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DRAC興亡史・・・1967~71その20「JAZZグループ導入の功罪」

≪既存音楽史的グループ崩壊の過程とJAZZグループの創設≫

A馬は、オーディオが得意でY田(ジャマダとニックネームされた)とともに、技術役員をやっていたが、先輩達の「マイファレディ」の映画上映会で得た資金で、アンプとスピーカーをリニュアルしてからは、かつて頻繁に発生したようなオーディオ装置のトラブルが少なくなったので、力量が発揮できないまま、メンバーのオーディオ装置の面倒を見る日々が続いていた。

そんな折、A馬がある日「JAZZグループを作るというのはどうか?」と話しかけてきた。
A馬はオーディオ的に、あのブルーノートのバン・ゲルダーの録音が好きだったのだろうと思われ、また既存の音楽史的配置グループ活動が行き詰っているのを肌で感じていたようで、自らが主軸となって活動することを欲したのだろう、JAZZグループ創設にかなり意欲的であった。
普段は余りでしゃばることのない人間であるが、彼なりに何とかしなくては、と思っていたのかもしれない。

それで、いきなり役員会や総会に話を持ち出すのではなく、事前に根回ししようというわけだった。

幹事長のHS川に話したが、まんざらでもなかったという話を小生にするのであったが、DRACの、少なくとも50年はある歴史の中で、そして規約の中に「クラシック音楽を・・云々」と、明確になっているものがあることを知っていたし、それがあって今まで続いて来たことも事実であったし、その上「研究サークル」としてのDRACが、いまだにその存在意義を十分に確立していない状況において、分野の極端に異なるJAZZを導入することに、小生は賛成とは即答できなかった。

それで幹事長のHS川に問いただすと、もともと古典Gの活動で目標を見失っていたこともあったのか、割と簡単に(やりたければやったらいいのでは)というような賛成の意思表示をしたらしい。

しかし執行部は、組織運営の基本を勉強してこなかった、というより教えてももらえてないまま、新執行部となり、走りながら考えつつやってきた状況であったから、会則やその変更手続きの必要性があることは何とか分かったが、そしてあまりにもそのあたりを無視したオペレーションを過去から取ってきたのが実態でもあったから、(例えば女子大生を、個人の裁量で入部させたことなど)。

主だった波風は立たなかったものの実態は、執行部それも一部の幹部が実験を握る、いわば独裁的国家に等しいものであった。
またそういう独占的オペレーションでなく、いわゆる民主的な運営に頼っては、何も実行できない組織となってしまうことがよく分かっていたから、意見の強い実行力のあるもののオペレーションが優先されたのが成り行きでもあった。

本来であれば、そしてそのことに異議を申し立てるサークル員が、もしいたとすれば、総会で会則を変更し(今の憲法改正のようだが)その後新しいグループであるDRAC創設以来の、非クラシック音楽・・JAZZグループを創設し、研究グループとして位置付ける段取りが必要であるが、小生の「音楽美学」も特別講座として本来のグループ活動の枠組みを越えたところで開設してオペレーションしてきた関係もあって、小生も認めざるを得ない状況にあったので、JAZZの研究グループ方針をキチント固めて欲しいという要望を出し、其れが出揃った時点で其れを見てから許可することにした。

小生から役員諸氏に打診してみたが、明確に反対したのは庶務のHS川だけで、後は消極的賛成者が多数のようだったと記憶する。(というより、この頃すでに、サークルなどどうでもいい・・・という人間が増加してきたこともあった)
逆に積極的だったのは、A馬と学部を同じくする現代音楽GのM畑であった。

現代クラシック音楽とJAZZの関係性については、面白いものがあるのだが、いきなりではかなりきついところで、本来ならば当時のDRACメンバーが不得意分野であった「近代音楽」との関連性が必要とされるが、そのときにはモダンJAZZを新しいJAZZと勘違いした向きもあって、とにかくJAZZも現代音楽である、などという屁理屈をつけ、会則を無視し、正式な役員会、総会も開催しないままにJAZZグループが誕生し、69年から活動を開始した。

by noanoa1970 | 2007-09-14 09:41 | DRAC | Comments(0)