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DRAC興亡史・・・1967~71その25「潮時」

≪分裂と崩壊の兆候≫

さて小生はデモには参加はしたものの、あくまで其れはサークル活動とは切り離して考えていて、決して中川五郎の歌に象徴されるようなことからではなかった。

「今は長すぎるコンチェルトなど、聴いているときではない・・・」
そのような歌に象徴されることを、そのまま受け入れるのか否かが、幹事長HS川と、副幹事長の小生の間の亀裂となっていき、其れが大きくなったのが69年の夏であった。

HS川は、サークル活動を、現状の大学の状況下では、無意味なものと考えるようになり、その頃から徐々にBOXに集るサークル員の数が現少してきたことを、「サークル活動に意味がないからだ」と総括するようになっていた。

小生は其れとは意見を異にしていて、少なくとも日本音楽Gは、メンバーも減少することなく続けていけていたし、研究活動を続ける自信はあったから、「サークル員がBOXに余りこなくなったのは、文連総体が赤色に染まっていくのを感じ始めたことの・・・すなわち学生運動に巻き込まれたくないと思っている諸氏達の思惑が、サークル活動よりも自身の身の安全を取る保全の力学として働いた結果にしか過ぎないという反論をした。

すでにその頃には、主だった校舎の殆どが「ロック」され、入り口は机や椅子が積み上げられ、所謂「ロックアウト」の状態にあり、講義の殆どは「休講」状態にあった。
そして文連本部は至誠館のロックアウトに参加し、ロックアウトに参加した傘下のサークル員達も少なからず存在した。

観光研究会、映画研究会、広告研究会、といった研究サークルは活発で、CCDと呼ばれる混声合唱団、グリー、軽音楽といったプレーイングサークルからも積極的な参加があったようだ。
DRACからは、S井、S村、ゲバ男(名前を失念)そしてMが積極的に参加した。

その頃すでに古典やロマンという音楽史的分類下のグループは、その活動根拠を見失っていたような感があり、リーダーたちは気がつきながらも改善の道を進もうとしてこなかったこともあって、それまで多数を占めていたそれらグループの半数以上のサークル員は、いつの間にかBOXから去っていき、実質活動は休止状態に陥っていた。

またこの状況を見て、グループリーダーや役員の一部には別館・BOXから足を意識的に遠ざける人間も存在した。
其れにより、水コンも機関紙の発行も不可能となり、研究会は一部でしか開催されないまま夏が来た。
しかしそれでも、他には殆ど誰も来ないBOXで、日本音楽Gは、活動を続けていた。

HS川が、そのことを知らないわけはないはずであるが、DRAC総体の活動を無意味だと総括したことに、小生は至極腹を立て、其れならば総会件合宿を開催し、この現状についてメンバーがどのように考えているのか、徹底的に話し合おうと提案したのであった。
(この時点でHS川の幹事長辞任のサインを見抜いていればよかったが、それには気がつかずにいた)
(このくだりを書いている9月12日お昼ごろ、家内が「安倍首相辞任の意向を伝える」というニュースが流れたといって知らせにきた。
国会中継を見るためにPC作業を、一休みしようと思っていた矢先のこと、それから数時間TVの前に釘付けとなった。
規模の大小、政治と学生サークルの違いこそあれ、組織の「長」の幕引きのタイミングとそのスタイルには、大きな差がないことがわかって、安倍首相退任事件とHS川の姿が今、物凄くオーバーラップしてくるのだった。)


夏季合宿を急遽総会兼夏季合宿の位置づけとし、全員参加を呼びかけ、三方五湖の民宿で試験が終了し祇園祭が終わった頃、夏休み前直前に開催することにした。
5月に実施した、北小松学舎での合宿には、新入生を含め総勢40名を越すメンバーが参加したが、特に自宅通勤者は大学がロックアウトされると、大学に寄り付かなくなっていたようだったこともあって、数ヶ月後には半数ほどとなってしまったが、それでも、三方五湖の合宿には、新入生と2回生のかなりのサークル員が出席し、総勢15人以上となった。しかし、其れにもかかわらず重要な立場であるはずの、3回生執行部役員およびグループリーダーの出席者はごく少数であった。

夏休み直前の試験終了後(このときは、試験がない講義が多く、レポート提出が多かった)で、しかも恒例の合宿だったが、執行部を含むわれわれ3回生のうち、出席したのは幹事長、副幹事長、F原(グズラというニックネームだった)を始め、数人にしか過ぎなかった。

また、この合宿には、すでに卒業した妙心寺の近くに住む先輩K嶋の紹介でDRACに入部しており、持ち前のDADA思想を持ってかなり影響を及ぼしていた男・・・1年留任の4回生・・小生たちより実質2年先輩に当たる佐賀出身のS井が参加した。

