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DRAC興亡史・・・1967~71その18「1968新体制下のDRAC」

≪走りながら考えた68年度≫

1968年度のDRACは、「走りながら考える」まさにそのような状況であった。
執行部もそうでないサークル員の間にも、「研究」とは何かという問いに対する明快な回答を示せるものはいなかったし、グループ研究会も、それぞれのリーダーの技量に負うところが多々あって、研究サークルとしてのトータルベーシックな考え方の確立には至らなかったが、それでもこれといった波風がたつことなく、時は流れていった。

DRACの活動3本柱、「水コンサート」、「機関紙pocoapoco」の発行、そして各グル-プ「研究活動」成果の発表、そして夏季合宿と秋のEVEの出し物は、いわばDRACの伝統として引き継いだ。

夏季合宿は信州木曽福島から程近い木曽駒高原のY・Hで開催し、分科会形式でそれぞれのテーマについて議論した。
主にはDRACにおける「研究」の方法論についてで、そのテーマ設定をみてもわかるように、まだ「研究」の具体的方法論を模索している最中であり、このことはいつも話題となったが、これぞ研究にふさわしい内容だというものを実践するグループの目立った存在は、殆どないままの日常であった。

しかしトライアルの一志向として、「情報発信」の実践の一環として、毎年秋に開催される大々的な大学祭EVEで、「現代日本における音楽的状況」と題したパネルディスカッションを開催することになった。

これは日本音楽Gと現代音楽Gが主となって、大先輩の音楽評論家、松本勝男氏、小石忠男氏、作曲家でその頃京都市交響楽団の常任指揮者でもあった、外山雄三氏、それに各グループリーダーが参加し、パネルディスカッション形式で討論するというもので、アイディアとしては画期的だったが、打ち合わせが不十分で、特に外山雄三氏は何をしゃべっていいものかが分からない気配がそこはかと漂うような雰囲気を見せ、いつものムッツリ顔を、さらに難しくしていた記憶がある。

司会を誰がやったか記憶にないが、これは司会の不手際でもあった。
また出席予定の当時最も有名な評論家の一人、小石忠男氏が急遽欠席となったことも影響したが、学生会館には、それでも40%ぐらいの席が埋まる学生が聞きに来たが、今思えば新聞社などのマスコミに事前にインフォメーションしておくべきで、付加価値を加味することさえ知らないまま実行したのだった。

同時に開催したコンサートは、当時の現代音楽の勇、「ジョン・ケージ」の超有名な曲「4分33秒」で、演奏者が弾くピアノの無音の音に、聴衆がざわめいてくる、そのときに立て聞こえる音も含めて音楽なり、あるいは無音も音楽である・・・という前衛的、哲学的な作品で、その作品を演奏しようということになり、賛成者多数で採用となった。

しかし、誰が演奏者になるかという段になったが、相変わらず各論には躊躇する人間が多い中、手を上げた人間が一人いた。
其れが栢〇(木偏に百という変わった苗字)で、京都の紫野の住人であった。
彼はどちらかというと目立ちたがり屋であったから、ピアノなど弾けないにもかかわらず(弾けなくても、結果は同じだが、本来はピアニストが演奏するところに、意味がある)手を上げた。

ジョン・ケージの意図を十分に分かっているものとばかり思っていたのだが、どうもそうでなかったらしく、彼はピアノの前で大げさにシャドウピアニストを演じてしまった。

見ているほうは、それでもおかしかったのだろうが、本来は何もしないでただピアノの前で座っていることで、無音と聴衆の「アレおかしいぞ・・」というような、ざわめきの音が欲しかったのだったから、予定した解説が上手くまとまらずに苦労したのがM畑であった。

小生はそのとき初めて学生会館(といっても学生が自主的に自由には使えず、大学の許可がいる学生会館で、自由に使えたのは別館と呼ばれたBOXだけであった)のホールにあるミキシングルームに入って音響や照明の担当をしていたから、そこから見える動向が観客以上に耳に目に伝わってきた。

しかし、外山雄三を招いてのパネルディスカッションのインパクトは、その内容はともかく、後輩達に「あの外山雄三が、われわれDRAC主催のイベントに参加した」と、かつて日本音楽GのリーダーF田の発案になる、日本の作曲家達に対するアンケートに、そうそうたる人物が返事をくれたことと同じような衝撃があったことだろう。

そんなことも手伝ったのか、EVE終了時以降急に日本音楽Gと、現代音楽Gへの掛け持ち出席者が増加した。
女子大のY木もロマン派Gから、そしてバッハが好きだったがバロックGがなくなって古典Gに入っていた T村が、日本音楽Gの研究会が開催される時間には顔を見せることが多くなった。

Y木は、「音楽美学」講座にも積極的に参加し、彼女の影響で男連中の幾人かが出席するようになり、それまで5人のメンバーでしかなかったものが、一時は10人以上になることさえあった。

by noanoa1970 | 2007-09-12 07:49 | DRAC | Comments(0)