる状態に置いておくことはいけないことである・・・というような一般常識のなせる業だったのであろう。(アンプを預かった理由を話す気にもなれなかったので、誤解されたままになっていることだろう。バリケードの中の研究会など、彼らには想像もつかないことだから。)

とにかく、質に入れたことで、「盗難の危険性のリスクヘッジ」という小生のロジックは、見事に崩れたのであった。

その後、もうすぐ年度変わりという3回生後半のときのDRACは、2回生(次期3回生の)A田が半年余りの短期の幹事長となり、3回生になるとやがて2回生にその座を譲るという状態で、ほとんど執行部体制も無いような形式的なサークル組織であった。

小生はA田が幹事長になった1970年4月頃にDRACから離れ、バイトに精を出しながら、つぶれてしまった同志社学生新聞局を復活すべく、その方面で力を発揮しようとしていた。

これは先輩のO田の強力な誘いがあったのと、何らかを表現することに飢えていたことも合って、別館2階にあった「新聞局」のBOXに足を運ぶ毎日が続いた。

新聞局がつぶれたのは恐らく、学友会の主流であったブントの内部抗争が影響したものと思われ、
荒れた新聞局BOXには旧新聞局のメンバーは、誰一人として残ってはいなかった。

小生は、新聞発行などは、大昔の学級新聞をやったのみの素人だったから、京大の新聞部OBから手ほどきを受けながら、記事集めに奔走し、紙面の構成を考えた。
O田が「コラム」をすべて任せるというので、「ダス・ボルト」=「言葉」という名前にし、第1回のコラムを、新聞局宛に来た試写会のチケットを手にして観た、アントニオーニの難解な映画「砂丘」“Zabriskie Point”について書くことにした。

しかし難解すぎてよくわからなかったので、劇伴音楽として流れるサウンドに時々「ピンク・フロイド」と表記されるのを見て、イギリスのプログレの元祖ということを知り、その音楽について重点的にコメントすることにした。

しかしO田には「ピンク・フロイド」は理解されず、かなり文句を言われたが、小生はそのまま第一回のコラム「ダス・ボルト」として掲載した。

このとき復活新聞局発刊第1号のトップは、学友会の委員長だった「矢谷暢一郎」が、此春寮のある人間に託していった、68年から69年にわたる学友会活動総括の長い文章であった。

70年春、彼はすでに大学から姿をくらましていて、行く先不明の状態であったようだが、闘争の一時終焉における彼自身の総括は、掲載すべきであるという判断から第一面に持ってきたのであった。

by noanoa1970 | 2007-09-21 09:02 | DRAC | Comments(0)