彼が何故DRACに入部したのかはいまだに謎で、取り分けて音楽に精通したところもなさそうだったので、あるときその理由を本人に聞いてみたことがあるのだが、何も答えなかった。

恐らく先輩K嶋が、われわれが2回生の若さで新執行部体制を取ることになっとき、ご意見番的な立場にと考え、S井に頼んでDRACに入部させたのだろうと推測している。
S井とK嶋は、同じ頃スピードスケートのクラブに入っていたことがあったという。

このS井が若手達に与えたインパクトは、相当なものがあり、時期幹事長のA田を初め同期のK田でさえ、かなりの影響を受けたのではなかろうかと、思えるところが多々あった。
確かに常人が余り知るところではない、ダダイズム、デカダンス、アヴァンギャルドなどの芸術運動についての知見があったので、それらを初体験のメンバーには、多大なインパクトを与えたのは事実だった。

村山槐太や辻潤を知っている人間は当時殆ど存在しなかったのだから、それらの名前や作品について彼が語ると、未知のものを知っている物凄い人物という憧れに近い何かがあったのだろう。

もう一つの驚きは、S井の女性の扱い(経験)であったと思われる。
S井の女性との様々な接触の物語を聞かされたものは数多く、平均的には初心なものが多かったDRACの若手は、目を丸くしてその夜伽話のような話に聞き入った。
S井は「無頼漢」を気取っては、若手を驚愕させていたことは事実であったように思う。

S井とはいろいろ話をすることがあったが、恐らくお互いを認めていた結果だろう、激しい論戦になることは余りなかった。
「ヤーさん」とニックネームされていて、殆どの人間がそう呼んでいたS井は、最年長だったから、他のサークル員を呼び捨てにしていたが、しかし小生には「君」付けするか「あんた」といつも言っていた。

そんなS井が、なぜか三方五湖での合宿に参加したのであった。

誤解を恐れずに大胆に整理しておくと、この合宿の目的は

HS川がDRACの活動無意味派→廃止派、小生は、研究派で存続派の立場を取っていて、この件について(また現状の大学が置かれた環境下のサークルとして)自分自身は何をどうしたいのかという問いかけをし、自分自身の方向性を確認し、その上でDRACをどのようにするのか・・・すなわち休止・廃止・・・つまりDRACから去るのか、継続するのか、または第三の道があるのか
・・・以上のような答えを導き出すための大変重いものであった。

然るにこの内容で総会件合宿を開催することは、事前にメンバー全員に知らせてあったが、中心的存在であるはずの3回生は半数以上70%近くが出席しなかった。
小生はこのとき、何も言わずに欠席した執行部の連中を、責任放棄者であり、したがってDRAC退部者であるとまで認識するに至っていた。

今考えれば、これは現執行部の役職放棄であるから、そして幹事長はすでに気力を失っているのだから「執行部解散」とし、新執行部の選挙に移行するのが常道であったろうと考えられるが、「DRACを潰してもかまわない」などという幹事長や、其れを結果的に助長するようなS井の発言、それに下級生の中で次期執行部を担える気力があるものは、パワーと絶対数が不足している現状では、3回生と2回生混合の執行部体制を作っていくしかありえないこともわかっていたから、本来そのことについても話し合う予定をしていたのだ。

しかしそのことについて話し合おうとするも、A馬、I藤、Y田、HS川A、M畑、T田、彼らは役員であるにもかかわらず重要な合宿をボイコットし、K田は、昨年の夏休みに故郷のバイト先で知り合ったという女性と、再びバイト先で会う約束をしたという理由で、早々と故郷に帰った。

3回生ともなれば、近い将来のことを考えて、現状の大学での身の処し方を考える頃でもあるが、何も告げずに欠席するということは許されることではない。

休講、単位取得不能、卒業できないかもしれない、就職に大いに響く・・という近い将来に対する不安が、とても「サークルどころではない」という気持ちに傾かせたのは、理解できないことはないが、このあたりの無責任さに、執行部成立時の危うさが透けて見えるような気がしている。

近い将来のことを考え、少しでも学生運動の匂いのするものには一切かかわらないほうが安全と思う気持ち、そしてグループ活動の限界を感じていたことが、彼らの心情を直撃したのだろう。

学園紛争とサークル活動を、同じ次元で捉えることしかできない頭脳構造の持ち主。
「研究」という命題に、総論賛成各論反対の立場をとってきた人間、あるいは面従腹背の輩たちの本性は、このようにして露呈していった。

by noanoa1970 | 2007-09-19 09:01 | DRAC | Comments(0)