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DRAC興亡史・・・1967~71その26「合宿の思い出」

≪出来事≫
1969夏、三方五湖で開催した合宿は、分科会形式でランダムのグループに別れ、話し合いをもつことにし、一方幹事長と小生は、(他の役員欠席だから2人だけで)、徹底的に話し合うことにした。

2人の話は長い時間続き、昼食の時間を過ぎても終わることがなかったので、他の全員には先に昼食を先に済ませるように言い、お昼もかなり過ぎた頃、食堂に向かった。
食事は何かの丼物らしく見ると、全員のテーブルには、まだ箸をつけてないような状態で整然としていて、出されたときのような状態で綺麗に並んだままであったから、全員がまだ食事をしないで待ってくれたのとばかり思い、少々悪い気持ちで最寄の丼の蓋を開けてみると、其れは全て食べつくされてカラッポであった。

隣のも、またその隣のものも、3つ.4つ空けたのだが、いずれも全部中身は食べられていて、そのときやっと、担がれたということに気がついた。

これはどういうことなのだろう?2人が食事の時間に遅れたのは申し訳ないが、重要な議論が白熱している最中だったから、食事は後で良いと思い、他のメンバーには先に食べてもらうように伝えたはずなのに・・・・
食べるのを諦めて部屋に戻り、そんなことをボンヤリ考えながらも、再びHS川との議論を再開していたとき、こっそり2人分の食事を運んでくれた女性がいた。

其れが女子大から入部した2回生の女性Y木であった。
S井達の扇動に、皆がそうする雰囲気なので、心ならずもそのようにしたのだが、心が引けたのだろう。
彼らに気がつかれないように、密かに運んできてくれたのだった。

冗談ともいえないような仕掛けをし、全員がそれに乗ることになったのはS井が扇動した結果によるものとしか考えられないが、少なくともDRACの執行部の幹部が2人、真剣に話し合いをしているのに、其れを知っていて茶かすような行為を仕掛け、(しかもこれは全員が協力しなければできないことだから)・・・どのような意図だったか分からないが、全員を従えて実施したこと、それに全員が従ったことに小生は物凄く衝撃を受けたのだった。

冗談や笑の出るような合宿の雰囲気ではなかったのに、彼らは一体どのような話し合いを持ったのか?一体何を考えているのか?
ひどくガッカリしたのと同時に、そんな疑問が脳裏を掠め、「このようなサークルは、もうどうしようもない」という諦めに近い何かが急に襲ってくるのを感じていた。

冷静であれば、「ピリピリした空気を和ませるためのもの」などということとも、考えられるのだろうが、少なくともHS川との話は、DRACを潰すか否かという・・・これはわれわれだけの問題ではなく、創設時にまでさかのぼる話である。

大学の顧問や松本氏を始とする諸先輩にまで影響し、小生にとっては公私共に世話になった、旧執行部先輩たちの努力と歴史を灰埃に帰すものと思われたから、HS川がよく例に出した、「中川五郎」(今はもう長すぎるコンチェルトなど、聞いているときではない・・・)的な考え方が象徴する文化サークル意識を持って、そんなにアッサリと簡単にDRACの活動を否定し廃止に至らしめることには、絶対的反対の立場を取らざるを得なかった。

(自己否定という言葉が正義の御旗のように、また一種の流行り病のように有って、HS川はよく「自己否定」という言葉を使っていた。)

自己否定、サークル否定・・・・反省や総括レヴューをし、改善ポイントを明確にした上で次のステップに進むのなら話は分かるが、否定し廃止し潰してはどうしようもない。

何がHS川をそこまでさせたのかいまだに原因は分からないが、その頃学生達の感性を支配していたもの1つとしての「アンビバレンツ」、「デスパレート」などの心情があった。

(自ら幹事長を退く宣言をしたほうが良かったのに、HS川はやはり人がいいのだろう、多分一人で悩んでいたのだろうと思うところもある。
68年春、HS川一人に幹事長押し付けの手をあげさせておきながら、それを支えてやらなかった小生を始め、ほかの役員幹部には大いに責任がある)

しかしそのような心情は少なからず誰もがあの時代には持っていたことでもあり、その中においても、目的意識を持とうとしていた人間が多くいたのも事実である。

HS川個人の問題(とばかりは言えないが)をサークル論に発展させて、しかも其れを大学紛争、70年安保闘争と文連傘下のサークル活動の意義に直結させて考える単細胞的思考に、小生は我慢ができなかった。

その頃の周りの風潮でもあった、政治>文化という意識的、無意識的な図式は、非常に危ういものがあると感じていたからである。

こうして2人の話し合いは、延々4時間以上続いたが、当たり前のように到達点を見ることはなかった。

小生は「潮時」を感じ始め、サークル員の意志を確認した上で、すでに有名無実となっていたグループおよび現執行部の立て直しは不可能であると判断した。
しかし、HS川がDRAC解散宣言を出すことは、絶対にやめろと釘を刺して、自然の流れに任せるように仕向けることに落ち着かせた。

全体会議の席上では、小生は今後も引き続きサークル活動を継続するという意思を示し、DRACに残るか去っていくかは、各自の判断に任せる旨の発言をした。
しかし、最早続ける研究グループがほんの少ししかないのだから、実質的にはサークル員は寄り付く島がない。

