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DRAC興亡史・・・1967~71その22「第2次崩壊」

≪DRAC第2次崩壊に至る過程≫

72年度は69年度の、実質的第1次DRAC崩壊の後、小生たちの3年後輩が細々と活動を維持した。

その頃のメンバーの中に、JAZZだけではなく、ロックもグループとして取り入れたいという人間がいたらしく、旧DRAC最後の生き残りF田(われわれが4回生のときの新人が幹事長をやっていたのだが、バイトに引き込んだことで日常の交流が有った)が、あるときバイト先にやってきて「新興勢力・・JAZZ、特にロックのサークル員達に追い出されそう・・・クラシックのメンバーが殆どいなくなってしまい、もうこれ以上サークル活動を維持できない、などと泣きつくのであった。

JAZZグループの導入は許可したが、ロックは許可さえしてなかったから、何故ロックGができたのだと聞くと、矢張り想像したとおり、JAZZから派生した人間が独立し、勝手にロックGを作り、いまや勢力が強くなっているのだという。

対象ジャンルをオープンにすれば、当然愛好者のマーケティング比率から見れば、クラシック音楽は最下位ランクであろうから、これはごく自然の成り行きだが、JAZZ→ロックの人的流れなどは、全く考慮していなく、いわば全くの想定外のことであった。

69年に崩壊したとはいえ、サークルが解散したわけではなく、細々と続いていたし、現幹事長F田の選出には決してノーカンではなかったので、現状を確認するために突然BOXに行くことにした。

BOXにはいると、テーブルを挟んで数人の長髪の男が座っていて、こちらを一瞥するが挨拶もしない。
見るとはなしに机の上を見やると、そこには「ロッド・スチュワート」の「エブリー・ピクチャー・・・」のジャケットが置いてある。(この頃小生は、浅川マキからロッドの存在を知り、同じLPを所有していたから、すぐに其れと分かった)
F田が2回生だから彼らは恐らく1回生か2回生だろう、かなりふてぶてしそうに見えるその佇まいに、少しムッとした。
音楽が流れていたが、小生の知らないものだった。

先輩(例え先輩だということが判らなくても)が入ってくるのに挨拶もしないで、椅子にそっくり返っている様子に腹を立てた小生が、素性を明かにして始めて、彼らの顔が一同に引きつる様子が伝わった。
「DRACはクラシック音楽と、JAZZの研究サークルだ、机の上にあるようなロックなどの音楽を研究するサークルではない、
お前ら、誰の了解を得てロックグループを作ったんだ。」といって凄んでやると、
「いえ・・・わたしたちはJAZZの・・・・」と口ごもるのだった。
「幹事長はF田と決まっているのに、それを無視して勝手なことをするなら、DRACから出て行け!」、

そういうと
「はいわかりました」という返事だったから、テッキリ彼らは元のJAZZグループに復帰したものとばかり思っていた。
しかし後日F田に聞いたところ、相変わらずロックGは健在で、いまやJAZZとロックがDRACを占有していると言うではないか。

クラシックグループ員はいつの間にか駆逐され、F田自身も、もうDRACにいても仕方が無いという。
確かにクラシックのメンバーが、だんだん抜けていき、ごく少数となった現状ではクラシック音楽研究グループの運営は不可能であり、その原因はわれわれの時代の第1次崩壊にもあったから、もうこうなった以上建て直しは不可能と確信した。

すでに手遅れだとは思ったが、今一度最後の手段に出ることにして、K田と一緒に誰もいないBOXに入り、「DRAC-OB有志より」「DRAC諸君に告ぐ」という通告書を模造紙に書いて扉に貼り付けることにした。

その後F田はBOXから去り、小生とともにNOANOAでのバイトに専念することとなって、ここに第2次DRACの崩壊となった。
1972年になったばかりの冬のことであったと記憶する。
そして、1972年春以降のDRACがどのようになったかは定かではない。

このようなことがあったが、72年の冬以降から75年までのDRACの動向は、全く情報を得ないままになって、現在に至っているのである。
幸いなことにHN:drac-ob氏をはじめ数人の後輩達と、ネット上でめぐり合うことができたので、空白の70年代は彼らに埋めてもらうことが出きそうだ。

by noanoa1970 | 2007-09-16 13:01 | DRAC | Comments(1)

Commented by drac-ob at 2007-09-16 16:30 x
ロック班(僕たちの頃はグループという呼称ではなくジャズ班、ロック班、ブルース班そしてクラシック班と分けていました)が出来たのは、一種のクーデターだったわけですか。初めて知った事実です。75年以降のDRACの活動履歴は、一度ちゃんと整理して書きたいと思っています。ただ僕がサークルに入ったときに別館に活動拠点としてのBOXがあるのは、先輩達が学生会館の自主管理を訴えて別館闘争に参加し、その運動の勝利の成果として勝ち得たものだと、さんざん文連のエライさんたちに言われました。その間の歴史とサークルはどのようなものだったのか、一度アップしていただけないでしょうか。