夏休みが終わった頃、大学がどのように変貌するかによっても、状況が変わるだろうとの見通しにすがる形で、ひとまず「夏休み休止」状態として合宿を終了させることにした。

小生のグループは、活動を継続するという宣言を公然としたが、夏休み後、グループ員が集るかは非常に不安でもあった。

しかし、一定の結論を自身でも出したから、逆に妙にスッキリして、その夜食事が終わり、ビールを飲んでいると、F原がマージャンをやろうと言い出したので、その誘いに乗ることにした。

このときの小生は、強運がついていたのか、終始変わることなく付き捲り、半チャン4回すべて一人勝ち、結果4000ほどの(賞品金)が懐に入ることになった。
普段であれば、何らかの形で還元するのだが、なぜか(お昼のあの仕打ちのことが脳裏にあったのだろう)ビールを2本提供しただけで、後は懐にチャッカリしまっておいた。(このお金が後に非常に大事なお金となる)

日付が変わる頃布団に入り、ウトウトしたと思うと、小声で「SY野さん、SY野さん」と耳元で囁く声がする。
眠い目を開けてみると、その声の主は別室にいるはずの女性の集団から抜け出してきた、女子大から入部した1回生のY内だった。

「Y木さんが、外の水呑場にいるから、行ってください」という。
見ると時計の針は朝の4時半を指していた。
ようやく回りがボンヤリと明るくなる頃である。

「どうかしたのか」と聞くと、「いいからすぐに、行ってください」と急かすように言う。

何かが起こったのかと思いながら、すばやく着替えて水呑場に行ってみると、そこにはY木がいて、この合宿の様々な事件がショックだったのか、「もうDRAC、なくなってしまうんですね」「眠れなかった」などと文学少女のように、寂しそうに言うのであった。
そして、「もうここにいたくない」、「すぐにでも出たい」などと言うのだった。
落ち着かせるために海を見に行って少し話したが、何か切羽詰っているように感じられたから、それなら一緒にここから出ようかと言うと、黙ったままうなずくのであった。
朝の4時半である、他の皆はグッスリと眠っている時間である。
このことを知っているのはY内だけ。

合宿は昨夜で終了しているし、今日はこのままどこかで遊覧をして帰るだけであったから、小生がいなくても別にどうということはない。
そう思いながら、出発のため荷物を簡単にまとめ、Y内に・・・今から帰るからと言うと、彼女は、そうなることを予想していたように、笑顔を見せて「はい、気を付けて」と言って見送ってくれるのだった。

それでも、黙ったままではY内に迷惑がかかると思い、眠りの最中のHS川を起こし、帰るということだけを話して、Y木と2人で脱出したのであった。

どこに行くとも決めてなく、駅に行く交通機関も勿論ないから、とにかく駅の方角を目指し歩いていると、しばらくして後ろから農家のトラックらしき車が来て止まり、「どこに行くのだ」、「それなら駅まで乗せて行ってやる」といって、5時過ぎに駅に着いた。

このまま乗り継いで京都まで帰っても良かったが、それでは余り面白みがない。
そういえば懐には昨夜マージャンで勝った軍資金があるではないか。
それですぐに時刻表とにらめっこしながら、今まで経由したことがない路線を使って、とにかく小生の実家に連れて行くことにした。

そのことを話すと、Y木は軽くうなずくので、北陸線と信越線、中央西線を乗り継いで名古屋へと向かう・・・物凄い遠回りの路線を選択した。
これは昨夜の軍資金がなかったらできないことで、昨夜の付きが今日の長い路線の切符に化けたということになった。

何時間かかったかは覚えていないが、・・・朝5時に出て実家に着いたのが、夜7時過ぎだったから、相当長い時間一緒にすごしたことになる。

Y木は、小生の実家に二晩泊まって、当初のショック状態からもとに戻って、小生と一緒に京都に帰った。

このことは「三方五湖からの逃亡事件」として、サークル員の間で有名となったが、小生自身なぜあの時あのような行動が取れたのか、いまだに不思議である。

Y内とY木の間ですでに打ち合わせができていた・・・・そう考えなければ、あのタイミングで、あのようなことが起こりえるはずは無く、あるいはY内が単独で、Y木と小生を引っ付けようとしたのか、あの夜女性2人で眠れない夜をすごしながらオシャベリをした結果なのか、其れについての真相は聞かずじまいのままである。

Y内は、その後もいろいろな形で小生とかかわる機会が多く、手料理を作るから食べに来てという誘いで、彼女の家に行った事もあるし、NOANOAにも頻繁に顔を見せるようになっていた。

Y内は可愛らしいし頭の良い女性であったが、かなり無茶をすることも有り、妹のような存在であった。

by noanoa1970 | 2007-09-20 08:59 | DRAC | Comments(1)

Commented by drac-ob at 2007-09-20 23:48 x
「恋の逃避行」でしょうか?ここ連日あの時代とDRACの関係性が解る興味深いエントリーですね。紫煙神話空間としてのサークル解体とか、政治と文化の二元論、または赤色サークル主義などという単語が浮かびました。そういえば亡くなられた文学部の助教授だった山本明氏もDRACのOBでしたよね。顧問の先生に合宿の許可を貰いに行ったときその話が出ました。